近江孤篷庵その1

1.小堀遠州・湖北に生まれた天才武将の前半生

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 小堀遠州という人の名前が意外と知られていないことに私はたいへん驚いている。

 京都の寺を訪ねたことがある人であれば誰でも、きっとどこかで遠州の名前を見かけたり聞いたりしたことがあるはずだ。

 目や耳には入ってくるのだけれど、記憶には残らない。あるいはそういうことなのかもしれない。

 私もそれほど遠州のことを詳しく知っているわけではなかったが、それでも小堀遠州は江戸時代初期に活躍した作庭家であることはよく知っていた。

 代表的な例で言うと、南禅寺方丈の枯山水の庭(「虎の児渡し」)や南禅寺塔頭・金地院の枯山水の庭(「鶴亀の庭」)、あるいは二条城二の丸庭園の「八陣の庭」、大徳寺孤篷庵の枯山水の庭(「近江八景の庭」)、仙洞御所の廻遊式庭園などが遠州作の庭であると伝えられている。

これらの直接遠州が作庭に関わった庭のほかに、「遠州好み」と言われている庭が多数ある。桂離宮庭園、曼殊院門跡庭園などがその代表例だ。直接遠州が手を下した記録はないものの、いかにも遠州が好みそうな趣向を凝らした庭として知られている。

遠州らしい庭とはどんな庭なのだろうか?

作庭を中心とした遠州の業績については、後にまた詳しく触れることになると思う。その遠州が近江国坂田郡小堀村(現長浜市小堀町)の出身だということを知って、驚いた。

 私の興味は急速に、小堀遠州という人物と小堀遠州がこの世に残した作品とにフォーカスされていった。もっと遠州のことを知りたいと思った。

その小堀遠州の菩提寺が長浜市にあるという。

近江孤篷庵というのが、その寺の名前だ。

 浅井長政の居城である小谷城があった小谷山の東方約2㎞ほどのところにある近江孤篷庵を、私は訪ねてみないではいられなかった。

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 素盞烏命神社という古びた石の鳥居が建つ場所で車を降りた私は、鳥居から続く一本の道をまっすぐに歩いていった。周囲にはすぐに山が迫り、僅かな土地を利用した水田が拡がっている。

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 その道が尽きるところに、近江孤篷庵の慎ましやかな門が見えてきた。

 折しも時は晩秋の季節で、気がつくと私は燃え立つような真っ赤な紅葉の中にいた。近江孤篷庵は、知る人ぞ知る湖北地方の紅葉の名所である。

 目を左右に転じると、深紅やオレンジ、それに黄色など微妙に色合いの異なる楓の葉が、重なり合い、風に揺れ、陽光に照らされて趣のある雰囲気を作り出している。静寂に満ちた周囲の空気がとてもしっとりとしていて、心が落ち着く風景だ。

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 趣向を凝らした格子戸が美しい瓦葺きのちいさな門は、平成22年の大雪の際に倒壊したとの報を耳にした。誠に残念なことではあるが、それほど繊細でささやかな門だったということでもある。

 孤篷庵という名前の寺は、京都の大徳寺にも存在していることは先に少しだけ触れた。小堀遠州が隠居後の居所とした庵で、遠州作の庭や茶室があり、また遠州の墓所があることでも知られている。

 同じ臨済宗大徳寺派に所属し、同じ円恵霊通禅師(江雲和尚)を開山とし、同じ孤篷庵と命名されていることから、2つの寺は兄弟のような存在であると言える。こちらの孤篷庵の頭に「近江」を付けているのは、そんな紛らわしさを避けるためでもある。

 近江孤篷庵は、遠州の子の小室藩2代藩主・小堀政之によって、父遠州の菩提を弔うとともに、家臣の参禅道場の場として承応2年(1653)に建立された寺である。

 当初は今の建物よりもさらに北西の奥に建てられていたものを、宝永6年(1709)の3代藩主政房の時、性宗紹宙和尚が今の場所に移築したものと伝えられている。

 今でも山に抱かれ静寂が支配する幽玄世界のなかにあるが、当時は今以上に人の喧騒が及ばない静謐な環境にあり、野鳥の声のみが喧しく響く自然の中に溶け込んだような世界であったらしい。

 小室藩の経済的支援を背景に、江戸時代中期までは興隆を誇った大寺であったという。

 そんな孤篷庵に転機が訪れたのは天明8年(1788)、藩主の小堀政方が改易となり、寺の後ろ盾が失われたことである。世の常とは言え、その後孤篷庵は衰微の一途を辿り、江戸末期の佐渓和尚の時には、寺領として少々の山林と畑を有するのみで、庫裏や禅堂などの建物も失われ、やがて明治の声を聞いた後には無住の寺となり荒れ果てていた。

 孤篷庵の名とその存在は、しばらくの間人々の記憶から忘れ去られていた。

 昭和13年(1937)になってようやく、定泰和尚が寺の再興を図り、住持となって徐々にだが寺の整備を進めていたところ、昭和34年(1959)にこの地を襲った伊勢湾台風により最後まで残っていた本堂までもが倒壊し、跡に残るは礎石のみとなってしまった。

 今の本堂は、そのような無の状態から多くの縁者や地元からの篤志を募り、昭和40年(1965)にようやく再建されたものである。惜しいかな、今の近江孤篷庵の建物に幾星霜を経てきた重厚感が感じられないのは、そのためである。

 庭園も堂宇と同じく荒れるに任せていたものを、本堂再建とともに整備され今に至っている。それに先立つ昭和34年には、庭園を構成する石組みなどが江戸初期の遠州流庭園の基本構造をよく遺していることから、滋賀県史蹟名勝への指定を受けている。

 作庭家として世に知られた遠州の菩提寺だけあって、子の政之は父の好みのとおりに庭を設えて父の菩提を弔ったのであろう。

 近江孤篷庵には2つの庭がある。

 本堂の南西には、広々とした緑の苔の空間の中に、五老峰、海、舟などの石を配した枯山水の庭が構築されている。

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 縁に腰をかけてゆったりとした気持ちで眺める庭も美しいが、建物の中に入り、開け放たれた戸を額縁に見立て、一幅の絵画のようにして眺める枯山水の庭は、また趣が深い。

 もう一つの庭は、本堂の北東に設えられた池泉廻遊式の庭である。

 庭の入り口にあたる建物の角の地面には、石の蹲がさりげなく置かれていて興をそそる。その軒先に吊るされているのは鉄製の灯篭だろうか、涼やかな意匠が風流を誘う。

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極上の空間に足を踏み入れたような快い高揚感を胸の内に感じながら、私はもう一つの庭を堪能した。

 背景となる山の斜面に木々をあしらい、目の前には錦渓池と名付けられた池を配している。真っ赤なもみじ葉が水面(みなも)に落ちて、鮮やかな錦を織りなしているようだ。常緑樹の艶やかな葉の緑と、紅葉した楓の赤との絶妙なバランスが美しい。

 瀟湘八景を模した庭はどこか幻想的でもある。私は遠州が求めた美の世界の一端を垣間見たような気がして、心が躍った。

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 ご本尊は釈迦牟尼如来坐像で、江戸時代初期の仏像だ。厨子の左右には、小堀家歴代藩主などの位牌が並べられている。

 襖絵は、京都の染色家で日本画も手掛けられた皆川月華さん(1892-1987)の秀作である。安田翠仙(すいせん)さんに友禅の染色を、都路(つじ)華(か)香(こう)さんに日本画を学び、伝統的な友禅の技法に日本画の絵画的手法を応用した染彩で独特の境地を拓いた日本の染色工芸の草分け的存在の芸術家だ。

 勢いよく流れ下る川の畔に咲く梅の大樹を表した襖絵や、風になびく竹林に飛び交う雀の風景、積もりゆく雪の重みに頭を垂れる竹の図、斜めに生える松の枝から飛び立つ鷹の絵などが、落ち着いた色彩で生き生きと描かれている。

 近江孤篷庵自体は小堀遠州没後に建立されたものであり、かつ、度重なる人災や天災によりほとんど創建当時の面影を残すものではないけれど、遠州の遺志は確実に人々の心のなかで引き継がれ語り継がれ、遠州に縁(ゆかり)の寺として今に至っているような気がする。

 私はこれから、ここ近江孤篷庵をスタート地点として、小堀遠州という人の人生とその業績を追っていくこととしたい。

 長浜市に小堀町という地名がある。

 長浜駅からまっすぐ東に2㎞ほど行った場所だ。この道をさらにまっすぐ行くと、石田三成の出生地である石田町に至る。

この小堀町こそが、遠州が生まれた場所である。すぐに隣接して総持寺という真言宗豊山派の大きな寺がある。

 遠州はこの小堀町で、地元の豪族である小堀新介正次の長男として天正7年(1579)に生まれた。名は、政一という。母は、浅井氏の重臣である磯野員(かず)昌(まさ)の女(むすめ)である。浅井氏の重臣の女を妻に迎えるということは、浅井氏における正次の立場が中枢に近いものであったことを窺わせる一事である。

 小堀氏は、曳山まつりの舞台である長浜八幡宮や既述の総持寺などに保管されている古文書にその名が度々登場する名家であった。父の正次の代には、当時湖北地方を領治していた浅井氏に属していた。

 地理的に近い土地を拠点としていた石田氏とは似たような境遇であり、小堀氏と石田氏との間に何らかの交流関係があったと考えても不自然なことはない。

 大きな転機が訪れたのは、主家である浅井氏が織田信長に攻められて滅亡したことである。

 石田氏もそうだが小堀氏も、最後まで浅井氏と運命を共にすることなく、小谷城落城の前に城を離れて羽柴秀吉側に付いている。正次という人は、義や忠に厚い人物ではなく、時宜を見るのに敏で合理的な考え方を持った人物であったことが窺える。

 正次は、命を惜しまずに戦場で働き武勲を上げる武闘派の武将ではなく、戦線の後方にいて調整能力や政治能力を発揮することで存在を主張する官僚派の武将であったものと考える。

 秀吉側に与した正次は、秀吉の弟である羽柴秀長の家臣となり、重用されていく。秀長はよくできた人物で、秀吉を前面に立てて盛り立てながら、陰で秀吉の立身出世をきっちりと支えた人物だ。

 ある意味、正次はよき主に仕えたことになる。

秀長の下に付くようになった正次は、優秀な官僚として次第に秀長の信任を厚くしていった。秀吉の中国攻めの進展に従って秀長も転進を続け、正次も但馬国から丹波国、そして播磨国へと領国管理の範囲を拡げていった。

秀長は、小牧・長久手の戦いの後に戦功を認められて秀吉から紀伊国と和泉国の二国を与えられた。さらに四国の長宗我部氏を平定した功により大和国をも手中にした秀長は、三ヶ国合計で百万石の太守となり、天正13年(1585)9月に大和郡山城に入城した。

 秀長は、奈良から経済の中心を郡山に移し、奈良の寺社勢力の武装解除を促進するとともに、郡山を大和国の中心として、街を創り新しい文化をこの街に持ち込んだ。天正15年(1587)に従二位大納言に任じられた秀長は大和大納言と呼ばれ、郡山の人たちから親しまれた。これも秀長の人柄なのだろう。

 郡山の街を歩いてみた。

 遠くに若草山の緑の絨毯のような滑らかな山肌が見渡せる。奈良からの距離がそれほど遠くないことを実感させられる光景だ。

 明治・大正以降のものだろうが街にはまだ古い趣のある建物が残っていて、往時の華やかなりし城下町の面影を今によく伝えている。

 魚町、紺屋町、材木町、茶町、豆腐町など、当時の城下町の町割りを想起させる町名が今も使われ、外堀の一部が緑地として整備されている。紺屋町を通る道の中央には掘割の清らかな水が流れ、旅人を爽やかな印象で迎えてくれる。

 秀長は、志半ばで病に倒れ、天正19年(1591)1月にこの郡山で亡くなった。今も春岳院という秀長の菩提寺では秀長の位牌が祀られ、市内には大納言塚と呼ばれる秀長の墓所が残されている。

 後に柳沢吉保の長男の吉里が城主となり、郡山は柳沢氏の城下町との印象が強いかもしれないが、郡山繁栄の礎を築いたのは、秀長だった。

 秀長は、「箱本(はこもと)」制度という独特の町方自治の手法を採り入れた。商工業者を業種別に城下の13の町に集中して住まわせ、独占的な営業権を付与して産業の育成を図るとともに、13の町に月毎に輪番で町の治安、消化、伝馬などの任に当たらせた。

 各町に与えられた特権を証する朱印状が朱印箱と呼ばれる箱に納められ、その月の当番に当たる町の会所にて保管されたことから、箱本制度と称されている。

 秀長は、こうして城下の経済興隆を促進するとともに、茶の湯や画家などの文化人を郡山に招聘し、ひとつの文化サロンを形成していった。

 自由で闊達で美を謳歌するような雰囲気が、秀長の時代の郡山には満ちみちていたことだろう。

 秀長の郡山入城に伴い、正次も郡山に居を構えた。父に従って遠州も郡山に移り住む。遠州が7歳の時のことであった。

 この美しい街並みを、正次や遠州も歩いたかもしれないと思うと、感慨もひとしおである。

 この郡山で遠州は、運命的な出逢いを果たすことになる。

 それは天正16年(1588)、秀長の屋敷でのことだった。兄の秀吉を自邸に招くことになった秀長は、茶会の前日に秀吉の茶頭である千利休から茶の指導を受けていた。秀長邸にて奉公していた遠州は、開け放たれた障子の外側からではあったものの、利休の見事な点前(てまえ)を目の当たりにした。

 当時まだ10歳であった遠州少年にとってそれは、衝撃的な光景だったに違いない。

 百聞は一見に如かずと言うけれど、繊細で鋭敏な感覚を持ち合わせているこの時期に遠州少年の瞼に焼き付けられた利休の姿は、後の茶道家としての遠州に大きな影響を与えたであろうことは想像に難くない。

 遠州はその翌年の8月に、秀長の前で能を三番舞ったことも記録されている(『多聞院日記』)。すでにこの頃から、遠州は芸能や美術に関する英才教育を父である正次から施されていたことを窺い知ることができる。

 正次は、兄・秀吉の命により所領である郡山を留守にすることが多かった秀長に代わって、郡山の統治を任されていたようである。先に触れた箱本制度の朱印箱の中には、正次の署名のある書状も含まれていた。

 郡山領内の税の優遇措置を施したり、秀長の所領である紀伊国や大和国の検地(いわゆる太閤検地)を取り仕切ったりして、極めて重要な役割を担っていたことが確認されている。

 領主である秀長に信頼され重用される能吏としての正次の姿を、私たちはかなり正確に思い描くことができる。行政面での統治能力に秀でた正次は、文化面においても郡山をリードする存在だったのだろう。

 官僚としての能力と、審美眼を持った芸術家としての能力の両方の能力を、遠州は父の正次から正しく受け継いだに違いない。

 郡山の街を造り、華やかな文化の薫りを郡山に持ち込んだ秀長であったが、病に倒れ僅か52歳でこの世を去ってしまったことは、慙愧に堪えない。私見だが、秀吉の後半生が暴君と化していくのは、天下人となった心の驕りだけが原因ではなく、陰で秀吉の行動を抑制してきた秀長の「良心」がなくなってしまたことが影響しているように思えてならない。

 秀長の跡を継いだ甥の豊臣秀保も、僅か4年後の文禄4年(1595)に17歳の若さで夭折する。秀保の死を契機として、正次は秀吉に直接仕える身となったようである。

 正次と遠州親子は、文禄4年から5年のはじめにかけて、想い出多い郡山の地を離れて伏見に居を移した。当時の伏見は、文禄元年(1592)に築城が始まった伏見城がほぼ完成を見、文禄3年(1594)には主である秀吉が入城して、文字通り当時の日本の中心となっていた街である。

 その後、秀吉の死、関ヶ原の戦いを経て正次は、徳川家康から大和や和泉の旧領安堵を受けるとともに、新たに備中国に1万石を得て、大名に取り立てられていく。

 正次は、国奉行として息子の遠州を伴い備中国に赴いた。

 大名と言っても、いわゆる国持大名とは立場がやや異なっていたようである。藩主として備中国を治めるのではなく、幕府から派遣された国奉行として、幕府の政策を執行する役割だったと考えたほうがいいだろう。

 今で言うと岡山県高梁市が正次・遠州の活躍の中心地であった。

 美しい白壁の街並みと大原美術館とで有名な倉敷から高梁川に沿って遡ること約25㎞で高梁市に至る。

 ここには備中松山城という山城が存在していた。今でも日本に12城残る現存天守の一つとして重要文化財に指定されている黒板張りの天守を見ることができるが、正次が入城した頃の天守は荒れ果てていて、正次・遠州親子は城下の頼久寺を拠点として政務を行っていた。

 正次が入国後に実施した主な政策は、「置目(おきめ)」の発令と「小堀検地」であった。

 置目とは掟書のことであり、関ヶ原の戦いから僅か3ヶ月後の慶長5年(1600)12月12日には正次の署名と花押のある置目が現存している。

 この正次の置目には、百姓の義務を定める内容よりも、代官の横暴から百姓を加護する内容の条項が目立ち、正次の政策の一端を窺い知ることができる。

 また、太閤検地以来正次が力を注いできたいわゆる小堀検地を正次はこの備中国でも実施している。平成7年6月にその小堀検地の検地帳が岡山県井原市で発見されて話題となった。

 正次は遺憾なく能吏ぶりを発揮して、備中国の領国経営を堅実に取り仕切っていった。息子である遠州も、そんな父の姿を目の当たりにしながら成長していったのだろう。

 ところが、遠州に転機が訪れる。

 慶長9年(1604)2月29日、父・正次が任務で江戸に向かう途中の相模国(藤沢宿)で突然没したのである。正次65歳の年のことであった。

26歳の遠州にとってはまさに青天の霹靂だったことだろう。遠州は、父の遺した1万4460石の所領のうち2000石を弟の正行に分け与え、残りを遠州が相続した。

 遠州は、父の跡を継いだ備中国奉行として、どのような仕事をしていたのだろうか?

 関ヶ原の戦いの後、備前と美作は小早川秀秋の所領となった。小早川秀秋は、西軍に付きながら戦いの最後の局面で東軍に寝返り、徳川方の勝利を決定づけた人物である。備前・美作に隣接する備中国に国持大名を置かず幕府直轄としたのは、寝返りの前歴を持つ小早川秀秋を監視し牽制する目的があったのではないだろうか?

と同時に、備中国から産出される良質の鉄(銑(ずく)鉄)と紙(檀紙(だんし)と呼ばれる厚紙)とを幕府の管理下に置くという実利面からの目的もあったものと考えられている。

 しかしながら遠州は任国である備中国にはほとんど滞在することがなく、彼は伏見を活動の拠点としていた。

 遠州が備中国に赴いた年は、13年間(慶長9年(1604)~元和3年(1617))の在任期間のうち8年に過ぎず、それも正月等の僅かな期間の滞在でしかなかったという検証が残されている。遠州は電話もパソコンもなかった時代に、遠隔操作で領国経営を行っていたことになる。

 では、遠州は伏見で何をしていたのだろうか?

 遠州の年譜を見てみると、家督を相続した年にすでに、伏見城本丸数寄屋の作事に関わっていたことが窺われる。26歳という年齢を考えると、異例の抜擢と言える。

以後、遠州が関与した主な作事を挙げてみるとざっと以下のとおりである。

 慶長11年(1606) 後陽成院の院御所建築の作事奉行

慶長13年(1608) 駿府城の作事奉行

慶長17年(1612) 名古屋城天守作事奉行および内裏拡張・新営工事の作事奉行

元和 3年(1617) 伏見城本丸書院の作事奉行

元和 4年(1618) 東福門院の女御御所の作事奉行

元和 6年(1620) 大坂城二の丸工事の作事奉行

寛永 元年(1624) 二条城および同城行幸殿の作事奉行

寛永 3年(1626) 大坂城天守および本丸の作事奉行

寛永 4年(1627) 後水尾院・東福門院の院御所の作事奉行

寛永 5年(1628) 二条城二の丸作事奉行

寛永10年(1633) 近江国水口城の普請、仙洞・女院御所の庭泉水の普請、

近江国伊庭御殿の作事奉行、二条城本丸数寄屋の作事奉行

寛永17年(1640) 内裏新築工事の惣奉行

寛永19年(1642) 明正院の院御所の作事奉行、

 上記以外にも、南禅寺金地院の八窓席(茶室)の建築(寛永4年(1627))、大徳寺孤篷庵の創建(当初は慶長17年(1612)に大徳寺龍光院内に創建、寛永20年(1643)に現在の場所に移築)など、幕府の公務以外の普請も手掛けている。驚くべき仕事量である。

 慶長13年には駿府城作事奉行の功により従5位下遠江守に任じられている。

これまで私は、一貫して「小堀遠州」という名前を使用してきた。正確には遠江守に任じられるまでは「小堀正一(政一)」と表記するのが正しいのだが、遠州という名前のイメージが非常に強いため、この書では「遠州」で通すことにしている。

 父・正次の存命中には目立った実績のなかった遠州が、父の家督相続を契機として一躍作事奉行として第一線で活躍するようになるというのはたいへん不思議なことに思える。

 御所や城を普請するのには、専門知識と専門技術とが不可欠である。若干26歳の遠州が専門性の高い作事奉行を次々とこなしていった背景には、何か理由があるに違いない。

私は、遠州が生まれた近江の地に謎を解く鍵があるのではないかと考えている。

遠州の人生を考える時、遠州と非常に類似した人生を送ったもう一人の人物がいた。藤堂高虎である。

高虎は、近江国犬上郡藤堂村(現滋賀県犬上郡甲良町在士)で生まれ、最初は浅井長政、続いて長政を裏切った阿閉(あつじ)貞(さだ)征(ゆき)や磯野員(まず)昌(まさ)らに仕えた後、羽柴秀長に辿り着く。

度々主君を変え、世渡り上手の代名詞のように言われることもある高虎であるが、秀長との間には主従としての強い信頼関係が構築され、秀長のために命を賭して戦った。

共に近江国に生まれ、浅井長政という同じ主に仕え、浅井氏滅亡後は紆余曲折を経て再び羽柴秀長という同じ主君に仕えた小堀正次と藤堂高虎の人生が、私には重なって見えてくる。

官僚派と武闘派の違いはあるものの、遠州の父・正次と高虎には、心から信頼でき、その信頼に誠実に応えてくれる秀長という同じ主人の存在があり、二人はその主人の下で心地よく仕事に邁進できる時間を共有していたものと想像される。

正次の息子である遠州は、慶長2年(1597)に高虎の養女を妻として迎えている。両者の間にたいへん濃密な関係が構築されていたことが窺える事実であると思う。

婿と舅の関係であるから、遠州は高虎から様々なかたちでサポートを受けたに違いない。そのなかには城普請に対する技術的な助言もあったかもしれない。父・正次と舅・高虎の薫陶を受けて、遠州には知らずしらずのうちに芸術家でありテクノクラートとしての素養が身についていたと考えても不思議ではない。

築城の名人と言われた藤堂高虎と茶人であり作庭家として知られる小堀遠州との知られざる関係を、垣間見た気がした。

いずれも近江国の北部に生まれ、当時の日本の美意識や土木技術をリードした第一人者であったことは、必ずしも偶然のできごとであるとは思えない。

 さらにもう一人の人物がいる。甲良豊後守宗廣である。

 甲良豊後守宗廣は、藤堂高虎と同じ現滋賀県犬上郡甲良町(甲良上社門前町旧法養寺村)の出身だ。同町の法養寺には甲良豊後守宗廣記念館があり、甲良家に伝わる貴重な資料や工具などが展示されている。また、町役場近くの交差点の片隅には、裃姿に身を包み帯刀した宗廣の像が建立されている。

刀を帯びてはいるけれども、宗廣は高虎や遠州のような武士ではなく、大工である。

元々、宮大工の家に生まれた宗廣は、京に上り大工としての研鑽を積んでいる時に、当時伏見城にいた徳川家康の知遇を得た。そして江戸幕府成立の翌年の慶長9年(1604)、家康の命により一族もろとも江戸に赴き、幕府作事方大棟梁に任じられる。

天下が定まったとは言え、まだ草創期で不安定だった徳川幕府にとっては、城や街などの普請は最重要課題の一つであり、優秀な大工の棟梁を必要としていた時代だった。

 甲良町出身の宗廣であったが、活躍の場は江戸だった。なかでも宗廣の実力を天下に知らしめたのは、徳川第3代将軍・家光の命により手掛けた日光東照宮の大改造であった。現在の私たちが見ることができる豪華絢爛な東照宮の姿は、実は宗廣の手によるものであるということは、残念ながら今ではほとんど一般には知られていない。

 その中でも特筆すべきは、一日中見ていても飽きないことから「日暮らし門」とも呼ばれ、豪華で精巧な造りを極める陽明門は、悉く宗廣の一族の造営によるものであると言われている。驚くべき高度な建築技術と美的感覚とを持った技術者集団であったことが理解される。

 皮肉なことに、第2代将軍の秀忠に東照宮の創建を命じられたのは、かの藤堂高虎だった。高虎の創った東照宮の出来栄えが芳しくなかったために、祖父・家康のことを神とも尊崇する家光が宗廣に造り直しを命じたのが、現在の東照宮である。

 宗廣は、僅か1年5ヶ月の短期間で東照宮の大改造をやってのけた。甲良家には、建築設計基準の嚆矢(こうし)とも言われる「本途帳(ほんとちょう)」や秘伝「神拝式書(しんぱいしきしょ)」などの貴重な建築技術にまつわる資料が代々伝わっている。

 高虎と宗廣との間には、18年の年齢差(高虎が年上)がある。同郷の後輩として高虎は宗廣を援護したであろうし、宗廣は建築家としての専門性を発揮して高虎の普請にアドバイスをしたことだろう。宗廣の東照宮が大成功を収めた背景には、反対に高虎の情報提供とアドバイスがあったかもしれない。

 残念ながら、ほぼ同年代(宗廣が5歳年上)の遠州と宗廣との間の関係を私は書物等で確かめることができなかった。しかし、高虎と遠州、高虎と宗廣の関係が明らかになった以上は、遠州と宗廣の間にも濃密な関係が存在していたと想像することはそれほど乱暴な推量には当たらないと思われる。

 そして当時の日本をリードする技術者であり芸術家であった3人のことを思う時に私は、彼らが近江国の出身者だということを思わないではいられない。

 自然発生的に、あるいは突然変異として技術や芸術心に秀でた人物が現れたのではなくて、この地方に連綿と伝わる歴史的・文化的素地があって、その土壌のうえに、ある意味天才的な3人の人間が出現した。しかもその3人はほぼ同時代を生き、互いに影響しあいながら、当時の日本の文化をリードしていったと考えることができる。

 古来、大陸からの高度な技術と文化とを持った渡来人が足繁くこの地を通り過ぎて行った。そのうちのある者は、湖の恩恵を受けて豊かな自然に恵まれた気候と風土とを愛してこの土地に移り住んだ。

 白山信仰の影響を受けた山岳修行のための大寺が林立し、秀麗な観音像の存在を中心とする豊かな仏教文化が花咲いたのも、湖北地方を文化的ならしめている重要な要素になっている。

さらに、近江国は京からも近く、京風の文化や技術が自然とこの地に流れ込んで来ていた。交通の要衝であるということは、様々な優れた情報や文化が集積されるということをも意味している。

なんとなく私は、この3人の天才アーティストが湖北地方から輩出した理由(わけ)がわかったような気がした。しかも時代を隔てて3人が歴史の流れの中で点在していたのではなく、ほぼ同時代に、微妙に生年をずらしながら誕生したことが、日本の国にとって、あるいは草創期の徳川幕府にとっては、このうえもない僥倖であったと思わざるを得ない。

湖北地方に誕生した天才はしかし、というか天才であるが故に、彼らの活躍の舞台はむしろ近江の国内ではなくて、江戸であったり京であったり、あるいは他の諸国であったりした。

近江国に彼らの作品としての天守や庭や建造物がほとんど存在しないのは残念なことではあるが、彼らの才能の大きさを考えると、それもやむを得ないのではないかと私自身はある意味納得している。

 話が少し大きくなり過ぎてしまった。このあたりで当初の目的に戻って、小堀遠州についての考察をもう少し進めてみたい。

 小堀遠州について調べていくうちに私が非常に意外に思ったのは、茶人であり作庭家であるとばかり思っていた遠州が、実際には幕府の有能な官吏であったという事実である。

 けっして風流ばかりに現を抜かしてしたのではない。そこには、自らの所領を持ち、領民を統治しながらさらに、徳川幕府が命じる様々な普請をもそつなくこなしていった能吏としての遠州の姿が見えてくる。

 今風に言えば、仕事と趣味の両立を見事に果たした人生と言える。

 一企業に働くサラリーマンである私にとって、遠州の姿は私の理想とする姿でもある。企業人として人並み以上の仕事をするのは言わば当たり前のことで、人の価値とはそのうえにどんな自分自身の仕事を積み増せるかだと私は確信している。

 私が遠州の人生に惹かれていった訳はそこにあったのだ、ということを実感としてつくづく感じている。

 では、幕府の作事奉行としての遠州以外の遠州の世界とは、どのような世界だったのだろうか?いよいよ私は、遠州の創り出した美の世界に足を踏み入れる時が来たことを幸せに感じている。