川越・家光誕生の間
このブログは、須賀谷温泉に来られた、または須賀谷温泉のブログをご覧になられて江の生涯に興味を持たれたお客様が、江戸での江の足跡または面影を求めて旅をされる際の道案内にでもなれば、との思いで書いた「湖北残照」の番外編である。
ここ須賀谷温泉のすぐ目の前にある小谷山の上で生を受けた江が、その後の数奇な運命を経て辿り着いた終着点が、徳川幕府の江戸であった。
近江の江から江戸の江へ。
江の波乱万丈の人生の出発点と終着点とを見ると、はるばると人生の旅をしてきた江のことが思いやられて、しみじみとした感慨が湧き起こる。
この湖北の地で江の生まれ故郷を堪能されたみなさんには是非、江戸における江の足跡を訪ね歩かれることをお勧めする。そこには、意外な発見があるかもしれない。
川越・家光誕生の間
川越の喜多院という古い寺に家光誕生の間が残されている。
埼玉県出身の私は、これまでも初詣などで何度か喜多院を訪れたことがあり、家光誕生の間というのも1度か2度は見たことがあった。
ところが、最後に見たのがおそらくは20年以上も昔のことであり、今となってはほとんど記憶が残っていない。
家光が生まれた間であるのだから、その母は江であり、言葉を変えて言えば、江が家光を産んだ間ということになる。
ちょうどいい機会なので、喜多院に行ってみよう。
私は、急に思い立って、川越に行くことにした。
川越は別名を小江戸とも呼ばれ、ご本家である江戸の街をコンパクトにしたように華やかで賑やかな城下町であった。知恵伊豆と呼ばれた松平伊豆守信綱や5代将軍徳川綱吉の側用人として権力の座に就いた柳沢吉保などが歴代城主として名を連ね、江戸から近いこともあり、江戸幕府の関東における重要な拠点として重きを置かれていた都市である。
さつまいもが特産品で、江戸からの距離が13里であったことから、「9里4里(=栗より)うまい13里」と言われてもてはやされた。
今でも焼き芋やさつまいもにちなんだ和菓子などが街のあちこちで売られていて、これらの甘いものを片手に街をそぞろ歩きするのも、この街の楽しみ方の一つである。
街の中心部には、蔵造りの町並みが建ち並んでいる。火災に強いことから街づくりに採り入れられたもので、今でも美しい黒壁や白壁の蔵が街の景観を演出している。
路地裏には時を告げた「時の鐘」の高い櫓が残されていて、まるで江戸時代の街並みにタイムスリップしたみたいな錯覚を起こす素敵な街である。
また、街の東側に位置する川越城は、江戸時代後期に建てられた本丸御殿が現存している。つい先日(平成23年4月)に解体修理が終了し、装いも新たに蘇った本丸御殿を私たちは見ることができる。
その本丸御殿から南に下がったところ、蔵造りの町並みからは東に外れた場所にあたるが、そこに私が目指す喜多院がある。
喜多院のさらに南側には、隣接して仙波東照宮がある。
元和2年(1616)4月17日に駿府において75歳で亡くなった家康の遺体は、一時久能山東照宮(静岡県静岡市)に安置された後、日光東照宮に移葬された。久能山から日光まで遺体を運ぶ道中で、4日間もの間、家康の遺体は喜多院の大堂(薬師堂)に安置され、喜多院第27世住職である天海僧正によって盛大な法要が行われたと伝えられている。
その後、天海が家康の恩に報いるため、家康の像を制作して祀ったのが仙波東照宮のはじまりとされている。
境内には柳沢吉保をはじめ歴代の川越藩主が寄進した燈籠もあり、徳川時代の面影を色濃く残す聖地となっている。
喜多院は、別名を川越大師とも呼ばれている天台宗の寺院である。
寺の歴史は古く、天長7年(830)に淳和天皇の勅願により無量寿寺として創建された。その後、何度かの兵火や町の大火などによる焼失を繰り返した後、現在の建物は寛永15年(1638)に3代将軍家光の命により江戸城紅葉山の別殿を移築して客殿や書院としたものである。
喜多院は川越で最も著名な寺院であると言って間違いない。
広い境内には本堂のほかに、客殿、書院、山門、鐘楼門、慈眼堂、庫裏などが建ち並び、これらの建造物は、比較的新しい本堂を除いて寛永期に建立されたものがほとんどであり、すべて国の重要文化財に指定されている。
そのなかでもとりわけ出色なのが、江戸城紅葉山御殿から移築された客殿と書院である。
寛永15年(1638)建立の客殿には家光誕生の間があり、翌寛永16年建立の書院には春日局化粧の間がある。
世に名高い大奥の制度を作ったのは秀忠と江(または春日局)であったと言われているけれど、江が家光を産んだのは大奥の中ではなくて、紅葉山の別殿であったことがわかってたいへんに興味深い。
これらの建造物があった紅葉山は、今は皇居となっていて私たちが見ることはできない。かつては、元和4年(1618)建立の紅葉山東照宮があり、家康をはじめとして歴代将軍の霊廟が建ち並んでいたという。
また霊廟の隣には、徳川幕府が所持する膨大な書籍を保管した紅葉山文庫があった。
いよいよ、客殿と書院を見に行くこととする。
これらの建造物群は、本堂に向かって右側に存在していて、本堂とは優雅な渡り廊下でつながれている。
入口で拝観料を払い、順路の表示に従って建物の中を進んでいく。
左手に紅葉山庭園と命名された広々として伸びやかな庭を眺めながら廊下をまっすぐ歩いていく。庭にある「家光公お手植桜」との札が立てられている背の高いしだれ桜の木が印象的だ。ただしこの桜、家光が植えた木そのものではなく、2代目とのこと。
庭に沿って右折した先には、湯殿と厠がある。湯殿は、今と違っていわゆる蒸し風呂に近いタイプのものだ。当時の建物の遺構をお知るうえではたいへん貴重なものであるかもしれない。
廊下を戻って左折すると、いよいよ家光誕生の間だ。
部屋の奥には広い床の間と違い棚が設えられ、12畳半ある畳の中央には一段高くなった正方形の畳が置かれている。襖絵は山水画で、天井には81枚の花模様の装飾が施されている。
信長や秀吉の時代のような派手さはないが、反対に落ち着いた気品が感じられる部屋である。
移築された建物とはいえ、この部屋で江が家光を産んだのかと思うと、また、家光誕生がきっかけとなって、その後家康から送り込まれてきた乳母の春日局との間の確執で江が苦しむことになるのかと思うと、非常に複雑な気持ちになってしまう。
どうして実の母よりも乳母の方が強い実権を握ることができたのか、私にはこの権力構造を理解することができないし、不思議でならない。
喜多院における扱いも、家光誕生の間と並んで春日局化粧の間がこの寺の看板であるだけに、江は極めて限定的に扱われているのみで、春日局の一人舞台である。
江派の私としては、圧倒的なアウェー感を感じてしまうのは否めない。
徳川15代の将軍の中で、正室が生んだ将軍は江が生んだ家光のみであるという驚くべき事実は、もしかしたらあまり知られていないかもしれない。
そういう意味でも画期的なことであるのに、乳母の春日局ばかりがクローズアップされて実の母である江にスポットライトが当たらないのは、まったく不本意なことである。
とは言え、気を取り直して春日局化粧の間のある書院に歩を進めることにする。
書院は客殿と直角に、客殿と接続して建てられていた。
家光誕生の間から隣の仏間を経て、案内表示に従って左に曲がると廊下があって、左手に瀟洒な庭が見える。遠州流の「曲水の庭」である。
昭和も後期になってからの作庭ではあるが、遠州好みの趣向を凝らした庭は、狭いスペースにセンスよく前栽と飛び石とが配置されていて、思わず足を止めて見入ってしまうほどの出来栄えの庭であった。
これほどの洗練された庭は、そうは存在しない。私はなにか得をしたよう気分になって、暫しの間この美しい庭を眺めていた。
廊下を引き返して左側の部屋が、春日局化粧の間と言われている8畳の部屋である。
春日局はこの部屋で、念入りに化粧をしていたのだろうかと思うと不思議な気がする。乳母の役目というのは家光の養育であり、文字どおりに考えれば化粧とは縁がないと思うからである。
明智光秀の重臣であった斎藤利三の女(むすめ)であったお福(春日局)は、かなり気の強い女性であったようである。常に家光の傍らにいることで家光をなつかせ、家光の存在を背景として政治的なことにも口出しをしていたのだろう。
実の子を乳母に奪われ、我が子であるのに意のままにすることができなかった母としての江の気持ちを思うと、不憫でならない。
そしてこの喜多院における扱いである。
春日局化粧の間が現存しているのだったら、江化粧の間があっても不思議ではない。この部屋が春日局の部屋であったかどうかはわからないが、明らかに家光と春日局とがセットで扱われているところが、私にはどうも納得がいかないところである。
不本意な気持ちを抱いて、喜多院を出た。
江にまつわる史跡でもあるのに、江の存在は影を潜め、家光と春日局だけが主役として取り扱われている理不尽さ。
でも歴史においては、こういうことはよくあることだ。
歴史は真実が語られているものではなくて、勝った者が勝者の立場で遺したものであるからだ。