我善坊谷・葬送の道

このブログは、須賀谷温泉に来られた、または須賀谷温泉のブログをご覧になられて江の生涯に興味を持たれたお客様が、江戸での江の足跡または面影を求めて旅をされる際の道案内にでもなれば、との思いで書いた「湖北残照」の番外編である。

 ここ須賀谷温泉のすぐ目の前にある小谷山の上で生を受けた江が、その後の数奇な運命を経て辿り着いた終着点が、徳川幕府の江戸であった。

近江の江から江戸の江へ。

江の波乱万丈の人生の出発点と終着点とを見ると、はるばると人生の旅をしてきた江のことが思いやられて、しみじみとした感慨が湧き起こる。

この湖北の地で江の生まれ故郷を堪能されたみなさんには是非、江戸における江の足跡を訪ね歩かれることをお勧めする。そこには、意外な発見があるかもしれない。

 

我善坊谷・葬送の道

今、私は六本木交差点にいる。

 六本木と言えば、若者の街、あるいは外国人の街という言葉が似合う。または夜の街、眠らない街などという形容詞で語ることもできるかもしれない。東京でも特徴的な街の一つである。

 なぜ、江が六本木なのか?

 実は、江が亡くなって荼毘に付された時の灰を集めて埋めたと言われている「灰塚」が、六本木交差点から歩いて僅か1分ほどのところにある深(じん)廣寺(こうじ)という寺にあるのだ。

clip_image002[1] 深廣寺

 寛永3年(1626)9月15日、江は江戸城西の丸で53年の波乱に満ちた生涯を終えた。この時、夫であり徳川2代将軍である秀忠も、嫡男である家光や忠長も揃って上洛中であり、江にとっては寂しい最期だった。

 江の遺体は9月18日の夜に徳川氏の菩提寺である増上寺に運ばれた。

その後、荼毘に付されたのが10月18日であったことから推測するに、江の葬儀は夫の秀忠や息子の家光の帰着を待って執り行われたと考えるのが自然であろう。

江の火葬場が設けられたのは、「麻布野」であるとも「我善坊谷」であるとも言われている。

麻布野とは、今の六本木付近に拡がっていた広大な原っぱのことであり、我善坊谷とは、麻布野よりもやや増上寺寄り、今の麻布台一丁目にある麻布郵便局裏手の低くなった谷状の土地のことであると推測される。

 今では先鋭的であり高級な都会の代名詞のようになっている六本木や麻布台であるが、当時はまだ随所に空き地が見られる原野や谷あいだったものと考えられる。

 江が火葬された正確な場所はわからない。

 前述の灰塚のある深広寺付近というふうにも考えられるが、『徳川実紀』には我善坊谷と記載されている。いずれにしても、現在の六本木から麻布台にかけての広々とした土地に、江のための盛大な荼毘所が設けられた。

  増上寺から荼毘所までの1000間の間に筵を敷き、その上に白布10反を布いて1間ご

とに竜幡をたて、両側に燭をかかげた。荼毘所は100間四方槍をもって垣をつくり、丹

を塗り筵を敷き、達空、信人、梵行、究竟、の四門をたて、各門に額をかけ、方ごとに幡(ばん)

10本ずつ四方40旒、火屋内構60間、四方の垣外構と同じ。……。

『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』 東京大学出版会

1間は約1.8mであるから、1000間というと約1800mということになる。2㎞弱にもわたって筵が敷かれ、その間、2m弱の間隔で幡が立てかけられていたことになる。荼毘所の広さも180m四方に槍を建てて垣を造ったというから、いかに大規模な設備であったかが記述から窺える。

 先に、江は徳川の15代にわたる将軍の正室のなかで唯一、将軍となる子を産んだ正室であることを書いた。さらに江は、増上寺に埋葬された将軍・正室などの徳川一門の人々のなかで、唯一火葬された人でもあるという。

 どうして江だけが火葬されたのか、私にはわからない。

 江の死が急な死であったこと、秀忠や家光などの男衆が江戸を留守にしている間の死であったこと、それに火葬に付されたことなどの周囲の状況から、毒殺だったのではないかと考えている人もいるようだ。

 当時の貴人は土葬が普通だった。今のような機械設備もない当時は、むしろ火葬を行うことの方が手間暇のかかる行為だったという。わざわざ江が火葬された背景に何か特別な事情があったとの考え方もあるかもしれない。

 江の死が、もしも何者かによって企まれたものであったとしたら、それはあまりにも悲しすぎる事実である。そのような推理が成り立つとしたら、その背後に一人の女性の影が見え隠れしているのもまた事実であるからだ。

 しかし私は、江が毒殺されたとする説には与しない。

『徳川実紀』の記述には矛盾する記述や不正確と思われる記述が多いのでどこまで信じるべきか迷うところではあるが、江が危篤である旨の急報は9月11日には京の二条城に滞在していた秀忠や家光に届いていたこと、秀忠や家光の江戸帰着を待って江の葬儀が行われたことなどから考えると、急死であることも証拠隠滅のために荼毘に付したということも根拠のない説であると考えざるを得ない。

事実は永遠に不明のまま、残念なことにすべては灰と化してしまった。

 今となっては、江の死の真相を知る術(すべ)は何も遺されていない。私は、江の死という事実のみを知るのみである。

 江戸に戻って江の遺体と対面した秀忠や家光や秀長は、どんな思いだったことだろうか?彼らの驚きと悲嘆に満ちた気持ちを想う時、私は涙を禁じ得ない。江が忽然とこの世を去ってしまい、命なき遺体となってしまったという事実を、おそらくは容易に受け容れることができなかったのではないだろうか。

 江の訃報を聞いて、江の化粧料地であった石川村や王禅寺村からも、江を慕う人々が取るものもとりあえず駆けつけてきた。

 実際に江にお目見えしたことはなかったかもしれないが、彼らにとっての江は絶対的な存在であったにちがいない。支配者と被支配者という単純な上下関係ではなくて、彼らの間には信頼に裏打ちされた、あるいは親愛の情がこもった主従の関係が存在していたものと想像される。

clip_image004[1] 我善坊谷の細い路地

 この日の我善坊谷は、悲しく重苦しい空気に包まれていたことだろう。

 先程引用した『徳川実紀』の記述を基に、江の荼毘所が造られたと言われている場所を推理してみた。

 増上寺から1000間(=約1800m)という距離を考えると、我善坊谷では近過ぎてしまう。やはり六本木辺りと考えるのが妥当であろうか?

 しかし私は、『徳川実紀』に記述された距離感には疑問を抱いている。

 別の箇所で、

  沈香を32間余りに積み重ね、一時に火を放てば、香烟10丁余りに及んだ

 という記述があるからだ。

 さすがに没後1ヶ月以上を経た遺体を荼毘に付すにあたって、腐臭を如何ともし難かったのだろう。香木を32間余りに積み重ねたと記されているのだが、先程の計算(1間=約1.8m)で換算すると、32間は57.6mになってしまう。

57mという高さは、京都にある東寺の五重塔の高さと同じである。そんなことはあり得ない。従って、増上寺から荼毘所までの距離が1000間というのも、疑ってかかるべきであると考える。

 この1000間という記述を考慮しなければ、我善坊谷はいかにも荼毘所がありそうな雰囲気に満ちた場所であるように思われる。

 我善坊谷を歩いてみた。

 夕暮れ時に歩いたということもあったかもしれないが、通る人も疎らで、たいへんに寂しい道に見えた。六本木がすぐそこで、東京タワーも間近に見え隠れする都会の真ん中に立地しているのに、喧騒からは隔絶された世界がそこには存在していた。

 王家の谷という言葉がエジプトにあるけれど、死にまつわる場所は洋の東西を問わず陰の世界が相応しい。陽の当たる岡の上よりも、日陰の谷底の方が似つかわしい。

 今では「我善坊谷」という地名さえ、歩き回ったけれどどこにも見出すことができなかった。すでに忘れ去られた世界なのかもしれない。

 荼毘に付された江の遺骨は、墓所である増上寺に向かうためにしずしずと我善坊谷に設けられた荼毘所を出発した。

 葬送の長い列は、細く曲がりくねった道をしめやかに進んでいった。狭い路地を悲しみの行列が通り過ぎていく。

 こんな静かな道を江の遺骨が運ばれて行ったのだと思うと、ちょっと心が疼いた。小谷山で生まれ、波乱に富んだ人生を送り、そしてこんな遠い江戸の地で、夫や子供に看取られることもなく寂しく亡くなった江の人生を想った。

 そして、将軍の御台所の葬送なのにという気持ちと、でも心から江の死を悲しんでくれる人たちに囲まれての葬送の列の方が江にはふさわしいという気持ちとが相半ばして、私の気持ちは複雑に揺れ動いた。

 我善坊谷の坂道を上りきると、目指す増上寺はすぐ目の前である。

 葬送の道を辿る旅の最後に、江の荼毘所に関連したいくつかの寺を訪ねてみた。

 江の遺骸の火葬に携わった寺院は、前出の深(じん)廣寺(こうじ)のほか、教(きょう)善寺(ぜんじ)、光専寺(こうせんじ)、崇(すう)巌寺(がんじ)、正信寺(しょうしんじ)の5つの浄土宗の寺だった。

 これらの寺院は後に、火葬地一帯の麻布野に寺領を与えられた。

 六本木3-14-20の六本木墓苑は、道路拡張のために崇厳寺の跡地に集約されたこれら5寺の共同墓地である。

clip_image006[1] 六本木墓苑

 正信寺は、後に小石川に移転している。

clip_image008[1] 小石川に移転した正信寺

 私は、六本木墓苑を訪れた後、今に残る教善寺、光専寺、それに深廣寺の3つの寺を訪ねてみた。

clip_image010[1] 教善寺

clip_image012 光専寺

 いずれの寺も非公開で、私たちの訪問を頑なに拒んでいるかのようだ。

 建物自体も近世になって建立されたものであり、当時の面影を残してはいない。私は、なんとなく満たされない気持ちで、これら3つの寺院の門前で記念の写真を撮っただけで、そそくさと六本木の街を後にした。

 なお、深広寺の境内には、この章の冒頭で書いたように、江の灰を埋めたという灰塚と呼ばれている石碑が遺されている。せめてこの石碑くらいは拝んでみたいと思うのだが、それも叶わない。