雨森2(雨森芳洲・誠信交隣の神髄を見る)

 雨森2(雨森芳洲・誠信交隣の神髄を見る)

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 対馬藩に仕官した芳洲は、当初は江戸藩邸詰めの儒者として対馬藩邸に住まいする身となった。今までどおり雉塾にも足を運べたし、反対に白石ら順庵の門下生らが芳洲の住処を訪ねての詩会などが開かれて、賑やかな生活を謳歌することができた。

23歳の時に芳洲は、順庵の勧めで当時唐話と呼ばれていた中国語会話の勉強を始める。漢文の読み書きは幼い時からの勉学によりお手の物だったけれど、中国語での会話は未経験の領域だった。

 朝鮮国との外交では、漢文の読み書きが出来れば最低限の役割は務めることができるけれど、中国語での会話が出来れば、意はより通ずるに違いない。芳洲の将来を見越しての師の適切なアドバイスに、根っからの勉強家であった芳洲は素直な気持ちで応えた。

 元禄5年(1692)には長崎に赴いて、出島に程近い唐人屋敷に通い、上野玄(げん)貞(てい)という唐通詞に付いて中国語会話を学んだ。

 こうして外交官としての基本技術の修得に努めていた芳洲に対馬入国の命令が届いたのは、元禄6年(1693)の秋、芳洲26歳の時だった。

 芳洲はどんな思いで、初めて見る対馬の地を眺めたことだろうか?

 芳洲は、藩主である宗義倫(よしつぐ)への侍講を務める傍ら、真文役と呼ばれる朝鮮国との外交文書に関わる仕事を仰せつかった。馬場筋通と呼ばれる藩の重臣が住まう一角に居を賜り、対馬における芳洲の生活が始まった。

 その後、88歳で亡くなるまでの60年以上の歳月を対馬で過ごすことになろうとは、この時の芳洲には思いもよらないことだっただろう。

 ちょうどこの頃、白石は甲府藩の徳川綱豊への仕官が叶い、それぞれの運命に向けて、二人が別々の道を歩き始めた。

 対馬に入国してから3年目の元禄9年(1696)に、芳洲は対馬藩士小川新平の妹と結婚をする。大都会である江戸から対馬藩に下って来たエリート官僚であり儒学と漢文のスペシャリストである芳洲が、閉鎖的な藩という社会の中で必ずしも周囲から快く受け入れられたとは限らない。

 藩に独特のしきたりや慣習があったかもしれない。妬(ねた)みや嫉(そね)みもあったかもしれない。対馬藩士の妹と結婚することで芳洲は、次第に対馬藩に溶け込んでいったに違いない。

3度目の長崎への唐話留学の後の元禄11年(1698)、芳洲は「朝鮮方佐役(さやく)」という役職を賜った。「朝鮮方」というのは朝鮮との外交を掌る対馬藩独自のたいへん重要な役職で、「佐役」というのは、その朝鮮方を補佐する役職である。

 対馬藩に仕官してから実に9年、対馬入りしてからでも5年の歳月が経過していた。

 元々対馬藩は、朝鮮国との外交文書の読み書きに堪能な人材を登用する目的で芳洲を採用したのではなかったのか?雉塾の俊英を即戦力として朝鮮との外交の表舞台に投入することをせずに9年間もの時間を費やしたのには、何かの訳があったのかもしれない。

 念願の外交の一翼を担うことになった芳洲であったが、順風満帆とはとてもいかなかった。

 学問の高さにおいては他の追随を許さない芳洲であったものの、外交という実務の場ではまったくの初心者である。芳洲はこれまで学んできた学問が通用しない局面に直面し、戸惑い、憤り、そして絶望しただろう。

 通常のプライドの高い人間なら、ここで投げ出していたかもしれない。しかし芳洲は自らの至らなさを冷静に悟り、外交の実務を一つ一つ学びながら実践していった。

4年後の元禄15年(1702)、芳洲は初めて朝鮮国の地を踏んだ。藩主の交代を朝鮮国側に伝えるための使節(参判使)が派遣されることとなり、その随行員として釜山にある倭館を訪れたものである。

 初めて体験する朝鮮国で芳洲は、さらに自分の至らなさを痛感することになる。当たり前のことではあるのだが、言葉が全然通じない。唐話(中国語)を話せる朝鮮人もいるにはいたが、誰もが唐話を話せるわけではない。

 相手との間で意を通じさせようとすると、通訳に頼るしかない。しかし外交上の非常に繊細なニュアンスを伝え合うのに、通訳を介していては正しく伝えることはほとんど不可能である。

 芳洲は、朝鮮語修得の必要性を実感した。

 現代なら外交官が任地の言葉を話すのは当然のことだが、朝鮮国との外交を長年にわたって独占的に掌ってきた対馬藩においても、芳洲のように朝鮮語を話すことの重要性を認識した人はそれまでいなかったという。

誰に教えられたのでもなく、相手の国の母国語を話すことの必要性を初めての朝鮮国訪問で悟った芳洲は、真の外交官としての資質を持っていたということだろう。

 さらに、足りないと思ったらすぐに補おうとするところも、芳洲の偉大なところである。芳洲は朝鮮語を学ぶ決意をする。生涯を通じて学び、常に自らを高めようとした芳洲らしい決断だ。

 釜山への語学留学を申し出て許可された芳洲は、元禄15年(1703)から1年間、訳官である呉(ゴ)引(イン)儀(ギ)から朝鮮語を学んだ。

35歳を過ぎてから新しい語学を修得することは、芳洲を以てしても生易しいものではなかったようだ。芳洲は後に、

命を五年縮め候と存し候はは成就せさる道理やあるへきと存し、昼夜油断無く相勤め候

と書いている。

 そんな芳洲が、後に朝鮮通信使に随行して江戸まで往復した際には、一度も通訳に頼ることなく朝鮮語で半年間を通したというから、その努力にはまったく頭が下がるばかりである。

 芳洲が学んだのは、単に朝鮮の言葉だけではなかった。朝鮮国の歴史や文化、それに風俗や人情に至るまで、朝鮮国のすべてを理解しようと努めた。

言葉は単なる道具にすぎない。朝鮮国の人たちとの心と心を通わす真の交流を実現するためには、彼らの考え方の背景にあるものを理解しなくてはならない。

誰かから教えられたことではなかったのだろう。芳洲が外交について真剣な気持ちで考えた結果、自然と浮かんできた発想だったのではないだろうか。

この真摯な姿勢があって初めて、芳洲は朝鮮国の人たちから深い信頼を得、生涯を通じて心の交流を続けることができたのだろう。

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 いよいよ、芳洲の名前を一躍有名にする事件について触れる時がやってきた。

 その事件とは、正徳元年(1711)、第6代将軍・徳川家宣の将軍職就任を祝うために朝鮮通信使が派遣されたことから始まる。

 正徳元年の朝鮮通信使は、江戸時代に派遣された12回の通信使のうちの8回目の通信使で、前回の第7回の通信使からは29年の歳月が流れていた。前回は京都で、師の柳川震(しん)澤(たく)が使節との間で華麗に詩文のやり取りをする姿を目の当たりにして、感動したものだった。

 その時は修行中の儒生であった芳洲も、すでに齢44歳に達していた。

 今回の正徳の通信使において芳洲は、朝鮮方佐役としてまさに対馬藩を代表して通信使に付き添い、苦楽を共にしながら江戸までの往復の道程を同道する役割を担っていた。

 ところがここで、朝鮮通信使と対馬藩にとって大問題が降って湧いたのだった。

 震源地は、江戸。そしてその中心にいたのは、こともあろうか新井白石であった。

 白石は、これまでの通信使の在り方を変革しようとして、10項目にも及ぶ要求を対馬藩に突き付けてきた。白石の意図するところは、朝鮮国との関係において日本の立場をより高め、併せて華美になり過ぎ経費負担が増大していたこれまでの通信使への接遇を簡素化することにあった。

 質素に通信使を迎えることはまだ許容できても、均衡が保たれ友情が堅持されてきた朝鮮国と日本との関係を崩すような白石の命令には、断じて首肯することができるものではなかった。

 その中でも特に対馬藩を激怒させたのが、将軍の称号問題だった。

 白石は、これまで将軍のことを「日本国大君」と表記させていたものを、今後は「日本国王」と表記するよう求めた。また、通信使の「来朝」と言っていた表現も、「来聘」と改めるように指示された。

 常に朝鮮国との国交の矢面に立ち、長年にわたって微妙な外交交渉を続けてきた対馬藩の意向を斟酌することもなく、一方的に通告してきた白石の姿勢は許し難いものだった。このままでは円滑に通信使を迎えることが出来ない。対馬藩は強く反発した。

 芳洲は、対馬藩の朝鮮方佐役として、白石に撤回を求める書簡を認(したた)めた。それは、外交の現場を預かる人間としての主張であると同時に、これまで学問を追求してきた人間としての心の叫びでもあった。

 悲しいかな、雉塾で共に切磋琢磨し、木門の双璧と並び称された芳洲と白石が、このような形で対立するとは。

 しかも現在の二人の置かれた立場は、雉塾で共に勉学に励んでいた時からは想像も出来ないほど隔たっていた。片や将軍家宣の侍講として江戸幕府の中枢で政治の主導権を握る要職にいる白石と、対して日本の西端に近い小さな島国である対馬藩の一役人に過ぎない芳洲とでは、格が違いすぎた。

 昔の学友であるからと言って、下手に逆らえば国政を乱す狼藉者として処刑されてもおかしくない立場にある。しかし芳洲はそのことを十分認識したうえで、それでも白石に対してもの申さないわけにはいかなかった。

  東(芳洲のこと=筆者注)此書を作る、実に憂慮に切なり。一言既に出す、駟馬も追

ひ難し。訕(も)し加ふるに時政を倘謗(せんぼう)するの罪を以てせば、則ち家門の禍、勝(あ)げて言ふ可(べ)け

ん哉。たゞ一片慷慨忠義の心、勃々自ら制する能はず。且つ紀綱に任じ名分を正しくす、

唯だ君子の学者のみ之を能くすと為す。若(も)し自ら威を畏れ、安きを偸(ぬす)み、口を履霜堅氷

の際に箝(つぐ)まば、則ち平生読む所の者、果して何の書ぞ耶(や)。縦(たと)ひ不測を踏むとも、実に甘

心する所なり。

 幕府の威光を畏れ、安易な道を選んでここで言うべきことを言わなければ、私が今まで刻苦勉励し身を削るようにして学んできた学問とは、いったい何のためのものだったのかと思ってしまう。たとえこのことによって罪を得ようとも、私はそれを甘んじて受ける覚悟である。

 鬼気迫る名文である。芳洲の誠の心が切々と伝わってくる。この芳洲の書を読んで、私は涙が止まらなかった。

 芳洲が渾身の力を込めて書いた書簡に対して白石は、

  対馬国にありつるなま学匠等が知るにも及ばで、とありかゝりといふ事によりて国人

 等いなみ申すことばの聞えしかば、我また彼直賢が許にふみつかはして申せし事共あり

 しに、はじめ直賢がいひしごとくに彼国にしては申す事もなくて、其国の書、日本国王

 と改め来りぬ。

 と後に『折たく柴の記』のなかで回顧して記している。

知己(ちき)である二人の関係を以てしても議論はすれ違い、それぞれの主張は平行線を辿った。

 結局、芳洲の心を尽した反論に対しても、白石が判断を覆すことはなかった。日本という国の体面を守ろうとする白石と、朝鮮国に対する対馬藩の立場を悪くしたくないという芳洲とでは、軽重の判断基準が違い過ぎていた。

国の政策として最終的に決定された判断に対しては、たとえそれが自分の本意に反することであっても、心を鬼にして従わなければならない。芳洲は心で泣きながら、朝鮮国との交渉を行ったに違いない。

日本国大君と書かれていた朝鮮国王の国書は、日本国王と書き改められた。

 こうして、始まる前から波乱含みであった正徳の通信使一行は、5月に漢城を出発して、6月4日に釜山に到着した。芳洲は釜山まで使節を迎えに出向き、通信使とともに対馬国入りをした。7月19日のことだった。

 対馬を出航した一行は船で馬関海峡から瀬戸内海に入り、風光明媚な内海(うちうみ)の景色を堪能しながら大阪までの船旅を楽しんだ。

途中、赤間関と鞆の浦で心尽くしの饗応を受け、互いに詩歌を交換し心の交流を深めながらの旅となった。

既述の芳洲庵には、朝鮮通信使を迎えた際に出された「ご馳走」を復元した料理模型が展示されている。朝夕には「七五三の膳」、昼には「五五三の膳」が用意され、これと引き換えに「三汁十五菜」が出されたと記録に残されている。これ以上ない豪華な、心尽くしの料理である。

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漢文や漢詩に造詣が深く、唐話や朝鮮語を自由に操ることができる芳洲は、まさに接待役として適役だった。対馬藩はこの時のために、芳洲を召し抱えたと言っても過言ではないだろう。

その期待に応える芳洲も、これまで44年間の人生の集大成であり、まさに人生最高の晴れ舞台だった。

苦楽を共にしながら旅を進めた一行は、国の枠を越えて厚い友情で結ばれていった。淀からは陸路を取り、京都から東海道を経て江戸までの道を辿った。

対馬入りしてから3ヶ月の長旅の末に、朝鮮通信使の一行は江戸に到着した。

江戸では、朝鮮国王からの国書が奉呈され、通信使の労をねぎらうための饗応が行われた。

久しぶりに見た江戸の光景は、芳洲にとってどのように映っただろうか?白石との再会も果たし、緊張感のなかにも華やいだ時間を満喫したかもしれない。

しかし江戸に滞在して1ヶ月近くが経ち、通信使たちがいよいよ帰路に就こうとしていた11月11日になって、再び両国にとって大きな難問が発生した。

将軍家宣から朝鮮国王に贈られる返書の中に、朝鮮王朝第八代の中宗僖王の「僖」の字が含まれていることが通信使側の指摘により明らかになったのだ。

いわゆる「国諱(こくい)紛争」である。

朝鮮国は儒教文化の国である。儒教の世界では、国王の正式な名前(「諱(いみな)」と言う)に使用されている字を用いることは恐れ多い、極めて無礼な行為とされていた。

元々、諱は霊と深く結びついていて、諱を使用するということはその人の霊を支配することと考えられていた。勝手に他人に自分の霊を支配され運命を左右されては困るから、諱はむやみに他人に知らせるべきものではなかった。だから通常は、諱の代わりに「字(あざな)」を使う。

日本でも霊の力が強く信じられていた平安時代などでは、自分の名前を他人に知られることを極度に恐れていたようであるが、時代が下るにつれてそのような思想が次第に希薄になっていった。

むしろ戦国期以降の日本の文化では、主君の名前の一字を賜るというようなことが普通に行われていた。主君の偉大さにあやかりたい、あるいは主君に絶対の忠誠を誓うために、主君の名前の一字を自分の名前に使用する。

名前に対する考え方が、朝鮮国と日本とでは根本的に異なっていたのである。

幾多の難苦を乗り越えて無事に使命を果たし、いざ帰国の途に着こうと思っていた矢先に発生したこの厄介な問題で、芳洲は再び苦境に立たされることになる。

白石は、通信使からの抗議に対してすかさず反論を行ってきた。

朝鮮通信使からの国書の中にも、三代将軍家光の「光」の字が使われているではないか。諱を重んじる文化を持つ朝鮮国が、どうして相手国の将軍の名前を国書に使用してしまったのか?

恐懼して相手の主張を受け入れるのではなく、反対に相手の失策を過たず捉えて有効な打撃を与える能力は、さすがと唸らざるを得ない。

しかしそのことによって、事態は泥沼と化す。

このままでは帰国することが出来ないと通信使は態度を硬化させた。この問題は国と国とのメンツをかけた「戦い」であり、どちらにとっても妥協を許されない厳しい交渉である。

間に入って調整に当たった芳洲の苦労はいかばかりであったことだろうか?

交渉を誤り国に恥辱を与えるようなことがあれば、厳格な処罰を受けることは免れない。メンツだけでなく、まさに命を懸けた両者の戦いの狭間で、芳洲は喘いだに違いない。

しかし両国の歴史と文化とを熟知し、古今の事蹟に精通し、両国の言葉を自由に操り、かつ人徳者である芳洲を置いてこの難局に当たるに相応しい人物が他にあっただろうか?

一地方藩の役人に過ぎない芳洲であったが、幕政の中心人物である新井白石に直接物を申せる関係を持っていた芳洲の経歴も、事態収拾に大きな力を発揮したことだろう。

反対に言うと、芳洲がいたからこそ、事態はギリギリのところで最悪の結末を回避することができたということである。

朝鮮国、日本国ともに問題の個所を訂正したうえで、日本を離れる前の対馬において訂正後の国書を交換することで決着を見た。芳洲はホッと安堵のため息をもらしたことであったろう。

こうして、種々の困難を乗り越えた朝鮮通信使一行は、11月19日に江戸を出発した。芳洲にとってはキリキリと胃が痛む、緊迫した一週間余りであった。

帰路の旅程は、大任を果たし終えて、往路にも増して打ち解けて寛いだ旅路であったようだ。芳洲は同じ立場の通信使側の製述官である季東郭と詩の贈答を行ったりして、華やいだ雰囲気のなかで互いの友情を深めた旅でもあった。

翌正徳2年(1712)2月12日に国書の再交換を終えて、通信使一行は朝鮮国へと戻っていった。芳洲は万感の思いを胸に、海の向こう側に次第に小さくなっていく船をいつまでも見送っていたに違いない。

こんな労苦を重ねて大命を果たした通信使であったのに、帰国後に不手際を責められ、正使の趙泰億らは処罰を受けているというから、国対国の威信をかけた通信使はまさに命懸けの役目であったことが理解されると思う。

 芳洲は、正徳の通信使の後、第9回の享保の通信使(享保4年(1719))の際にも、一行とともに江戸との往復をしている。

 正徳の通信使からは8年後、芳洲の齢は52歳に達していた。

 第8代の徳川吉宗の将軍就任を祝うために派遣されたこの時の通信使の時には、白石は失脚しており、幕府の中枢にはいない。

 吉宗は自ら幕政を改革し、白石が行った改革は概ね元に戻されている。通信使派遣前にあれほど白石と芳洲との間で意見の対立を見た将軍の称号問題も、元通りの「日本国大君」に戻されている。

 トップが代われば方針ががらりと変わるのは世の常であるけれど、白石があれほどまでに拘った国の体面とはいったい何だったのかと思ってしまう。

 しかしそれも芳洲にとっては、過ぎてしまえば今は懐かしい想い出であったかもしれない。

 芳洲に初めて会った時の朝鮮国製述官の第一印象は、あまり芳しいものではなかったようである。顔色が悪く朴訥とした陰気な感じのする白髪の初老の老人は、怪異にも見えたという。

 この人が高名高い雨森芳洲であろうか?

 しかし人の価値は第一印象だけでは決められない。長い旅を続けて行くうちに、芳洲の人柄に触れ、学識の高さを実感するにつれて、彼らの芳洲への敬意と親密感は日増しに高まっていったに違いない。

 二度目の通信使であったから、もちろんそれなりに苦労は多かっただろうけれど、芳洲は余裕を持って通信使の旅を楽しんだのではないだろうか。

 途中、故郷の雨森にも近い彦根にも宿泊している。もう少し足を伸ばせば雨森であるけれど、大事な役目を仰せつかっている身であるから懐かしい故郷を訪ねることはできない。芳洲は万感の思いを込めて、彦根の地から雨森の方角を眺めたことであろう。

 正徳の通信使の時とは異なり、享保の通信使一行は、任務の遂行に決定的な障害となるようなトラブルもないまま無事に江戸に到着した。しかし芳洲が赴いた江戸には、もう白石はいない。

 この間の事情を知らない朝鮮国の製述官が無邪気に芳洲に尋ねた。白石はなぜ顔を出さないのかと。正徳の通信使の時に煮え湯を飲まされた日本国を牛耳る影の宰相のことは、朝鮮国でも強く意識されていたということなのだろう。

8年前の苦労を懐かしく想い出しながら芳洲は、白石は病気のためにこの場にいることができないのだと、白石をかばってさらりと言ってのけた。

  対馬国にありつるなま学匠等が知るにも及ばで、とありかゝりといふ

白石をして後にかく書かしめた二人の関係であった。

たしかにこの部分だけを取り出して読むと、おれの苦労も知らないでこの田舎学者めが……、と芳洲のことをこき下ろしているように取れるけれど、あの時の芳洲はおれを困らせて仕方のない奴だったなぁ……と懐かしみながら、親愛の情を込めて書いた言葉だったように私には思えてならない。

全般的に平穏な通信使の旅であったが、帰路の京都にて思わぬ事件が勃発する。

幕府の方針で方広寺の耳塚を訪ねる行程が予定されていることが通信使の心を逆撫でしたのだ。耳塚とは、秀吉が朝鮮進攻を実行した際、打ち取った首の代わりに耳や鼻を削ぎ取って日本に持ち帰ったものを埋めた塚である。

耳塚

耳塚3 耳塚(京都)

朝鮮国に対する日本の優位性を主張したいという、無思慮な幕府の役人が仕組んだ愚行だ。

事前にこのことを知った芳洲は、もちろん反対した。

方広寺には秀吉が造った大仏がある。大きな仏像を造って霊験のあらたかであることを誇りたいのであろうが、朝鮮国では仏像の大小で仏の慈愛の大きさが決まるという考え方はない。むしろ臣民の苦役と多大な経費支出をして無意味な大仏を築造したことは、彼らの哄笑を誘うであろう。

朝鮮出兵の戦利品である耳塚を彼らに見せることなどとんでもないことである。これを見て彼らが日本の実力を認め、尊敬心を抱くとでも思っているのだろうか?

むしろ、無益な戦争を仕掛け、朝鮮の人民に艱難辛苦を強いた秀吉の愚行を彼らに思い出させるだけである。

しかしまたしても、芳洲の心の叫びは幕閣には届かなかった。芳洲は今回も心を鬼にして、自らの心とは異なる行動で通信使に接しなければならなかった。

頑なに耳塚訪問を拒む通信使たちに対して芳洲は、朝鮮語を駆使しながら、時には剣を抜かんばかりの気合で説き伏せたという。

芳洲の本心と苦悩を知らない朝鮮側の製述官は、芳洲のことを悪しざまに記録に残している。

幕府に対しては意を容れられず、朝鮮人からはその真意を理解されず、京都の地で一人芳洲は、猛烈な寂寥感に苛まれたことだろう。どうして自分は、そして誰のために私は、こんなつらい役目を務めなければならないのか?しかし芳洲はじっと耐え、通信使の旅を最後まで全うさせた。

京都での不本意な対立はあったけれど、その後は再び和やかな旅となった。次第に残り少なくなっていく旅程を惜しみながら美しい景色を愛で、詩歌を交換し合い、通信使たちと芳洲とは心の交流を深めていった。

対馬での別れは、涙に咽(むせ)ぶつらい別れとなった。

今の時代とは違って自由意思で異国との間を行き来することなどできない時代である。ひとたび別れてしまえば再び会うことは叶わない。心に固く結ばれた友情という絆を胸に、芳洲は再び、通信使たち一行の船を見送った。

 二度にわたる朝鮮通信使への随行は、芳洲の人生における大きなピークであった。芳洲以外の人間ではとてもこのような大任に耐えることはできなかっただろう。朝鮮語や唐話を駆使し、漢文や詩歌に秀でた能力を持ち、何よりも朝鮮の人情や文化を熟知している芳洲だからこそ果たし得た大役である。

二度の朝鮮通信使随行の大役を無事に務めおおした芳洲は、享保6年(1721)、23年間勤め上げてきた朝鮮方佐役からの引退を申し出る。もう十分にお役目を果たした。身も心もすり減らし、体力、知力の限界まで自分自身を酷使する朝鮮方佐役にはもう耐えられないほど、十分に芳洲は歳を取り過ぎていた。

しかし普通の人ならここで悠々自適の隠居生活を送るのだろうが、芳洲の凄さはむしろ、ここからの人生にあると言っても過言ではないかもしれない。

朝鮮国との様々な交渉や交流を通じて自ら得た経験により通訳の重要性を重視した芳洲は、通訳者の養成に力を尽くした。

また自らもさらなる研鑽に励み、「交隣提醒」、「治要管見」、「橘窓夜話」など多数の著作を著すとともに、なんと81歳になってから和歌の勉強を始めている。芳洲ほど生涯を通じて勉学を続けた人物は他にそうはいないだろうと思う。そしてまた芳洲は、たいへんに長生きであった。

途中、享保10年(1725)年5月に白石が69歳で亡くなっている。真の知己(ちき)であり、生涯における最高の好敵手であった白石を失ったという悲しい知らせを、芳洲はどんな想いで聞いたことだろうか?

奇しくも芳洲はこの時、藩主・宗義誠の参勤交代のお供で江戸に滞在していたようである。

白石が失脚した後も、誰もがお上に遠慮して白石との交流を憚るなかで、従前と変わることなく芳洲は白石と文(ふみ)のやり取りを続けていた。

その心根の広さと大きさとに、私は頭を下げざるを得ない。心からの尊敬の念をもって、雨森芳洲という一人の偉大な先達のことを、書き記そうと思った次第である。

先に私は、白石は日本という国の体面を守ろうとし、芳洲は朝鮮国における対馬藩の立場を慮った、軽重の判断基準が違い過ぎていたと書いた。

しかしこのことを視点を変えて見てみれば、白石の視野は日本という国、あるいは徳川幕府という一つの国家に限定されていた。一方の芳洲は、朝鮮国を通じてアジアを見ていた、と言い換えることもできる。雨森地区に入ってきた時に見た「湖北の村からアジアが見える」という石碑の意味の大きさを、私は改めて思わざるを得なかった。

片や徳川幕府の中枢にあり、片や鄙の島国の一官僚に過ぎない。身分の高低においては比べるべくもないけれど、人間としての大きさと視野の広さとにおいては、はたしてどちらが上であったかを、俄かに判断することはできないだろうと思う。

改めて、芳洲という人の大きさと奥深さとを思った。そして、そんな人物が湖北の地から輩出したという事実を、私は誇りに思う。

太く短く生きた白石の一生と、細く長く生きた芳洲の一生とは、実に対照的である。時には厳しい衝突もあったけれど、しかし2人の心は常に信頼の糸で結ばれていた。2人はよきライバルであり、またよき友であった。

白石あっての芳洲であり、芳洲あっての白石であった、ということだろうと思う。

言葉も文化も異なる外国人との接し方や仕事の仕方、現場の事情を理解しない本部からの理不尽な要求に対する対処方法など、現代を生きる私たちにとっても重なる難しいテーマであり、芳洲の生き方は大いに参考になるに違いない。

狭量な了見や無用な威圧により相手より優位な立場に立とうとした白石や幕府の役人たちと、誠信交隣の精神を貫こうとした芳洲の誠の心。どちらが真の執るべき道だったかは、言を待つまでもない。

それだけに一層、正しいことを訴えているのに容れられない悔しさや無力感を思う時、私は芳洲が感じたであろう寂しさが心に染み入って想われて、涙を禁じることができない。

平成2年に韓国の廬(ノ)泰(テ)愚(ウ)大統領が日本を訪れた際の晩餐会にて、廬泰愚大統領はその挨拶のなかで芳洲のことに言及して、日本にも身命を賭して日韓の友好に尽力した人材がいたことを紹介して大いに讃えた。

日本人のほとんどは芳洲のことを忘れ去ってしまったけれど、誠心外交を実践した日本の恩人のことを、韓国の人たちはけっして忘れていなかった。

芳洲庵は今、アジア交流のコミュニティーセンターとして、多くの来訪客を韓国をはじめとするアジアから迎えている。芳洲のまごころが、雨森地区の人たちの手によって、今もなお大切に守り続けられているのである。

 芳洲の墓は、芳洲が晩年を過ごした「余間家(よまや)」と命名された隠居所のはす向かいの長寿院にある。「一得院芳洲誠清居士」という戒名は、芳洲の人柄と功績とを見事に言い表している。

 余間家には一本の松の木が植えられている。

 

  やつれても一本松の常盤にて 今もかわらぬ志賀のふるさと

 芳洲はその晩年を、隠居所から一本の松の木を眺め、滋賀のふるさとを懐かしみながら過ごしたのかもしれない。

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