雨森芳洲庵 1

雨森芳洲・朝鮮との架け橋となった秀才の生まれ故郷を訪ねる

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江戸時代に日本が鎖国政策を採っていたことは、日本の歴史をひと通り学んだ人であれば、誰でも知っている常識である。そのなかで、オランダだけが日本との通信を許されて、長崎の出島に居住することを認められていた事実も、衆目の知るところである。

もう少し歴史に詳しい人は、日本との通信を許されていた国はオランダ一国だけではなく、実は清の国にもオランダと同様の特権が認められていたことを知っているかもしれない。

さらにこの2ヶ国以外に、外国との交流を特別に許されていた国があった。

渡島(おしま)藩におけるアイヌ民族、薩摩藩における琉球国、そして対馬藩における朝鮮国がそれである。鎖国と言いながらも徳川幕府は、日本の周辺国とは、隣接する特定の藩を通じて最小限の交流を維持していたのである。

そのなかの一つである朝鮮国からの使者(これを通信使と呼んでいた)が何度か日本を訪れて徳川将軍にお目通りしていた事実を知る人は、意外と少ないかもしれない。

合計12回におよぶ朝鮮通信使の歴史において、忘れることのできない重要な役割を果たした日本人がいる。

その日本人の名を雨森(あめのもり)芳(ほう)洲(しゅう)という。

この雨森芳洲という日本人が、湖北地方の人だったという事実を知って、私は驚いた。対馬藩の役人として対馬の地で生涯を全うした人物が、どのような経緯で湖北地方から対馬に渡ったのだろうか?私は雨森芳洲という人にたいへん強い興味を抱いた。

まずは、雨森芳洲が生まれた土地を訪ねてみることころからこの旅を始めてみることとしたい。

 雨森芳洲は、寛文8年(1668)5月17日に近江国伊香郡雨森(今の長浜市高月町雨森)にて、町医者である雨森清(きよ)納(のり)の長男として生まれた。名は俊(しゅん)良(りょう)、通称は東五郎(とうごろう)と言った。一般に親しまれている芳洲という名は雅号で、対馬のことを芳津と呼んでいたことに由来して使われるようになったものと言われている。

 雨森氏は元々、浅井氏に仕える有力な豪族であった。

江北(ごうほく)四家と呼ばれる磯野氏、井口氏、赤尾氏、雨森氏の一角を構成し、また、海北氏、赤尾氏とともに浅井家海雨赤の三傑とも称された名門氏族であった。

 その祖の歴史は、浅井長政の時代から500年ほど遡ることになる。地元に残されている伝説によると、応徳2年(1085)、藤原鎌足の後裔である蔵人少将藤原高良と越州(福井市)木田の長者の娘との間に生まれた三王丸が雨森氏の祖であるという。

 三王丸は生まれつき言葉を発することがなかった。そのため高良の許にいられなくなった三王丸の母は、やむなく我が子を連れて故郷の木田に帰ることとなった。

 失意の旅を続けていた母子が湖北の富永の庄まで来た時のことだった。小雪混じりの時雨が激しくなり、傍らの森陰に雨宿りをしながら母が、

東風(こち)しぐれ木陰たよりの肱(ひじ)枕(まくら)

 枝吹き分けて雨のもれける

 と詠ったところ、三王丸が悠然とした口調で突如、「アメモル」と言葉を口にした。

 生まれてからこの方、一度も声を発したことのなかった三王丸が言葉を発したのである。これは何かの聞き間違いではないのか?我が耳を疑いながらも、母は狂喜した。そしてこの地に庵を結んで住まうこととした。

 三王丸は名を雨森三左衛門良治と改めた。彼こそが、雨森氏の始祖であるというのが、地元に伝わる雨森氏にまつわる伝説である。

 良治は順調に生育を続けて立派な成人になった。24歳の時には内裏警固の宣命を仰せつかっている。そして久寿3年(1156)に72歳で亡くなっている。

 その後、雨森氏は土地の豪族として順調に勢力を拡大していった。やがて北近江の守護であった京極氏の被官となり、続いて浅井長政の祖父であり浅井三代の祖となる亮(すけ)政(まさ)が北近江の実質的な支配権を握ると、雨森氏は浅井氏に従い重要な家臣として浅井氏を支えた。

 その浅井氏が織田信長と敵対関係となると、姉川の合戦(元亀元年(1570))から小谷城の攻防戦(天正元年(1573))までの3年間の間に、雨森地区では長政軍と信長軍との間で多くの前哨戦が展開され、田畑は軍馬に蹂躙されて荒廃し、民家の多くが焼失した。

 そして小谷城の攻防戦において浅井氏が滅亡した時、雨森氏も浅井氏と運命を共にして、当時72騎とも言われた一族のうちの多くの者が討ち死にした。残された者たちも多くは雨森に住むことが叶わなくなり、各地に四散して行った。

 芳洲の祖父にあたる清房(きよふさ)も、そのうちの一人であった。清房は、常陸国笠間の井上河内守に仕えている。随分遠くまで落ち延びて行ったものだ。清房は関ヶ原の戦いで功を挙げるなどして活躍し、父の清納の代になってようやく故郷(ふるさと)に戻ることができた。

 清納は京都で医術の修行をし、雨森でも町医者となって生計を立てて暮らした。

 医者の子として生まれ育った芳洲は、父の医学の道を継ぐべく、幼い頃から漢文による医学の典籍に慣れ親しんで育てられた。

 芳洲は生涯を通じて学び続けた努力の人だったが、その芳洲の学習の原点となったのが雨森の生家であったと言うことができるだろう。

 芳洲が9歳の時に創ったという漢詩が残されている(『橘窓茶話』)。

  寒到夜前雪   寒は到る夜前の雪

  凍民安免愁   凍民安(いずく)んぞ愁いを免れん

  我儕猶可喜   我が儕(ともだち)猶喜ぶべし

  穿得好衣遊   好衣を穿(うが)ち得て遊ぶを

 凍民とは、文字通り凍えた民のことである。雪の夜に寒さに凍えながら過ごす一般の民たちに比べたら、温かい衣服を着て寒い夜でも遊ぶことができる自分の境遇をありがたく思うという、民を憐れむ詩だ。

 湖北地方の冬は日本海側の気候と同じである。灰色の雲が空一面を覆い、その空から白いものが絶え間なく落ちてくる。すべてのものが白く埋まる深い雪の中で長い冬を過ごさなければならないという背景を知らないと、この詩は理解しにくいかもしれない。

 それにしても、9歳の子供の詩としては、ちょっとませた感じがしないでもない。民を憐れむ気持ちよりも、自分の優越感の方が強く表現されてしまっているような気もする。

しかしながら、これだけの漢詩を僅か9歳の童子が作成したという事実には、驚かざるを得ない。後に江戸の木下順庵(1621-1698)の門下で新井白石と双璧をなすと言われた芳洲の学問の萌芽が、すでにこの時期に現れていたと言うことができるだろう。

こうして幼少時代から医学と学問の道を究めようとした芳洲は、12、3歳の時には京・伏見の医者であり歌人としても名高かった高森正因(まさよし)(1640-1718)に師事して、医学と学問にさらに磨きをかけた。

このまま順調にいけば、芳洲は父の跡を継ぎ、町医者としての生涯を送っていたかもしれない。もしそうであったならば、私たちは芳洲の名を知ることはなかっただろう。

ところがこの高森正因の許で医学を学んでいた時に、芳洲は突如として医者になることを断念してしまった。

なぜか?

なかなか理解することが難しい。当時の医学水準が今とは比較できないほどに低いものだったということが背景にあったのではないかと私は考えている。

医者は生涯に何度も投薬を誤っては無辜の患者を苦しめたり死に追いやる過ちを犯す。ある日突然に、芳洲はその事実に思い至った。医者としてよりもまず、人としての道を究めようとしていた芳洲にとってそのことは、容認することのできない重大な問題だったということなのかもしれない。

きっぱりと医者になることを断念してしまった芳洲のことを、父である清納はどんな気持ちで受け止めただろうか。そのことが影響したかどうかはわからないが、清納は芳洲が17歳の時に亡くなっている。

医者になる道を断念した芳洲は、引き続き京に留まって学問の道を追求することになる。当時の学問と言えば孔孟の道、即ち儒学であった。

京には優れた儒者が多数輩出された。後に江戸で師事することになる木下順庵もその一人だった。

天和2年(1682)に第5代徳川綱吉の将軍就任を祝するために派遣された朝鮮通信使が京を訪れた際に、当時順庵の一番の高弟であった柳川震(しん)澤(たく)が通信使を接遇し、その高い漢文の能力を遺憾なく発揮して話題を独占した事実を芳洲も目の当たりにした。

その震澤の許で儒学の修行を積んだ芳洲は、やがて震澤の師である木下順庵を慕って江戸へ向かう決心をする。芳洲18歳の時のことであった。

 江戸における芳洲の足跡を追う前に、芳洲の故郷である雨森地区を訪れてみることにしたい。

 決意を胸に江戸へと向かった後、おそらく芳洲は二度と雨森の土を踏むことはなかったものと思われる。もちろん、芳洲の故郷への想いは熱い。芳洲の心の中には常に、自分の故郷は近江国の雨森だという思いがあった。いつか故郷である雨森に帰りたい。帰郷の念、望郷の念を強く心に抱きながら、ついに帰ることができなかった芳洲の故郷。

 今では長浜市高月町雨森という地名となっているその土地は、国宝・十一面観音像のある渡岸寺の北方約1㎞の位置にある。街の東側を、姉川に対して妹川とも呼ばれている高時川が流れる風光明媚な土地である。

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  湖北の村から

アジアが見える  

雨森芳洲の里

 街の入り口にこんなフレーズが刻まれている石碑が置かれていた。いきなりスケールの大きい言葉に驚かされる。

 しかしこの言葉の本当の重さ、大きさを、その時の私は十分には理解していなかった。芳洲への理解が進んでいくに従って、この言葉の凄さがずしりと私の心に重くのしかかることになる。

 雨森の街は、道の傍らに清らかな水が流れ、黒板張りのどっしりとした大きな家が建ち並ぶステキな雰囲気を持った街だった。一度(ひとたび)足を踏み入れてから常に感じ取れる清々しさ。それは、もしかしたら芳洲の時代から連綿と受け継がれてきたものなのかもしれない。

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かつて浅井氏と織田氏との戦いにおいて軍馬に蹂躙された土地であったことを思い出させるものは何ものも残されていない。凛とした気品というのだろうか、そんな清らかなものを感じさせてくれる気持ちのいい街並みを私はゆっくりと歩きながら堪能した。

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かつての滋賀県知事であった稲葉稔さんの筆になる「湖国百景 雨森区の家並」と彫られた石碑が水の流れの傍らにひっそりと建てられていた。たしかに、言葉で表すことは難しいのだが、雨森の街は不思議な雰囲気を持った魅力に満ちた街である。

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そして私が興味を抱いたのは、街のそこかしこに見られる「芳洲庵」へと誘う木の案内板である。それほど大きくはない案内板には、白い馬に乗り従者を従えた武士の絵が描かれ、ハングル文字が添えられているのだ。

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おそらくは、この白い馬に乗っている上品そうな武士こそが、雨森芳洲なのだろう。芳洲庵という日本語の傍らにハングル文字が添えられていることからは、多くの韓国人が芳洲庵を訪れることが想像できる。

それほど広くはない雨森の街をそぞろ歩き、街の雰囲気を十分に楽しんだ後、私は案内板に導かれるようにして、芳洲庵へと歩を進めた。

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「史蹟 雨森芳洲書院」と刻まれた石柱が門の傍らに建っていた。さらにその奥には、背の高い大きな槻(つき)の木が存在感を示している。槻の木はケヤキの古名で、高月町は古来ケヤキの巨木が多いことから高槻と書かれていたらしい。

平安時代の歌人である大江匡房が月見の名所として歌を詠んだことから、「槻」の字が「月」に改められて現在に至っているのだという。

芳洲庵は、雨森芳洲の遺徳を偲び、その偉業を後の人々に伝えるために、地元の人たちの熱意により昭和52年(1977)に建設された記念館である。白い壁が印象的で、いかにも芳洲に相応しい清楚な建物である。

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中に入るといきなり、朝鮮通信使の正使および副使の衣装が展示されていて驚かされる。日本とは隣の国でありながら、色使いやデザインがまったく異なる特異な衣装だ。この朝鮮通信使と芳洲との関わりについては、後に詳しく触れることになるだろう。

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館内には、これら朝鮮通信使にまつわる展示物の他に、芳洲の著した本や書などが整然と展示されている。芳洲は、88歳まで生き、前述の『橘窓夜話』をはじめとして多数の著作を表した。それらの貴重な資料は、対馬の雨森家に伝えられていたものを、芳洲の子孫によって当館に託されたものであるという。

中には重要文化財に指定されている資料も多数あり(86件)、芳洲の偉業がまさに国家レベルで認められ高く評価されていることを物語っていると言えるだろう。

奥の床の間には、芳洲が81歳の時に揮ごうした自筆の掛け軸とともに、芳洲の坐像が置かれていた。

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ゆったりとした衣服を身に纏(まと)い頭にかぶり物を乗せた老人は、仙人のようにも見え、あるいは風流を友とする俳人のようにも見える。長く伸びた顎鬚に真っ白な眉毛。両手を体の前で組み鋭い目で前方を見つめる姿には、気力が満ちみちている。

生前の芳洲もきっとこのような雰囲気を醸し出した老人だったのだろう。背後に掲げられている「誠信交隣」と書かれた掛け軸がとても印象的だった。

芳洲庵の敷地内には、京都の寺院を思わせる枯山水の洒落た庭が造られ、また、芳洲を祀る芳洲神社が建立されている。芳洲神社の向こう側には、すぐ間近に高時川の清流が流れているのを見渡せる。

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芳洲が雨森で暮らした時間は僅かに十有余年に過ぎないのだが、芳洲自身にとってはかけがえのない幼少期を過ごした思い出の場所として、また、終生追求して止まなかった自らの学問の出発点として、雨森の地のことは強く記憶の中にインプットされていたに違いない。

芳洲の心の中にある故郷を満喫した私は、芳洲が憧れを抱いて目指していった江戸における足跡を追ってみることにしたい。

 芳洲が師と仰いだ木下順庵は、元和7年(1621)6月4日に京都で生まれた。藤原惺窩(せいか)の門人であった松永尺五(せきご)に師事して朱子学を学び、その後、加賀の前田家に仕えた後、62歳の時に幕府の儒官となり、時の将軍・徳川綱吉の侍講を務めた人である。

 自身の学問もさることながら、弟子の育成に能力を発揮した人で、学者としてよりも教育者としての名声が高い。

 順庵の弟子たちは、木下の門下生ということから木門と呼ばれ、その中でもとりわけ傑出した5人の著名な弟子である新井白石、室鳩巣、雨森芳洲、榊原篁洲、祇園南海の5人をして「木門五先生」と呼ばれたり、この五先生に南部南山、松浦霞(か)沼(しょう)、三宅観瀾(かんらん)、服部寛斎、向井三省の5人を加えて「木門十哲」と称されたりもする。

 順庵の私塾である雉(きじ)塾(じゅく)には、全国から300人もの有為な若者たちが集まり、互いに学問を競い合った。想像するだけでも活気に溢れ、そういう雰囲気の中で刺激を受け合い、切磋琢磨で学問が高められていったことだろうと思う。

 近江国あるいは京都では英才を誇った芳洲も、江戸に出て順庵の許で学問を究めようとすると、自分よりもまだ上の存在があることを知り、自分の学力の未熟さを思い知らされたかもしれない。

 しかしそれはまた芳洲にとっては、心地よい刺激であったのではないだろうか。こうして門弟たちと鎬を削り合いながら、自らの学問を高めていくと同時に、門弟たちとの間での言葉には言い尽くせない友情が育まれていったに違いない。

 生涯続く新井白石との信頼関係に培われた友情は、この時に確固たるものとして築き上げられたものである。

 林氏以外で初めて、幕府の儒官となる道を切り拓いた順庵はまた、弟子たちの特性を見極め、適材適所で各藩などへの仕官の橋渡しをした。

 大政に参謀せるは新井白石、室鳩巣、外国に応対せるは雨森芳洲、松浦霞沼。

 順庵の見極めである。

 俊才揃いの順庵の門弟たちの中でも、白石と芳洲の学問は群を抜いていた。後に「詩は白石、文は芳洲」と称される木門の双璧だった二人だが、順庵の推挙による藩への就職で明暗が分かれることになろうとは、この時の二人には知る由もない。

 一足先に仕官の道を得たのは、芳洲だった。

 順庵の許で学問を修め始めて4年後の元禄2年(1689)4月、芳洲は順庵の推挙により対馬藩に仕えることになった。芳洲22歳の時である。

 対馬藩の版図は、九州と朝鮮半島の中間近くに位置する小さな島である。この章の冒頭にも書いたとおり、朝鮮国との国交・貿易の唯一の窓口として、重要な役割を担っていた。朝鮮国と対等に渡り合うために、対馬藩は外交文書としての漢文に優れ、なおかつ漢詩の才をも併せ持つ優秀な人材を必要としていた。

 芳洲の潜在的に持っている外交への対応能力を認めていた順庵が、満を持して送りこんだのが、対馬藩だったということなのだろう。

 一方の白石は、芳洲の仕官から4年遅れた元禄6年(1693)に甲州藩の徳川綱豊の許に推挙された。甲州藩では当初、林氏に推薦を求めたものの、藩主の綱豊が将軍綱吉から疎んじられていたことを理由に推挙を断られ、お鉢が順庵のところに回って来たという逸話まで残されている。

 対馬藩と甲州藩。

 この時点ではそれほどの差がなかった芳洲と白石の仕官先であったのに、この後、決定的な違いが生ずることとなるのは、まさに歴史の気まぐれと言うしかない。

 と言うのは、子宝に恵まれなかった5代将軍綱吉が、甲府藩主の徳川綱豊を世嗣として江戸城西の丸に迎え入れたからである。

 綱豊は、綱吉が薨去した後に家宣と名を改め、第6代徳川将軍の座に就くことになる。白石は将軍家宣の侍講として影の権力者となり幕政を牛耳ることになる。いわゆる正徳の治である。

 江戸から遠く離れた島国で生涯を終えることになる芳洲と、幕府の中枢で持てる能力を遺憾なく発揮した白石。ほんの僅かな仕官先の差が、二人の運命を決定的なものとした。

 そんな二人が、やがて朝鮮通信使という国家の一大行事において相交わり、強烈な意見の対立を引き起こすことになるのだが、そのことは後の記述に譲るとして、次の章ではまず、対馬藩における芳洲の生き方を私たちは見ていくこととしたい。