12.佐和山城祉(名城と謳われた石田三成居城)
12.佐和山城祉(名城と謳われた石田三成居城)
世に、三成には過ぎたるものが二つあったと言われている。一つは居城の佐和山城であり、もう一つは家臣の嶋左近だそうだ。
連続3回に及んだ三成探訪の旅の最終回として私は、三成には過分のものと揶揄された一つである佐和山城祉を訪ねてみることにしたい。
佐和山城は、現在の近江鉄道本線の鳥居(とりい)本(もと)駅と彦根駅との間に存する標高232.5mの佐和山に造られた山城である。石田三成の居城として知られるが、実は三成が佐和山城主であった期間はほんの5年程度の期間に過ぎず、それ以前は湖北地方と湖南地方との接点にある城として、戦国武将たちの争奪目標となっていた。
古くは京極氏、六角氏、浅井氏が三つ巴で覇権を争っていたが、その後浅井氏が支配するようになり、重臣の磯野員(かず)昌(まさ)がこの城を守った。浅井長政と同盟を結ぶ織田信長も、当時の拠点であった岐阜と京都を結ぶ交通の要所として佐和山城をよく利用した。
琵琶湖を背にする立地は、琵琶湖の水運を利用した京方面への移動や物資の運搬を容易にした。城の正面にあたる大手筋(鳥居本方面)には、江戸時代の中山道の原形となる東山道が走っていた。東国と京とを結ぶ接点として、また北国街道を介して北陸方面ともつながりのある、まさに交通の要衝にあったのが佐和山城であった。
名城として世に知られていないのは、関ヶ原の合戦で三成が敗れた後、佐和山城を賜った井伊直政によって徹底的に破壊されたためである。
「破城」という言葉がある。
私は、佐和山城のことを調べるまで、この言葉を知らなかった。なんとも恐ろしい響きと字面(じづら)とを持った言葉だと思う。初めてこの言葉を聞いた時、私は戦慄で背筋がぞっと冷たくなるのを感じた。
破城とは、二度と軍事目的のために使用することができないように、徹底的に城の機能を破壊することを言うのだそうだ。具体的には、天守をはじめとした数々の建造物を取り壊し、濠を埋め、石垣を崩すことが主な作業と思われる。
そして破壊した城の材料そのものを、ほとんど残らず佐和山から運び出した。単に破壊しただけであれば、石垣の石などはゴロゴロと周囲に残されていることと思う。そこに石垣があったということさえ今はわからないほどに、完全に城の姿は消し去られたのであった。
先に訪れた小谷山にもほとんど城としての面影が残されていなかったのは、やはり羽柴秀吉らによって破城を受けたからだろうと私は考えている。
そこまで徹底的に消し去らなければならなかったのは、実は佐和山城そのものではなくて、石田三成という人の名声だったのではないか。私はそのように思えて仕方がない。家康は、三成を亡き者にしただけでは事足りず、なおも三成を異常なまでに恐れていたのではないだろうか?
後世の人たちが家康を賞することなく三成の遺徳を讃えるようなことがあってはならない。家康が本当に恐れていたのは、私はこのことだったのだと思う。
だから、三成に関わるものは徹底的に破壊した。物理的な物も人の思いも破壊し尽くそうとして、井伊直政をして人々の記憶から三成の存在を完全に消し去ろうとした。佐和山城の破城とは、そういうことだったのではないかと、私は思っている。
さらに、佐和山城が完全に消え去ってしまった背景には、城の機能を消去し石田三成の記憶を抹消するという軍事的戦略のほかに、現在ほど物資が豊富に存在しているわけではなかった戦国時代から江戸時代初期においては、廃物利用、今で言うところのリサイクルの精神が普通に存在していたという側面もあったのではないかと考えている。
特に、関ヶ原の戦いが終わったもののまだ大坂城に豊臣秀頼が存在していた当時の状況では、大坂城への睨みを効かす存在として彦根城を急いで築城する必要があった。だから、ゼロから作るよりも既存の施設を転用した方が効率的であったという合理的観点もあったに違いない。
石田三成の怨念が籠っている石を彦根城の石垣に転用するというのはあまり心地のいいことのようには思えないが、昔の人はそのあたりの感覚には比較的おおらかだったのかもしれない。城の石垣の材料として墓石が転用されたという話も聞いたことがある。
それでは、石田三成の居城であった佐和山城とはどんな城であったのだろうか?時代を天正年間に戻して、想像力を働かせながら当時の佐和山城の様子を見ていくことにしよう。なにしろ破城に遭っているため、正確な佐和山城の姿を復元することは誰にもできない。様々な説があるなかで、私が最も素直に受け入れることができる説を取捨選択しながら、復元を試みてみることにしたい。
石田三成が佐和山城に入った時期は、天正18年(1590年)7月とも文禄4年(1595年)7月とも言われていたが、近年の研究でやっと、天正19年(1591年)4月であったことが確定している。
こんな基本的な事実でさえなかなか確認できないところに、石田三成の神秘性が感じられる。石田三成が正規の歴史に登場するのは賤が岳の戦いを待たなければならないし、その後も諸説紛々としていて、関ヶ原の戦いで敗戦したのちに田中吉政の手の者に捕獲された状況に至るまで、正確なところがわからない。
佐和山城の正面にあたる大手は、城の東方の鳥居本側にあった。
佐和山の山頂に向かって東から西へ、2本の谷が伸びている。今の近江鉄道本線が通るやや広い谷がメインの谷で、中級以上の侍屋敷が立ち並んでいた地域と思われる。この谷を囲むように、佐和山の稜線上に三ノ丸、二ノ丸、本丸、太鼓丸が⊂の字型に並べられている。
もう1本の谷はメインの谷の北側にあり、やはり侍屋敷があったと伝えられている。
一方の城の西側は、石田三成が入城した当時は山際まで入江内湖が入り込み、背面を琵琶湖と琵琶湖に続く内湖とにより守り固める地形であったのではないかと言われている。
佐和山を取り巻く現在の街の状況から、大手口は佐和山の西側にあったと思い込んでいた私であったが、西側が発展するのは彦根城が築城される時期以降のことであるらしい。この時期に大手口が佐和山の東側から西側に付け替えられた可能性を主張する学者もいる。
佐和山城には五層の天守が聳えていたとの説がある。名城と謳われた城の頂上には美しい天守がよく似合う。真っ赤な夕焼けの空を背景に黒板張りの五層の天守が燃えるように聳える様を想像するだけで、胸がわくわくしてくる。実際の佐和山城は、どんな天守を擁していたのか?興味は尽きない。
ところが、佐和山城の天守について記述された信頼できる文献や絵画は一切残されていない。佐和山城の記憶は、徹底的に抹消されてしまっているのである。
一般に、山城の天守はそれほど大きなものはないと言われている。巨大な天守が登場するには信長の安土城の出現を待たなければならないし、平山城や平城と違って縄張り自体がすでに十分な高さにある山城には、五層の天守を必要としない。
浅井長政の小谷城の天守も、非常に簡易なものではなかったかと言われている。佐和山城の天守も、どちらかと言えば質素なものであったと考える方が、残念だが正しいかもしれない。平時は山の麓で政務を執り、非常時のみ山の上に籠ったのであろうから、立派な天守の必要性は極めて低かったのではないかと考える。
佐和山城が落ちた時、山は炎に包まれて、女たちが城の石垣から身を投げて果てたという悲しい言い伝えが残っている。今でも本丸の南にある女郎ヶ谷と呼ばれる谷が、その時の谷であったと言われている。
ぞっとするような凄惨な光景が想像されるが、実は近年の研究によると、佐和山城はほとんど抵抗らしい抵抗をすることもなく開城したのではないか、とする説が有力だ。
三成が関ヶ原の戦いに出陣している留守を守っていたのは、三成の父・正継と兄・正澄であった。秀吉の命に従って全国を飛び回らなければならず佐和山に留まることができなかった三成に代わって、平時から佐和山の領民たちを統治していたのは、正継や正澄であったと言われている。
関ヶ原の戦いで三成率いる西軍が敗れたことは、城中にいる正継や正澄にもすぐに伝わったに違いない。緊迫した城内の様子が想像される。
家康は時を移さず小早川秀秋や田中吉政らをして佐和山城に遣わしめ、城を完全に包囲した。関ヶ原の戦いからわずか2日後の9月17日のことであった。天下の大勢がすでに決してしまった今となっては、城兵たちの戦意を掻き立てることはもはや不可能だったに違いない。
守兵はわずかに2,800人。一方の寄せ手は1万5,000人である。内部から徳川軍への内応者も出て、正継や正澄もなす術がなかったのだろう。本丸を守っていた正継と三ノ丸を守っていた正澄は自刃して果てた。こうして、名城と謳われた佐和山城は、さしたる抵抗もできないままに呆気なく落城したのであった。
落城に際して、琵琶湖を背景に真っ赤に燃えあがる佐和山の姿が想像されるが、佐和山城は炎上しなかったというのが最近の通説のようである。落城が開城に近い状態であったこと、本丸や二の丸に残されている瓦に火災の痕跡が認められないこと、関ヶ原の戦いの武功により佐和山城を賜った井伊直政が速やかに入城した事実などから、学者たちは佐和山城炎上説を否定している。
落城後の佐和山城は、井伊直政らによってほとんど痕跡を残さないほど徹底的に解体されたが、丹念に見ていくと、彦根やその周辺に「面影」を色濃く残していることがわかる。佐和山城が炎上しなかったことを証拠づけることにもなると思うのだが、元佐和山城の建造物と伝えられる遺構が転用されて彦根市街やその近辺に存在している。そんな佐和山城の痕跡を探し訪ねて彦根の街を歩くことも、私の楽しみの一つだ。
城下町の町屋の雰囲気を再現した新しい街並みが立ち並ぶ夢京橋キャッスルロードのちょうど真ん中に位置する赤い門の大きな寺が、宗安寺である。この深みのある朱色を湛える門こそが、佐和山城の大手門を移築した門であるという。
宗安寺の表門はいかにも城門らしく、馬に乗って出入が可能なように敷居が設けられていない。元禄時代に起こった彦根の街の大火でも奇跡的に焼け残り、往時の姿を今に伝えている。
よく見ると、太い門柱には継ぎ接ぎ補修の跡が残り、門扉には横に引っ掻かれたような傷跡が窺える。伝承が正しければ、長い間佐和山城と彦根の街の歴史を見続けてきた貴重な遺構ということになる。
宗安寺のほかにも、佐和山城の痕跡はいくつか残されている。
彦根城の西側の栄町一丁目にある蓮成寺は、佐和山城の法華丸の建造物を移築したものであると伝えられている。法華丸は、三成が若き日に修行の場としたと伝えられる古橋にある法華寺が、三成のために普請したものである。ここにも三成の熱い魂が籠っている
また、花しょうぶ通りにある妙源寺の本堂と庫裏は三成の佐和山御殿を、山門は佐和山城の城門を移したものと言われている。
さらに、鳥居本宿にある専宗寺の太鼓門の天井には佐和山城の用材が使用されている。前著『井伊直弼と黒船物語』で紹介した高源寺の山門は、佐和山城の裏門であると言われている。
こうして見てくると、徹底的な破城に遭ったとは言うものの、佐和山城の面影は三成の魂とともに、今もなお彦根城下に色濃く残されていることがわかる。三成の記憶を完全に消し去ることは、徳川家康や井伊直政を以てしても、結局は能(あた)わなかったということなのだろうと思う。
佐和山城と、佐和山城落城にまつわる悲話を見て来た機会に、ここで三成の功績について考えてみることにしたい。
侍大将としての器量はともかくとして、官僚としての三成の能力は当時の武将の中では群を抜いていて、実は徳川幕府260年の礎を築いたのは三成であったとは、先に紹介した歴史学者太田浩司さんの言である。
意外に思う方も多いと思うので、少し詳しく語ることにする。
ここからは尊敬する太田さんの受け売りである。これまでは石田三成のことは、豊臣秀吉の恩義を忘れずに奸臣徳川家康に挑んだ「忠臣」という側面のみが強調されて評価を受けていたが、太田さんは三成のことを「構造改革を断行した男」と捉えている。
三成をどう見るかは、もちろん個人の自由であるが、私は彼を「忠義の臣」として捕(ママ)え
るのは、正しくないと思っている。江戸時代の三成評を否定しようとしている我々が、
江戸時代の儒教思想に基づいた「君に忠」の思想に呪縛されてどうするのであろう。そ
もそも三成が有能な政治家であり、官僚であれば、新たな日本の国家像について、明確
な方針を持っていたはずである。高い志を掲げる政治家や官僚が、「忠義」という二文字
だけで果たして行動するであろうか。私は三成を、そんな姿に矮小化したくない。
さらに続けて、
小和田哲男氏は三成を、豊臣政権の官房長官として、政策通の仕事ぶりを高く評価す
る。それはもっともだが、私はさらに進んで、三成は戦国という世が持っていた社会構
造を打破し、その上に新たな政治・経済システムを構築した政治家として評価したい。
もちろん、この仕事は彼のみで行ったわけではないが、彼が中心であったことは、これ
から述べるさまざまな状況証拠から明らかである。つまり、三成がいなければ、古い権
利におかされた戦国時代とは決別できず、江戸時代という新しい社会は生まれなかった
のである。
と述べている。長くなるが、もう少しだけ、太田さんの文章の引用をお許しいただきたい。
本質は、三成と家康の国家構想をめぐる戦いだったと結論できる。この戦いの後、三
成が目指した豊臣家による先鋭な中央集権国家は生まれず、地方分権にも重きをおく温
厚な中央集権国家が出来上がった。政治的にはそうであったが、経済的・社会的なシス
テムは、三成らの秀吉政権が造り上げてきたものを踏襲する。江戸時代は、三成ら豊臣
政権の「構造改革」の上に花開いたのである。
前掲書の巻頭で太田さんは、渾身の力を込めてこのように述べられている。今まで三成のことをこのような観点から評価した人はいなかったのではないだろうか。太田さんの説は、私にとって非常に新鮮で、かつ素直に頷けるものだった。
太田さんは著書のなかでこの考えを歴史学者らしい正確さで一つ一つ論証されているが、そこまで引用していくと本を丸々引用してしまうことになるので、要点のみを簡単に紹介していくに止めることにする。
三成が中心となって敢行した「構造改革」は、具体的には「惣(そう)無事令(ぶじれい)」と「喧嘩(けんか)停止令(ちょうじしれい)」、および「刀狩り」と「太閤検地」に代表されている。そしてこれら4つの施策は、互いに密接に関連し合っている。
「惣無事令」は大名に対して、「喧嘩停止令」は百姓に対して出されたものだが、いずれも趣旨は同じで、「私戦」を禁止するものである。それまでは、紛争解決の手段として武力による解決が一般的だった。
大名同士の領土紛争にしても、百姓同士の水の利権や山の所有権をめぐる争いにしても、強いものが勝つのが当然の帰結であった。争いに勝つためには、多量の武器を保有しておく必要があるし、戦うための人材を確保しておかなければならない。
三成は、これらの「私戦」を禁止して、訴訟による平和的解決を求めた。豊臣氏を裁く立場に置くことにより地位を確実なものとするとともに、私戦を根絶させることにより不要な武器や侍を駆逐することができる。「刀狩り」や「太閤検地」にも通じていく施策であることが理解されると思う。
後述する刀狩りと太閤検地は有名だが、「惣無事令」と「喧嘩停止令」は日本史の教科書には出てこない。しかしながら、この2つの法令によって初めて、豊臣の地位が臣下である他の大名とは一線を画することを可能にしたのである。
現に、天正15年(1587年)の島津征伐や天正18年(1590年)の小田原征伐など秀吉の名の下に行われた「征伐」は、禁じられた「私戦」を行ったことに対する秀吉の「制裁」であった。
さらに三成は、征伐の対象となった島津氏や佐竹氏を「指南」して秀吉の許しを取りつけることにより、彼らに恩義を与えることにも成功している。これらの恩義が後の関ヶ原の戦いにおける西軍の構成要素にもなっていくのだが、反対に三成が秀吉の腰巾着であるような悪いイメージを持たれてしまうのは、秀吉への取り次ぎ役としての印象のみが後世に強く意識され過ぎてしまった結果なのかもしれない。
刀狩りと太閤検地については、歴史上有名な施策であるので、内容自体の説明は不要と思われる。農民から刀などの武器を取り上げて武力蜂起ができないようにするとともに、全国の耕地を実測することにより生産高を正確に把握するための施策である、というところまでは誰も異存はないだろう。
ところが、そういった表面的な目的だけではなく、刀狩りと太閤検地にはもっと重大な意図が籠められていた。
刀狩りは、農民を抑圧するための施策ではなく、農村から武力を放逐し、法に基づいた秩序ある農民社会を作るために行われたものであった。ここで言う「武力」とは、刀や槍などの武器のことのみを言っているのではなく、村に居住する「侍」を追放することも併せて意味している。そのことは、次に説明する太閤検地と合わせて考えると、より鮮明に理解ができるだろう。
太閤検地は、生産高を正確に把握することを意図したものであったが、実はそのこと以上に、村に存在していた「侍」の経済的権益を否定して、耕地を真の耕作者に開放することを最大の目的としていたのである。
村には、農民とも侍ともつかない者が多数存在していた。平時には耕作に従事しているが、一朝事ある際には武力を行使して侍となる輩(やから)である。彼らは、農民から小作料を搾取していた。太閤検地における検地帳には、これらの侍たちの権利に関する記述は一切なされておらず、真の耕作者の氏名のみが記載されていた。これによって、耕作者の権利が公的権力によって保証されたのである。
太田さんは言う。太閤検地は、戦国の「農地解放」とでも言える政策である、と。
なるほど、そういうことだったのかと、目から鱗が落ちたような感激に浸ったのは、私だけだろうか?ここから先は、さらに重要な内容となるので、再び太田さんの記述を引用することをお許しいただきたい。
この結果、経済的基盤を失った「村の侍」、すなわち秀吉政権の武士たちは、村に住め
なくなった。それでも住む者は、武力も特権もない百姓になったのである。村に住めな
くなった武士たちは、村を出て城下町に集住するようになる。江戸時代の社会には、農
村は生産を行う農民が住む場所、町は消費を行う武士が住む場所という、区域的な住み
分けが存在した。この仕組みは刀狩や太閤検地の結果、初めて成立したのである。これ
は考えてみれば、自己犠牲をともなう大変な「構造改革」であった。政権内部にいる武
士たちの権益を、同じ政権内の武士が否定してく作業だからだ。当然反発も多い。江戸
時代の大名や家臣が、形の上ではその所領を持ち得たのは、この反発を背に負った家康
による反動が影響している。三成らの改革がそのまま進めば、明治政府のように、大名
は中央からの任命制となっていたかもしれない。
このように、三成ら豊臣政権が行った経済・社会改革は、二つの武力を村落から追放
することだったのである。そのことによって、武士と農民が分離され、武力を独占した
中央政権によって、村落の秩序を保つことができるようになった。兵農分離の意味する
所である。村に武器があり隣村と戦い、「村の侍」が住み、絶えず住民が合戦に駆り出さ
れる状況では、安定的な経済発展は望めないことを、三成ら豊臣政権の奉行は痛いほど
わかっていた。(中略)この三成の主導した豊臣政権の改革は、まさに日本近世への「構
造改革」であり、これなくして、日本は新たな時代を迎えることはできなかった。
社会は「忠義」や「友情」では動かない。社会を正そうとする「正義」のみが、国や
社会を変えていくと私は信じたい。三成には、それがあったのである。
太田さんが熱く語ってくださった言葉は、私にとってすんなりと心に沁み込んでいく言葉であり、本質を捉えた言葉であると思う。
反対に、そのような世の中の構造を変え得る人物だったからこそ、家康は三成亡き後も三成の名声が世に拡まることを極度に恐れ、佐和山城とともに三成の記憶を人々の脳裏から抹消することに躍起になっていたのではないかと思い当った。
ずいぶんと長く三成のことを見てきてしまった。
最初はこんなに長くなるつもりはなかったのだが、見ていけばいくほど、石田三成という人物の奥の深さが感じられて、興味が泉のように後からあとから湧き上がってくる思いだった。
この章の最後に、石田三成の最期について触れて、総括としたい。
関ヶ原の戦いに敗れた三成は、伊吹山の麓を経由して、最期は単身で母方の故郷である木之本の古橋に向かった。樵(きこり)の姿に身をやつし、木の実などを食べながらの悲惨な逃亡だった。茶畑で動けなくなっているところを地元の住人に助けられたりしながらの苦行であった。
そこまでして三成が「生」に拘ったのはなぜだったのだろうか?
武運なく、志空しくして戦いに敗れた侍大将は、潔く自らの命を絶つのが当時の慣行ではなかったのか。敗戦後の戦国武将として三成が取った行動は、極めて稀な行動であったと言わざるを得ない。
前著『井伊直弼と黒船物語』でその生涯を見てきた井伊直弼の最期の潔さと比べたら、まさに正反対の行動である。同じ湖北の地に輩出し、共に湖北の地を代表する人物でありながら、その対照性が非常に顕著であることが興味深い。
歴史に仮という言葉はあり得ないが、もしも井伊直弼が石田三成の立場であったなら、直弼は間違いなく、関ヶ原の地において自決していたであろう。
目を覆わんばかりの往生際の悪さである。
でも私は、三成の気持ちがわからないでもない。
彼の発想は、近代の人たちの発想と同じなのではないかと思う。命をけっして粗末にしない。たとえ僅かであっても可能性があるのであれば、無駄に命を捨てることなく、最後の最後まで望みを諦めない。
生き恥を去らすことはみっともないことではあるけれど、大望のためであれば敢えて甘受する強い精神力。自らの名誉のためであったら、私は三成は関ヶ原において自決していただろうと思う。
自分の命への執着ではなくて、世の中を変えていきたい、変えなければならないという強い使命感。敢えて三成が選択した道は、むしろ茨の道であった。
散り残る紅葉は ことにいとおしき
秋の名残は こればかりぞと
あらためて、三成が詠んだ「残紅葉」の歌を思い出した。
先に私はこの歌を、三成の生への執念と書いた。三成生誕の地で見た時にはそう思えたこの凄まじい歌だが、三成の最期に及んで再びこの歌を見てみると、また違った意味合いに見えてくるような気がする。
最後の一枚となって散り残っている真っ赤な紅葉の葉は、三成の命そのものではない。秋の陽光を浴びて輝く赤い紅葉の葉は、豊臣時代に三成が築こうとした新しい世の中への希望の光だったのではないだろうか?
理想の社会を創ることを目指して日々戦いだった三成の人生。やがて最後の一枚の葉が、静かに音もなく散っていく……。
三成は、徳川方の武将である田中吉政の手の者によって捕らわれた。吉政は、三成と同じ湖北地方(浅井郡宮部村・三川村)の出身者で、三成とは旧知の間柄であった。土地勘もあり、三成の行動を正確に予測しえた唯一の人物であったに違いない。
捕縛時の正確な状況は、諸説があってわからない。
古橋は、母方の故郷である。若き日に三成自身が法華寺三珠院にて修行を行っていた土地であったかもしれない。三成を守り匿おうとした人々が多数いた一方で、吉政に情報を密告した人間がいたということであろう。
9月21日に捕縛された三成は、25日に大津に滞陣していた家康のもとに送還された。家康は三成を厚くもてなしたという。単身で捕えられ、すでに籠の鳥となっている三成のことを、家康は何も恐れることはない。余裕を持って、あるいは優越感を持って遇したにすぎない。
一歩間違えば、反対の立場に立っていたかもしれないなどとは、微塵も思わなかったに違いない。勝者としての全幅の余裕をもって、家康は三成を扱った。
26日には家康とともに大阪入りをして、大坂、堺、京都の市中を引き回された後、10月1日に京都の六条河原にて処刑された。41歳の波乱に満ちた短い生涯であった。