8. 尼子(藤堂高虎・築城の名人の系譜)

8. 尼子(藤堂高虎・築城の名人の系譜)

藤堂高虎4

 別に藤堂高虎のことを調べようと思って降り立った駅ではなかった。

 そもそも、藤堂高虎という人物は知っていたけれど、どんな人で、どこの出身かなどの予備知識は、私にはほとんどなかった。

2009年晩秋。紅葉の名所である湖東三山(西明寺、金剛輪寺、百済寺)を巡ろうと思い降り立ったのが、近江鉄道の尼子(あまご)駅だった。西明寺行きのシャトルバスを待つ間に駅前広場を散策していた時、私は一枚の案内板を見つけた。

  城づくりの名人 藤堂高虎

  戦国時代、甲良町在士出身の藤堂高虎は、その戦の駆け引きのうまさと、城作りの能

力で浅井長政、豊臣秀長、豊臣秀吉、徳川家康などから請われて七度も主人をかえまし

た。自分の力と運によって一介の武士から大々名に出世を遂げた英傑です。

 

 どうしてこんなところに藤堂高虎がいるのか?まず不思議に思った。尼子という駅名からして、出雲地方で活躍した尼子氏と関係のある土地であるかもしれないということはある程度想像ができたが、この地が藤堂高虎の出生地であったことは、迂闊にもまったく予期していなかった。

 藤堂高虎と言えば、伊勢の国(今の三重県)にある津藩の藩主としてのイメージが強い。また立派な石垣を擁する伊賀上野城などを築城した経歴からも、てっきり伊勢か伊賀の国の出身だと思っていた。思いがけない場所でひょっこり、思いがけない人物に出会ったような驚きを感じながら、私の興味は次第に、藤堂高虎という人物に向けられていった。

 藤堂高虎は、弘治2年(1556年)1月6日、近江国犬上郡藤堂村(現滋賀県犬上郡甲良町在士)にて、藤堂虎高の次男として生まれた。父が虎高で息子が高虎とは、何とも紛らわしい名前である。父である虎高はこの土地の土豪であり、上に長男の高則がいたが、兄は早世しているので、実質的に高虎が藤堂家の跡取りとなっている。

 地方の一小領主に過ぎなかった高虎はその後、次々と主君を変え、数奇な運命を辿りながら、次第に頭角を現していく。先の案内板に記載されていたように、実に7人の主君に仕えたという。

 今の世で言えば、転職を7回繰り返したということとほぼ同義であろうか。一般論で言えば、転職を繰り返す人たちは、大きく2種類に分類される。一つのところに留まることができずに、次々と職場を変えながら次第に没落していくタイプと、前職を踏み台にしながら、前職の経験を活かしてステップアップしていくタイプの2種類である。

 高虎の場合は、間違いなく後者のタイプであった。

 最初の主人は、浅井長政である。それまでの藤堂家は、土豪とは言うものの、度重なる没落が続き、ほとんど農民と変わらない程度にまで落ちぶれた存在であった。そこに、元亀元年(1570年)、姉川の戦いが勃発した。

 浅井側にとっては負け戦となったものの、この戦いにおいて高虎は武功を挙げ、長政から感状を受けている。

 また高虎はこの時、後の主君となる徳川家康との運命的な出逢いを果たしている。戦場において敵味方に相分かれて戦っていた時のことであるから、もちろん直接出逢って言葉を交わしたわけではない。実質的にこの戦いの勝敗を決めることになった家康の戦いぶりをつぶさに見て、敵ながら家康の卓越した戦術眼に尊敬の念を抱いたのだった。

 この時敵と味方に分れて戦った二人が、後に強い信頼関係の絆で結ばれるのだから、歴史というのは複雑で奥が深い。

 やがて天正元年(1573年)の小谷城をめぐる攻防戦で浅井氏が滅亡すると、高虎は浅井氏を裏切った山本山城主の阿閉(あつじ)貞(さだ)征(ゆき)のもとに仕え、続いて浅井氏の旧家臣であった磯野員(いそのかず)昌(まさ)に仕えた。

 この時期の高虎は、まさに綱渡りである。

 浅井氏は信長により滅ぼされ、阿閉氏も信長亡き後に秀吉により討伐され、磯野氏も信長の勘気に触れて高野山に放逐されている。けっして安泰な主君に仕えたわけではなく、一歩「転職」のタイミングを間違えれば一族の破滅に直結する。難しい判断を余儀なくされながらも、しかし高虎はしたたかに生き残っていった。

 その後は、織田信長の甥にあたる織田信澄に一時期仕えた後、羽柴秀長のもとに参じ、次第に豊臣政権の中心に接近していく。秀長は秀吉の弟である。歴史の表舞台にはあまり登場しないものの、実際は秀吉を陰でよく支え、豊臣政権樹立の一番の功労者として評価されている人物である。

高虎はこの秀長の下(もと)で能力を認められ、信頼に裏打ちされた主従関係を構築していった。そして賤が岳の戦いでは大いに戦功を挙げて、1万石の大名に取り立てられるに至っている。

 そして高虎最初の築城となる和歌山城の普請奉行を務めることになる。しかしこの頃はまだ、築城の名人としての高虎の才能が認められての築城ではない。高虎の才能が開花し、次々と城造りを命じられていくのは、徳川の世となってからのことである。

 しかしながら高虎は、この最初の経験であった和歌山城築城において、何物か重要なヒントを得たに違いない。同じ仕事を任されても、単にそれをやり遂げるだけの人間と、そこから得難い大事なものを見出して後の仕事に活かすことができる人間との違い。

 私はこのようなところに、世渡り上手としての高虎の非凡な一面が垣間見られるのではないかと考えている。

 天正19年(1591年)に主君であった秀長が亡くなると、高虎は養子の豊臣秀保に仕え、文禄の役にも出兵している。根っからの武闘派大名である。ところが高虎は、主君であった秀保が早くに亡くなったことに心を痛め、世を捨てる決心をして高野山に出家している。

一般に世渡り上手と言われている高虎だが、まったくの打算のみで主人の間を渡り歩いたわけではなく、主君への忠義に厚い一面も併せ持っていたことがわかる。そうでなければ新しい主人から信頼されるはずがない。

一度は高野山に出家した高虎であったが、秀吉から還俗を命じられて伊予国板島7万石の大名に取り立てられた。伊予国板島とは、今の宇和島である。高虎の才能を、関白秀吉も高く評価していたことが窺える。

 慶長の役にも水軍を率いて参戦した後、高虎は板島の丸串城に大規模な改修を加え宇和島城と改称している。地勢を活かして海水を巧みに引き入れた、海城の様相を呈する名城である。白亜の3層の天守は今も現存している。

この辺りから高虎の築城名人としての名声が高まっていったものと考える。

 まだ秀吉が存命中であったにもかかわらず、慶長3年(1598年)8月頃から高虎は、家康に急接近していく。高虎のこの行為に対しては、後世の人々の評価が分かれている。秀吉に対する裏切り行為なのか、時代の流れを読み先を見据えた行為だったのか、である。

 石田三成を中心とする官僚的な能力に長けた大名が豊臣政権のなかで次第に力を増していく勢力図のなかで、武闘派と呼ばれる大名たちの心が豊臣政権から離れていった事実が一つにはある。

 高虎は、姉川の戦い、賤が岳の戦い、文禄・慶長の役などを通じて一貫して武功により頭角を現してきた大名であった。戦下手で官僚的な大名の台頭に対して、秀吉への不満が募っていたであろうことは想像に難くない。

 その一方で高虎は、先を見通せる鋭い目で、豊臣政権の終焉を正確に予測していたのかもしれない。若いころに弱小な主君の間を渡り歩き、生き延びていく中で培ってきた主君を見る目が大いに役立ったのではないだろうか。

 そんな時に、かつて姉川の戦場で相まみえた家康のことが、高虎の心の中に大きくクローズアップされていったのかもしれない。

 本当の高虎の心理は誰にもわからないが、結果として高虎は、秀吉から家康へ最後のポイントを切り替えた。

 そして関ヶ原の戦いでも東軍の武将として戦勝に大いに貢献し、家康から伊予今治20万石への加増を受けている。

 外様大名でありながら、家康からの信頼は非常に厚かった。その一番の証拠が、江戸城築城の縄張りを高虎が任されたことである。

城の縄張りは、言わば軍事上の最高機密に属する事項である。樹立したばかりの江戸幕府を盤石なものとするために、江戸城築城は家康にとって最重要プロジェクトの一つだったに違いない。その要に当たる事業を高虎に任せたという事実に、高虎という人間への強い信頼と高虎の築城技術に対する絶対的な評価を窺うことができる。

仕える主人を7度も変えた高虎であったが、家康はこの「転職」を前の主君への裏切りとは見ていないで、むしろ高い能力を買われての転職であったと考えていたことがわかる。

高虎が遺したと伝えられる次の言葉には、高虎自身も自分の能力に強い自信を持っていたことが窺える。

  武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ

 一人の主君のみに仕えることの一面性を脱却し、複数の主君から信頼されること。高虎はむしろそのことに自身の価値を見出したのだろう。

 一人の主君に仕えるだけであれば、その主君の考え方や趣味嗜好をよく理解しそれに自分の行動を合わせることで、うまく主君を取り込んでいくことは比較的容易にできるかもしれない。しかし複数の主君から高く評価されるためには、いわゆる主君への迎合だけではとても誤魔化すことはできない。高虎は、どんな主君から見ても相応の評価を得られるだけの実力を持っていたことになる。

 築城の名人としては、熊本城を造った加藤清正も有名である。清正が熊本城に代表される深い反りのある石垣に特長のある城造りをしていたのに対して、高虎の城は高い石垣と濠との調和、および塔層式と呼ばれる天守の構築様式に特長があった。

 海水や湖水を巧みに取り入れて天然の濠として活用する術には目を瞠(みは)るものがある。従来の(入母屋造りの建物の上部に望楼を構築する)望楼式天守に代わり、1階から最上階まで正方形の階を次第に小さくしながら積み上げていく塔層式天守を考案したのは、高虎であると言われている。

 高虎が生涯に築城を手掛けた城の数は、実に17城にもおよぶと言う。代表的な城を列挙すれば、江戸城のほか、三重県の津城、上野城、愛媛県の今治城、宇和島城、大洲城、滋賀県の膳所城、兵庫県の篠山城、京都府の二条城、亀山城、伏見城、和歌山県の和歌山城、奈良県の郡山城など枚挙にいとまがない。

 いずれも、土地の地形を巧みに利用し、堅固な石垣と美しい天守を擁した当世一流の名城であることが共通点である。

 家康の死去に際して枕元に侍することを許されたというから、いかに高虎が家康から高い信頼を得ていたかということが窺える。その後も高虎は、二代将軍秀忠、三代将軍家光に仕え、寛永7年(1630年)10月5日、74歳の生涯を閉じた。

 晩年は目を患い、ほとんど失明の状態であったそうだが、戦乱の世を生き抜き天寿を全うしたという意味において、戦国大名としては稀有の幸福な人生であったと言うことができるのではないだろうか。

 高虎の出生地である滋賀県犬上郡甲良町在士(ざいじ)を訪れてみた。

 近江鉄道本線尼子駅の南東約1㎞、今では甲良町の町役場が建つ町の中心部である。高虎の出生地であることを示す痕跡は、残念ながらあまり多くは残されていない。町役場のやや北に、高虎公園と呼ばれる公園が僅かに存在するだけである。

藤堂高虎4 高虎の騎馬像

 優雅な池を抱く緑豊かな公園には、池の中央に浮かび立つようにして高虎の騎馬像が建立されていた。風もなくて、水面にもう一つの高虎像が線対称となって鮮やかに映しだされている。

 甲冑姿で馬に跨り、右手で前方を力強く指し示す高虎の銅像を見上げていると、戦上手と言われた高虎のイメージが沸々と眼前に湧き上がってくる。高虎は、身長191㎝の大男だったという。幾多の戦いにより指を失い、全身刀傷まみれであったと伝えられているから、文字通りに武闘派の勇敢な武将であったのだろう。

藤堂高虎3 高虎公ゆかりの残念石

道路に面した一角には、「高虎公ゆかりの残念石」と呼ばれるたいへん大きな石が置かれている。説明書きによるとこの石は、元和6年(1620年)に京都府賀茂町の大野山から切り出された石で、約11トンもあるのだそうだ。側面には、藤堂家の普請であることを示す記号(「┓」の字)と寸法(九尺二寸、三尺七寸、三尺九寸と記載)が刻まれている。家康の命により大坂城再建のために使用する目的で切り出したものの、なぜか使用されないまま木津川に取り残されていたものだそうだ。高虎の偉業を顕彰するために、地元の「藤堂高虎公顕彰会」と「在士村づくり委員会」がわざわざこの場所まで運んで来たのだ。

このほかに公園内には、藤堂家に所縁のあるものとして、藤堂家の家紋入り対灯篭と駒止め石と呼ばれる石碑のような石が設置されている。屋敷の遺構等は残されていないものの、甲良町の人たちがいかに高虎に親しみを持ち、高虎のことを誇りに思っているかが伝わってきて、とても気持ちのいい公園であると思った。

思えば、こんな静かな土地に生まれ、自分の才覚だけを頼りに幾人かの主人を渡り歩いた高虎は、随分数奇な人生を歩んだものだ。若い時に仕えた主君が次々と滅んでいく中で、結果的に勝ち組となった徳川家康に辿り着き、戦国武将としては稀に見る成功を収めた人生の出発点が、このけっして裕福とは言えない場所からであった。

どんなところからスタートしても、高い志と他人にはない絶対的な技術と主君を冷静に評価できる目とがあれば、相応の人生を歩むことができるということを、高虎は私たちに教えてくれている。

高虎公園は、周囲に拡がる田園風景のなかにポツンと存在しているような、美しくて長閑な公園だった。この公園の前から西方面にあたる八幡神社までの道を「高虎の道」と呼ぶのだそうだ。道の端には小川(尼子川と言う)が流れ、澄んだ水を素敵な速度で運んでいく。

八幡神社の境内にも、高虎を偲ぶものがあった。

鳥居の左脇に建立されている「藤堂高虎公出生地」の石碑がそれである。

藤堂高虎2 藤堂高虎公出生地の石碑

八幡神社は、応永2年(1395年)に藤堂家の始祖である藤堂三河守景盛が京都の石清水八幡宮を勧請したのがはじまりであると伝えられている。石清水八幡宮は武士の神として藤堂家が篤く信仰していた神であった。

この時に一族の繁栄を祈念して一緒に植えられたのが、一株の紫色の藤だった。その後数百年を経た藤の古木は、今でも鳥居の脇に設けられた藤棚などに見事な花を付け在士の人たちの目を楽しませてくれている。

神社の前からさらに西側へは、敷石で見事に整備された道が続き、古い趣のある民家が立ち並ぶ。静かな佇まいのなかにどこか気品が漂い、清々(すがすが)しささえ感じられる、在士はそんな街であった。

藤堂高虎静かな佇まいの在士

 機会があれば、伊賀上野や津にある高虎が築城した城にも行ってみたいと思った。出生地である甲良町には物証としての高虎の足跡は残されていなかったけれど、高虎が実際に造った城を訪れ、石垣や濠や天守などを眺めながら、改めて高虎の人生について考えてみるのも悪くないと思ったからだ。

 近江が生んだ築城の天才は、どのような気持ちで、それらの城を築いてきたのだろうかと思うと、実に興味深い。

 せっかく尼子(あまご)という名前の駅に来たのだから、最後に尼子氏について簡単に触れておくことにしたい。

 甲良町尼子(あまご)地区は、近江鉄道本線・尼子駅の周囲200ha、人口1,000人弱の小ぢんまりとした地域である。土地の3分の2を水田が占める農村地帯だ。この地に、佐々木源氏・京極氏の流れを汲(く)む佐々木高久(たかひさ)が居住したことから尼子の歴史が始まった。高久は、当地の地名にちなんで尼子姓を名乗るようになる。

 高久の祖父にあたる佐々木高氏(たかうじ)(道誉)は、足利尊氏を支えて室町幕府樹立に大いに貢献した知将であった。自由奔放で派手な性格から婆娑(ばさ)羅(ら)大名との異名を持ち、幕府内で強い影響力を保持していた有力大名だった。甲良町が生んだ三大偉人の一人なのだそうである。ちなみにあとの二人とは、藤堂高虎と、高虎と共に日光東照宮を造営した名工の甲良豊後守宗廣である。町の中心部にほど近い法養寺には、甲良豊後守宗廣記念館が建てられている。

 高久の次男持久が当主であった時代に、宗家である京極氏が守護を務める出雲の守護代として下向したことから、出雲における尼子氏の歴史が始まる。やがて出雲の国人たちを掌中に収め、持久の孫の経久の時代に守護の京極政経を追放して守護大名の座を確立させた。

 尼子氏は、5大山城の一つに数えられる月山富田城(現在の安来市)を拠点とし、出雲から備中、備前、美作、さらに播磨へと勢力拡大を続けていったが、安芸の国(今の広島県)の吉田を拠点に勢力を急拡大していた毛利元就との勢力争いに敗れ、経久から4世の後の義久の時代に第二次月山富田城の戦いにおいて降伏し、尼子氏は高久からわずか6代で滅亡した。

 尼子(現甲良町)を拠点として、二人の男が飛び出していった。一人は尼子氏(持久)であり、もう一人が藤堂高虎である。二人は、結果において大きく明暗が分かれてしまった。

尼子持久は、任国として下った出雲の地で勢力を拡大し、順調に一族の地歩を確立するかに思えたが、毛利元就という中国地方におけるスーパースターの登場に遭い、死闘の末、義久の代にあえなく滅亡となる。

藤堂高虎は、はじめは弱小領主に仕え、次々と主人が滅ぼされていく中で綱渡りの人生を歩んでいたが、やがて羽柴秀長、そして徳川家康という二人の知己の領主に才能を見出され、武勇と築城術とを買われて大大名へと出世していく。

両者の間にどんな違いがあったのか?状況が違うので単純な比較はできない。勝ち負けはあくまでも相対的なものであるから、周囲に強力な敵がいなければ成功するかもしれないし、目前に大きな障害があれば大いに苦戦を強いられることになる。

織田信長や豊臣秀吉の軍と比較して、上杉謙信や武田信玄の兵が弱かったのかと言うと、そういう問題ではない気がする。謙信と信玄は、都から遠いという共通のハンディに加えて、まずはライバルである両者の間で雌雄の決着をつけなければならないという状況に置かれていた。

5度にわたる川中島の戦いにおいて、両者の体力は徒(いたずら)に消耗していった。そして、いざ都を目指そうとした時には、二人はもう十分に歳を取り過ぎていた……。

成功を勝ち取るためには、周囲の状況、年齢、タイミング、いろいろな制約要素が存在し、それらの条件をクリア―した後に初めて、勝利は訪れるものである。

高虎が優れていて、尼子氏が劣っていたとは私は思わない。それぞれ、歴史の大きなうねりの中でもがき、苦しみ、そして戦っていった。その結果として、高虎は周囲の主君にも最後は恵まれて、能力を開花させることができた。

尼子氏は、武運に見放されて、出雲の地に散っていった。

そういうことなのだと思う。なにかわかったようなわからないような結論だが、私は一人うなずいて、尼子から彦根へ戻る近江鉄道のがらんとした列車に乗り込んだ。