芝界隈・江の面影を求めて
芝界隈・江の面影を求めて
芝は、徳川氏の菩提寺の一つである増上寺があることもあり、徳川氏とはつながりが深い土地柄である。
江や秀忠をはじめとして、歴代将軍や正室の墓があるのも、増上寺である。増上寺のことは次の章でゆっくり触れることになるだろう。今日は江の面影を求めて、増上寺の周辺を散策してみたいと思っている。
世の中では世界一の高さに達したスカイツリーが話題を独占しているけれど、私は東京タワーの見える風景が好きだ。周囲の建物や自然の落ち着いた色彩からは際立っているものの、東京タワーが視界に映ると、なぜか見入ってしまうし心が落ち着く。
私が昔の人間で、小さい時からごく普通に存在していた東京タワーのある風景が、心のなかに自然と焼き付けられてしまっているからかもしれない。
芝界隈を歩いていると、建物と建物との間に東京タワーが見え隠れする風景に当たり前のように出くわす。ふと足を止めてそんな風景を眺めることも、今回の旅の楽しみの一つでもある。
増上寺に眠る江も、自分の墓の間近にこんな塔が建とうとは、夢にも思わなかったに違いない。
増上寺の山門(三(さん)解脱門(げだつもん))を背にして右方向に歩いて行くと、朱塗りの立派な門が現れた。左右に仁王が立ち、門の上部には葵の紋がいくつも飾られている。重要文化財に指定されている台徳院霊廟の惣門だ。
この門は、寛永9年(1632)に3代将軍徳川家光が台徳院の霊廟門として建立したもので、昭和20年(1945)の東京大空襲でも奇跡的に焼け残った門である。
台徳院とは、2代将軍であり江の夫であった徳川秀忠の謚(おくりな)だ。
後の章で詳しく書くが、元々は、現在の惣門が建てられている場所から東京プリンスホテルのパークタワーが建つあたり一帯の広大な土地に、江と秀忠の廟があった。惣門は、二人の廟所に通ずる最初の門にあたる。
オリジナルは、表通り(日比谷通り)からもっと内側に入ったところに建てられていたものだが、後に通りの近くに移設され、朱の色も鮮やかに修復された。
入母屋造りの瓦屋根の前と後ろに金色の金具で飾られた唐破風が取り付けられている。徳川将軍の廟門としては、繊細な彫刻などはないものの、力強くて落ち着いた佇まいの門である。
この惣門を過ぎて最初の交差点(芝公園グランド前)を左折する。さらに最初の小道を左折すると、最勝院という寺が見えてくる……はずだった。
ところが、それほど広くはない道の右側にも左側にも、お寺のような建物は見当たらない。道を間違えてしまったのだろうか?不安になって、来た道を引き返そうとしたその時、最勝院と書かれた看板が目に入った。
ところが、そこにあるのは単なるマンションの建物のみである。どうやら、寺の敷地はマンションとなり、その一角が寺になっている構造らしい。最勝院は檀家を持たず、墓も持たない特殊な形態の寺院である。残念ながら、拝観は認められていない。
この寺は、江の位牌を祀る御霊屋(おたまや)の別当寺として、寛永3年(1626)に夫の秀忠によって創建された増上寺の塔頭である。元は最勝軒と称し、かつての増上寺境内の天神谷(先程通った「芝公園グランド前」交差点付近)にあったものだが、明治20年(1887)に当地に移転した。
最勝軒は、江の法要の際には中心的な役割を担うとともに、江の廟の管理を通じて江を守り続けてきた。
当寺の地下にある仏間には、江の位牌とともに、江が念持仏として所有していたと伝えられる持(じ)蓮華(れんげ)蕾中(かんちゅう)の阿弥陀如来立像(りゅうぞう)が安置されている。拝観が認められていないため、実際に見ることができないのが残念だ。
写真で見てみると、長い茎の上部に蓮華の花の蕾が膨らみ、その蕾の中に阿弥陀如来の立像が納まっている。とても可憐でお洒落な仏像である。
今は場所も形もすっかり変わってしまい創建当時の姿を想像することは極めて困難な状況ではあるものの、この寺は江を亡くした秀忠の悲しみが込められた寺である。秀忠は江に先立たれ、どのような気持ちでこの寺を建立したのだろうか?
芝界隈には、こんな何気ない街の片隅のマンションにも、江と秀忠にまつわる想い出が残っていることが、なんともうれしい。
ちなみにこの最勝院には、昭和6年(1931)から10年(1935)にかけて、作家の吉川英治さんが借家住まいをされて、代表作である『親鸞』などの作品を書き上げられたというから、なおさら感慨深さが増すばかりである。
次に私が赴いたのは、増上寺の三解脱門を背にしてまっすぐに進み、大門を潜った交差点を左に曲がったところに位置する芝大神宮だ。
芝大神宮は、道の右側の高台にある。
私は、境内の周囲を回り込むようにして造られた参道伝いに、神社の階段下まで歩を進めた。折しも結婚式が執り行われていて、挙式中の新郎新婦と神主が厳かに、緊張した面持ちで目の前に敷かれた赤絨毯の上をしずしずと歩いて行くのが見えた。
知人ではなくても、若い人の晴れがましい人生の旅立ちの場にこうして出くわすのはうれしい。彼らに幸多かれと心の中で祈った。
ここ芝大神宮も、江の信仰が篤かった神社の一つである。
寛弘2年(1005)に創建された古社で、かつては飯倉神明宮、あるいは芝神明宮などと称され、源頼朝からも篤い加護を受けていた。江戸時代になってからも徳川幕府により大いに保護を受けて、「関東のお伊勢様」と呼ばれるほどの盛隆を極めた。
広重の「東都名所」、「東京名所図会」や豊国の「東京名所江戸自慢三十六與」などの錦絵に度々登場していることでも、江戸時代の賑わいぶりが十分に想像される。
今では、むしろ商売繁盛の神として、当神社特有の「商(あきな)い守」が参拝者の間で珍重されているようだ。金字で丸に「商」という字がシンプルに描かれたお守りで、白と黒の2種類がある。
白いお守りは「白星・土つかず」ということで縁起がよく、黒いお守りは黒い生地であることから「黒字」(赤字の反対の意味)につながるとして、どちらも人気があるそうだ。
主祭神として伊勢神宮と同じ天照皇大御神(内宮)と豊受大神(外宮)の二柱の神をお祀りし、相殿として源頼朝と徳川家康をも祀っている。
江は、大坂の陣に際して、徳川氏の戦勝を祈願するために、春日局を自分の名代としてこの芝大神宮に遣わしている。
嫁ぎ先の徳川氏が勝っても、姉である淀殿が籠る大坂方が勝っても、江にとっては実に辛い戦いだった。心ならずして骨肉相争う状況となってしまった江ではあったが、徳川家の室として、嫁ぎ先である徳川の戦勝を祈願しないわけにはいかなかった。
遠く江戸にいて、自らは何もできないままに歴史の大きな流れを見守るしかない無力感と我が身の不運な定めとを、江はひしひしと感じていたことだろう。その時の江の気持ちを想うと、不憫でならない。
続いて私が向かった先は、愛宕神社から程近い天徳寺である。
平成になってからの建造ではあるが(平成17年)、八角形が二層重なった形の洒落た本堂を持つこの寺には、江の三女である勝姫が眠っている。
天徳寺は、天文2年(1533)に江戸城内の紅葉山に、増上寺7世親誉上人の弟子の緑誉称念上人によって創建された浄土宗の寺である。
その後、天正13年(1585)に桜田霞ヶ関に移転し、さらに江戸城拡張のために慶長16年(1611)に替え地を賜り当地に移転をしている。
浄土宗江戸四ヶ寺の一つとして、元和元年(1615)には家康から50石、さらに元和9年(1623)には秀忠から100石の朱印を賜った、いわゆる御朱印寺であった。
将軍家のほか、越前松平家、出雲松平家など数十にもおよぶ藩の菩提寺として幕末を迎えている由緒のある寺である。
ここは本当に東京なのだろうか?と思うような木造の古い家が建ち並ぶ不思議な街の一角に、これまた不思議な八角形の形をした本堂が建てられている。その背景には、近代的な高層ビル(パークコート虎ノ門愛宕タワー、愛宕グリーンヒルズ愛宕フォレストタワー)が顔を覗かせているという何ともミステリアスな区域である。
境内には人影もなく、ここが由緒のある寺であることを説明する案内板もない。けれども、がらんとした空間には葵の紋が刻まれた灯籠が建ち、石碑や石仏が無造作に並べられていて、えも言われぬ高貴な雰囲気を醸し出している。
江の三女である勝姫は、越前福井藩主の松平忠直に嫁いだ。忠直は、徳川家康の次男である結城秀康の長男であり、秀忠の娘である勝姫とは従兄弟の関係にある。
忠直は大坂の陣の後、論功行賞の不調などから次第に幕府に不満を持つようになり、ついには秀忠によって隠居を命じられている。菊池寛の小説『忠直卿行状記』は、この松平忠直をモデルとして書かれた小説である。
江の縁(よすが)を辿る旅は、時にはこのように菊池寛の代表作に行き当たったりもして、思わぬ拡がりを見せてくれる。こうして、私の好奇心はますます膨らんでいくのであった。
天徳寺の境内にはほとんど案内板がないために、残念ながら勝姫の墓所を探し当てることはできなかった。しかし、数々の名門大名家の菩提寺としての風格というのだろうか、凛とした緊張感を体全体に感じながら、私は満足して寺を後にした。
芝界隈を巡る旅の最後に私が訪れたのは、天徳寺から表通りの桜田通りに出て南(飯倉)方向に500mほど歩いたところにある西久保八幡神社である。
西久保八幡神社は、寛弘年間(1004~1012)に源頼信が京の石清水八幡宮から神霊を招じて霞が関あたりに創建したのが最初と伝えられている。石清水八幡宮は武士の神として広く尊崇を得ていた神社であった。以来、江戸時代に至るまで、戦勝を祈願する武士たちにより崇め祀られてきたのだろう。
太田道灌の江戸城築城に際して、現在の地に遷された(江戸城築城は長禄元年(1457))。祭神は、品陀(ほんだ)和気(わけの)命(みこと)(応神天皇)、息(おき)長帯比(ながたらしひめの)命(みこと)(神功皇后)、帯中(おきなかつ)日子(ひこの)命(みこと)(仲哀天皇)の3柱である。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに際して、江はこの西久保八幡宮に参拝し、戦勝と夫秀忠の無事とを祈念した。
徳川軍の戦勝はともかく、秀忠自身は信州・上田で真田昌幸を攻めあぐねて関ヶ原の戦いには間に合わなかったので、秀忠が無事に帰ることができたのはこの神社のご霊験かどうかはよくわからない気がする。
しかし江は徳川軍の勝利と夫秀忠の無事帰還を非常に喜んだ。
そして、お礼参りのために当社を訪れるとともに、当社を鎌倉の鶴岡八幡宮と同様に崇めるとの最大級の賛辞を贈り、新たに社殿を造営する旨の手紙を認めている。江の喜びぶりが目に見えるようだ。
もしかしたら、2番目の夫である豊臣秀勝を朝鮮の役で失っている江にとっては、同じような禍(わざわい)が再び自分の許に降りかかってくるのではないかと、極度に不安な日々を送っていたのかもしれない。
生きて江戸にもどって来た秀忠の顔を見て、江は心の底から安堵したに違いない。
しかしながら、それほどの喜びようであったにも拘わらず、新しい社殿の造営は江の存命中には実現しなかった。その間の事情を私は知らない。
社殿の造営が行われたのは、江の死後、3代将軍家光によってであった。
家光は母の遺志を継ぎ、寛永11年(1634)に西久保八幡宮の社殿を新造するとともに、ご神体である八幡宮坐像・仲哀天皇坐像・神功皇后坐像の3体の木像と不動明王立像・愛染明王坐像の2体の明王像を奉納している。
家光が寄進したこれらの建造物や木像を見てみたかったが、残念なことに享保8年(1723)に火災により焼失してしまって今はない。
私が西久保八幡宮を訪れた日は夏の日差しが照りつける暑い日で、奇しくも祭礼(例大祭)のための準備が執り行われている最中であった。
石段下の石造の鳥居には、「八幡宮祭禮」と書かれた提灯が取り付けられ、「奉納八幡大神」と墨書された幟が風に靡いていた。
石段の両脇には各町の名前を示す提灯が掲げられ、氏子たちが忙しそうにテントや椅子などの設営を行っていた。
当社では今年(平成23年)を「御鎮座壱千年」の年と定め、奉祝大祭として殊に盛大に祭りを執り行おうとしている。今年が正確に創建1000年の年であるかどうかは別として、実に長きに渡って江戸の街を守り続け人々の信仰を得てきたことを、私は肌で感じ取ることができた。
こうして、芝から愛宕山界隈を歩いてみると、江と縁のある神社仏閣が多いことに気づく。数奇な運命を辿って江戸までやってきた江であったが、様々な苦難を経験した結果、深く神仏に帰依する境地に想いが至ったのではないだろうか。
反対に言えば、強く神仏に頼らざるを得ないほどに、江の気持ちは複雑に苛まれていたのかもしれない。そんな江の心情に想いを巡らせながら、私は今に雰囲気を残す芝あたりの街を縦横に歩き回っていった。