江戸城・大奥の憂鬱

江戸城・大奥の憂鬱

 江戸における江の足跡を訪ねるのなら、江が住んでいだ江戸城を抜きにして語ることはできない。

 私は江の面影を求めて、江戸城を訪ねることにした。

 徳川幕府の江戸城はもちろん、今はない。明治の世となり、京都から天皇が遷り住まれ、今では皇居となっているからだ。

 ところが、現在天皇がお住まいになられているのは、かつて徳川幕府の江戸城であった頃には西の丸と呼ばれていた江戸城の一部であって、江戸城の主要機能を担っていた本丸や二の丸などは東御苑として一般に公開されている。

 前章で触れた紅葉山は現在天皇がお住まいになられているエリアに含まれているため見ることができないが、かつて本丸御殿や大奥などがあった本丸跡を、私たちは見ることができる。

 東御苑への入り口は、大手門、平川門、北桔(きたはね)橋(ばし)門の3ヶ所があるが、やはり正面玄関である大手門から入った方が江戸城の縄張りをよく知ることができる。

 江戸城に登城する大名になった気分で、私は大手門を潜った。

clip_image002 江戸城・大手門

 道案内に従って、本丸方面へと歩を進めていく。

 大手門を過ぎてしばらくの間は、白っぽくて大きな石を使った石垣に目を見張らされる。

初めて江戸城を訪れた大名は、その威圧感に圧倒されることだろう。ここが徳川幕府の中心地であるとの実感を強烈に焼き付けられる光景だ。

 同心番所や百人番所などの役人詰所を通り過ぎ、右折して坂道を登る。実際に歩いてみて意外な思いがしたのは、平城であるはずの江戸城の城内には思いのほか坂がたくさんあるということである。

 けっして外から見たのではわからないけれど、江戸城は自然の地形を巧みに利用して攻めにくいように防御の工夫が施された城であることがよくわかる。

 本丸中之門跡を通り、中雀(ちゅうじゃく)門(もん)跡の桝形を抜けると、やがて広々とした広場に出る。今では緑の芝生が一面を覆い、訪れた市民の憩いの場となっているこの場所こそが、かつての江戸城の中心であった本丸御殿が建てられていた場所である。

clip_image004 本丸御殿跡(表玄関あたり)

 はるか遠くに、かつて天守が聳え建っていた跡である天守台が見える。

 江戸城の天守は慶長12年(1607)に2代将軍・徳川秀忠によって建立されたがその後大改修を受け、3代将軍・徳川家光の代の寛永15年(1638)に完成を見た。

 外観は5層で内部は6階、高さ58mの当時としては国内最大の天守であったという。徳川幕府の威光を見せつけるのに十分な威容を示していたに違いない。

 ところが完成から僅か19年後の明暦3年(1657)に、いわゆる振袖火事と呼ばれる大火により焼失し、その後再建されることはなかった。

 江戸城の天守がどんな天守だったものか、見てみたかった気がする。残っている天守台の大きさを見るだけでも、天守がいかに巨大なものであったか、そのスケールを想像することができる。

clip_image006 江戸城・天守台

 再建されなかったのは残念であるけれど、すでに太平の世となった中期以降の徳川幕府には、もはや天守は無用の長物だったのであろう。

 本丸御殿は、中雀門を入ってすぐのところにある表玄関から、その天守台のある辺りまで続いていた。実に巨大な建造物であったことが実感される。

 御殿は3つの部分から成り立っていた。

 表玄関に最も近い部分が「表」である。ここは、徳川幕府の公式な執務スペースであった。江戸城を訪れた諸大名は、この「表」で将軍への謁見や幕府役人との面談などを行った。

 次のスペースは、「中奥」と呼ばれた。

 ここは、親藩や譜代の大名などが将軍との面会を行う場所であった。「表」よりもより将軍のプライベートに近い執務ゾーンと考えればいいだろう。

 そして最後のスペース、表玄関からは最も遠い位置に作られたのが、「大奥」である。

大奥は、言わずと知れた将軍のプライベートな居住空間であり、将軍の正室や側室をはじめ数多(あまた)の女中たちが暮らす不思議なスペースであった。

広々とした芝生を天守台の方に歩いていくと、かつて大奥があった辺りに辿り着く。厳密にここからここまでが大奥のあった御殿の跡であるというような表示はないから、自分の目測で概ねこの辺りだろうか、と思うしかない。

clip_image008 大奥跡の看板

今では広大な芝生が拡がるスペースのどこかに江も住んでいたのだと思うと、しみじみとした気持ちが湧いてくる。何の跡形もなく消え去ってしまった江戸城大奥の御殿。そこでは、様々な女性の様々な人間ドラマが繰り展げられたことだろう。

そもそも、この大奥の制度を作り上げたのが、江であるとも春日局であるとも言われている。要は、2代将軍秀忠の時代(元和4年(1618))に大奥法度が発せられて大奥の制度が確立し、幕末に至るまで連綿と続いていったということであろう。

大奥に所属する女性たちの頂点に立つのは、御台所(みだいどころ)と呼ばれた将軍の正室であった。ところが御台所が名実ともに実権を握るのは江戸時代中期以降のこととされ、江が生きた江戸時代初期の大奥は、まだ権力構造が混沌としていたようである。

名目上の主宰者は江であったかもしれないが、実質的には春日局が持ち前の強気と政治力とを駆使して権力を揺るぎないものにしていったのかもしれない。

ものごころつく前に父を、そして続いて母を戦乱で失い、最初の夫である佐治一成は無理やり秀吉によって離縁させられ、二番目の夫である豊臣秀勝は朝鮮の役で病死し、やっと辿り着いた夫が徳川秀忠だった。

しかし徳川氏に嫁入りしたがために姉の淀殿とは敵と味方の間柄となり、思いに反して戦わざるを得なかった。江にとっては、豊臣が勝っても徳川が勝っても悲しい結末でしかなかった。

幾度ものつらい思いを乗り越えて、江は秀忠の妻として生きて行こうと思い定めた。幸いにして子宝に恵まれて、秀忠との間に家光をはじめとして7人もの子をなしている(ほかに豊臣秀勝との間に1人の子がある(豊臣完子))。

五女の和子(まさこ)は後水尾天皇に嫁ぎ、後に第109代明正天皇(女帝)となられる御子を産まれているので、江は天皇の祖母となったのであった。

一見、幸せな後半生のようにも見えるけれど、春日局との確執は江に暗い影を落としていたに違いない。

400年も前のそんなことなどをあれこれと思いやりながら、広々とした芝生の空間を私は目的もなしに歩いていった。

 青い空に緑の芝生が眩しかった。5月の風が爽やかに吹き過ぎていくのを、私は呆(ほう)けたように見送っていた。

clip_image010 本丸御殿跡の芝生広場