5. 実宰院(悲劇の三姉妹・もう一つの伝説)

5. 実宰院(悲劇の三姉妹・もう一つの伝説)

実宰院1

 父の浅井長政が小谷城で自らの命を絶った時、お市の方とその娘たち(茶々、お初、お江)は、どのようにして城を抜け出したのか?肉親と今生の別れを告げて、住みなれた城を後に落ちて行かなければならなかった4人の気持ちはいかばかりであったことか。戦国の世の常とは言え、考えるだにつらい、残酷な仕打ちである。後ろ髪引かれる思いとは、まさにこの時の彼女たちの気持ちを表す言葉であろう。

 その後のお市の方と3人の姉妹たちの足取りを記録した資料は残されていない。

 一時伊勢国上野城(現三重県津市河芸町)の織田信(のぶ)包(かね)の許に遣わされた後、尾張国清州城に移ったというのが通説になっている(『総見記』、『浅井三代記』など)。一方で、兄である織田信長の居城であった岐阜城に直接戻されたことが記された資料もある(『以貴小伝』)。しかし、地元である湖北地方には、それらとはまったく異なったもう一つの伝説が伝わっている。

 私は、その湖北地方に伝わるというもう一つの伝説を求めて、実(じつ)宰院(さいいん)という小谷城の南東、今の長浜市平塚町にある小さなお寺を目指して訪ねていくことにした。

 その前に、時代を少し前に戻そう。

 お市の方は、天文16年(1547年)の生まれであると言われている。信長が天文3年(1534年)生まれだから、実は13歳も歳の離れた兄妹だったということになる。ちなみにお市の方と長政とは、長政が2歳の年上である。

誰もが信長の妹君であることを疑わないと思うが、異説がないわけではない。前出の『以貴小伝』には、信長の従兄(いと)妹(こ)であったものを妹と称して浅井氏の許に送ったとの記述がある。しかし他にこの記事を証明する事実はない。

やっぱりお市の方は、信長の妹でないとしっくりこない。

あの信長をして、「もしもお市が男だったら立派な武将になっていただろうに」と言わしめたとも伝えられている才色兼備の女性であった。肖像画に残されているお市の方は、ぞっとするほど無表情な眼差しでうつむき加減にじっと前方を見つめていて、玲瓏な美しさが匂い立つようである。

信長の異母妹として育ったお市の方は、信長の意思により浅井長政の許に嫁ぐことになった。輿入れの時期には諸説があって、永禄10年(1567年)~永禄11年(1568年)という説と、永禄4年(1561年)という説がある。

前者であれば、お市の方は長政の許に嫁いで来た時に20歳または21歳であったことになり、後者であれば、15歳ということになる。この5~6年の間に美濃国の斎藤氏が信長によって滅ぼされている。信長と長政を巡る周囲の情勢も、微妙に変化が生じてくる。

永禄4年に輿入れがあったとすると、美濃の斎藤氏を尾張と近江から挟撃するための同盟であり、永禄10年(1567年)または永禄11年(1568年)の輿入れだとすればすでに斎藤氏は滅亡しているから、南近江の六角氏を抑えるための同盟ということになる。

こんな基本的なことでさえ真相がわからないところに、日本史探求の難しさとおもしろさとがある。明確な証拠がない以上は、あとは想像力と論理の力とで事実を補わなければならない。それは苦しい作業であるとともに私にとっては至上の楽しみをもたらしてくれる作業でもある。

美濃の斎藤氏は意外と強くて、信長にとっては非常に厄介な相手であり、かつ、斎藤氏が居城としている稲葉山城は難攻不落の山城であった。美濃を我が手中に収めるために、美濃の国と国境を接し交通の要衝にあった北近江の浅井氏と手を結ぶことが、信長にとっては最も望まれたことだったのではないだろうか。

お市の方が初婚であったこととも考え合わせると、20歳や21歳での輿入れというのは当時としてはあまりにも遅い。

というような理屈よりも、心情的に早く長政とお市の方を夫婦にしてあげたいという、私の二人に対する思い入れから、この稿では永禄4年の輿入れ説を採ることにしたい。

長政とお市の方が輿入れ後にどのような生活をおくっていたかについても、記録された資料はない。ここも、想像力で補うしかない部分である。二人の住まいは、小谷城の南西に位置する清水(きよみず)谷(だに)の一番奥、「御屋敷」と呼ばれた場所であったことは想像に難くない。

小谷城は山城である。とは言え、戦が行われていない平時においては、領主も家臣も山上に居住していたわけではない。⊃字型の稜線に囲まれた清水谷が、浅井氏や家臣団たちの通常時の住処(すみか)であった。

この御屋敷で、長政とお市の方は仲睦まじく暮らしていたことだろう。政略結婚であったにも拘わらず、包容力のある長政と美しいお市の方とはお似合いの夫婦だった。二人の間には数々の会話が交わされ、様々な想い出が作られていったことだろう。

長女である茶々が生まれた年についても諸説がある。永禄10年(1567年)とする説と永禄12年(1569年)とする説である。どうしてこんな基本的なこともわからないのかと不思議なくらいだが、今と違ってメディアが発展していなかった当時のことだから、確かな情報が記録として残されていないことを事実として受け入れるしかない。

したがって、長女の茶々の誕生年が不確定なことによって、次女のお初の生誕年も確定しない。永禄11年(1568年)説と元亀元年(1570年)説とがある。

三女のお江だけは、天正元年(1573年)生まれで確定している。この年は、信長による小谷城攻めが行われた年である。長政はもちろんのこと、身重のお市の方も山上の大広間にある屋敷に詰めていたと考えられることから、お江のみは小谷城中の生まれということになる。

ちなみに、長政の2人の男子である万福丸と万菊丸については、一般には長政とお市の方の間の子と思われているが、長政のことを研究する学者たちの間では側室の子というのが通説のようである。

たいへん残念なことに、2人の幸せな結婚生活は、しかしながら長くは続かなかった。こともあろうか実の兄と愛する夫とが戦うことになってしまったのだ。

元亀元年(1570年)4月、信長が浅井氏との約束を破り越前の朝倉氏を攻めた時、長政はつらい決断をしなければならなかった。お市の方と血のつながった信長を取るか、祖父亮政以来の盟友関係にあった朝倉氏を取るか。迷った末に長政は朝倉氏を選択したことは先に書いた。

そんな決断をしていようとは夢想だにしないで越前の国深くにまで攻め込んでいた信長が長政の裏切りを知ったのは、お市の方から届けられた小豆袋によってであったとの伝承が残っている。

片方の端を縛り、もう一方の端を開けたままの状態で届けられた小豆袋を見て信長は、長政の裏切りをはっきりと悟ったことになっている。

片方の端を固く縛られた袋の中に入っている小豆は信長自身である。このまま進んで行こうとすれば、もう片方の端を縛られて袋のネズミとなってしまう。縛りきられないうちに兄君よ、早くお逃げになられよ。

お市の方は、そんな難しい謎解きのような行為によって兄の危機を救ったとされている。

事は急を要している。そもそも、本当に兄に危機を知らせたいのであれば、書状や使者により明確に知らせるべきであるし、いくら頭脳明晰な信長であっても、送られてきた小豆袋を見ただけで即座に長政の裏切りを悟ることは難しいように私には思われる。

私が信長だったら、こんな時にお市は何を長閑な遊戯をしているのだろうと小豆袋を捨て置いて、まんまと朝倉・浅井軍の挟み撃ちに遭ってあえない最期を遂げてしまったに違いない。

お市の方が小豆袋を送ったという伝承は出来過ぎた後の世の創作であるように思われるが、事実として信長は間一髪のところで長政の裏切りを悟り、命からがら逃げ帰ることに成功する。

 そして長政がこの決断を下した瞬間から、浅井家は滅亡への道をひた走ることになる。お市の方と3人の姫たち(三女のお江はこの時にはまだ生まれていなかったが)の悲劇も、この時から始まるのである。

 約3ヶ月後に訪れた姉川の合戦では、敗戦を喫したものの小谷城までは攻められずに済んだ。しかしその3年後の天正元年(1573年)8月末、信長は越前の朝倉氏を滅亡に追い込んだ後に小谷城に総攻撃を仕掛け、あえなく浅井久政、長政父子は自刃して3代に亘って北近江の地を支配してきた浅井氏はここに滅んだ。

 長政は小谷城中にある赤尾美作の屋敷で非業の死を遂げたが、お市の方は3人の姫とともに小谷城を脱出した。6歳、5歳(または4歳、3歳)の幼な子と生まれて間もない赤子を抱えての城落ちは、さぞかし難儀であったことと想像される。

城を抜け出ることには成功したものの、命を保証されているわけではない。絶望的な状況の中で、お市の方は長政の姉を頼って城から4㎞ほどの距離にある実(じつ)宰院(さいいん)を目指して落ちて行ったというのが、地元に伝わる伝説である。

結果的にお市の方と3人の姫たちは生き延びることになる。長政の盟友として信長と戦い小谷城落城の直前に滅ぼされた朝倉義景の妻子たちが一人残らず殺戮されたのとは、扱いが大きく異なった。信長の妹君であるのだから、当然の措置と言えば言えなくもないのだが……。

しかし、救出されたお市の方の気持ちはいかばかりであったことか?愛する夫である長政を失った心の動揺はまだ収まっていないけれど、遺された姫たちだけは命を賭しても守っていかなければならない。浅井家の血を後の世につないでいかなければならない。お市の方の胸中には自分のことなど微塵もなくて、3人の姫のこと、浅井の血を絶やしてはいけないという使命感、それだけしかなかったのではないかと推察される。

 そこで私が訪れたのが、実宰院である。

先にも少し触れたように、一般的にはお市の方と3人の姫たちは織田方に救出されて、清州あるいは岐阜に移り住んだとされている。

 ところが地元である北近江地方には、もう一つの別の話が伝えられている。

 実宰院は、田園の中に点在する民家の間に、ひっそりと佇んでいた。切り妻屋根の小ぢんまりとした山門の脇には、「浅井三代開基昌庵見久庵主顕彰碑」と刻まれた大きな石碑が建てられている。

実宰院2 浅井三代開基昌庵見久庵主顕彰碑

 傍らの案内板によると、元々は鎌倉時代以前に創建された実才庵という天台宗の寺であったそうだ。その後、小谷山(しょうこくさん)実宰院と改称され宗派も曹洞宗に改められたが、いつしか無住の寺となっていたようである。

 長政の姉にあたる阿久姫が仏道修行を志し出家して昌安見久尼と称した際に、当地の庄屋を務めていた平野左近助をして庵を再興させたと伝えられている。天文11年3月5日のことであった。

 寺伝によると御本尊は宇多天皇のご持仏であったという観世音菩薩であり、寺に伝わる尼の像は淀君が寄進した見久尼の像であると言われている。

落城に際して長政は、姉である見久尼に三姉妹の養育を依頼したと伝えられている。実宰院にいる見久尼を頼って、茶々、お初、お江の三姉妹はお市の方とともに城を脱出した。そしてこの庵に匿われた三姉妹を、尼自らが養育したと伝えられている。

 質素な門をくぐると、すぐ正面に木造の本堂が見える。当時のものとは思えないが、落ち着いた風格のある本堂である。この本堂の中に、本尊である観世音菩薩像と淀君が寄進したとされる見久尼の像が安置されているはずだ。

 残念ながら、本堂の外のガラス窓から中を覗いてみたものの、御本尊も見久尼像もよくはわからなかった。

実宰院3 静かな佇まいの本堂

 今は訪れる人とてもなく、ただ静かな空間ががらんと拡がっている。こんなところに三姉妹が匿われていたかもしれないと思うと、不思議な気持ちがする。

 本当にここに三姉妹はいたのだろうか?

 一つの根拠となるのが、淀君が寄進したと伝えられている見久尼の像である。淀君と何の縁もなければ、どこにでもあるような地方のこんな庵に淀君が像を寄進することなどあり得ないのではないだろうか。

 もう一つの根拠と考えられるのが、長束正家、増田長盛、浅野長政、前田玄以という豊臣政権の中枢を担う四奉行が連書した慶長2年(1597年)5月1日付の連書状の存在である。

 お初の嫁ぎ先である京極高次に宛てられたこの連書状は、実宰庵(当時は院号を認められておらず、庵であった)の跡目について、望み次第とするという内容のものであり、しかもそのことは秀吉の許可を得ていることが書かれているという。

 ここまでくると、この小さな庵が豊臣家にとってただならぬ関係にあったものであることが素直に頷けると思う。

 茶々やお初と深い関わりを持つ一地方の不思議な庵。私は地元に伝わっているこの伝説を信じてみたい気持になった。そういう思いで改めて実宰院の境内に立って周囲を見回してみると、小さな門の扉に彫られた二本の閉じられた扇の彫刻も本堂の左に建てられた入母屋造り二階建ての格子扉が美しい母屋も、神々しく見えてくるから不思議だ。

 静かな休日の昼下がり。私の想いは、数奇な運命に翻弄された一人の美しい女性と3人の姫たちのことに釘付けになった。

 この庵に匿われて窮地をしのいだ後、お市の方は柴田勝家に嫁ぎ、そして北の庄城であえない最期を遂げている。

3人の姫のその後の人生も、三人三様で波乱に満ちている。

長女の茶々は、秀吉の側室となり淀君と呼ばれた。やがて秀頼を生んだが大坂の陣にて徳川家康に敗れ、豊臣家と最期を共にした。

次女のお初は、室町時代から続く名門大名である京極氏(高次)に嫁ぎ、高次の死後は出家して常高院と称した。豊臣家と徳川家の間に立って両家の関係改善に尽力したと伝えられる。

そして三女のお江(ごう)は、徳川家の2代将軍秀忠の正室となり3代将軍家光を生んだ。お江が生んだ和子は、東福門院として後水の尾天皇の正室となり、明正天皇を生んでいる。

茶々とお初の血は途絶えてしまったけれど、お江を経由した長政とお市の方の血筋は、今にも面々とつながっているという。物理的遺産である城は滅んでしまったものの、二人のDNAは今も生きているのだ。

NHKは、2011年の大河ドラマを、「江 ~姫たちの戦国~」とすることを決めた。第一回作品「花の生涯」から数えて50作目にあたる記念すべき作品だ。彦根(「花の生涯」)から始まった大河ドラマの流れが、50年の歳月を経て再び近江の国に還ってきたと思うと、感慨もひとしおである。

 このドラマの主人公はお江である。戦国時代を生きた浅井三姉妹の末妹お江の波乱に富んだ生涯を通じて、新たな視点からの人間味溢れるドラマが描かれることを期待している。小谷城や姉川などお馴染みの土地が映し出されるだろうことも楽しみである。

三姉妹にまつわる地元に残された一つの伝説を追って、人里離れた小さな寺院を訪れた。真偽のほどはともかくとして、お市の方も三姉妹も、こうして地元の人々の心の中にしっかりと息づいて生きていることが、私にとっては何よりもうれしく感じられた。