増上寺・将軍家の廟所

 増上寺・将軍家の廟所

 

三縁山増上寺は、明徳4年(1393)に浄土宗第八祖西誉聖聰上人により武蔵国豊島郷貝塚(現在の東京千代田区平河町から麹町あたり)に開山された寺である。

 開山当初から東国における浄土宗の重要な拠点として位置づけられてきた寺であったが、戦国時代の終わりに関東の地を賜った徳川家康によって、徳川家の菩提寺としての地位を不動のものとした。

家康が時の住職であった源誉存応(げんよぞんのう)上人に深く帰依していたためと言われている。

その後、慶長3年(1598)に今の芝の地に移転し、三(さん)解脱門(げだつもん)、経蔵、大殿などの諸堂が相次いで建立されて山内は徳川家の菩提寺としての威容を整えていった。

clip_image002 増上寺・三解脱門

こうして増上寺の歴史を見てくると、増上寺は徳川幕府の樹立前から徳川氏との間に深い関係が構築されていたことがわかる。

元和2年(1616)、家康は増上寺にて葬儀を行うことを遺言してこの世を去った。

その後も増上寺と徳川家との良好な関係は幕末に至るまで続き、2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂の6人の将軍とその正室や側室の墓所が増上寺に設けられている。

ちなみに家康は日光東照宮に、3代、4代、5代、8代、10代、11代、13代将軍は上野の寛永寺に、そして15代慶喜は谷中霊園に墓所がある。

増上寺一寺に絞り込まず、寛永寺と競わせるように菩提寺を2つに分散させたのは、徳川氏の政策によるものであったか。

戦前までの増上寺には、大殿(本堂)の右側と左側に分れて広大な将軍家の廟所が設けられ、将軍毎に豪壮な霊廟が建てられていたという。第二次世界大戦における空襲(昭和20年(1945)3月9日)でこれらの貴重な文化遺産の大部分が灰塵に帰してしまったことはまことに残念であり、慙愧に堪えない。

現在増上寺大殿の右奥にある「徳川将軍家霊廟」は、6代将軍家宣の墓前にあった鋳造の中門(鋳抜門)を入り口の門として、寺内の広い場所に散在していた各将軍や正室などの宝塔や各大名から寄進された灯籠などを移設したものである。

元々の徳川将軍家の廟所は、大殿の左側に拡がる広大な土地に2代秀忠と正室江の廟所が設けられ、大殿の右側の土地にそれ以外の将軍の廟所が寄せ集められるようにして造られていた。

著しくバランスを失するレイアウトであったことに、私は驚きを隠せない。

増上寺における徳川家の墓地の半分のスペースを秀忠と江が独占し、残りの半分のスペースを5人の将軍でシェアーしていたということになる。

想像するに、徳川政権が長く引き継がれ世の中が安定の時代へと推移していくに従い、次第に将軍の墓に対する認識も改まり、類型化、簡素化が進んでいったのではないだろうか。

徳川幕府の草創期であった秀忠の時代には、この後徳川幕府がいつまで続くかなんてわからない先が見通せない時代だった。

後代の将軍のことなどを考える必要もなく、今の徳川家の権威を思う存分に見せつけるための立派な廟所こそが必要だったのではないだろうか。

ましてや、初代将軍の家康は別格の存在で遠く日光に造営した専用の廟所に納まっている。増上寺における将軍の墓所は秀忠が初代となるのだから、後代の将軍廟の見本となるべき墓を造る必要があった。

その後、3代、4代、5代と3代続けて寛永寺に廟所が築かれた後、増上寺に6代将軍の墓所が築かれる頃には徳川の世は十分に安定し、むしろその後も末永く将軍の墓域を確保しておく必要があった。

秀忠と同じ面積を家宣の墓域として使ってしまったら、次の将軍の墓域を増上寺に見出すことが難しくなってしまう。

幕府は方針を転換して、大殿の右側のスペースを後代の歴代将軍の廟所スペースとしたのではないだろうか。

clip_image004 増上寺大殿

以上は私の何の根拠もない想像である。

目を今の時代に戻すと、大殿の左側の秀忠と江の墓域とほぼ一致するエリアが、今ではザ・プリンスのパークタワー東京の敷地となっており、それ以外の将軍家の墓域とほぼ一致するエリアが、東京プリンスホテルの敷地となっている。

徳川将軍家の廟所は、今ではプリンスホテルの敷地に変わってしまっているということになる。

増上寺(中央)を挟んで上側(南)に江と秀忠の廟所が、下側(北)に他の将軍の廟所があった。現在、江と秀忠の廟所はパークタワーとなり、他の将軍の廟所は東京プリンスホテルとなっている。

clip_image006 プリンスホテルの案内図

そこには、政商として陰に陽に活躍した西武グループの創始者・堤康次郎氏の影が見え隠れしている。 そのことは次の章で書くことになるから、ここではこれ以上触れない。

それにしても、徳川将軍家の墓地の跡地にホテルを建てるという発想は、普通の人にはない発想だと思う。寝ていると将軍の霊が夢枕に現れて来そうであまりいい心地がしないだろうと思うのは、私だけだろうか?

幸か不幸か、私は東京を代表するこの高級なホテルに宿泊したことはない。

 江の廟所があったパークタワー東京の敷地を歩いてみた。

 入り口は、前々章でも触れた日比谷通りに面した台徳院惣門である。秀忠の廟所に通ずる最初の門であるというこの門を改めて見てみると、繊細な彫刻こそ施されてはいないものの、堂々としていて実に立派な門であることに気づかされる。

 改修が行われて当時の姿を彷彿とさせてくれているのも、たいへんにありがたいことである。後述するが、他の現存している増上寺にあった将軍家の廟門は、どれもみな長年の雨風に晒されて往時の輝きを失っている。

 博物館の中に納めて劣化を防止するのも寂しいことだし、文化遺産の保存は実に難しい問題を含んでいるとつくづく思う。

 惣門を潜るとそれほど長くはないが石段が続く。

 きれいに整備されたその石段を登りきったところに「惣門跡」の標柱が建っている。何の説明もないからほとんどの人は何も知らずに通り過ぎてしまうが、今潜って来た惣門が元々建てられていたのがこの場所である。

clip_image008 惣門跡の標柱

 どうして日比谷通り寄りに移設されたのかはわからない。奥まったところにひっそりと建てられているよりは、日比谷通りを通る多くの人に見てもらいたいとの思いがあったのかもしれない。

 惣門の手前には水路が造られていた。珍しく詳細な説明板が設置されているので、ここではそのまま引用してみよう。

  ここに並べられた石垣石は、増上寺山内丸山に造営された台徳院-二代将軍徳川秀忠-

霊廟の惣門前に構築された水路に用いられていたものです。台徳院霊廟は寛永9年

(1633)、台徳院の死後まもなく造営が始められ、およそ一年後に竣工したことが記録に

あります。

  水路は砂地の上に組み上げられた石垣を壁としており、これらの石垣石はその建材の

一部です。石垣は平成14年(2002)に行われた発掘調査によって、この石列の真下、地

下およそ8mの位置で発見されました。石垣は、最も良好な箇所で4段検出されました。

石材として、相模から伊豆にかけての地域で切り出された安山岩が用いられていますが、

形や大きさはまちまちです。最下段の石垣には、宝永の火山灰の付着が確認され、刻印

や墨書を認めるものもあります。かつて、旧御成道-現在の日比谷通り-から御霊屋への通

路は、惣門手前でこの水路を渡りました。往時、水路には清らかな水が流れ、発掘調査

では惣門手前に架けられていた橋台の一部も検出されました。

 今では、人工的に切り整えられ平行に置かれたいくつかの石が、説明板の記述により僅かに水路跡の石であることを認識できるにすぎない。その石も、夏草に覆われてほとんど埋もれかけている。

 かつては、台徳院惣門の前には水が清らかに流れていた。廟へ参詣する者は、この水路に架かる石橋を渡って惣門を潜った。

 当時の姿を想像しながら進んでいくと、程なくして右手に「勅額門跡」と書かれた標柱が目に入る。

clip_image010 勅額門跡の標柱

 やはり何の説明もないので、知らない人はかつてあった増上寺の門だと思うことだろう。ところがこの門こそが、秀忠と江の廟所に向かう2番目の門なのである。

 次の章で書くことになるが、この門は都内某所に現存している。

 長い歳月の経過により劣化が進行し往時の姿を十分に残しているとは言い難いものの、それでも、詳細な彫刻が施され、部分的には鮮やかな彩色が今なお残る勅額門は、見事と言うほかない立派な門である。

 その勅額門を心の内に描いてさらに進むと、そこには円形に整えられた芝生の広場が拡がっている。

 この芝生広場には、かつて台徳院廟所の拝殿と本殿とがあったはずである。

 日光東照宮には及ばないものの、そこには豪華な彫刻で飾られ鮮やかな色彩で彩られた建造物群が建立されていたことだろう。私は再び、心の中で想像を逞しくする。

 勅額門を潜ると、目の前に唐門が見える。その向こう側の建物が拝殿で、さらに奥には2層から成る本殿の屋根が顔を覗かせている。いずれも総瓦葺きで、拝殿と本殿は入母屋造りの堂々たる建造物である。

 台徳院の拝殿・本殿の右側の一段やや低いところに、崇源院(=江)の拝殿と本殿とが台徳院の拝殿・本殿と並んで建てられていた。今で言うと、円形の芝生広場を少し右側に外れて増上寺会館裏手の敷地にかかる辺りであろうかと想像する。

 かつて崇源院の拝殿と本殿があったであろう場所を歩いてみると、明らかに人の手によって加工された四角い大きな石が道端に無造作に置かれていた。もしかしたら、崇源院の廟殿のどこかに使われた石だったのかもしれないなんて思うと、そんな何気ないただの石までもが神々しく見えてきてしまう。

現在円形の芝生広場となっているこの辺りに秀忠の拝殿と本殿が建てられていた。

clip_image012 円形の芝生広場

 勅額門を入ってすぐ右側、台徳院の拝殿・本殿から崇源院の拝殿・本殿に通ずる道に建てられていたのが、「丁子門」と呼ばれる小さな美しい門である。

 この門については、次の章で触れる。

 台徳院(=秀忠)の墓所は拝殿・本殿左手の、さらに高まった場所にあった。木製の巨大な宝塔が置かれ、内陣の柱には葵の紋をモチーフにした詳細な装飾が施され、欄間の彫刻では天女が笛を吹きながら宙を舞う姿が描かれていた。

 まさに別世界というか夢の世界である。

日光まで行かずしても、徳川氏の権力と富と文化の結晶であるこの美しい世界を私たちは間近に見ることが出来るはずだった。つい60数年前まではたしかにこの世に存在していたこの世の至宝を、無益な戦争によって失った私たちの損失は計算することができないほどに大きい。

台徳院の墓は木製の宝塔であったために、廟殿ともども灰塵に帰してしまった。

後(昭和33年(1958))に徳川将軍家の墓を移転・改葬するに際して行われた学術調査において、焼失した台徳院宝塔の下、地下2.7mのところに埋葬されていた秀忠の遺体も調査の対象となった。

中期以降の将軍が華奢で貴公子のような体格であったのに対して秀忠は、背丈はそれほど高くはないものの毛深く、骨格はがっしりとしていかにも戦国末期を生き抜いた人のそれであったようだ。

副葬品として葵の紋がついた槍や火縄銃が添えてあったというのも、当時の世相を反映していて興味深い。

台徳院の宝塔があった墓所は、今まさにザ・プリンスのパークタワー東京が建つあたりであると思われる。秀忠の墓も、随分と洒落たビルディングに姿を変えてしまったものだと思う。

私は江や秀忠への熱い気持ちを胸に抱きながら、万感の想いを込めて二人の廟所がかつてあったであろうホテルの敷地を、歩き回った。ここがそんな場所であることなど知る由もなく、結構式を迎えたウエディングドレス姿の花嫁と白いタキシード姿の花婿が、緑の芝生とホテルの建物を背景にして、記念写真を撮っている光景が眺められた。

現在パークタワー東京が建つあたりに、かつて秀忠の墓所である宝塔があった。

clip_image014 ザ・プリンス パークタワー東京

 台徳院の拝殿・本殿の位置と宝塔(=墓所)があった位置はだいたいわかった。崇源院の拝殿・本殿も台徳院の拝殿・本殿の右側に並ぶようにして建てられていたことがわかった。では、崇源院の宝塔(=墓所)はどこにあったのだろうか?

 私は、徳川家霊廟が描かれている地図を目を皿のようにして探した。

 しかし、増上寺の南側に拡がる台徳院と崇源院の廟域からは、どうしても崇源院の宝塔を探し出すことができなかった。

 崇源院の宝塔は元はどこにあったのだろうか?

 私は何度も繰り返して古地図を眺めてみたが、崇源院の宝塔の所在地をどうしても見出すことが出来ない。

 ほとんど諦めかけていた時に、ついに私は崇源院の宝塔があった場所を見つけた。

 まったく想定していなかったのだが、崇源院の宝塔は、増上寺の南側ではなくて北側にあったのだ。

 今で言うと東京プリンスホテルのエントランスのあたりになるだろうか。周囲には、5代将軍綱吉の生母である桂昌院など将軍の正室や側室たちの墓が集中している地域になる。

江の墓所を示す宝塔は、かつてはこの東京プリンスホテルのエントランス付近にあった。

clip_image016 東京プリンスホテル

 しかも、元々は江と秀忠の墓として使われている今の宝塔ではなくて、葬礼当時の江の墓は、高さが5m15㎝もある宝筐印塔であったことが発掘調査の過程で判明した。

慶安のころから塔の破損が激しくなったとの記録があり、改修を繰り返したもののついにこの宝筐印塔を諦め、現在の八角形の御堂形の宝塔に代えられたものと推測されている。

 元の宝筐印塔は5つのパーツに分けられて無造作に江の墓の周囲に埋められていたという。発掘調査ならではの知られざる事実を知って、改めて感慨を深めた。

 不思議なことに、江の遺骨は増上寺の北側に埋められて、そのまま移葬されることはなかったことになる。拝殿と本殿のみが、秀忠の薨去後に家光によって増上寺の南側の墓域に造られたということを知って、非常に複雑な気持ちになっている。

 江と秀忠の遺骸は、ずいぶん長い間、増上寺の北側と南側とに分かれて埋葬されていたのだ。

 戦後の発掘調査に続く改装により、文字通り江と秀忠の遺骨は一つの宝塔の下に納められることになった。それはそれで、二人にとってはよいことだったのかもしれない。

最後に現在の江と秀忠の墓を訪れた。

 上野の寛永寺は将軍家の墓所を公開していないが、増上寺では年に10数日程度ではあるものの将軍家御霊屋を特別に公開している。

 今年(平成23年)は3月11日に発生した東日本大震災の影響で、4月2日~8日に予定されていた御忌期間中の特別公開が見送りとなったが、その代わり4月15日~11月30日までの長期間にわたって徳川家墓所が特別に公開されている。

 ただし、冥加料として500円が必要である。

 通常は無料公開なので500円はやや高い気もするが、無料公開の時には多数の拝観客でごった返すのに、有料となると拝観客が激減する。静かな雰囲気の中で江や秀忠の墓と対面するのも悪くはない。

 さらに、貴重な焼失前の御霊屋の絵葉書と当時の地図が記念品として用意されている。この文章を書くにあたっても大いに参考にさせていただいた有意義な史料である。

 あれだけ広大な敷地に散りばめられていた将軍家の墓が1000㎡ほどのスペースに閉じ込められてしまったのは残念な気がするけれど、それでも十分威厳に満ちた神聖な雰囲気がこの空間には満ちみちている。

 江と秀忠の墓を示す宝塔は、墓域の一番奥まった場所の右側にある。

 前述のとおりに秀忠の宝塔が木製だったために焼失してしまったことから、秀忠が江の宝塔に同居しているのが、いかにも姉様女房の夫婦らしくて微笑ましい。

 以前お参りした時には、宝塔の右側に単に「台徳院殿二代秀忠公」と書かれた木の立て札が立てられていただけだったのに、今年のNHK大河ドラマ「江」の影響であろう、宝塔の左側に「崇源院殿お江の方」と書かれた立て札が新たに立てられていたのには、失笑を禁じ得なかった。

 そう言えば、前回お参りした時には、同じくNHK大河ドラマ「篤姫」が放映されていた時で、和宮と家茂の墓のみが特別に脚光を浴びていたことを思い出した。その時の秀忠の墓は、その他の将軍の墓の一つでしかなかった。

clip_image018 江と秀忠の墓

 江の墓はいかにも女性の墓らしく、石造りの宝塔はやや小振りで、塔身も屋根も八角形をしている。他の将軍の宝塔が丸い塔身に四角形の屋根であるのと比較するとたいへんに特徴的な宝塔である。

 紆余曲折を経たものの、この中に江と秀忠の遺骨が納められているのだと思うと、身震いするような気持ちがする。

 元々江は火葬であったが、秀忠の遺体も昭和33年(1958)の学術調査の後に、他の将軍の遺体とともに桐ケ谷斎場(品川区西五反田)にて荼毘に付された。そして増上寺の僧侶たちの懇ろな法要を受けて現在の地に移葬されたのであった。

 先に私は、秀忠は背丈はそれほど高くないものの毛深く、骨格はがっしりとしていかにも戦国末期を生き抜いた人のそれであったと書いた。

 江も、波乱万丈の人生を力強く生きてきた割には小柄で、華奢な体格の女性であったようだ。浅井長政の一族は大柄な体格の人が多い家系のように思われるのだが、江は小さな体に溢れんばかりのバイタリティーで波乱に富んだ人生を送ったのかもしれない。

 その後、移葬が行われてから50年以上の歳月が経過している。

 すっかり周囲の景色や草木にも馴染んだ将軍家の墓域は、元からここにあったかのように思えるほどの威厳をもって我が眼前にその姿を見せてくれていた。

 少なくとも私が生まれた時には今の状態になっていたのだから、そう思えることも不思議ではない。無益な戦争により多大なダメージを受けたことを考え合わせると止むを得なかったことかもしれないが、今の姿が江や秀忠にとって必ずしも幸せな形であるかどうかは、私にはわからない。

 やはり本来は、元の埋葬されていた場所に、願わくば焼失前の廟所を復元してほしかった。今の時代であったならば、あるいはそういう動きになったかもしれない。

 高度経済成長を背景に文化財遺産への尊重と尊敬とが軽んじられていた時代背景もあったのだろうが、廟所を破壊するブルドーザーの槌音に急かされるようにして学術調査を行わざるを得なかったという事実を知ると、とても悲しい気持ちになってしまう。

 プリンスホテルの敷地内にはここが徳川将軍家の墓地跡であったという事実を示す説明板がほとんどないことが、一層私の心を痛めている。法律的には適法であり、誰から責められる余地もないものかもしれないが、彼らが行った行為はある意味では文化遺産の破壊であり、そのことは彼ら自身が最もよく認識していたのではないだろうか。

多くを語りたくないために説明板が設置されていないと考えるのは、私の穿ち過ぎだろうか?

clip_image020 貞恭庵

 徳川家の霊廟を後にして大殿の裏側を通ってさらに進むと、貞(てい)恭(きょう)庵(あん)という瀟洒な茶室がひっそりと建てられているのに出くわす。大勢の参詣者で賑わう増上寺においても最も奥まった場所にあり、訪れる人も稀な静寂に包まれた空間である。

 この貞恭庵と呼ばれる四畳半台目の茶室は、皇女和宮に所縁の茶室なのだそうだ。

 貞恭庵という庵名は、和宮の謚である「静寛院宮贈一品内親王好譽和順貞恭大姉」から命名されている。

 この茶室、通常は非公開だが、月に1回だけ中に入ることができるチャンスがある。毎月第4日曜日に茶(ちゃ)雅(が)馬(ま)茶道教室が主催している抹茶と和菓子の会だ。

 和宮の茶室を是非とも見てみたくて、私は8月最後の日曜日に再び貞恭庵を訪れた。平成23年8月28日のことであった。

 たいへん幸運なことに、毎月テーマを決めて行われる茶会の今月のテーマは江であった。9月15日が江の命日であることから、江との関係が深い増上寺塔頭の最勝院に伝わる掛け軸(大和遠州流第2代の小堀篷雪画)が床の間に飾られ、江にまつわる話が語られた。

 時代が違うので、和宮の茶室を見に来て江の話を聞くとは予想していなかった。それだけに、思わずして江の話を聞くことができて、感慨もひとしおだった。

 こんなふうにして何気なく江のことが語られる増上寺という寺は、江にとって非常に身近な寺であったということなのだろうと思った。

 最後に、江は東京タワーのすぐ近くに眠っている。そして東京タワーは、東京のかなり広範囲な場所からでも遠望することができる。

私は東京の街を歩いていて東京タワーを見つけると、あぁあの袂に江の墓があるのだなと思うようにしている。

そうすると一層、東京タワーが愛おしい存在に思えてくる。

秀忠の拝殿・本殿があった円形広場、秀忠の墓(=宝塔)のあったパークタワー東京がよく見える。

clip_image022 東京タワーから見た増上寺

江の墓所を示す宝塔があった東京プリンスホテル方面。

clip_image024 東京タワーから見た増上寺