観音の里(村人たちによって守り続けられた観音像を巡る旅)

1. 観音の里(村人たちによって守り続けられた観音像を巡る旅)

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JR北陸本線高月駅あたりの一帯は、「観音の里」と呼ばれている。

正確に言うとすべてが観音像ではないけれど、ざっと数えただけでも、高月地区に20躰、隣の木之本地区には10躰、もう少し周囲の余呉地区や西浅井地区なども含めると、全部で60躰近い仏像がそれほど広くはないこのエリアに集中して存在しているのだそうだ。

 毎年8月の第一日曜日には、「観音の里 たかつき ふるさとまつり」が執り行われるのだという。

 高月地区の仏像たちの大部分が、この日は無料で参拝者に開放されるのだそうだ。普段は扉が閉じられていて、管理人に依頼しないと開けてもらえない観音堂も、この日は常時扉が開かれていて、いつでも拝観するこことができるという。

 こんなチャンスを逃してはいけない。この機会に、湖北地方に存在している仏像を一躰でも多く見ておきたい。そんな衝動に駆られて、私は6時15分に新横浜を出発する新幹線に飛び乗った。

 同じような思いの人が多いのだろう。9時前に高月駅に到着した時には、すでに多くの人で駅前広場はごった返していた。みんな、手にはカメラを持ち、一様にリュックサックを背負っている。

 心持ち年配者が多いのは、対象が仏像だからだろうか。それにしても、真夏の暑い盛りだというのに、みんな元気がいいことに驚かされる。

 各寺々を巡る巡回バスもあったのだけれど、土地勘のない私が効率よく観音を見て回ることは難しいだろうと思い、観光バスを利用することにした。

 対象となる町内23ヶ所の観音堂すべてを7時間かけて回るというコースがあった。ところがこのコースはすぐに予約で満席となってしまったのだという。私は、「浅井家三代ゆかりの仏様をたどるコース」に参加した。

 浅井氏の家臣であった雨森氏、井口氏、磯野氏などにゆかりの観音堂を訪ね、最後に渡岸寺の国宝・十一面観音像を拝観するというコースだ。それでも11ヶ所の観音堂を巡ることになる。観音の里の初心者としては、欲張らずにこのくらいで十分ではないかと思った。

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 遠足に行くようなうきうきした気分で、バスは高月駅を発車した。最初に訪れたのは、高月駅から北東方面に向かった己高山満願寺である。通称、高野大師堂と呼ばれている。

 山号が己高山とあるように、石道寺や鶏足寺などと同じく、かつては己高山を中心とする天台系寺院の一つであったようだ。元々、高野神社という神社が存在していたところに行基が訪れ、薬師如来像を彫ってご本尊となし、新たに寺院を創建したと伝えられている。

 その後、称徳天皇(764~770)、桓武天皇(781~806)などの時の天皇の加護を得て、さらには最澄が参詣して百日間の参籠をなすなどにより、一時は7堂の伽藍に48の僧坊を擁する大寺院として栄えたという。

 残念ながら、浅井長政と織田信長との争乱(1570~1573)の際に堂宇の大部分を焼失し、寺域は大幅に縮小されてしまった。

 現在は、大師堂と薬師堂と呼ばれる2つのお堂が高野神社と同居しているのみだ。

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 大師堂には、重要文化財に指定されている伝・伝教大師坐像が安置されている。右手に密教独特の独鈷(どっこ)杵(しょ)と呼ばれる金属製の道具を持ち、左手には念珠を手にしている。きりりと引き締まった口元に鋭い眼光。緊張感が漲る表情には強い意志が感じられる。

 天台宗開祖の最澄こと伝教大師像と言われれば、さもありなんと思えるリアルな像である。が、実際には伝教大師ではなく、第18代天台座主(ざす)で叡山中興の祖とも言われた慈恵大師良源の像であるというのが学者の見解のようである。

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 本堂のようにも見える薬師堂には、秘仏である薬師如来坐像が厨子の中に納められている。通常は秘仏であるのだが、今日は特別に拝観ができる。

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 蓮華座の上に坐し、左手に薬(やっ)壺(こ)、右手に施無畏(せむい)印を結んでいる薬師如来像は、螺(ら)髪(はつ)や目や口に鮮やかな彩色が施されていることもあり、行基の時代に彫られた像と見るのにはやや無理があるように思える。

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 むしろ、薬師如来像が安置されている厨子の周囲に無造作?に置かれている日光・月光両菩薩像や十二神将像などの諸仏の方が古めかしくて、かえって愛くるしく見えた。

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 続いて訪れたのは、尾山の釈迦堂だった。

 正式名を安楽寺と言う。先に訪れた高野大師堂の北西に位置する場所にある。寺の由来は詳らかではないが、やはり己高山を中心とした山岳仏教の修験僧との関係が深い寺だったようである。

 白山神社の額が掛かる石造りの鳥居の前でバスを降ろされた私たちは、その鳥居を潜り、鬱蒼と生い茂った木々の間を縫って釈迦堂に向かった。

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 昭和56年(1981)に建立された鉄筋コンクリート造りの仏像収蔵庫は、むしろこの辺りでは珍しいかもしれない。静かな山の中に突然現れたモダンなデザインの建物にやや違和感を感じながら建物の中に入ると、私の違和感はたちまちのうちに消え去った。

 中におわしたのは、釈迦如来坐像と大日如来坐像の2躰の如来像だった。いずれも、重要文化財の指定を受けている古色漂う仏様である。

 向かって右手に坐しておられるのが、釈迦如来像だ。

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たいへんにどっしりとした重量感のある仏様で、桧の一木造りでできている。両腕と両膝は後世の補修だそうだから、この釈迦如来像も数々の災難に遭遇し、数奇な運命を辿った後に今現在の釈迦堂に安住の地を得たということなのだろう。

 頭部が大きめで、重厚な体つきと相俟って、安定感のある古風な仏像の姿を造り出している。実際には10世紀頃の作のようだが、もう少し古い年代の仏像を想起させるオーソドックスな仏像だと思う。

 釈迦如来像の向かって左におわすのが、元は安楽寺の中心的な仏像であったと考えられている大日如来坐像である。

 大日如来は摩訶毘盧(マカビル)遮那(シャナ)の訳で、密教世界では諸仏の中心に位置する絶対的な存在なのだそうだ。通常、悟りの境地に達した如来像は珱珞(ようらく)や宝冠などの装飾を身に付けないのが決まりだが、大日如来だけはそれが許されている。

 安楽寺の大日如来像も、いたって地味なものではあるが宝冠を頂き、左手の人差し指に閉じた右手を乗せた「智拳印」と呼ばれる特殊な印を結んで深い瞑想に耽るお姿である。

 尊いお姿の2躰の坐像が並んでおわす光景は、圧巻だった。ありがたいお姿を目の当たりにして、私は無意識のうちに2躰の仏像の前に跪いていた。安住の地を得て、どちらの仏様も安堵の表情を浮かべているように私には見えた。

 その安定感が、たまらなく私には心地よく感じられた。

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 その次に私が訪れたのは、保延寺の阿弥陀堂である。尾山の釈迦堂からは南に下ったところにある。

 保延寺というのは寺の名前ではなくて地名で、かつてこの地には隣接する白山神社の神宮寺があったものと考えられている。

先程の安楽寺も白山神社の神域内に存在していたが、保延寺にもまた、別の白山神社が祀られている。同じ名前の神社が狭い地域内に複数存在しているということを、私は非常に不思議に思った。

 この地に存在していた寺は、花寺(はなでら)という名前の大きな寺であったようである。その寺の存在を裏付けるかのように、かつての寺域と思われる場所からは、白鳳時代の寺院瓦や古銭などが大量に発見されている。また『己(こ)高山(だかみやま)縁起(えんぎ)』という地元に伝わる記録によると、最澄が自ら彫った阿弥陀如来像がここ保延寺にあったことが書き記(しる)されている。

 今でも、広々とした開放感のある境内に、白山神社の社殿と阿弥陀堂とが共存している構図だ。

 赤い入母屋造りの立派なトタン屋根が印象的な古びた木造の阿弥陀堂の中におわすのは、3躰の阿弥陀如来坐像である。厨子中央の一段高い蓮華座に坐してやや大きめな像が中尊で、定印を結んでいる。

 向かって右の蓮華座に坐している阿弥陀如来像は中尊と同じく定印を、左の蓮華座に坐している阿弥陀如来像は来迎印を結んでいる。

 定印を結んでいる中尊と右の阿弥陀如来像は室町時代、来迎印を結んでいる左の阿弥陀如来像は江戸時代の作と見られているから、「己高山縁起」にある最澄が自ら彫ったという阿弥陀如来像ではないらしい。

 最澄の彫った阿弥陀如来像はどこに消えてしまったのだろうか?新しい阿弥陀三尊坐像は誰がどのような経緯で彫ったものだろうか?この寺やかつてこの寺に存在していた仏像たちにも様々な受難の歴史があり、それらを乗り越えてこそ、私たちが見ることのできる今の姿があるのだということをしみじみと思った。

 向源寺、石道寺、鶏足寺、飯福寺、戸岩寺、それに今日、これまで巡ってきた湖北地方のいくつかの寺の由来を考えてみると、これらの寺々には非常に顕著な共通点が存在していることに私は気付きはじめていた。

 己高山を中心とした山岳信仰に関係した修験者の寺であること。行基や泰澄が寺の創建に関わっていること。寺のご本尊として十一面観音像や薬師如来像などの仏像が彫られたこと。一時期衰えていた寺を最澄や空海が再興していること。そして新たに共通点として登場してきたのが、白山神社の存在だ。

 私には、湖北地方に優れた仏像が集中して存在していることの理由が、朧気ながら見えてきたような気がした。

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 そこには、己高山という核になる一つの神聖な山の存在があることを見逃すことはできない。山岳修行を志す修験者たちが、その拠り所となる聖なる山として己高山を見出し、この山を活動の拠点として活動範囲を拡めていったのが、そもそもの始まりだったのではないだろうか。

 またこの土地が、近江国、ひいては都の鬼門にあたる北東の方角に位置しているということも、多数の寺院が建立された重要な動機となっていたことは間違いないだろう。行基や泰澄らが寺を建立した後、称徳天皇、桓武天皇などから国家鎮護の祈祷所として厚い加護を受けていることからも、その事実を見てとることができる。

さらに、敦賀や福井などの日本海側と京などの近畿圏、および北国脇往還の原形となる道などを通じて東海地方との接点となる交通の要衝にあり、かつ気候風土に恵まれた土地だったという地理上、地勢上の理由も重なったものと思われる。

これらの寺々の中心地にあたる古橋地区(現長浜市木之本町古橋)が「近江のまほろば」と呼ばれていることは、先に少しだけ触れた。「まほろば」とは、優れたよい土地を意味する「マホラ」が語源で、「マホラ」な場所が「マホラバ」であり、転訛して「まほろば」となった。

三方を山に囲まれ、南方に開けた平野部の中央にあたるのが古橋である。古来、大陸からの先進文化が伝来し定着した土地であるという。6世紀末から7世紀前半のものと思われる箱型の製鉄炉跡が確認されており、この地域にかつて高い技術を持った大陸文化が存在していたことが実証されている。

おそらくは敦賀や若狭あたりに渡ってきたのだろう。先進技術を持った渡来人たちが京との行き来の途中で古橋を通り、居住に適したこの土地を気に入り定着し、そして湖北の誇り高い文化の築き手となっていったのではないか、と私は想像している。

渡来人たちが湖北の地にもたらしたものは、製鉄の技術だけではない。仏教の教義や仏像美術なども、この時に大陸から伝わったものではないだろうか。湖北地方に美しい仏像が多数存在しているのは、日本固有の文化に程よく大陸の文化が融合しているからではないかと私は考えている。

湖北の文化には、どこか遠い大陸の匂いを郷愁として感じ取ることができる気がする。そのことは、かの司馬遼太郎さんもその著書『街道をゆく』のなかで触れられている。

今の、豊かな自然に恵まれた、人の住処(すみか)も稀な山村風景からは想像できないけれど、古代の古橋地区は、近江国のなかでも特段にモダンな文化を持った先進地域だったのではないだろうか。そんな想像を巡らしてみると、胸がわくわくしてくる。

さらにもう一つ、私の思考のなかに新たに加わってきたものが、白山信仰の存在である。

白山信仰とは、加賀国、越前国、美濃国の3つの国にまたがる霊峰・白山への尊崇を源流とする信仰である。

太古の私たちの祖先は、自然の中のあらゆるところに神が宿るものと考えていた。特に、激しいエネルギーを伴って私たちの眼前に姿を現す雷(いかずち)や野分(のわき)などは、畏怖すべき神として崇められていた。

また、私たちが近づくことを拒むかのように立ちはだかる険しい山や心を和ます美しい山容の山なども、大いなる信仰の対象として尊崇されていた。

白山は、御前峰(2702m)、剣ヶ峰(2677m)、大汝峰(2684m)など2600m級の山々からなる連峰の総称で、一年を通じて雪を頂く美しい山容から、富士山、立山と並んで日本三霊山の一つとして、古来より敬虔なる信仰の対象とされてきた山である。

それまでの原始的山岳信仰に仏教的な意義づけをなし、白山信仰へと高めたのが、泰澄(682あるいは691~767)だと言われている。かの向岸寺の国宝・十一面観音像を彫ったと伝えられている、泰澄である。あのような美しい十一面観音像を彫った人物が、山々を駆け巡って修行していた僧だったとは、なかなか素直には結び付かない。

泰澄は越前の人であるが、その父は高句麗からの亡命帰化人であったとされている。泰澄が自ら渡岸寺の十一面観音像を彫ったかどうかはわからないけれど、大陸から伝わった仏教美術に白山信仰による仏像崇拝の思想が加わって、湖北に多数の観音像が残されたと考えることは、それほど不自然な想像ではないと思われる。

それにしても、伝説を素直に信じると、行基も泰澄も最澄も、名僧であることよりも、むしろ仏師として特筆すべき才能を持っていたと言わざるを得ない。彼らはいかに多くの仏像を彫ったことになっていることか!

実際には、同じ行基作とされる仏像でも作風が著しく異なっていることから、すべての仏像を行基が彫ったというのではなくて、様々な仏師が彫った観音像に行基が仏像としての魂を入れたというくらいのことだったのかもしれない。

こうして湖北地方に多数創られた仏像が、やがて寺の衰退とともに次第に修行僧のものから村びとたちが保護すべきものとなり、住み処である寺そのものも険しい山中から村里に降りてきて、今に至っているのではないだろうか。

私の心の中でなんとなくもやもやと燻(くすぶ)っていた疑問が、次第に焦点を結びはじめたような気がした。そういう目で湖北の仏像たちを見ていくと、尊くて、慕わしくて、それでいて限りなく身近な存在に思えてくる。

湖北の人たちにとって観音様は、遠くから拝むようなありがたい仏様ではない。遠い祖先から連綿と伝えられてきた村の宝物であり守り神なのだろう。常に村人たちの身近にいて、村びとたちを災難から守ってくれる。そうであるが故に、村人たちがたいせつに守り続け、後世の子孫たちへと伝えていかなければならない先人たちからの遺産なのだ。

観音様を巡るバスの旅はその後も続き、保延寺観音堂(千手観音像)、雨森観音堂(通称蔵座寺)(千手観音像)、井口円満寺(阿弥陀如来像、十一面観音像、地蔵菩薩像)、井口理覚院(大日如来像、百軀観音像など)、横山神社(馬頭観音像)、東物部光明寺(十一面千手観音像)、磯野寺(十一面観音像)と諸寺(神社)を経巡り、最後に渡岸寺の国宝・十一面観音像との再会を果たして出発点の高月駅に帰ってきた。

たった一日で、私は実に多くの仏像に出逢った。

どの仏様も敬虔で慈悲に溢れ、そして美しかった。また、仏様ご自身だけでなく、仏様の住み処である観音堂にも私は心を惹かれた。

千差万別ではあるけれど、京都や奈良の仏像たちと違って、大きな寺院のご本尊として本堂に鎮座ましましている仏像というのはむしろ稀だった。

湖北の仏像たちは、いかにもそれが似つかわしくて好感が持てるのだが、小さな観音堂にちょこんとおわして、私たちを気軽な気持ちで迎え入れてくれた。

そこには、敷居の高さがない。

「ようお参りに来てくれましたな。ほな、ちと休んでいきなされ。」観音様からのこんな声が聞こえてきそうな近さ、親しさが感じられるのだ。

それぞれの地域のそれぞれのやり方で、ご先祖様から代々受け継がれてきたたいせつな観音様を、手作りの観音堂にお迎えしてお参りする。素朴な信仰の一端に触れた思いがした。

これらの観音堂の大半は、前述の石道の観音様と同様に、村びとたちが交代で管理に当たっているのだという。

「観音の里 たかつき ふるさとまつり」が行われる8月第一日曜日は別にして、観音堂の多くは、普段は扉が閉められていて無住である。拝観したい場合は、管理人の方に電話をかけて扉の鍵を開けてもらわなければならない。

最初のうち私は、なんて不親切でやる気のない対応なのかと思い憤りを感じていた。観音様を観光資源として、「観音の里」として売り出そうとするのなら、観音堂には常時管理人がいて、拝観者が訪れればいつでも観音様を拝むことができるように便宜を図るべきだと思ったからだ。

しかし今は違う。

湖北の観音様は、このままでいいのではないかと思うようになってきた。商業戦略に乗って観音様が常時私たちを待ち構えているのではなくて、私のためだけに観音堂の扉が開けられて、私のためだけに観音様がその尊いお姿をお見せくださる。

そう考えたら、なんと贅沢な時間と空間とを私は占有していることかと思えてくるからだ。

観音様は見世物ではないのだから、観音様は可能な限り普段どおりの信仰の場に置いておくべきだと思う。そういう村びとたちの生きた信仰の世界のなかにいる観音様を私たち旅人は垣間見させていただく。

そういう構図が本来の姿ではないかと思う。

それに、いちいち電話で連絡を受けて観音堂に駆けつけてきてくださる管理人の方の親切な対応も、とてもうれしく感じられる。そこには、村の宝ものである観音様をわざわざ見に来てくれた人への感謝の気持ちが表れているからだ。

 思いがけなく対面した渡岸寺の国宝・十一面観音像を見てからというもの、私は随分と長い旅を続けてきてしまった。

 湖北地方にこのように気高い仏像文化が存在していたことに素直な驚きを感じながら、次第に私は素朴な湖北の観音像の持つ魅力に引き込まれていった。

 湖北の仏像たちや寺々に伝わる数奇な運命の歴史も知った。

 栄枯盛衰の世の中に翻弄されながらも、しかし今は、湖北の仏像たちは敬虔な村びとたちの心からのもてなしを受け、居心地のいい住み処に住まわって、現在の境遇を楽しんでいるかのようにも思える。

 私の湖北の観音たちを巡る旅は、まだ三分の一くらいしか終わっていない。この土地におわすすべての観音像との出逢いを求めて、私は長くなるであろう旅を続けていきたいと思っている。

 最後に、湖北地方には60躰近くの観音像があると言われているけれど、同時にこの地は、元亀年間(1570~1573)の浅井氏と織田氏との戦いによって寺社が焼かれ、田畑が軍馬によって蹂躙された土地である。

この無益な争乱によって失われた観音像も多数あったのではないだろうか。この蛮行がなければ、私たちはもっと多くの観音像に逢えていたかもしれないと思うと、返す返すも残念な気がしてならない。