15. 彦根城(井伊直弼の城下町と国宝の天守)
15. 彦根城(井伊直弼の城下町と国宝の天守)
関ヶ原の戦いが終わり、佐和山城が落ち、そして石田三成が処刑された。秀吉亡き後の混乱の世の中は、急速に徳川家康の下に収束されようとしていた。
徳川四天王の一人井伊直政は、関ヶ原の戦いにおける戦功により、石田三成の居城であった佐和山城を賜った。敵方の大将の所領を賜ったのだから、並み居る徳川方の武将たちの中でも最大級の評価を受けたと言って間違いないだろう。
直政は、先陣を任されていた福島正則らの外様大名に戦功を譲ることを潔しとせず、抜け駆けをして先陣の功を得た。本来であれば抜け掛けは軍規を乱す行為であるので反対に処罰の対象となるものだが、福島正則らの外様大名を先鋒に指名したこと自体が、家康の本意ではなかったのであろう。家康の真意を知っていて、敢えて直政は抜け掛けの禁を犯したと考えた方が、恩賞結果と合致する。
さらに直政は、中央突破を図って敗走する島津義弘軍を追走し、佐和山城攻めでも軍監を務めるなど、関ヶ原の戦い全般において第一級の軍功を挙げ、上野国高崎12万石から北近江15万石と上野国3万石の領主となった。
井伊家の石高はその後、大坂の陣などでも加増されて、最終的には35万石の大大名へと成長していくことになる。
直政が佐和山城に入ったのは、慶長6年(1601年)1月であった。しかしながら直政は、島津義弘を追撃する際に銃弾を受け、その傷がもとで翌年2月1日に死去した。わずかに40年の短い生涯であった。
彦根城築城の計画は、直政存命中から練られていたようである。直政自身が三成をひどく嫌っていたこと、三成の記憶を城もろともに消し去る必要があったこと、さらに、秀頼のいる大坂方面への抑えとしてより機能的な城が求められていたことなどがその理由であると考える。
彦根城築城は、慶長9年(1604年)、家康の承認のもとに幕府主導で開始された。
幕府からは6人の公儀奉行が派遣されたほか、近江近国の大名28家および旗本9家が動員され、急ピッチで築城工事が進められていった。発足したばかりの徳川幕府にとっての重要な軍事的戦略プロジェクトの一つだったことが窺える。
2年後の慶長11年(1606年)には早くも天守が完成し、慶長12年頃までには城の主要部分が完成している。大坂冬の陣(慶長19年)、夏の陣(慶長20年)を挟んでさらに工事は続けられて、最終的な完成を見るのは元和8年(1622年)頃であった。
急いで造らなければならなかったことから、彦根城の建造物には他の城などからの転用が目立つ。
重要文化財に指定されている天秤櫓は、長浜城から移築されたと言われている。本丸に向かってさらに進んだところにある太鼓門櫓は、彦根城を築城する以前に彦根山に建立されていた彦根寺の山門を利用したものと伝えられている。国宝に指定されている天守さえも、大津城の天守を転用したとの説がある。
石垣に至っては、佐和山城、長浜城、安土城の石垣の石が使用されていると言う。言ってみれば彦根城は、廃物を利用しての寄せ集めの城である。しかし廃物利用のリサイクルの城だからと言って城の価値が下がるものではない。彦根城はそういった構成要素の過去の来歴を感じさせない、城としての統一感と堅牢性とを兼ね備えている。
第一に、美しい。
高い石垣の上に、白壁の櫓や門などの建造物群が眩(まばゆ)い光を放ちながら聳(そび)えている。天秤櫓に通じる高い橋桁を持つ木製の橋(廊下橋)は、荒々しく野趣に満ちている。そして本丸に鎮座する三層の天守は、小ぢんまりしたなかにも抜群の存在感を示している。千鳥破風と唐破風を巧みに配し、軒端には金の装飾を施した外観は、実にお洒落な佇まいだ。
そこには、計算され尽くした美の意識が息づいている。
短い工期を余儀なくされ、材料としては他の建造物を転用するという制約の下で、しかも軍事的に堅固な城を築きあげなければならない。そのような状況下にありながらも、よくぞこれほどの美しさを保ち得たものだと、感嘆の言葉を禁じ得ない。
第二に、堅牢である。
濠に面した石垣は、いわゆる腰巻石垣と腹巻石垣を併用している。すなわち、濠から立ち上がる部分に石垣を配し(腰巻き)、その上に土塁を積み上げ、最上部にさらに石垣を重ねている(鉢巻き)。三層構造となった石垣は、江戸城の石垣と同じ構造であり、江戸城以外にはほとんど類例を見ない。
天秤櫓の下の、廊下橋をくぐるように交差する狭い道は、堀切である。道の両側を高い石垣で塞ぎ、下の道を通って攻め込もうとしている敵兵に対して、矢を射かけたり鉄砲を撃ったりして上から攻撃を仕掛ける。これはたまったものではない。
それでも先に敵が進んで行けば、先程の廊下橋を焼き落してしまえば、本丸は完全に独立した空間となる。山の地形を巧みに利用した心憎いばかりの縄張りである。
彦根城は、様々な制約の下での築城であったにもかかわらず、質と実とを兼備した機能的な城であることがよくわかると思う。天下に名城と謳われる所以である。徳川幕府の中で大老職を仰せつかってきた数少ない大名であり、「常溜り」と呼ばれる譜代の大藩としては稀有の地位を与えられた井伊家の居城として、彦根城は実に相応しい城である。
彦根城の生い立ちを追ってきたが、それでは早速、実際に彦根城を訪れてみることにしよう。
JR琵琶湖線の彦根駅は、東海道新幹線の米原駅から京都方面にわずか一駅の立地にある。 駅舎の2階から眺めると、真正面に彦根城の天守を望むことができる。駅前の雑多なビルが目障りではあるが、小高い山の頂上で存在を主張する彦根城の姿は、旅人の心を強く引きつける。
余談だが、彦根城の姿は、新幹線の車窓からも確認することができる。米原駅を出てすぐ、京都方面に向かって右側の景色を目を凝らして見ていると、遠く小高い丘のような小山の上に、ちょこんと乗った彦根城の天守が遠望できる。米粒のように小さな姿だが、これは意外と感動ものであるので、是非お試しあれ。
さて、駅前の広場では、井伊直政の騎馬像が私を迎え撃つ。甲冑姿に身を包み、両脇に長い角を模(かたど)った飾りをつけた兜をかぶり、高い馬上から見下ろす姿は、凛々しい戦国武将そのものだ。鋭い眼光に、思わず射すくめられるような思いがする。徳川四天王の一人として幕府の創建に君臨した直政の功績を想いながら、駅前の道をまっすぐに城へと進んでいく。
城下町には、どこか独特の雰囲気がある。
言葉ではうまく表現することができないのだが、街の空気に含まれている気品というか緊張感というのだろうか。武家の街の凛とした気配が、そこここに感じられるのである。その空気の行き着くところ、求心力の焦点に、城がある。
駅前からまっすぐの道は、一度行き止まりに突き当たる。いわゆる「どんつき」と呼ばれている、城下町にはよくある街の構造である。敵方に一気に攻め込まれないように、道のあちこちにこのような行き止まりやかぎ型を設けるのが、城下町の常識である。
一度左へ曲がり、すぐにまた右に曲がると、目の前に大きな松の並木と濠が見えてくる。いろは松と呼ばれる松並木の向こう側には、白壁が美しく映える佐和口多聞櫓が待ち構えている。この櫓も、一度右へ曲がりすぐに左に曲がる桝形の構造を持っている。
佐和口多聞櫓のすぐ手前の小道を濠に沿って右折すると、井伊直弼が青年期を過ごした埋木舎に至るのだが、ここのことは後で触れるとして、道を先に急ぐことにする。
佐和口多聞櫓を過ぎると、濠に突き当たる。この濠に沿って右に行くと、彦根城第二郭にあたる玄宮園方面となる。反対に左に行くと、本丸に向かう表門橋が見えてくる。橋を渡ったところにあるのが、表御殿を模して造られた彦根城博物館である。
かつてこの地には、彦根藩の藩政の中心である表御殿があった。厳密な発掘調査をもとに、彦根市制50周年記念事業として彦根市が復元したのが、彦根城博物館である。外観は当時の表御殿そのままとし、内部には井伊家の歴史を中心とした貴重な資料が多数展示されている。
当時の風俗を描いた国宝「彦根屏風」も、その一つである。実物は思ったよりも小さな屏風だが、金箔のうえに庶民の様子が生き生きと描かれている傑作だ。
博物館の一部には、表御殿の内部が庭園とともに復元されている。「御殿」と名がつけられていても、意外と質素な佇まいであったことがわかる。
彦根城博物館を出ると、いよいよ本丸に向かう上り坂となる。
狭くて急な坂道を息せき切って登っていく。周囲には木々が生い茂り、鬱蒼とした森の中を進んでいくような感じだ。鳥のさえずる声が心地よく鼓膜を刺激してくれる。
しばらく行くと、やがて左右を高い石垣に阻まれた狭い道が現れ、目の前に古風な木製の橋が出現する。廊下橋である。なんと風流な橋なのだろう、なんて感心していてはいけない。今私が立っている場所こそが、先程書いた堀切の底であり、戦いのさなかであれば私は、上方のあらゆる角度から矢や鉄砲を見舞われてこの場に倒れているはずである。
逃げ場のない空間に敵を誘いこんで、一網打尽に叩きのめす。背筋がぞっとするほど恐ろしい仕掛けが、何気なく仕込まれている。
廊下橋をくぐりぬけて回り込むようにして坂道を上ると、鐘の丸と呼ばれる広場(廓)に出る。先程上方に見上げていた廊下橋と同じ高さである。廊下橋を渡りきったところに接続している門のような構えをした白壁の櫓が、長浜城から移築されたと伝わる重要文化財の天秤櫓である。
天秤櫓を抜けてもまだ登り坂が続く。
幅広の石段を登り続けていくと、こちらも重要文化財の指定を受けている太鼓門櫓が見えてくる。こちらは、元々彦根山にあった彦根寺の山門とのことだが、どう見ても城門以外のものには見えない構造をしている。
桝形になった門を抜けると、いよいよ天守が聳える本丸広場に辿り着く。
ついに彦根城の頂点に到達である。ここまで来るのに、いくつの城門をくぐり、どれだけの坂道を登ってきたことだろうか?天守までの道程は、実に遠く険しかった。井伊直政が構想し、井伊直継によって完成された彦根城を、私は自分の心と体とで体感した。
天守は本丸の真ん中に鎮座しているわけではなく、北西の隅に位置している。と言うのは、本丸には天守だけでなく、藩主の居館であった御広間(おんひろま)や宝蔵、それに着見櫓などの建造物が建っていたからである。
これらの建造物群が現存していたら、本丸の景色もさぞや賑やかであったことだろうと思う。それ以外の建物は取り壊されてしまい、今は広々とした空間に天守のみがポツンと取り残されている。
彦根城の天守は、姫路城や大坂城の天守などを想像すると、小ぢんまりしていて物足りないかもしれない。しかし彦根山の頂上に建つ天守を城下町から見上げると、えも言われぬ存在感を誇示して見える。城下のどこからでも、またさらに遠方からでも眺めることができるように、ちょうどいい大きさに計算して造られているのが、彦根城の天守であると言える。
そういう意味で彦根城は、山全体を混然一体として眺めるべきである。
京極氏の大津城を移築したと伝えられる三階三層の天守は、入母屋屋根に唐破風と千鳥破風を巧みに配し、複雑な外観を造り上げている。窓には装飾性に富んだ花頭窓を採用し、軒端には金の飾りを施す姿は、戦いを目的とした城というよりは、風流をより強く感じさせる可憐な城である。
戦場においても粋な赤備えの具足に身を包んで戦った井伊家一流の美学が、城にも息づいているのであろうか?彦根城は無条件に美しい。
優雅な外観とは対照的に、天守の内陣は質実剛健そのものである。太い柱と板敷の床。天井を見上げれば、反りのある太い木材が何本も組み合わされながら渡されている梁。木の冷たい感触がそのまま伝わってくるような、重厚な造りの内部だ。
急な階段を手摺を頼りに上っていくと、やがて最上層に辿り着く。彦根城の天守から眺める眺望は、すばらしい。
目の前一面に拡がる琵琶湖の碧い湖水。風に吹かれてさざ波立つ湖面。築城前に没した井伊直政はこの景色を見ること能わなかったけれど、直継以下の歴代の藩主たちはきっと、この雄大な景色を堪能したに違いない。
幕末の大老・井伊直弼も、いく度(たび)かは今私が佇む場所に立って、飽かず琵琶湖の湖水を眺めたかもしれない。あるいは、甍が並ぶ美しい彦根の城下を満足げに見渡したかもしれない。そう思うと、感慨もひとしおである。
天守からの風景を心に納めて、私は城を後にした。主がいなくなっても、城が毅然として存在し続けていることが、健気に思えてきた。
幸いにして彦根城は、実戦の経験を持っていない。しかし一歩間違えば戊辰戦争の時の会津のように、戦いが現実のものになっていた可能性もある。無数の砲弾を浴び、廃墟のようになりながらも立ち尽くしていた鶴ヶ城の写真を見ると、彦根城が同様の運命を辿らなくてよかったと、心から安堵する。
それにしても、守りの美学とでも言うのだろうか。実際には使われなかったものの、守備のための設備や仕組みをふんだんに備えながら、彦根城はなお美しさを湛えている。追求され尽くした城の機能美を満喫しながら、この後は彦根の城下町を探訪してみることにしたい。
彦根の城下町は、彦根城築城と同時に建設に着手された。芹川の流れを付け替えて濠の役割を持たせるなど、大きな土木工事を伴うものであった。たしかに、よく見てみると、城の南西を流れる芹川は、不自然にまっすぐな流れになっているのがわかる。
彦根の城下町は、大きく4つの区域に分けることができる。
第1郭は、彦根城の中心部分である。先程見てきた天守を中心として、多聞櫓、表御殿などが配置され、内堀と高い石垣で区画されている。
第2郭は、第1郭を取り巻くように内堀と中堀に挟まれた区域で、内曲輪および二の丸と呼ばれている。ここまでが、いわゆる彦根城だ。家老などの上級藩士の広大な武家屋敷が並び、槻御殿や玄宮園など藩主の別邸や庭園、それに藩校などが置かれていた。
今では、藩校の流れを受け継ぐ彦根東高校や地方裁判所、それに玄宮園と命名された庭園として整備されている。上級藩士の武家屋敷の大部分は、残念ながら明治維新に際して解体されてしまった。今では、筆頭家老・木俣家の屋敷、黒板塀に白壁が映える西郷家の長屋門、なまこ壁が美しい脇家の長屋が残るくらいである。
第3郭は、中堀と外堀に囲まれた区域で、内町と呼ばれている。中堀の外側と外堀の内側に面して中級藩士の武家屋敷が立ち並び、その間に町人の居住区であった町屋が設けられているサンドイッチのような構造になっている。
今でも、夢京橋キャッスルロードの北西側の本町2丁目・3丁目、城町1丁目辺りには、町屋の遺構が比較的多く残されている。当時の町名で見てみると、東内大工町、紺屋町、上魚屋町、職人町、桶屋町など、そこにどんな町人が住んでいるかが一目で理解できる町名になっていることがわかる。
旧職人町に隣接する旧連着町の辺りであろうか、何気なく歩いていると、「腹痛石」という不思議な石が路傍に置かれているのに出くわした。この地方でよく見られるお地蔵様のように前掛けを掛けられた、腰の高さくらいの石だ。上には、いわくありげに数珠が置かれている。
藤原時代の昔からこの地にあると言い伝えられてきた石のようで、不届き者が石を持ち去らないように、この石に触れると腹が痛くなると言われてきた。触れると腹が痛くなるというフレーズに私たちは、先に見てきた石田町の八幡神社境内に埋められた三成一族の墓石のことをすぐに思い出す。昔の人々は、こうして大切なものを守ってきたのだろう。
こんな思いがけない見つけものをするのも、伝統ある街並みを歩く楽しさではないだろうか。厳かな武家屋敷とは違う町屋を歩く気楽さみたいなものが、またうれしい。
第4郭は、外堀の外側で、外(と)町(まち)と呼ばれている区域だ。下級藩士や足軽の組屋敷などが設けられ、町人も居住していた。今の彦根駅辺りは、この第4郭と言えるだろう。
この地域で今でも特徴的に確認することができるのは、足軽の組屋敷である。夢京橋キャッスルロードを突き抜けてまっすぐに、芹川に向かって細い道を歩いて行くと、立て横に細かく区画された不思議な町割の中にいることに気づくだろう。芹橋1丁目・2丁目辺りだ。
ここはかつて、彦根藩善利組の組屋敷があったところである。外堀と芹川に挟まれた城下町の最外部に位置する場所で、ここに足軽組の組屋敷を配備することで、城の最前線における防御を意図していた。
かつては700戸もの屋敷が存在していたが、今でも比較的良く当時の雰囲気を伝えている街並みだ。江戸時代の建物も、十数軒程度は残されている。これらの建物は、小規模ながらも武家屋敷としての体裁を保っており、江戸の昔にタイムスリップしてしまったような郷愁を覚えるお勧めの散歩道である。
彦根の城下町は、彦根山の麓に新しく一から造り上げた街なので、計画的でかつ機能的な城下町を作ることができた。こうして、城と城下町とが混然一体となって、街全体で敵からの攻撃を防御するコンセプトが徹底された。
築城当時の街割りは今でもよく窺うことができる。街を歩いていると、そこここで行き止まりやカギ型に曲がる路地に出会う。敵の攻撃時に、まっすぐ侵入されることを防ぎ、道の曲がり角に籠って防戦の機会を作ることを目的としている。最終局面である街路におけるゲリラ戦を想定している用意周到さだ。
敵が攻めにくい街の構造ということは、そこに住む人間にとっても同様に住みにくい環境にあるということを意味している。彦根市に住む人々は、築城以来数百年もの長い年月にわたって、この住みにくさと同居しながら生きてきたのである。
江戸時代ももう少し時代が下ってからの築城であれば、もっと生活しやすさに重点を置いた街づくりができたのだろうが、彦根城築城当時の徳川幕府はまだ黎明期であり、大坂城には豊臣秀頼が存命しており、緊張感のある時代であった。
そんな時代背景などに思いを馳せるのも、城下町散策の楽しみ方だと思う。
最後に、旧花街だった袋町あたりを巡って、彦根城下町の散策を締めくくることにする。
長い雨季の終り。
夕空は久しぶりに、伊吹山の山頂まで、くっきりと晴れわたって見えたが、芹川の水
は、見違えるほど水嵩(みずかさ)を増して居た。岸から二尺あるかないかで、水勢はいつになく鋭
い。
さっきから、堤の上を往ったり来たりして居る浪人風の男があった。歩いたかと思う
と、ふと立ち止まって、水の面に、目を注ぐ。そうかと思えば、首を上げて、涯(はて)しない
大空を遠く眺めた。
堤の東は、袋町の花街である。ことによったら、堤を下りて、この郭(くるわ)の揚屋(あげや)に、登楼
しようという客が、暫(しば)しの時を消すために、堤の上をそゞろ歩きして居るとも思われな
いことはない。しかし、よく見ると、人態風俗、郭通いの粋客とは、どうしても受取れ
ぬ。
年の頃は二十七、八。細長の顔で、眉は太く長いのが特長だ。然(しか)し目は切れ長で、色
は白く、鼻筋が通って居るから、理知的ではあるが、柔い相である。
堤のすぐ下に、軒を並べた娼家の窓から、たか女は、川の水嵩を見ようとして顔を出
した時、堤の上の、その男の姿に目を惹(ひ)かれた。
見馴れない男だと思った。他国者にちがいない。物騒な時代だけに、藩士達は他国者
の入国には必要以上に神経過敏となって居る。よく、あんなところを、ブラブラ、やっ
ていられると、意外な気がした。
向こうでは、まだ、こちらが見ているとは気がつかない。桜の立木の下に居て、ジイ
ッと水面を見下ろしながら、何か深い黙想にふけって居るらしい。
ここに突然引用したのは、舟橋聖一さんの名著『花の生涯』の冒頭部分である。井伊直弼の生涯を題材とし、NHKの歴史大河ドラマの栄えある第一回作品に選定されたのが、この『花の生涯』であった。
堤の上を往ったり来たりしている浪人風の男こそが、後に京都の大老と呼ばれ志士たちに恐れられた長野主(しゅ)馬(め)(後の主膳)である。娼家の窓から芹川の堤を眺めていたのが、井伊直弼の愛人となり、後に主膳とともに京都で諜報活動に身を投じることになる村山たか女である。
長野主馬が初めて井伊直弼にお目通りする日、お忍びで直弼のもとを訪れるために日が暮れるのを待っていた光景から、物語が始まる。
彦根の城下町を歩くのなら、有名なこの作品の冒頭に表されている袋町を訪ねてみたい。そう思っていた。元は彦根城の外堀であったところを埋め立てて作られた大きなバス通りを南に歩き、古い商店街である銀座街を抜けると、花しょうぶ通りという趣のある商店街に達する。この通りの右手(西側)こそが、旧袋町の花街跡である。
今では河原2丁目という地名に変わっているが、花街の面影を色濃く残した飲み屋街として今も健在だ。昔は娼家だったかもしれない洒落た紅柄格子の旅館などが軒を並べ、『花の生涯』を彷彿とさせる。
長野主馬は、この辺りをそぞろ歩きながら時間を費やして、やがて暗がりの中を井伊直弼が寓居する埋木舎を訪れたのだろう。
旧袋町界隈は、できれば日が暮れてから訪れてみたかった。きっと昼間の顔とはまた違った、むしろ往時の花街を想起させる街の姿が垣間見られることだろう。
城下町には、武家屋敷の顔があり、町屋の顔があり、そして花街の顔がある。これらの異なる街の「顔」が計画的に整然と割り振られ、全体として一つの街としての機能を維持している。
彦根城と彦根の城下町を探訪した最後に、どうしても触れておかなければならないのが、井伊直弼のことである。築城当時から時代はかなり下るが、彦根と言えば井伊直弼のことを抜きにして語ることはできない。
井伊直弼は、彦根城第2郭にあたる玄宮園に隣接する彦根藩の下屋敷にあたる槻御殿で生まれた。文化12年(1815年)10月29日のことである。
槻御殿は今も現存している。井伊家の豊富な財力を駆使して槻の木材をふんだんに使用した豪華な建物だ。城の北東に位置する御殿からは、玄宮園の広々とした回遊式庭園を望むことができる。大名文化の粋を集めた贅沢な空間だ。
ところが直弼は、前藩主である井伊直中の十四男として生まれた。生まれながらにして藩主になる可能性がゼロに等しい男だったのだ。槻御殿での優雅な暮らしは、長くは続かなかった。
父・直中の死去に伴い直弼は、弟の直恭とともに槻御殿を退去し、第3郭にある尾末町屋敷に移り住んだ。直弼が17歳の時のことであった。
この尾末町屋敷のことを、後世の人たちは「埋木舎」と呼ぶ。
世の中を よそに見つつも 埋れ木の
埋もれておらむ 心なき身は
直弼は我が身の上を、自嘲するかのようにこうに詠んだ。
花も咲かず実も付けないままに埋もれていく木とは、藩主になる可能性が限りなくゼロに近い直弼そのものだった。
しかもその翌年、他の大名家への養子縁組を求めて弟の直恭とともに江戸に出たものの、直恭のみ養子縁組が決まり、直弼は失意のうちに一人で埋木舎に戻らなければならなかった。自暴自棄になり道を踏み外してしまってもおかしくない状況であるのに、直弼はそれでも気持ちを切らすことなく勉学に励んだ。
いわゆる捨て扶持である。300俵の扶持米を与えられて直弼は、いつ果てるともない部屋住み生活を続けた。しかし直弼の心には、希望の光は消えていなかった。
1日4時間の睡眠時間だったと言う。明日がない身であるにもかかわらず、直弼は自分自身を磨き続けた。
武道では、居合いの道で新派を興せるほどの腕前だった。学問も、洋学も含めてひと通りのことは身に付けた。そのほかにも、歌道、茶道、禅、能、焼き物(湖東焼)と、文化にも非常に深い造詣を示した。
茶道では、千利休以来の茶人との評価も高く、『茶湯一会集』という書物を著している。「一期一会」という言葉は元々は利休が唱えた言葉だが、世に拡めたのは直弼であると言われている。
禅の道では只管打座(しかんたざ)。ひたすら坐って無の境地を追い求めた。
能の世界では、埋木舎時代に「筑摩(つくま)江(え)」という謡曲を自ら創作している。伊勢物語に想を得た作品で、横浜の掃部山にある能楽堂で平成19年(2007年)11月27日、160年ぶりに上演されたことで話題になった。
どの分野を採り上げても、一流人である。口で言うだけなら簡単だけれど、それを実践することは、並大抵の人間にできることではない。
直弼は、32歳までの15年間をこの埋木舎で過ごした。そして弘化3年(1846年)、世嗣であった井伊直元が亡くなると、藩主である兄・井伊直亮の養嗣子として世嗣となり、江戸の藩邸へと移っていった。
13人もいた兄たちは、あるいは亡くなり、あるいは他家に養子に行き、あるいは僧籍に入るなどして、たまたまこの時に藩主の跡目を継ぐことができる状態にいたなかでは、直弼が最適な人材であったのだった。
世の中は、本当にわからないものだ。
しかし、世嗣の座を引き寄せたのは、私は直弼自身であったと思う。直弼が可能性がないにもかかわらず15年間も精進を続けた蓄積が、最後は自らを援けたと思わずにはいられない。
直弼が再び彦根に戻ってくるのは、その5年半後、藩主直亮の死去に伴い、第13代彦根藩主としての帰国時(嘉永4年(1851年))である。この時には、今では彦根城博物館となっている表御殿が、直弼の居場所だったのだろう。万感の思いを込めて、天守から琵琶湖の湖水や城下町を眺めたかもしれない。
私は、直弼の埋木舎での15年間にもわたる耐乏生活のことを知って、感動して『井伊直弼と黒船物語』を書いた。直弼の人生から教えられたことは、数限りない。しかし時代は、直弼を彦根藩主としてのみに止めておくことを許さなかった。直弼が藩主に就任したわずか2年後(嘉永6年(1853年))にペリー率いる黒船が来航し、日本は欧米列強の開国圧力の前に風前の灯状態となるのである。
未曾有の国難に際して、直弼は大老職を仰せつかって事の収拾に努めた。そして就任わずか2ヶ月で、日米修好通商条約締結という大事業をやってのけたのである。この間の事情の細かいニュアンスについては、それが目的ではないのでここでは触れない。
ここでは、欧米列強の侵略の魔手から日本を守り、日本を近代国家へと導いた恩人として、直弼のことを尊敬してやまないということを述べるに止めておきたい。井伊直弼は、彦根が生んだ最も偉大な人物である。
なお、彦根城の周辺には、埋木舎のほかにも直弼を偲ぶものが残されている。
玄宮園に近い公園には、衣冠束帯姿の直弼像と、舟橋聖一さんの花の生涯の記念碑が建立されている。不思議なことに、石田三成というと坐像なのだが、井伊直弼というと衣冠束帯姿の立像である。同じく衣冠束帯姿の立像が、横浜の掃部山公園に建立されている。
また、埋木舎ちかくのいろは松の並木には、直弼の歌碑が建てられている。
あふみの海 磯うつ浪の いく度(たび)か
御代にこころを くだきぬるかな
直弼は桜田門外の変で亡くなる2ヶ月前、衣冠束帯姿(坐像)の絵を狩野永岳に描かせ、自詠のこの歌を書き添えて井伊家の菩提寺である清涼寺(後述)に奉納した。この時にはすでに、直弼は死を覚悟していたに違いない。直弼は自らの命に代えても、日本という国を救おうとしていたことがわかる。この歌は、言わば直弼辞世の歌と言ってもいいかもしれない悲壮なまでの決意が込められた歌である。
ほかに直弼所縁(ゆかり)の寺としては、城下になるが、龍潭寺、清涼寺、天寧寺などがあるので、こちらも是非訪ねてみたいお勧めの場所である。
佐和山の麓にある龍潭寺は、臨済宗妙心寺派の禅寺で、井伊家の菩提寺である。枯山水の庭園と、佐和山を借景とした回遊式庭園が美しいことで知られている。敷地内には、直弼の母であるお富の方の墓所がある。
龍潭寺から程近いところにある清涼寺は、直弼が座禅の修行のために通った寺として有名である。清涼寺も井伊家の菩提寺で、初代藩主の井伊直政はここに葬られている。残念ながら非公開であるため、詳細を知ることはできない。
天寧寺は、直弼の父に当たる直中が建立した曹洞宗の禅寺である。桜田門外の変の後、現場付近に散在していた血染めの土や遺品を四斗樽に詰めて運び、ここに埋めたと言う。その上には井伊直弼供養塔が建つ。また同じ境内には、「長野義言之奥津城」と刻まれた大きな碑が建っている。長野主膳の墓である。主膳は直弼亡き後も彦根藩の藩政に関与していたが、反論が一転し、捕えられてろくな詮議もないままに断罪となった。文久2年(1862年)8月27日のことであった。
長々と彦根城と城下町を見てきた。まだまだ紹介しきれないたくさんの魅力を擁した街だが、そろそろ彦根の街を後にしようと思う。江戸時代の歴史を活かし、これから彦根の街がどのように発展していくのか、興味が尽きない。