7. 観音寺・法華寺跡(秀吉と三成との運命的出逢いの地・2つの三献茶伝説を追う)
7. 観音寺・法華寺跡(秀吉と三成との運命的出逢いの地・2つの三献茶伝説を追う)
長浜駅前で見た不思議な像の謎に近づく時がやっとやってきた。
何か茶碗のような物を差し出している子供と、腰に刀を差して立ち尽くす袴姿の男性の二人の像だ。
この像が、「秀吉公と石田三成公 出逢いの像」という題であることは先に書いた。とすれば、腰に刀を差して立ち尽くしている男性が羽柴秀吉で、茶碗のような物を差し出している子供が石田三成ということになる。
後に天下人となった豊臣秀吉の五奉行の一人として活躍することになる石田三成が若き日の秀吉との運命的な出逢いを果たした場所が、長浜であるということなのだ。
諸説があるようであるが、そのうちの一つが、石田町からさらに少し東に行ったところにある観音寺であるという。
秀吉と三成の運命の出逢いの伝説は、概説すると次のような話になる。
長浜城主となった羽柴秀吉は、ある日領内で鷹狩りをしている途中、とある寺に立ち寄った。喉が渇いていたので出てきた小姓にお茶を所望すると、小姓は奥に引っ込み大きな椀にぬるめのお茶をたっぷりと入れて秀吉に差し出した。
喉が渇いていた秀吉は、ごくごくと喉を鳴らしながら一気にそのお茶を飲み干した。
人心地がついた秀吉が二杯目のお茶を所望すると、小姓は今度は先程よりも小ぶりの椀に先程よりもやや熱めのお茶を入れて秀吉に差し出したのであった。
一杯目のお茶で喉の渇きは癒されていたので、やや濃い目のお茶はさらさらと秀吉の喉を潤わせながら通って行った。
「うまい。」
思わず秀吉は、唸った。と同時に、一つの興味が湧いた。
「もう一杯お茶を所望しよう。」
秀吉には、次に小姓がどのようなお茶を持ってくるかが予想できた。果たして、小姓はさらに小さな椀に濃い目の熱いお茶を入れて秀吉に差し出したのであった。
にやり、と思わず口元を綻ばせた秀吉は、三杯目のお茶を味わいながら静かに啜った。
思っていたとおりであった。小姓は、秀吉が所望した三杯の茶を、秀吉の喉の渇き具合に応じて三通りに入れ分けて持ってきた。
すなわち、一杯目は喉の渇きを癒すことに重点をおいてぬるめのお茶をたっぷりと用意した。二杯目は喉の渇きも収まったであろうから落ち着いてお茶を味わえるように少し熱めのお茶をやや量を抑えて持ってきた。そして三杯目は、ゆっくりと落ち着いた気持ちでお茶の味を堪能できるように、小さな椀に熱いお茶を入れて持って来たのだ。
いわゆる、三献茶の伝説である。
秀吉に三種類の異なるお茶を差し出した小姓が石田三成であることは言うまでもない。
相手の状況に応じて臨機応変に自らの行動を変えることができる石田三成という少年の柔軟な思考力に、秀吉は深く感じ入ったにちがいない。そのまま長浜城に連れて行って家臣に取り立てたと言い伝えられている。三成が15歳の時とも17歳の時とも言われている。
そして、この運命的な出逢いを果たした舞台となった「とある寺」こそが、観音寺であったという。
石田町の三成生誕地を後にした私は、観音寺を目指した。
観音寺は、石田町の東側に連なる横山丘陵を越えた反対側に位置している。当時は山越えの道を行かなければならなかったのだろうが、今は観音坂トンネルが丘陵の真ん中を貫通しているので、難なく行き着くことができる。
観音寺は三成の父・正継が有力な檀家を務めていた寺で、石田氏との強い結びつきがあったことが指摘されている。この寺で三成が修行をしていたと考えることはそれほど不自然でないかもしれない。三成は長男でなかったために、この寺に預けられて修行のうちに一生を送る運命にあったのかもしれない。
一方、横山丘陵の上には当時、横山城があった。元は小谷城の支城として浅井家が支配していた城であったが、姉川の合戦の後に織田方の城となり、木下(後の羽柴)秀吉が城番として一時駐留していたことがある。
横山城を守る秀吉と石田町の地侍である石田氏との間に何らかの交流があったと考えることも、肯われることだ。そう考えると、観音寺における秀吉と三成との出逢いがまんざら作り話とばかりは言えないのではないかと私は考えている。
遠くに伊吹山の、特徴ある山容を望む長閑な田園地帯に、観音寺は今も存している。所在地は、長浜市ではなく米原市に属しているらしい。惣門の横に米原市教育委員会が平成8年(1996年)3月に表した説明板が設置されている。その説明板によると、観音寺の正式名称は伊富貴山観音護国寺と言い、弥高、太平寺、長尾寺の三ヶ寺とともに伊吹山四大護国寺の一つとして、元は伊吹山中にあったものだそうだ。正元年間(1259年~1260年)に現在の地に移転したとされる天台宗の寺である。
惣門はどこかの城の城門を連想させる堅牢な造りで、屋根の両端にシャチを頂いている。黒板張りに白壁を上部に設えた塀が周囲を取り囲み、厳かな門である。今私は城門を連想させると書いたが、一朝事ある時には、寺全体が一つの城としての機能を担う役割を備えていたものと考える。
門の左手は池のようになっているが、城としてこの寺を見れば明らかに濠であり、その一部が池として残されていると考えた方がよいのではないだろうか。寺の四囲を取り囲んでいたであろう塀も、今では門の近辺に一部が残っているのみだ。
門を入ると先程の池が左手に連なっている。その裏側近くには、三成が秀吉に茶を献ずる際に使用したという「水汲みの井戸」が残されている。井戸と言っても小さな水たまり程度の簡素なものだが、周りを石で囲ってあるところから、人工の設備であることがわかる。
水を湛えてはいるが、落ち葉が底に溜まり、今ではとても飲用には堪えないものと思われる。井戸の傍らには、「太閤ニ茶ヲ献スル時石田三成水汲ノ池」と書かれた石柱が建つ。真偽のほどはわからないが、想像力を湧きたててくれる遺構であることは間違いない。
目指す本堂は、惣門を入ってまっすぐに、砂利が敷かれた坂道を登っていく。白い斑点を付けた見慣れない黒い蝶が4羽、互いに交錯しあいながら目の前を飛び過ぎていった。何か特別な力を持っているような不思議な蝶だった。
参道の左手の石垣の上に玉泉院という塔頭を見て、右手に赤いトタン屋根の本坊を眺めながら進んでいくと、やがて目の前に石段が現れる。石段の両脇にも城郭のように石垣が築かれている。その石段を登りきったところに建つのが、本堂である。
千手観音を本尊として祀る本堂は、江戸時代(正徳5年(1715年))の再建だそうだ。彫刻も見事で豪壮な造りであるが、秀吉や三成が見た本堂ではない。再建前の観音寺はどんな寺だったのか?好奇心は尽きるところがない。
三献茶の舞台としては、石田町に程近いここ観音寺が有力候補地として考えられているが、もう1ヶ所、三成の母の出身地である木之本の古橋にある法華寺三珠院がその舞台であると考える学者もいる。
前者は、観音寺の有力な檀家であった三成の父・正継との関係を重視して、あるいは横山城の城番をしていた木下秀吉と石田町の地侍であった石田氏との関係を考慮して、観音寺説を主張する。
一方で後者は、関ヶ原の合戦に敗れた後の三成が最後に頼ったのが母方の故郷である古橋の地であり、古橋の三珠院こそが三献茶の舞台であると主張する。
三成研究の第一人者である太田浩司さんは、その著書(『近江が生んだ知将 石田三成』)の中で両者の説を公平に紹介して比較しながら、
夢も希望もない話だが、そもそも逸話自体が史実ではない可能性も高く、その場合は
この「ある寺」探しは、虚構の寺を探すことになり何の意味もない。逸話が史実である
と確認しようがない以上、天正元年(1573)9月1日、浅井長政を滅亡させ、北近江の
支配権を信長から託された秀吉が、その領内から有能な人材を発掘して近習(きんじゅ)にした。そ
の一人が石田三成であったという程度しか、歴史学では述べることはできない。
と学者らしい非常に冷静な結論を導いている。
歴史学者でない私は、あまりによく出来過ぎているこの逸話が真実であってほしいと強く願っていて、可能ならば白黒決着をつけたいと思っている。そこで、観音寺を訪れたのなら三珠院にも足を運ばなければならないと思い、古橋にあるという法華寺跡を目指した(三珠院は、法華寺の塔頭)。
己(こ)高(こう)閣・世代(よしろ)閣を起点としてもっと楽に行ける道もあるのだと思うが、私は石道寺から鶏足寺跡を経て山中の道を進むルートを選択した。まっすぐ行くと己高閣・世代閣、右へ行くと中尾古墳という分かれ道を中尾古墳側へと右折する。そしてさらに進んで、右に行くと中尾古墳、左に行くと法華寺跡という看板を左に曲がると、細い山道になる。
関ヶ原の戦いに敗れた三成は、伊吹山の山中を通り、古橋にある法華寺を目指したという。途中で最後まで付き従ってきた磯野平三郎、渡辺勘平、塩野清助の3人の家臣とも別れ、ここからは孤独な単独行となる。今私が歩んでいる山道は三成が歩んだ道そのものではないかもしれないが、きっとこのような山道だったに違いない。そう考えて少しも不思議ではない細くて急峻な山道が続いていく。
時折現れる案内板により、かろうじて我が進む道が法華寺跡へと続く道であることを確認することができるが、それも途中までで、二股に分かれている道に出くわしたりして、果たして私が選択したこの道で正しいのかと不安な思いで歩を進めていく。
いくら母方の故郷であり幼い時に修行した場所であったとしても、案内板もなく人目を避けながらの潜行は、失意の三成にとって厳しいものだったに違いない。食べるものもなく、落ちている木の実などを食べて飢えをしのいだと伝えられている。ほんの数日前までは日本を二分して戦った西軍の総大将だったことを考え合わせると、なんと哀れな姿であることか!そんな三成の惨状を追体験するには、この道は実にふさわしい道だと言えるだろう。
細い山道をずっと登っていくと、突如として苔むした五輪塔が立ち並ぶ小さな平地に至る。これらの石群は、明らかに墓である。あるものは全面苔に覆われ、あるものは大きく傾き、あるものは激しく摩耗している。訪れる人も稀なこんな山中(さんちゅう)に葬られているのはいったいどんな人たちなのだろうか?背筋がぞっとするような無気味な光景だ。
この墓の主たちも、三成と関係があるのだろうか?即座に頭に浮かんだのが、石田町にある石田神社の供養塔だった。三成に関係した人たちが人目をはばかってこんな山中に葬られたのではないか?咄嗟に私はそう想像した。
ところが意外にも、石に刻まれていたのは享保など江戸時代の年号であった。すでに十分古びた墓だが、どうやら三成が生きた時代からはかなり下った時代の墓であることがわかった。
墓のあった地点を頂点として、道は下りに転じる。
本当にこの道でいいのだろうか?不安が次第に増大していく。私のこの不安は、三成の不安であったかもしれない。やっぱり引き返そうか?そう考え始めた時、かなりの遠方に何やら案内板のようなものが建てられているのを発見した。
「法華寺跡」と書かれた標柱と、その脇には「法華寺と石田三成」と書かれた案内板が設置されていた。こここそが、我が目指していた法華寺跡であった。
私は安堵のため息を漏らすとともに、周囲の景色の美しさに見入った。
法華寺は、726年に行基が創建した己高山鶏足寺の別院である。本尊として薬師如来が祀られ、最盛期には102宇の僧坊を抱いていた大寺であったと伝えられているが、鶏足寺同様、現在は廃寺となっている。往時の面影を今に伝える遺構としては、まっすぐ緩やかに登っていく石段と、石段の両脇に築かれた石垣が残されているくらいのものだ。
杉木立に囲まれた寺院跡を歩いて行くと、実に清々しい気持ちになっていく。銀色のススキの穂が風に靡き、一本の楓が赤く燃え立つようにすっくと立つ。誰も訪れる人のいない、山の中にぽっかりと現れた静かな空間だ。
長く緩やかな石段が尽きるすぐ手前の左手に、「三珠院」と書かれた真新しい石柱が建てられているのを見つけた。言い伝えによると、若き日の三成はこの場所で修行を行い、そして秀吉にお茶を献じたことになっている。
と同時にこの場所は、諸説があるようではあるが、関ヶ原の戦いに敗れた三成が最後に頼って落ちのびてきた場所であると言われている。何も残されていない廃寺の跡に立って当時の状況を想像することは難しいが、今私が立っているこの景色を、若き日の三成も捕獲される直前の三成も、見たのかもしれない。
法華寺三珠院は、戦国時代を生きた石田三成の、武将としてのスタート地点であり、またゴール地点でもあるということだ。そう考えると、目にするものすべてが神々しく貴いものに思えてくる。
それにしても、誰もいない。
鶏足寺跡までは紅葉見物の観光客でずいぶんと賑わっていたのに、中尾古墳に続く道へと折れてからは、法華寺跡までの山道の往復で、誰一人として人の姿を見ることはなかった。
今でさえこのような寂しい道を、腹痛に耐えながら、樵姿に身をやつした三成がさまよっていたことを想うと、改めて三成の哀れさが痛いほどに感じられた。
二つの三献茶伝説の場所を求めて、観音寺と法華寺跡を訪れた。そもそも三献茶伝説そのものが真実かどうか、疑わしい。そのことは承知の上で、改めて三献茶伝説の舞台について、私なりに考えを巡らせてみた。
実際に二つの候補地を訪れてみて、地の利があるのと感じたのは観音寺だ。
姉川の合戦後に秀吉が石田町に隣接する横山城の城代(=城番)を務めたこと、浅井氏を滅ぼした後に秀吉が長浜の地を賜ったこと、鷹狩りと称して領国内を実査していたのだろうが、距離的にも観音寺の方が似つかわしいと思った。
三成の父である正継と観音寺との深いつながり、地侍を自らの勢力に取り込み有力な家臣団を形成したい秀吉の思惑、三成の登用はそんな複雑な政治的背景のもとに計算づくで行われたものではないかと考える。
一方の法華寺は、三成の母との関係が色濃く反映された土地に存する。
距離的には長浜からはかなり遠く、日帰りで鷹狩りをするにはやや難しい気がするが、三成がこの地から秀吉の家臣としての道を歩み始め、そしてすべてを失って最後に戻ってきたのがこの地であると考えると、郷愁というのだろうか、ほのぼのとした思いを禁じ得ない。
三成にとって法華寺がある古橋の地が、原点であり終点であった。そこに私が立っているという心の内に湧きあがってくる感動。
論理的には観音寺が、情緒的には法華寺が、私にとっては三献茶伝説の舞台である。
どちらであってもいいし、あるいは両方ともが舞台だと思ってもいいではないか。いい加減で曖昧な結論であるように思えるかもしれないけれど、私にはどちらかに決めなければならない必然性はない。
むしろ重要なことは、秀吉によって石田三成という有能な人材が発掘され、やがて豊臣政権を支えていく重要な柱になっていくという事実だ。
石田家の長男でない三成は、秀吉に見出されることがなければ、寺に預けられてそのまま修行のうちに一生を過ごさなければならなかったかもしれない。名伯楽である秀吉が、三成の才能と能力とを正しく見抜き、自らの懐(ふところ)刀(がたな)として登用した。三成の人生も大きく変わったし、秀吉の人生も変わった。
二人の出逢いの場が観音寺なのか法華寺なのかが問題なのではなく、はたまた三献茶の伝説が真実であるのかどうかも重要なことではなく、湖北の地で三成が秀吉によって見出されたこと、やがて秀吉の統治政策の礎を築く存在へと成長していくことが、日本の歴史を大きく変えていくことになる。