一日回峰行同行記
一日回峰行同行記
平成22(2010)年5月30日、湖北の空は青く澄んでいた。
ちょっと早めに着いてしまったかもしれないと思い躊躇したのだが、集合場所である「五先賢の館」には、すでに多くの参加者がディパックに登山用のスティックなどを携えて、思い思いの恰好で集まっていた。
雨で一週間延期しての、待ちに待っての一日回峰行がいよいよ始まる。
最初に五先賢の館の広間で、長浜城歴史博物館の太田さんから今日のコースの概略や三姉妹に関する貴重な話を伺った。太田さんの説明は、歴史の素人にもわかりやすいように、いつも平易な言葉で語りかけてくださるのでありがたい。
これから私たちが訪れるコースは、天正元(1573)年に織田信長の攻撃により小谷城が落城した際に、浅井長政の妻であったお市の方と三人の姫たちが城から落ち延びたと思われるルートをちょうど反対に辿り、小谷城祉まで登り行くコースである。
小谷城の城下町や城の正面にあたる追手道、それに平時における長政や家臣団の屋敷が建ち並ぶ清水(きよみず)谷(だに)など、いわゆる城の表側はすでに信長軍によって占領されており、お市の方らが落ちていくとすれば、城の搦め手にあたる月所(げっしょ)丸(まる)からであったろう、というのが大方の推量である。もちろん、脱出ルートに関する正確な文献は残されていない。
その後についても諸説があるが、最終的にお市の方は北の庄(現在の福井市)で夫の柴田勝家と最期を共にし、残された三姉妹は秀吉のコントロール下に置かれることになる。
信長の血筋を継承し、お市の方の美貌を受け継ぎ、今や自分の意のままに扱うことができる三姉妹のことを、秀吉は政治的道具として最大限に活用した。
すなわち、長女の茶々は側室として手許に置いて自分のものとした。このあたりは、まことにもって抜け目がない。次女のお初は、北近江の名門でありかつての浅井氏の当主筋にあたる家柄の京極高次に嫁がせている。三女のお江は、秀吉の意思で結婚、離婚を繰り返させた末に三人目の結婚相手として徳川第二代将軍となる秀忠の正室に落ち着かせている。
当時の秀吉を取り巻く政治情勢を勘案し、バランスを考慮しながら、碁盤の目に正確に碁石(いし)を置いて行くようにして、姫たちの意思とはまったく無関係に政争相手に当てがっていった。
三姉妹は、その後訪れる大坂冬の陣・夏の陣にて、長女の茶々(淀君)が豊臣方に、三女のお江が徳川方となり、戦を回避するために両者の間を次女のお初が行き来してとりなすという数奇な運命を辿ることになる。
そんな三姉妹が生まれ育った小谷山に、彼女たちの脱出ルートの逆を辿って登って行くというのが、今日の一日回峰行のコースであった。
一日回峰行の話をする前に、今私がいる「五先賢の館」について触れておかなければならない。
五先賢の館は、旧東浅井郡浅井町が生んだ五人の賢人を表彰するために建てられた慎ましやかな資料館である。今は浅井町が長浜市と合併したために、長浜市立の資料館となっている。
五人の賢人とは、相応和尚(831年~918年、比叡山の高僧)、海北友松(1533年~1615年、狩野派の代表的画家)、片桐且元(1556年~1615年、賤ヶ岳七本槍の名武将)、小堀遠州(1579年~1647年、茶道・造園美術建築の巨匠)、小野湖山(1814年~1910年、漢詩・書道の大家)の五人である。
これから登る小谷山登山への期待感で一杯の参加者たちの目にどれだけ映っているかと考えると極めて残念ではあるのだが、太田さんの話を伺っているこの広間にも、湖山の書が額装されてさりげなく飾られている。本当はとても贅沢なことである。
館前の広場でラジオ体操をした後、私たちは小谷山への登山口を目指して五先賢の館を後にした。
最初の訪問地は、五先賢の館からすぐの田んぼの中にある小さな四輪塔である。元々五輪塔であったものだが、一つ失われて四輪塔となっている。
いわくありげにひっそりと祀られている四輪塔は、お市の方と三人の姫たちが小谷城から落ち延びていく際に、乳飲み子であった三女のお江を抱いて逃げた浅井家の侍女の墓であると地元では言い伝えられている。
城の南東にある実宰院という寺院まで無事に姫たちを送り届けた侍女は、すでに小谷城が落城してしまったために城に戻ることができず、この地で浅井家の菩提を弔い続けたのだという。その侍女の墓と伝えられているのが、この四輪塔である。
いきなり、落城にまつわる悲話に接した。
続いて、五賢人の一人である相応和尚の生誕地である来生寺に立ち寄る。
菅原道真とも親交が深かったと言われている相応和尚だが、その事実を証するかのように、本堂に向かって右手にある小さな祠の中に道真自らが彫ったと伝わる道真像が、本堂から少し離れたもう一つの祠には鏡が、納められている。
普段は扉が閉じられていて見ることができないものであるが、一日回峰行が催される今日だけは、参加者が見られるように扉が開放されている。
来生寺を出ると、いよいよ小谷山への登りとなる。
立志坂という看板が、登山口の目印である。ほんの2ヶ月ほど前にここを訪れた時には古びた看板であったのだが、僅かの間に真新しい看板に変わっていることに驚かされる。来年のNHK大河ドラマの舞台となることから、整備が急速に進められているのだろう。
いきなりの急峻な上り坂である。
見上げると青い空を背景として透き通るように輝く新緑の中を、一歩一歩地面を踏みしめながら山道を登って行く。一人で歩くと寂しくて辛い上り坂だが、こうして大勢で登っているととても心強い。前後の人たちと短い会話を交わしながら歩いて行けば、急な山道もそれほど苦にはならない。
足元を見つめながら歩いていた目をふと遠方に向けてみると、登山口付近の田んぼがはるか下方に見えてくる。短時間の間に随分と高度を上げたことが実感される。
続いて克己坂と書かれた看板が現れる。
登りはじめて以来、坂道は私たちを休ませないで容赦なく上り続けている。額から汗が滲み出てくる。しかしこの汗は、心地よい汗だ。小谷山の頂上を目指して登っているという充実感を私は体全体に感じながら、己に克つと命名された急な坂道を登り続けて行った。
どのくらい登っただろうか。ほとんど直登に近いような坂道から、ようやくなだらかな道が混じる坂道に変わってきた。ここから先は、少し登っては平坦に近い道で疲れを回復させながらの道が続いて行く。
さらに登って行くと、万華坂という坂を経て、
小谷山の最高地点である大嶽(おおづく)に続く道と、本宮(ほんぐう)の岩屋に通ずる道との分岐点に至る。今回の行程では結局どちらにも行くことになっているのだが、まずは道を左に折れて本宮の岩屋を目指す。
本宮の岩屋は、壁のような2枚の大きな岩に挟まれた狭い空間を通り抜けた先にある洞窟で、蘇我氏との戦いに敗れた物部守屋が潜んだとの伝説が伝えられる神聖な場所である。小谷山の麓にある波(は)久(く)奴(ぬ)神社の本体のお宮という意味で「本宮」の岩屋と呼ばれているのだそうだ。
太っている人は2枚の岩の間をすり抜けることができないと聞いていた。そうは言っても多少の余裕はあるだろうと楽観的に考えていたのだが、左右に壁のように立ちはだかる大岩の間に挟まれて、狭い空間の中で前にも後ろにも進めなくなった時には、このまま脱出不能になるのではないかと真剣に恐怖心に襲われた。
もがくようにして必死に手足を動かし、何とか少しずつ前進した私は、やっとの思いで洞窟の中に入ることができた。家に帰ってから気づいたのだが、私の腕にはこの時に出来たとしか思えない擦り傷が何か所も付いていた。
入口の狭さに比べると、内部は思ったよりも広い。懐中電灯で照らすと夥しい数の蝙蝠が無気味な姿で天井からぶら下がっているのが見える。凄まじいところに来てしまったものだと思った。
得がたい経験をした。小谷山の山麓にこんな不思議な洞窟が存在していて、浅井氏が居城とするはるか以前から地元の人々の信仰の対象となっていたことを知って、小谷山の奥深さの一端に触れた思いがした。
覚めやらぬ興奮を胸に、元来た道を先程の分岐点まで戻り、今度は一路、標高495mの大嶽を目指す。
浄心平というやや広々とした平坦地を経て、道はアップダウンを繰り返す。左手の遥か遠方に見える広々とした平坦な風景は琵琶湖の湖面だろう。好天に恵まれた今日は、遠くの景色までクリアーに見渡すことができる。小谷山が琵琶湖の傍らにある山であることを改めて実感させられる。
この季節の山中は、新しい命の息吹きがそこここに感じられて、本当に清々しい気持ちになることができる。
足許を見れば、種から生え出した木々の芽が、覚束ない姿で育ち始めている。楓の芽などは、すでに楓の葉の形をしているからすぐにそれと知れる。
植物は自ら生きる場所を選択することができない。風に吹かれて種が落ちた場所が、そのまま彼らの生きる場所となる。登山道の傍らに落ちた種は安全かもしれないが、登山道の真ん中に落ちた種はやがて人に踏みつけられるか、さもなくば抜き取られる運命にある。
今私が目にしている若々しい木々の芽のなかで、後々まで残る木となる芽はほんの僅かでしかない。山を歩いていると、そんな余計なことまで考えてしまう。
大嶽までの本格的な上り坂となる前に、こんな案内板が新たに設置されていた。
小谷城は戦国の山城として「戦国五名城」の一つである。平城は満々と水をたたえた
水堀と石垣に代表される。山城は空堀と土塁と曲輪の三要素からなっている。この3つ
をどの様に配置するか、山の自然地形に制約され乍ら、攻められにくく、守りやすい城
に築くことがポイントである。山城歩きの楽しみはそこにある。
短く平易な言葉の中に、山城の見方が凝縮されて説明されているいい案内板だと思った。
私たちは城と言うと、大坂城や姫路城などの石垣と堀に囲まれた豪壮な天守を思い浮かべるかもしれない。しかしこれらの城の姿は、もっと後世の、言わば完成形としての城の姿であって、戦国時代の山城には満々と水を湛える堀もなければ、堅固な石垣の姿を見ることもほとんど稀である。
案内板にあるごとく、戦国時代の山城は、地面を掘って造った空掘と、反対に土を盛り上げた土塁とが防御の双璧である。これらを組み合わせて曲輪と呼ばれる閉じられた空間に籠って敵の襲撃に対抗した。
空堀も土塁も見た目には自然の地形と区別がつきにくいから、素人にはわかりにくい。山城を歩くのには最低限の知識は必須である。
この案内板の後、私たちが行く登山道には、少なくとも3か所にわたって空掘りの一種である「堀切」が横切っているのが確認できた。
月所丸を経て、道は大嶽への長く厳しい上り坂に転じる。
どこまでも続くまっすぐな木の階段。道としてはよく整備されているのだが、一段一段の高さが高いために極端に登りにくい。一度引いていた汗が、再び滲み出す。大嶽までの道程の最後の試練だ。
一歩ずつ、ゆっくりだが休まずに、私は気の遠くなるような厳しい坂道を登って行った。やっとのことで急な坂道を登りきったところに、小谷山の本城全体を眺めることができる展望ポイントがある。ここまで来れば、大嶽の山頂はもう少しだ。
山頂で、待ちに待った昼食の時間となる。
私は、竹生島が見渡せる見晴らしのいい場所に腰を降ろして、持参したおにぎりを頬張った。青空の下、厳しい山登りの後に食べるおにぎりの味には、他のどんな御馳走も及ばない。見上げれば、風にそよぐ楓の葉の緑が心に沁みる。
しばしの休憩ですっかり元気を取り戻した私は、一気に六坊跡までの下り坂を降りて、小谷城の本城となる本丸を目指して再び山道を登って行った。
春の山桜咲く小谷山も、秋の錦繍の小谷山も本当に美しいが、新緑の小谷山には生命の生きる力が漲っている。小谷山の自然や景色から生きるエネルギーを分けてもらったような気がした。
私にとって、山王丸から小丸、京極丸、中丸、そして本丸へと続く小谷城址の一連の曲輪は、もうお馴染みの光景だ。季節を変え、何度となく訪れている場所なので、ここではあまり繰り返さない。
本丸の石垣跡を背景にみんなで記念写真を撮った後、再び道を引き返して山王丸の下にある大石垣に向かう。羽柴秀吉による破城を受け、ほとんど原形を残さない小谷城の石垣のなかで、最も大規模な石垣が残っているのが、この場所である。
ここから、下りに急峻な道が伸びているのは一般に知られていない。絶景の岩場と呼ばれる巨石の間を縫うようにして降りて、須賀谷温泉の方へと下山する道が通じている。
絶景の岩場という命名が奇抜である。
私にとって初めて経験する道なので、これからどんな絶景が我が眼前に現れるのか、興味津々の思いで私は道を降り始めた。
絶景と豪語するからには、相当な景色が望まれるのだろう。期待感はいやがうえにも高まっていく。それにしてもこの小谷山は、いくつもの顔を持った山であることを不思議に思った。
戦国時代の山城としての厳粛な顔がある。一方、清水谷では美しい渓谷美を楽しむことができる。そうかと思えば、朝見てきた本宮の岩屋のような神秘的な洞窟が存在している。そして今度は絶景の岩場である。
小谷山は、実に神秘的で味わい深い山であると思った。
しばらく単調な下り坂を進んで行くと、突然に周囲を巨石に囲まれている場所に行き着いた。ここが、絶景の岩場と呼ばれている場所なのだろう。
転落を防止するために張られたロープがなかったら、無事に下山することは叶わなかったかもしれない。とにかく険しい岩場であることに、まずは肝を奪われた。
何とか体勢を確保しながら周囲を眺めてみると、たしかに絶景である。
岩の割れ目から旺盛な生命力を示して生えている松の枝が見える。その傍らに立ち枯れした木が亡霊のような姿で残っている。その向こう側には西池や須賀谷温泉の白い壁と黒い屋根の建物が見えている。
なんと雄大な景色であることか。なるほど絶景の岩場と名付けられたことが誇張ではなかったことが、納得感を持って実感させられた。
心がおおらかになるような景色だった。こんな天気のいい日に、こんな景色を見ることができて、私の心は大満足だった。
そのまま山道を麓まで降り切った私たちは、当初の予定では右手の須賀谷にある片桐且元の父(孫右衛門直貞)の墓まで行く予定であったのだが、このコースを省略して道を左手に折れ、珀清寺薬師堂にある重要文化財の薬師如来坐像を拝観して、元の五先賢の館まで戻ってきた。
朝10時に出発して、5時間をかけての大行程だった。
再び戻った五先賢の館の広間で心づくしの抹茶をいただいた私たちは、ほろ苦い抹茶を啜りながら、今日一日の感動を胸の裡で反芻した。
比叡山延暦寺に伝わる修行の一つに、「千日回峰行」がある。旧浅井町が誇る五先賢の一人である相応和尚が始めたと伝えられる非常に厳しい修行で、7年間かけて都合千回行われる回峰行であるという。途中で修行を続けることができなくなった時には自害する決意で行われたというから、生半可な修行ではない。長い延暦寺の歴史にも拘わらず、現在までにこの修行をやり遂げた僧は僅かに47人しかいない。
今日の一日回峰行は、そんな郷土が生んだ名僧である相応和尚の徳を偲んで、その千分の一(にも全然満たないと思うが)だけでも体験することを目的に行われたものである。元々の起こりは昭和の後期にまで起源を遡るようだが、今日のようなコースで春と秋とに定期的に行われるようになったのは、平成8(1996)年の頃からであるらしい。
貴重な史跡を巡り、小谷山の豊かな自然に触れ合い、日常生活の喧騒から脱却して生きる英気を養う一日回峰行は、多くの関係者の協力のもとで実施されている。
他所者の私が厚かましく参加させていただき、誰よりも大きな感激を得て帰って来られたのも、相応和尚の存在があり、地元の皆さん方のご尽力があってのことである。末筆ながら感謝の念を表させていただき、同行記の締めくくりとしたい。