13. 関ヶ原(天下の行く方を決した古戦場の跡)

13. 関ヶ原(天下の行く方を決した古戦場の跡)

 ここでまたもや湖北地方から脱線することをお許しいただきたい。

 観音寺城址や安土城祉は湖北地方ではないもののまだ近江の国の所在であったが、今回は隣の美濃の国である。脱線するのにも程があるというものだが、距離的には米原からほんの十数キロしか離れていない。石田三成の生涯を想う時、関ヶ原の戦いを抜きにしてはどうしても語ることができなかったのである。

 一介の百姓からスタートし、持ち前の人懐っこさと旺盛なアイデアとを以て一代にして天下人の地位を築いた豊臣秀吉が伏見城で亡くなった。慶長3年(1598年)8月のことであった。秀吉には、まだ幼い秀頼が遺されているだけである。

 秀吉は、確固たる政権の基盤を確立することができないままに、世を去ってしまった。一代で築き上げたその道程があまりにも急すぎたため、また不幸にして跡取りに恵まれなかったこともあり、秀吉という求心力を失った豊臣政権は、濁流に浮き惑う小舟のような体を様してしまっていた。

 秀吉亡き後の天下はどうなるのか?

 日本全土が固唾を飲んで時代の行方に注目した。間もなく日本は2つの大きな勢力に色分けされていくことになる。徳川家康を総大将に抱く東軍と、石田三成が率いる西軍とである。

 家康は、秀吉亡き後の最大勢力であることを存分に活用して、徳川を中心とする新たな世界を構築することを画策した。三成らによる官僚主導の政治を快く思わない武闘派の大名たちを巧みに自陣営に取り込み、強力な連合軍を組成していた。

 家康が目指した世界とは、徳川氏を中心とした諸大名との連合による緩やかな中央集権国家であった。諸大名に所領の保有を認める代わりに、徳川氏を彼らの頭領(とうりょう)として認めさせること。この微妙な力関係の最上部に徳川氏を据えることにより、家康は徳川の世界を築こうとしていた。

 前章で述べたごとく、三成は村の侍と武器とを農村から追放して武士と農民とを分離し、豊臣政権による強力な中央集権の国家を建設することを目指していた。戦国時代から脱却して、新しい武士の国家を築き上げる。数のうえでは家康に分があったけれど、三成は理想を現実のものとするために、敢えて不利とわかっていた戦いに挑んだのだった。

 両陣営は、大勢を見極めようと様子見している大名に檄文を飛ばして味方に引き込む運動を繰り返すとともに、相手陣営を挑発したり牽制したりする行動を陰に陽に行うなどして、水面下でさかんに駆け引きを行った。

 関ヶ原の戦いの直接の呼び水となったのは、会津の上杉景勝だった。

秀吉の没後、所領の会津に戻った景勝は、居城の改修を行うなどして不穏な動きを見せていた。これを危険視した家康が上洛を命じるが、景勝はこれに従わない。家康にとっては、上杉を討伐する格好の大義名分を得たことになる。

慶長5年(1600年)6月16日、家康は自ら大軍を率いて会津に向かった。名目は上杉景勝を討伐するためであったが、同時に家康は、石田三成がその間に挙兵するであろうことを予想し、そのための時間と場所を敢えて与えたのであった。

家康の見通しは的中した。家康の出陣を知ると、三成は諸将を味方に引き入れるための活動を激化させた。

家康軍に参加して東下しようとした大谷吉継に家康打倒の本心を告げ、味方に引き入れている。三成から話を打ち明けられた吉継は、最初非常に驚き、そして悩んだ。勝ち目のない戦いに加担することは、そのまま、死を意味する。しかし吉継は、三成との友情を選択した。

吉継は、関ヶ原の戦いにおいて最も勇敢に戦い、家康軍を大いに悩ませる働きをした後、壮烈な戦死を遂げている。友情のために死を選ぶ。こんな男気のある武将が我が国に存在したことを、私は誇りに思っている。

大坂の宇喜多秀家も、動いた。生前の秀吉から厚い寵愛を受けていた貴公子は、その恩顧に報いるために立ちあがった。

そして三成らは、中国地方の雄である毛利輝元を総大将に仰ぐことを決め、輝元に上京を促した。この呼びかけに応じて輝元が大坂城に入ったのが、7月17日であった。実質的な西軍の中心は三成であったものの、家康と対等に渡り合って戦うためには、それなりの「頭」が必要であり、輝元はその「頭」に相応しい存在だったのである。

ここに、西軍の陣容がほぼ出揃った。

西軍は、毛利輝元を総大将として、石田三成、大谷吉継、宇喜多秀家の他、佐竹義宣、島津義久、小早川秀秋、小西行長、増田長盛、長宗我部盛親などが名を連ねた。これに、会津の上杉景勝が加わり、家康の東軍を挟み撃ちにする戦略であった。

挙兵した三成軍は手始めとして、会津征伐のために留守となっている東軍の武将の妻子を人質に取る作戦に出た。細川忠興夫人の細川ガラシャがこれを拒否し殉教の道を選んだ悲話は、後世に語り継がれている。

続いて、鳥居元忠が守る伏見城に猛攻を仕掛け、これを落としている(8月1日)。守る元忠も、元忠に伏見城の守備を託した家康も、この日が来ることを予測していた。わかっていながら依頼した家康もつらかっただろうし、これを受けた元忠も、大谷吉継に勝るとも劣らない男気の持ち主であった。

戦(いくさ)という不毛の愚行は、こうして慈しむべきもののふの心を持った武将たちを、無碍にこの世から消し去ってしまった。返す返すも口惜しいことであったと思う。

 これら三成挙兵の情報が会津征伐のため江戸城に滞在していた家康の許に届けられたのは、7月19日のことだった。家康は遠い江戸の地でこの情報に接し、してやったりとほくそ笑んだに違いない。

 しかし家康は喜び勇んで即座に引き返すことをしない。

 家康の武将としての大きさは、東軍の大将たちの心をさらに確実に掴み取るために、もう一芝居を打てるところにあったと私は思っている。家康は何事もなかったかのように江戸を出発して軍を進め、7月24日に下野国の小山(おやま)に達する。ここで有名な小山評定が行われることになった。

 小山評定とは、会津討伐のために従軍した諸大将を一堂に集めて、三成が挙兵し伏見城が血祭りに挙げられようとしていることを知らしめ、各自の態度を問うたものである。豊臣恩顧の大名たちがどのような反応を示すかが、家康にとっては三成との戦いを勝利するための最大の関心事であった。

 彼らの忠誠心を引き出すことができれば、東軍は一段と結束力を強め、一致団結して西軍に当たることができる。しかしここで彼らに動揺が見られるようなことになれば、東軍の結束力は弱まり自ら瓦解していく。

 家康は、勝利を確実なものとするために、一つの大きな賭けをしたのだった。

 結果は、家康の思い描いた通りになった。武闘派の筆頭格である福島正則が家康への忠誠の意を示すと、他の諸将も正則に倣って相次いで忠誠の意を表明した。ほぼ全員の団結を確認できた家康は、会津の上杉征伐を中止して三成を討伐するために7月26日に陣を払った。

 ここに、関ヶ原の戦いへの道筋が、完全に定まったのである。

 天下分け目の関ヶ原、と言われている。

 白黒決着をつける大事な決戦のことを喩える場合に、必ずと言っていいほど使われる言葉だ。日本史上における最も有名な戦いと言ってもいい。

 今でも関ヶ原は交通の要所であり、難所である。

東国方面から都を目指す旅人は、関ヶ原を通り近江の国を経由して都に辿り着く。重要な土地であるから、関所が置かれた。不破の関である。

 現在の東海道新幹線も、関ヶ原をルートとしている。冬場になるとこの地域に近付くと急に空が暗くなり、一面の雪景色になる。新幹線には極めて不都合な気候であるにも拘わらず、この地域を避けてルーティングをすることができなかった。それだけ、極めて重要な場所であることの証拠と言えるだろう。

 その関ヶ原に東軍と西軍が対峙し刃を交えたのは、慶長5年(1600年)9月15日のことだった。

 関ヶ原の西側の丘陵地に陣を取り、鶴翼の陣で臨んだのは、石田三成であった。鶴翼の陣とは、鶴が翼を拡げたような形でV字型に陣形を整え、突撃してくる敵を翼に譬えられる左右の兵で挟み込む陣形である。

 最も奥まった場所に位置する笹尾山に陣取った三成は、関ヶ原の全体を見渡せる絶好のポジションから全軍を指揮した。

 対する家康軍は関ヶ原の平原の中心部に陣を取り、魚鱗の陣を以て三成軍に対抗した。魚鱗の陣とは、△の形に整えた陣形で、鋭く敵の急所を突き、後から後から精鋭の兵士を繰り出していく戦法である。

 丘陵地に着陣し、上から全体を見渡せる場所で大きく翼を拡げる陣形をとっていた三成軍に対して、平地に位置し、三成軍の翼に囲まれ懐のなかに入り込む形の家康軍の主力隊は、明らかに不利に見える。

 事実、明治になってから両軍の陣形を見たドイツ軍のある少佐は、勝利したのは三成軍だっただろうと言ったという話は有名だ。そういう意味では、三成にも十分に勝機はあったのである。

決戦の朝は、静かに明けていった。

周囲を支配するものは、ただ静寂のみ。時折どこかで聞こえる馬の嘶きが、普通の朝でないことを気づかせてくれるが、それ以外には何もない、恐ろしいほど無気味な静かさのなかで、一日が始まろうとしていた。

静かに明けゆく朝であったが、誰もが、これから始まる一日の重さを、心の底にずっしりと感じていた。

たしかに目前に敵が位置しているのだろうが、深い霧と静寂とが自分たちの視界を遮断させていた。

逸る気持ちと僅かに覗かせる恐怖心とで、将兵たちは得も言われぬ時間を過ごしたことであろう。

かれこれもう2時間も彼らは待っている。霧の中で見えない敵と対峙して、ただひたすらに戦いのきっかけを待っていたのであった。

西方の総大将である治部少輔石田三成は、先程からじっと瞑目して、霧の中の見えない敵の姿を、心の目で捉えようとしていた。目の前に、鶴が大きく翼を拡げたように布陣した我が軍を目指して、▽の形をなした家康軍が果敢に突撃してくる。そして翼のなかにすっぽりと包含されていった。やがて彼らが消えていく様が手に取るように見えてきた。

逃げ惑う家康軍。追う三成軍。谷のそこここで勝利を宣する鬨の声が挙がっている。三成は勝利を確信した。そしてゆっくりと、静かに、目を開けた。

相変わらず目の前には深い霧がたちこめ、いつ晴れるとも見当がつかなかった。しかし間違いなくその時は、目前に迫っていた。

狭溢(きょういつ)な関ヶ原の野原からやがて霧が薄れかけ、朧気(おぼろげ)ながらも次第に前方が見え始めてきた午前8時、にわかに戦端が開かれた。

逸る気持ちを抑え切れずに開戦のきっかけを作ったのは、井伊直政だった。

直政は、物見と称して先鋒を務めることになっていた福島正則隊の脇をするするとすり抜けていった。そしてそのままに、正面に対峙していた宇喜多秀家隊目掛けて突撃していった。

約束が違うではないか!先陣の名誉に浴するはずだった福島正則は烈火のごとく激怒して、直政に遅れじとばかりに宇喜多勢に殺到していった。

ここに、世に名高い関ヶ原の戦いの戦陣が切って落とされたのであった。

まだ霧は十分には晴れやらない。幻想的な谷あいの光景の中で、天下の帰趨を決する戦いが、始まったのである。

 序盤は、三成が思い描いたに近い戦いとなった。

 井伊、福島隊に続けと、徳川方の諸将が怒涛の勢いで各々の正面に対峙する西軍の部隊へとなだれ込んで行く。三成方の諸将が憤怒の形相でこれを迎え撃つ。両軍相混じり、入り乱れての乱戦が繰り展げられた。

 むしろ攻勢だったのは、地形的に有利なポジションを得ていた三成軍の方だった。あれだけ辺りを覆っていた深い霧はいつの間にかどこかへと消え去り、笹尾山の三成の陣地からは、敵を押し返しつつじりじりと前進を続ける味方の兵士たちの姿がくっきりと見届けられた。

 今だ!三成は不敵な笑みを浮かべながら、叫んだ。

 次第に相手を圧倒しつつあるこのタイミングで、翼の右翼にあたる松尾山の小早川秀秋の1万5千の兵が一気に山を駆け降りて徳川方の兵士たちを包み込めば、まさに開戦前に深い霧の中で瞑目した絵姿どおりとなる。

 さしもの家康といえども、なす術はあるまい。

 魚鱗の陣の背後、桃配山に陣取る家康は、じりじりする思いで戦況を見つめていた。次第に霧が晴れゆくにしたがって、家康軍の不利な状況が明らかになりつつある。

このままでは危ない。家康の背筋にぞっとする冷たいものが走った。えも言われぬ恐怖心が顔を出そうとするのを必死の思いで振り払った。

小早川秀秋殿は、いったい何をしていなさるのか?

家康の胸中には、確固たる勝算があった。それは、これまでの調略により、家康軍への寝返りを約束していた西軍の武将たちの存在である。そろそろ、我らのために動き出してくれてもよいものを。

間違いのない約束だとは思っているものの、ここは何が起こったとしても不思議ということのない戦場である。このまま彼らが動かなかったら……。

家康は、頭をもたげようとする不安を打ち消すのに懸命だった。そうこうしているうちにも、我が軍は押され続けている。こうなったら、一かばちかの策に打って出るしかあるまい。

家康は配下の者に命じて、松尾山に陣する小早川秀秋に向かって威嚇のための砲撃を敢行せしめた。秀秋殿がこれを家康からの攻撃と受取って我が軍に攻撃を仕掛けてきたら、家康軍は総崩れとなること必定である。

家康は今や、秀秋と心中するほどの覚悟を決めていた。

 あとひと踏ん張りじゃ。笹尾山の石田三成は、思い描いた通りの戦況に満足気な表情を湛えていた。これで松尾山の小早川秀秋殿が山を駆け降りてきてくだされば、我が軍の勝利は確定的になる。それにしても秀秋殿は、何をしていなさるのであろうか?

 一抹の不安がなかったわけではない。秀秋が寝返るのではないかとの噂が囁かれたことを三成も知っていた。しかし三成は、好転している戦線の状況に気をよくしていて、不穏な状況を見過ごしてしまっていた。そこへ、家康のいる桃配山から大きな砲声が轟いた。

 そして、関ヶ原の戦いの戦局は、家康の陣から放たれた一発の砲声を境として、大転換を遂げたのであった。

 三成が心待ちにしていた小早川秀秋が、ついに動いた。

 しかし秀秋が松尾山から駆け降りた先は、徳川軍ではなく、三成の盟友である大谷吉継の軍であった。

 小早川秀秋が寝返ったことは、大きな衝撃の電波となって瞬く間に関ヶ原の原野を駆け抜けて行った。それまで劣勢に立たされていた徳川勢は、俄然息を吹き返した。あと一息で均衡を打破できるところまで攻め立てていた三成軍は、浮足立った。

 大谷吉継は、それでもよく戦った。吉継は精鋭部隊を秀秋に差し向けて、裏切り者を撃退しようとした。その奮闘ぶりは、関ヶ原の戦いにおける最も勇猛な戦いの一つであった。

 ところが、小早川秀秋が立ち往生しているところへ、追い打ちをかけるように脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保らまでが寝返って吉継軍への攻撃を始めたのだった。

 巨大な鶴の翼のうちの右翼が突然にして千切られてしまったようなものだった。片翼を失った鶴は、大空を飛ぶこと能わず、ついに制御不能となり、失速して墜落していった。

小早川秀秋は、日本史上で最も有名な裏切り者として、歴史に名を留めることになってしまった。

前にも書いたとおり、人を裏切った人間の末路は、かなしい。自分では最良の選択をしたつもりでいても、他人の見る目はまた別物だからだ。裏切り者との烙印を押されて、敬遠される。一度他人を裏切ったことのある人間は、また同じように人を裏切るかもしれない。裏切られる相手が今度は自分だと思ったら、誰もその人を信頼し、その人に命を預けることなどしなくなる。

秀秋は関ヶ原の後、岡山に封ぜられたが僅か2年にして死ぬ。そのままお家は断絶となり、藩士は浪人となって路頭に迷ったと伝えられている。関ヶ原の戦いにおける勝利の最大の功労者である秀秋に対して家康が取ったこの仕打ちに、秀秋への評価が直接的に観て取れる。

秀秋の裏切りのインパクトがあまりにも強すぎたため、浪人となった家臣たちに対しても、誰も彼らを雇おうとする者はいなかったらしい。主君の決断が後々まで家臣を苦しめた典型的な事例である。

話が外れた。あの戦いから400有余年の歳月が流れた今、私はその関ヶ原の地に立っている。あれだけ名高い決戦があった場所であるにもかかわらず、実は私は、初めてこの地を訪れたのであった。

私は今、堪らなくこみ上げてくる興奮を、ぐっと心のなかで抑えながら、じっとこの大地に立っている。このけっして広くはない山あいの平地に、当時の日本を代表する武将たちのほとんどが集結して、日本の行方を決しようとした。知力と武力とを駆使しての総力戦が、この場所で行われた。当時のエネルギーのすべてが、ピンポイントでここに集められたのである。凄まじいエネルギーの磁場が生じていたことを思うと、私は興奮を禁じ得ない。

 石田三成が陣を置いた笹尾山に登ってみた。

笹尾山は、関ヶ原の北西に位置する丘陵のような小山であるが、関ヶ原にいればどこからでもすぐにそれと知れる、絶好の位置にある。付近には、「大一大吉大万」と書かれた旗指物がきらめき、二重の矢来や馬防柵が復元されて臨場感を煽っている。

笹尾山・三成陣地 笹尾山 三成陣地

山上には物見台が設置され、「史蹟關ヶ原古戰場 石田三成陣地」、「笹尾山 石田三成陣所古趾」と彫られた古めかしい石碑が建てられている。観光客が後からあとからひっきりなしに登ってくる。関ヶ原の古戦場史跡の中でも三成が陣地としたここ笹尾山は、一番の人気スポットになっている。

笹尾山・三成陣地跡の石碑 笹尾山 三成陣地の石碑

物見台からの眺望は、実にすばらしかった。文字どおりに関ヶ原を一望の下に望むことができる。

笹尾山から関ヶ原中央部を望む 笹尾山から関ヶ原中央部を臨む

向かって右側には、ほぼ一列に西軍の諸将が陣を並べていたのだろう。手前の低い丘辺(あた)りには島津義弘と小西行長らが、その向こう側の小高い丸い山の手前側に宇喜多秀家、山の上には大谷吉継が陣を構えていたものと思われる。以上が鶴の左翼の陣形である。

そして遠く離れたなだらかな山容を見せる松尾山には、右翼の要である小早川秀秋が陣を据えていた。

笹尾山から松尾山方面を望む 笹尾山から松尾山方面を臨む

朝霧が次第に晴れていくに従い、味方の旗印が整然とはためくなかで、西軍の水をも漏らさぬ完璧な陣構えが三成には手に取るように見て取れたに違いない。

一方目を関ヶ原の中央に転じてみると、西軍の左翼に東軍の諸将が挑みかかっている様子を見ることができた。

手前の三成に近い方から、黒田長政、細川忠興、田中吉政らの諸隊が続き、さらにその先には藤堂高虎、福島正則らが宇喜多秀家と交戦している様が窺えた。

家康は、当初はかなり遠方の桃配山に陣を置き、家康らしい慎重な態度で戦いの趨勢を見極めようとしていた。

笹尾山の三成の陣からは、これら関ヶ原で行われている戦闘のすべてが、手に取るように見渡せたにちがいない。三成が指揮を執ったその場所に実際に自分の身を置いてみると、そのことがよくわかる。

笹尾山のすぐ左前のところ、一面の田園の中にほんの数本だが緑の木々が生えた一角が見える。一本の白い旗指物が風に吹かれて揺れている。「決戦地」と呼ばれているこの場所こそが、関ヶ原の戦いにおける最大の激戦が繰り展げられた場所だという。三成の陣地まで、あとほんの僅かという位置である。

さらにそのもう少し先、木がこんもりと茂っている辺りが、「史蹟關ヶ原古戰場 徳川家康最後陣地」である。遠く桃配山にいた家康が戦いの進展とともに前進し、最後に陣を置いた場所と言われている。家康はこの場所で、戦勝の首実験を行った。

最終的には、三成と家康の距離が思っていた以上に近かったことがよくわかる。こんな目と鼻の先で両者が最後の鎬を削っていたということに、私は驚きを隠せなかった。

こんなはずではなかった。

ひとりごちた三成の目は虚ろだった。焦点の定まらない視線を前方に投げかけたまま、まばたきひとつしなかった。

三成には今の状態が正しく理解できなかった。正確に言うと、今の状態を受け入れることを、脳と体が拒絶していたということかもしれない。

まだ下界のそこここで戦闘が繰り展げられており、人々の叫び声や鉄砲のはじける音や馬の嘶きなどが聞こえてきたが、三成の耳には入らない。

音も視野もない不思議な三次元の空間のなかを、三成の意識は浮遊しながらさ迷っていた。

新しい国が、白い靄の向こう側に朧気に見えた。

これだ!

三成の目に一瞬だけ、新しい国家の像がくっきりと見えたような気がした。しかしその像は、どんどんと手の届かない向こう側へと遠のいていって、再び白い靄の支配する世界となった。

次の瞬間に、白い靄の世界が暗転して、今度は闇が支配する世界になった。真っ暗で何も見ることができない。三成は手を伸ばして何かを掴もうともがいた。

どこかから、声が聞こえてくる。誰かが何かを叫んでいる。やがてその声は、定まらなかった焦点が結ばれるように、一つの言葉となって三成の鼓膜を捉えた。

殿。敵が間近まで迫っております。もはや猶予の時はございません。お腹を召されるなら、今が潮時かと。我々が命に代えても時を稼ぎますので、早くお支度を。

三成は振り返らずに、じっと前方にある関ヶ原の方向を見詰めたまま、言った。

わしは、敗れたのだな。この期に及んでは致し方あるまい。最早これまでと覚悟を決めた。しかし、わしは腹は切らぬ。一軍の大将たる者は、そうそう簡単に腹を切ってはならぬものじゃ。わしは逃げる。可能性がゼロになるまでは生きて、再起を図ることこそが、真のもののふと言うものぞ。

たった6時間の戦いだった。天下の行方がこんなにも呆気なく決まってしまうものとは思ってもいなかった。

完膚無きまでに叩きのめされたにも拘わらず、しかし三成の気力は不思議と衰えてはいなかった。滝壺に落ちた水の流れは、しばらくは水中深くに沈み込むが、いつまでも水底に留まっているのではなくて、やがては上に向かう流れとなる。

三成は捲土重来を期した。そのためには、今、この関ヶ原の地で命を捨てることなどとてもできない。

三成は、全軍に退却の命令を出すと、自らも山を降りた。どこへ行くという当てはなかった。ただ、気がついてみたら、足が伊吹山の方向に向かっていた。この山を越えた向こう側まで行くことができれば、そこは三成の生まれ故郷である。三成は、必死の思いで、伊吹山の山中を奥深くへと分け入っていったのであった。