近江孤篷庵 その2

2. 小堀遠州・庭造りの匠の譜

 遠州が直接作庭に関わったとされている庭は、実はあまり多くはない。

 まずは確実と思っていいのは、それでも諸説あるようだが、前章の冒頭で列挙した南禅寺方丈の枯山水の庭(「虎の児渡し」)、南禅寺塔頭・金地院の枯山水の庭(「鶴亀の庭」)、二条城二の丸庭園の「八陣の庭」、大徳寺孤篷庵の枯山水の庭(「近江八景の庭」)、仙洞御所の廻遊式庭園くらいであろうか。

 それ以外にも、大徳寺方丈の東庭、岡山県高梁市頼久寺の枯山水の庭(「鶴亀の庭」)、静岡県浜松市龍潭寺の池泉式庭園など、寺伝で遠州作と伝えられている庭もある。

 私は、このうちのいくつかの庭を訪れてみた。

 南禅寺には、方丈と塔頭である金地院の2つの遠州の庭が存在している。

方丈の庭は、「虎の児渡し」と呼ばれている枯山水の庭である。玄関を入って最初に左手に見える広々とした庭が、遠州が創った虎の児渡しの庭である。

と言っても一見、何の変哲もない枯山水の庭に見えてしまう。

手前一面に海を表す白砂が波紋を描きながら敷かれており、土塀に沿った奥側には穏やかな山容の大日山を借景として石と木と苔とが配されている。

 「虎の児渡し」という名前から想像して、もっと動的な意匠を凝らした奇抜な庭を想像していた私にとっては、意外なほどにおとなしい感じのする庭であった。

しかしその印象は、私が失望したということを意味するものではない。方丈の縁(えん)に腰を降ろして静かな気持ちで眺めていると、たいへんに心が落ち着く庭であることが実感されてくる。

よく見ると、木や石や苔は左奥側に大きな面積を占有していて、その割合が右奥へ行くに従って少なくなっていく。私たちは知らずしらずの間に、左から右への空間の大きな流れを意識づけられていることがわかる。

静の空間のなかに動が意識づけられ、その緩やかな流れがアクセントとなって観る者の心に変化を植え付けていく……。奇を衒うことなく、王道を歩んでいる庭であるとの印象を強く受けた。

遠州の実力と自信とが溢れている庭と言ってもいいだろう。

この庭が虎の児渡しの庭と呼ばれているのは、庭の左側を中心に2列に並べられた6つの石に由来している。

左端の大きな岩が母虎で、右側に連なる石が子虎である。母虎が子虎を1匹ずつ咥(くわ)えて川の向こう岸に運んでいく姿を表しているのだという。(注1)

 南禅寺にあるもう一つの遠州の庭は、塔頭である金地院にある。

 金地院は、黒衣の宰相とも呼ばれ、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した政僧である金地院(こんちいん)崇伝(すうでん)に因んで付けられた名前である。

 崇伝は、亡き家康の遺髪と念持仏とを祀るための東照宮と2つの茶室をもった数寄屋の建築を遠州に命じた。それが寛永6年(1629)に完成すると、今度は徳川家の永遠の繁栄を願う庭園の造営を命じた。その庭こそが、世に有名な鶴亀の庭である。

 金地院の門を潜ると、いきなり鶴亀の庭には向かわずに、まずは左手に順路を取らされる。位置的にはちょうど庭園の奥にあたる場所にある東照宮を見るためだ。

 細いがきれいに設(しつら)えられた道を歩いていくと、質素な小さな門が見えてきた。その門から先が東照宮である。

 遠州の美の世界は、すでに始まっている。

 一般には鶴亀の庭ばかりが有名であるが、遠州は先に建築した東照宮と数寄屋に後から造営した鶴亀の庭を合わせて、トータルで遠州の世界をコーディネートしているのだ。だから、東照宮は決して鶴亀の庭の前座でもおまけでもない。

 楼門から東照宮に向かう細い参道に敷かれた敷石がいきなり私の心を捉える。様々な石を大柄なモザイク絵のように組み合わせて一本の道を作り上げている。そのデザインが絶妙で心憎いばかりだ。これも計算されたものだろうか、石と石の継ぎ目に生えた苔がしっとりとした落ち着きを醸し出している。

 石でできた鳥居を潜ると、やがて東照宮の回廊と拝殿とが見えてくる。

 長い歳月の間に塗られた黒漆が薄れ、木の地肌が現れている姿に荒涼感は否めない。しかしよく見てみると、日光東照宮とは比べるべくもないが、軒下に嵌め込まれた花や鳥などの透かし彫り彫刻の見事な立体構造と、色褪せてしまっているとは言え豪華な彩色の痕跡とをはっきりと認めることができる。

 拝殿の内部は外観よりもぐっと保存状態がよく、黒漆で塗り込められた内陣には美しい彩色の透かし彫りが嵌め込まれ、土佐光起の筆なる三十六歌仙の額が掲げられている。天井に描かれている鳴龍の絵は狩野探幽によるものだ。

 東照公遺訓

一.  人の一生は重荷を負て遠き道を行が如し、いそぐべからず。

一.  不自由を常と思へば不足なし。

一.  心に望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし。

一.  堪忍は無事長久の基。怒は敵と思へ。

一.  勝事ばかり知てまくる事をしらざれは害其身にいたる。

一.  己を責て人をせむるな。

一.  及ばざるは過たるよりまされり。

 立派な木の板に書かれた家康の遺訓が私の心を捉えた。何度も目にしたことがある有名な言葉だけれど、家康を祀るために遠州が創った東照宮で改めて読んでみると、心にズシリと響く重い言葉である。

 拝殿とそれに連なる石の間と本殿の周囲には、これまたいかにも遠州らしい意匠を凝らした飛び石が設えられている。四角く細長い石、幅の広い長方形の石、丸い石、正方形の石、それに自然石など、それぞれに特徴ある様々な石を組み合わせては私を鶴亀の庭のある方丈方面へと誘ってくれる。

 これらの素敵な飛び石群は、遠州オリジナルの演出であるかどうかはわからない。あるいは後世の人たちの造作であるかもしれない。そうであったとしても、いわゆる遠州好みの精神で創り上げられたこれら一帯の空間は、私にとってたいへん心地いい心の快適さをもたらしてくれる空間であった。

 これらの心地よさとは、いったい何なのだろうか?

 一言で言ってしまうとセンスの良さという言葉になってしまうのが悔しいが、ほかに言葉が思い浮かばない。

 人工の物(四角形や丸などの人工的加工を施した形)と自然の物とを巧みに組み合わせて独特の変化を創りだす絵的センスとでも言えばいいのだろうか。遠州は、誰もが美しい、だれもがおもしろいと感じる勘どころを感覚的に身につけていたのだろう。

 前の章で私はその感覚を、出身地である近江国の伝統と文化とに結びつけて考えてみた。

 開山堂を経て、いよいよ方丈から鶴亀の庭を眺める時がやってきた。

 鶴亀の庭は、南禅寺方丈の虎の児渡しの庭よりも相当に大規模な庭だ。手前側には広大な白砂の海が拡がり、奥側の築山には木々や苅込などが鬱蒼と生い茂る。

 しかし一見しての印象は、虎の児渡しの庭と同様に何の変哲もない普通の庭である。庭は非常に奥が深い芸術作品で、作庭者の意図は単純には伝わりにくいもののようだ。

 庭を見る時には、庭に関するいくつかの約束事を知っておく必要があるし、加えて作庭当時の時代背景や作庭者の心情などにも心を配ることが重要である。

 遠州は金地院崇伝から、徳川家の永遠の繁栄を願う庭の作庭を依頼された。そして遠州は、徳川家の永遠の繁栄の象徴として、蓬莱神仙思想に基づき鶴島と亀島とを配した広大な枯山水の庭を作庭したのだった。

 徳川家のための庭を創るという情報は、当時の諸大名間に広く流布されていたのだろう。西国の大名を中心に名岩、奇岩の寄進が相次いだ。遠州は、これら超一流の素材を駆使しながら、思う存分の作庭に取り組むことができたのである。

 衆人が注目していた。遠州がどんな庭を創るのか?

大きなプレッシャーを感じながらも遠州の心は、むしろそのプレッシャーを楽しむかのように静かに燃えていたのではないだろうか。

遠州の頭の中に描かれた庭のプランが、やがて現実の庭として結実していく。

中央に置かれた三尊石組と対峙するかのように、右側に首の長い鶴を擬した鶴島が、左側に亀を描いた亀島が向かい合うように配されている。

鶴島を構成する鶴首石は、安芸国浅野氏から取り寄せた長さ4.2m、幅1.95mの大岩で、東照宮を遙拝するために中央に置かれた礼拝石も大名からの寄進の岩である。

仙人が住むという蓬莱山を表現する中央の石組群が比較的小さいのは、遠州流の遠近法なのだそうだ。

一見した時にはごく普通の特徴のない庭に見えたものが、こうして遠州の作庭意図に思いを巡らしながら眺めていくと、非常に写実的で計算され尽くした技術と思想とで創られていることがわかるようになる。

縁から眺める庭もすばらしいが、方丈の中に入り、開け放たれた障子の間から額縁のように縁取られた庭を観るのも、また趣深いものである。

最後に、庭の右側に開山堂へと弧を描いて渡る切り石の飛び石が目に入ってくる。石の形といい、孤の描き具合いといい、いかにも遠州らしい演出のように見えるが、残念ながらこの飛び石は後世の付け足しであるらしい。

金地院を訪れた最後に、遠州が創った茶室である八窓席について触れておかないわけにはいかない。

遠州は作庭家としても世に知られているが、茶人としても当世随一の大名人であった。10歳の時に父政次の任地であった大和郡山の豊臣秀長邸にて、障子越しに利休の点前を見たことは前章で触れた。その後は、古田織部に師事して茶の湯の道を極めていった。

利休が信長や秀吉の茶の師匠として歴史上に存在感を示したのに対して、遠州は徳川将軍家の茶の師範として、武家茶道を確立した。

弟の正行から始まった遠州流の茶道は、今も小堀家の子孫が代々家元を務めている。

そんな遠州が鶴亀の庭の作庭に先立って造ったのが、有名な八窓席の茶室である。

侘びを追求するにしたがって利休の茶室は、歳を追うごとに暗くて狭い茶室へと変遷していった。

一方の遠州の茶は、いわゆる「綺麗さび」と呼ばれる美意識に基づいたものだった。利休の「侘び」や織部の「傾(かぶ)き」(注2)という概念が一般人には理解しにくい、言わば業界人のための特異なものであったのに対して、遠州の求めるところは、誰にでもわかりやすくて明るい、開放的な美の世界だった。

金地院にある八窓席の茶室も、文字通り8つの窓を備えて外の光を十分に採り込む構造の明るい茶室である。残念ながら、明治時代の改築により窓は6つに減ってしまっているが、渋い色合いで統一された内装に差し込む明るい外光が妙を得て、たいへんお洒落でセンスのいい茶室であると思う。

こうして遠州の遺した作品としての庭や茶室をほんの少しだけだが見ていくと、それだけでも遠州の抜きん出た美的センスに感嘆してしまう。ここまできたらもう少しだけ、遠州の世界を覗いてみたいと思う。

 次に私が訪れたのは、二条城だった。

 二条城は、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が京都御所の守護と将軍上洛時の宿泊所として藤堂高虎らに命じて築城したもので、慶長8年(1603)に最初の完成を見ている。

 その後3代将軍家光が、時の天皇であった後水尾天皇の行幸を仰ぐために小堀遠州らに命じ伏見城の遺構を移築するなどの大規模な改修を行っている。現在私たちが見ることができる二条城は、寛永3年(1626)に完成したこの時の姿が基本になっている。

 家光は、秀吉が聚楽第に後陽成天皇を迎えた事例に倣って、後水尾天皇と女御の和子(まさこ)を二条城に迎えようとした。それはまさに、徳川幕府の威信をかけての一大イベントだったのである。

 和子は、2代将軍秀忠と江との間に生まれた、家光にとっては3歳年下の実の妹である。徳川家と天皇家との強固な関係を構築するために入内したもので、和子は後の明正天皇(女帝)を産んでいる。

 遠州は、後水尾天皇と女御の和子を迎え入れるために、庭園の南側に行幸(みゆき)御殿(ごてん)、中宮御殿、長局などを建設し、池の汀(みぎわ)には御亭を建て、池中の島との間に4本の橋を渡したと伝えられている。

 庭の東側には将軍の公式の対面所である大広間が、その北には譜代や親藩など内輪の対面所である黒書院が庭に面して建てられていて、行幸御殿(南)、大広間(東)、黒書院(北)と建物が三方から庭を囲む構造となっていた。

 遠州は、元々あった築城当時の二の丸庭園を改造し、どの角度からみても美しい庭へと仕立てていったのであった。

 この時に建築された行幸御殿や中宮御殿などの建物は遠州の指揮のもとで仙洞御所に移築され、皇位を娘の明正天皇に譲って上皇となった後水尾上皇の51年間にも及ぶ院政の舞台となった。

 その後も二条城二の丸庭園は吉宗の時代に大改修を受けるなどして、必ずしも遠州の作った庭がオリジナルで現存しているわけではないのが残念である。

 しかしながら現代を生きる私たちには、目の前に存在している二の丸庭園を見る以外には方法がないので、今ある庭園を見ながら、遠州の庭に思いを巡らすことにしたい。

 二条城は、外国人観光客が多いことにまず驚く。

 日本の伝統文化を象徴するような京都のなかでも、外国人にとってはとりわけ、二条城は日本文化を実感できる観光スポットなのだろう。

 しかし私のなかでの二条城は、15代将軍の徳川慶喜が各藩の代表者を集めて大政奉還を宣言した場所として記憶に留められている。この日を境として徳川氏は、武士の頭領から一大名へと立場を変え、やがて政治力に勝る薩長などの勢力から朝敵との汚名を着せられて衰亡の道を歩き始めた。

 後水尾天皇を招いて3代将軍家光が徳川幕府の権威を盤石なものとせしめようとした同じ場所で、240年あまり後に徳川幕府最後の将軍となった慶喜が幕府の終焉を告げることになろうとは、皮肉な歴史の巡り合わせだろうか?

 その慶喜が大政奉還を宣言した場所である大広間から、遠州が創った二の丸庭園を眺めた。前述のとおり、東側から庭を見るかたちになる。

 これまで見てきた南禅寺の庭がどちらも枯山水の庭であったこともあるのだろうが、景色のなかに水が見える庭はなぜか心が落ち着く。目の前に現れた風景は、精巧な構図を背景として様々なものが描き込まれている豪華な絵画を見ているような思いがした。

 池の中央には蓬莱島と呼ばれる大きな島が浮かんでいる。その左右にある2つの小島が鶴島と亀島だ。1つ1つを見ても特徴のあるステキな石が無数とも思えるくらい水際に置かれている。とても贅沢で迫力のある風景だ。

 蓬莱島には、手前には妙なる枝ぶりの松の木々などを配し、奥側には背の高い木々を置き、様々な濃度の緑が深山幽谷の世界を創り上げている。

 水と石と木とがまるで洪水のように一時(いちどき)に目に飛び込んで来て、私の目を奪う。

 徳川幕府のいやさかなる繁栄と皇室の永遠の寿ぎの象徴として、神仙蓬莱思想に基づく華やかでめでたい庭を遠州は創り上げたのであった。

 視点を変えて、北側の黒書院から二の丸庭園を眺めてみる。

 先程横から眺めていた景色を縦から眺めたようなものだが、中央の蓬莱島の松の木の枝ぶりが非常に強調されて目に映る。蓬莱島の前面には立った石も多く配されていて、景色に変化とコントラストとを与えている。

 華やかで豪華だった庭が、位置を変えて見ることによって力強さが強調される庭に変貌していることに驚く。遠州の頭の構造はどうやら、二次元ではなくて三次元の構造になっているらしい。

 さらに視点を変えて、かつて後水尾天皇の行幸御殿が建てられていたという南側から庭を見てみることにする。

 後水尾天皇が見たであろう庭は、大広間から見た庭とも黒書院から見た庭とも明らかに違って見えた。

 目の前に蓬莱池の水面が大きく強調されて拡がっている。その向こう側に黒書院の大きな建物が見える。光の洪水と言えばいいのだろうか、いろいろな庭の構成要素が一時に目に飛び込んでくるような濃度の濃い複雑さから解放されて、水の広さと建物の大きさとが景色に落ち着きをもたらしていることがわかる。

 私はゆったりとした気持ちになって遠州の庭を眺めた。

 後水尾天皇が見た庭には池の中に御亭が建てられていたというから、今私が見ている景色よりも少し変化が見られたことであろう。どんな建造物だったのかを想像しながら見る庭も、また楽しい。

 様々な方向から見られることを意識した庭。私は改めて、遠州の天才を強く感じた。このような庭を創ることができた人材は、当時においては遠州以外には存在しなかっただろう。いや、当時の日本だけでなく日本の通史においても、遠州を超える天才は存在しなかったのではないだろいうか。

 私は非常に不思議な思いで二条城を後にした。スケールが大きくて、豪華で、緻密で、かつ繊細な二条城二の丸の庭に、私の心は圧倒された。

 もう一つ、私にはどうしても見たい遠州の庭があった。

 それは岡山県高梁市にある頼久寺の庭である。

 備中国と遠州との関係は、前の章で少し触れた。父の正次が備中国の国奉行となり、遠州も父に伴われて備中国に赴いた。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いが終わってから間もない頃のことである。

 備中国には松山城という城があったが、当時の松山城は荒廃していたために、正次父子は城下の頼久寺に住んで政務を行っていた。その時に遠州が作庭したと伝わっているのが、頼久寺の庭園である。

 遠州作であることを否定する学者もいて、真偽のほどはわからない。しかし、作風は明らかに遠州のそれであり、ある意味、遠州らしさを最もよく表しているのがこの頼久寺の庭であるとも言われている。

 居ても立ってもいられなくなった私は、岡山県に向かった。

 岡山駅から伯備線の特急に乗ること30分あまりで備中高梁駅に着く。高梁の街は、深い山の中にあるしっとりと落ち着いた静かな街である。取るものもとりあえず、まっすぐに頼久寺に向かう。

 伯備線の線路に沿って15分ほどで頼久寺に着く。岡の上に石垣と白壁とで築かれた外観は、城そのもののように見える。間違いなく遠州はこの頼久寺にいた。かつて遠州が見たであろう景色を今、私が見ているということに、たまらなく感動を覚えている。

いよいよ遠州の庭に会うときがやってきた。私の興奮は最高潮に達している。

 遠州の庭を前にして、私は息を飲んだ。

 なんと美しくて、なんと大胆な庭なのだろうか?難解な庭が多い遠州の庭のなかで頼久寺の庭は、比較的わかりやすい庭でもある。

 遠く右奥の愛宕山を借景として、壁のように目の前に拡がる大きなさつきの苅込みがまず私の目を奪う。なんと迫力のある刈込みなのだろうか。私は今、すり鉢状にせり上がる刈込みの底にいるような感覚だ。

 ふと足元に目を落とすと、大海原のような白砂の波が不思議な波紋を描きながらひたひたと私の足に寄せてくるようだ。この砂の海は、本物の海だろうか、それとも遠州の故郷の琵琶湖の湖(うみ)だろうか?

 砂の海の右手には鶴島の石組みが、刈込みに包みこまれるようにして屹立している。頭をもたげた鶴の姿がありありと目に浮かぶ。

 そして、頼久寺の遠州の庭園で見逃してならないのが、飛び石である。

 白砂が描く大海原の中を、架け橋のように飛び石が渡されている。緩やかな弧を描き、四角い石と丸い石、自然石と人工石とが巧みに組み合わされている妙は、もううっとりとただため息をつくしかない。

 軒下に並べられた飛び石と言えばいいのか延段と呼べばいいのかわからないが切石の列も、いかにも遠州らしい斬新かつ洗練されたデザインで設えられている。

 学者のなかには遠州が創ったことを疑う学者がいるけれど、私には誰が創ったかはどうでもいい。間違いなくこの頼久寺の庭には遠州の魂が宿っている。遠州の美意識と美的感覚とが込められている。

 私は、飽きることなくこの美しい庭をいつまでも眺めていた。できることならば、移ろいゆく季節のなかで様々な表情を見せる庭の姿を見てみたいと思った。

 父・正次の家督を相続して備中国の国奉行を引き継いだ遠州は、元和5年(1619)に備中国から近江国浅井郡に任地変えとなった。後に近江国浅井郡小室村(現長浜市小室町)に陣屋が置かれたことから、小室藩と呼ばれることがある。

 遠州が初代藩主ということになっている。

 小室藩の陣屋が置かれていた場所は、前の章の冒頭で触れた近江孤篷庵とは小川一つを隔てて隣接した場所である。

 元和8年(1622)に遠州は近江国奉行を命じられ、さらに翌元和9年には伏見奉行に任じられ正保4年(1647)2月6日に69歳で亡くなるまでこの伏見奉行を務めている。

 領地が変わり、役職が変わっても、遠州は相変わらず伏見を拠点として幕府が命じる様々な作事に関わり続けた。天下が徳川のもとに収まり、戦乱の世から太平の世へと次第に世の中が落ち着いていく過程においても、徳川幕府は遠州の技術力とセンスとを必要としていたということだろう。

 遠州は作庭のみならず、茶道においては利休、織部の後継者として武家の茶道を確立した。遠州を流祖とる遠州流茶道は、400年の年月をつないで現在は第13世小堀宗実さんが家元を継承している。

 また、和歌や書においても特異な才能を披露し、焼物や茶道具などの目利きとしても当時の諸大名から絶大なる信任を得ていた。

 遠州のことを日本が生んだレオナルド・ダ・ヴィンチに譬える人がいるが、マルチアーティストとしての才能は過去の日本人のなかでも群を抜いていると言って過言ではないだろう。

 遠州のことは、いくら語っても語り尽きることができない。紙幅にも限りがあるので、最後に孤篷庵のことを記して遠州の締めくくりとしたい。

 孤篷庵は、洛北紫野・大徳寺の塔頭として今も存在している。前の章の冒頭で訪ねた近江孤篷庵とは兄弟のような関係だ。

 江戸幕府や朝廷、それに諸寺などの求めに応じて、あるいは命じられるままに、多くの建造物を築き、名園と言われる庭を造ってきた遠州が、最後に自分のために創ったのが、孤篷庵であった。

 元々、慶長17年(1612)に江月(こうげつ)宗玩(そうがん)を開山として大徳寺の別の塔頭であった龍光院内に小庵を結んだのが孤篷庵のはじまりであった。それから30有余年の歳月を経た寛永20年(1643)、64歳になった遠州が現在ある土地に移築したのが、今私たちが目にすることができる孤篷庵である。

 孤篷とは、遠州が師の春屋(しゅんおく)宗(そう)園(えん)から贈られた法号で、「一艘の苫(とま)舟(ぶね)」の意である。遠州の生まれ故郷である近江国・琵琶湖の大海原に浮かぶ一艘の小舟に遠州の身を擬(なぞら)えての命名であろう。

 遠州の隠居所として造られたけれど、実際に遠州がこの孤篷庵で隠居生活を謳歌できたのは僅かに2年ほどであった。遠州没後は、墓が築かれ菩提寺として遠州の霊を祀っている。

 残念なことに、孤篷庵は寛政4年(1793)に火災により焼失してしまった。従って今ある孤篷庵は、遠州が創建した孤篷庵そのものではない。遠州を深く尊敬していた松江藩主松平治(はる)郷(さと)が古図に基づいて再建したものである。

松平治郷は石州流の茶道を学んだ後に自ら不昧流の流派を打ち立てるほど茶道に造詣が深かった大名で、今でも松江の町では尊敬の念を込めて不昧公と呼ばれ市民からも親しまれている殿様だ。同じ茶道の大先達である遠州を祀る菩提寺の惨事に接して、放っておくことができなかったのだろう。

私にとってさらに残念なことに、孤篷庵は一般人には公開されていない。孤篷庵のことを調べれば調べるほど、一度でいいから孤篷庵を見たいという渇望は高まるばかりだ。

それでも、見られないことを承知のうえで私は、孤篷庵を訪れた。

大徳寺前のバス停でバスを降り、利休が切腹する原因(秀吉による言い掛かり)となった三門の横をすり抜け、突き当たりを左折してどこまでもまっすぐ進んでいく。

途中、石田三成の菩提寺である三玄院、秀吉による織田信長の盛大な葬儀が行われた総見院の前を通り過ぎる。どちらの塔頭とも門前に拝観謝絶の札が貼られている。ほかに細川ガラシャの墓がある高桐院(こうとういん)や大友宗麟の菩提寺である瑞(ずい)峰院(ほういん)(どちらも拝観可)などもあり、大徳寺という寺が豊臣氏を中心とする戦国大名とつながりの深い大寺であったことが実感される。

僅かに上り坂となっている静かな道を歩いていくと、やがて紫野高校を過ぎた左手に、目指す孤篷庵が見えてきた。私の心は高鳴っていく。

敷地の周囲には武家の邸宅らしく空掘りが巡らされていて、門前に渡された石橋のみが庵の中へと誘(いざな)う唯一の道となっている。

その石橋には、櫛の形をした洒落た欄干が取り付けられ、4個の割石の橋挟み石によってしっかりと固定されている。横から見るとT字型になっている橋脚のデザインは斬新そのものだ。

折しも、先程からしきりに落ち続けている雪が欄干に積りかけ、しっとりと落ち着いた雰囲気を醸し出してくれる。

門柱に2枚も貼られた拝観謝絶の貼り紙が、一般人の来訪を頑なに拒絶している。

私は門前に佇み、恨めしい気持ちでこの拝観謝絶の文字を睨んだ。

私が今、覗くことができる遠州ワールドは、門前の石橋と門からまっすぐに続く延段(のべだん)のみである。しかしながらこの2つだけを見ても、遠州の美意識を垣間見るのには十分すぎるほどの傑作であることに私は驚きの念を禁じ得なかった。

矩形の細長い切石を左右互い違いに配して、残りの空間を大小様々な自然石や切石でジグゾーパネルのように埋めていく延段。その組み合せの妙は、誰にも真似をすることができない遠州の美意識そのものだ。

私はうっとりとした思いで、長い間、目の前に伸びゆく延段を眺め続けた。

孤篷庵の茶会に招かれた客人は、この延段を通ってしずしずと歩いていくのだろう。期待感と好奇心とが入り混じった目を左右に転じては、キョロキョロと周囲の景色を窺うのかもしれない。やがて延段は右へと直角に曲がる。

唐門を潜ると、いよいよ書院への入り口の玄関だ。

最初に目にする方丈前庭は、赤土で固められたほぼ長方形の庭である。二重に植えられた生垣は、手前が低く奥側が高く刈り込まれている。まるで、浜辺に打ち寄せる波のように見える。

孤篷庵そのものが一つの苫舟で、その小舟で広い琵琶湖の湖水に漕ぎ出でたような気持ちと考えればいいのだろうか。

今は見えないけれど、往時は生垣の向こう側に船岡山という山が山頂を覗かせていて、三角形をした山の頂を湖に浮かぶもう一艘の孤篷に見立てていたとの説もある。なんと洒落た構図ではないだろうか。石橋、延段、そして方丈前庭と立て続けに繰り出されてくる遠州の趣向に、客人はもうメロメロである。

書院にある茶室「忘(ぼう)筌(せん)」から望む西側の庭は、また圧巻である。

上部を西日避けの障子で隠された庭は、下部だけが客人に解放されている。横長に切り取られた庭には、灯籠と蹲とが絶妙の構図で映し出され、まるでパノラマ写真か額縁に嵌められた上質な絵画を見ているかのようだ。

よく見ると灯籠は、五輪塔や宝筐印塔などを構成していた石材をバランスよく組み合わせた寄灯籠である。遠州はどこまで冴えわたるセンスを見せてくれるのか。

メインとなる庭は、遠州の故郷である琵琶湖の風景を描いた「近江八景」の庭である。

先程の方丈前庭から赤土の琵琶湖が続いている。白砂ではなくて赤土を固めて湖に見立てたところがまた斬新で心憎い。

鏡のように静まり返った湖面には、手前に背の低い松の島が見える。遠くには対照的な背の高い松が天を指して伸びていく。

もう一つの茶室である「山(さん)雲(ぬん)床(じょう)」から見える露地には、「布泉」の文字が印鑑のように逆さまに刻まれている手水(ちょうず)鉢(ばち)が置かれている。この手水鉢は、サイフォンの原理を使って水が噴き出すしくみになっているのだという。

美の才能だけではなくて、遠州には科学的な能力までもが備わっていたことがわかる。まさに、日本が生んだレオナルド・ダ・ヴィンチである。

遠州には、18歳の時に伏見屋敷内の露地に洞水門を作り師の古田織部を驚かせたとの逸話も遺されている。今で言うところの水琴窟(注3)を自らのアイデアで創出したということになる。

 孤篷庵の門前に佇み、私は一人、見ることができない遠州の世界に思いを馳せ、夢想に耽った。

 孤篷庵は遠州が遺した他の作事とは異なり、誰から頼まれたものでもなく、遠州が自分のためだけに自分の好みで創り上げた遠州ワールドの集大成である。いつか私も、客人としてこの延段を歩くことができる日がくるだろうか?そんな叶わぬ想いを夢に見ながら、わたしは静かに元来た道を戻っていった。

 いつしか雪は止み、代わりに冬の控えめな太陽が顔を出していた。しかし吹き過ぎていく風は、相変わらず冷たかった。

 遠州を追って、随分と遠くまで来てしまった。

 遠州の人生を辿り、遠州が遺した庭という作品を見ていけば見ていくほど、私は遠州という一人の人の大きさと魅力とに惹き込まれていった。

 遠州が生きた時代は、安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけての激動の時代だった。

世の趨勢が定まらない緊張感が支配した信長や秀吉の時代には、利休が現れて侘び寂びに徹した厳粛な茶が執り行われた。

豊臣氏から徳川氏へと武家の棟梁が交代する変動の時代には、織部の斬新で奇抜なアイデアに富んだ傾(かぶ)きの茶が一世を風靡した。

そして徳川の世が定まり皆が安定を嗜好し始めた時代に登場したのが、遠州だった。

遠州は利休の侘び、織部の傾き、の茶を継承しながらもよりおおらかで明るく洗練された茶の湯の世界を創り上げた。綺麗さびという言葉に代表される遠州の世界には、こうした優れた茶道家が歩んだ茶道の系譜と、安定した世の中を謳歌する気風とが混然一体となって表現されているのだと思う。

 底なし沼のように奥深い遠州の才能とセンスとに溺れていった私であったが、同時にそれは、私にとっては快楽にも等しいことであった。

  きのうふといひ 今日とくらして なすことも

  なき身の夢の さむるあけぼの

 辞世の歌を遺して、正保4年(1647)2月6日、遠州は伏見奉行屋敷にてこの世を去った。69年間の彼の人生は、余人が及ぶことのできない大きな足跡を遺した実りの多き人生であった。墓は前述のとおり、孤篷庵の中にある。

 (注1)虎の児渡し

     中国に伝わる故事。虎は、3匹児を産むとそのうちの1匹は大変獰猛で、他の2

匹の児虎を噛み殺してしまうという。川を渡る時に母虎は、最初に獰猛な児虎

を口に咥えて向こう岸に渡る。そのまま引き返した母虎は、残りの2匹の児虎

のうちの1匹を咥えて向こう岸に運び、同時に獰猛な児虎を咥えて元の岸に戻

す。次に母虎は、獰猛でないもう1匹の児虎を咥えて向こう岸に渡り、最後に

引き返して獰猛な児虎を咥えて向こう岸に運ぶ。こうして獰猛な児虎と獰猛で

ない児虎がどちらかの岸に同時に残されることなく、母虎は無事に3匹の児虎

を向こう岸に運んだとされている。

 (注2)傾き

     戦国末期から江戸時代初期にかけて流行した社会風潮で、異風を好み派手さを

追求した好み。茶道や和歌などを好む者は数寄者と呼ばれたが、数寄者よりも

さらに数寄に傾いた者という意味で「傾き」と呼ばれている。

     傾きの文化を代表する人物が、古田織部である。織部は、焼き物に独特の緑釉

を使用したり、器をわざと壊して継ぎ合わせたり、奇抜な形状の器を制作した

り、自由奔放ななかにセンスが光る作品を多数遺している。

(注3)水琴窟

     地中に作った空間に水滴を落とし、その際に発せられる音が作られた空間に反

響して美しい音となって響くようにした仕掛け。

     『桜山一有筆記』という書物に、18歳の小堀遠州が水琴窟を作って師の古田織

部を驚かせたとの記述が見える(「洞水門、摺鉢水門は遠州より初まりし事也」)。

洞水門は水琴窟と同義。