近江八幡(ヴォーリズの面影を追って)
1. 近江八幡(ヴォーリズの面影を追って)
近江八幡は湖北ではありませんよ。
私にとっては心から尊敬している優秀な編集者であるが、一方で私の著作の最も厳しい批判者でもあるサンライズ出版の矢島さんの声が聞こえてくるようである。
そんなことはわかっている。わかっているけれど、どうしても私は近江八幡のことを書きたかった。初めてこの街を訪れた時の鮮烈な印象と感動とを私は忘れない。『湖北残照』の1ページとして何としても、私は近江八幡の街のことを書き留めたかったのだ。
近江八幡の街としての歴史は、豊臣秀吉の時代に始まる。
織田信長が本能寺の変で倒れた後、信長の居城であった安土城もその城下町も謎の出火により焼失した。ルイス・フロイスの著書『日本史』のなかでは、信長の次男である織田信(のぶ)雄(かつ)が自ら火を放ったように書かれているが、真相は闇の中である。
焼け残った安土の街ごと、安土の街から4㎞ほど西の八幡山の麓に秀吉の甥であり後に秀吉の後を継いで関白となる豊臣秀次が新しく城下町を創ったのが、今の近江八幡の街の原形となった。
平成22年3月21日には安土町と合併し、ついに「安土」という町の名前さえも「近江八幡」に吸収されてしまった。
豊かな琵琶湖の水資源に恵まれ水郷地帯としても知られている近江八幡は、訪れる者をして郷愁を感じさせるに十分な歴史と雰囲気とを持った魅力的な街である。
その近江八幡の街の中心地にある日牟禮(ひむれ)八幡宮を訪れた。
日牟禮八幡宮は、成務天皇の元年(131)に天皇が高穴穂の宮に即位した時、武内(たけのうち)宿禰(すくね)に命じてこの地に地主神である大嶋大神を祀ったのが最初であるとされている。この伝承を信じれば、1900年近くもの長い歴史を持つたいへんに由緒ある神社ということになる。
応神天皇の6年(275)には奥津嶋神社からの還幸の際に、応神天皇が社の近くの宇津野々辺に御座所を設けて休憩したとされている。後日その仮屋跡に2つの日輪が現れるという不思議な現象が見られたため、祠を建てて日群之社八幡宮と名付けられた。これが現在の日牟禮八幡宮の名の起こりであるとされている。
持統天皇の5年(691)には時の為政者であった藤原不比等が参拝し、
天降りの 神の誕生の 八幡かも
ひむれの社に なびく白雲
という歌を詠んで、比牟禮社と名を改めた。
正暦2年(991)、一条天皇の勅願により八幡山の上に宇佐八幡宮を勧請して上の社とし、寛弘2年(1005)には山麓に遙拝社を建立して下の社とした。
その後も、皇室からも武家からも篤い信仰を集め、時の有力武将から社領の寄進を受けるなどして地位を不動のものにしていった。
現在の姿になったのは、天正18年(1590)に豊臣秀次が八幡山の山上に八幡山城を築城することになり、上の社を下の社に合祀したことに伴うものである。
徳川の世になってからも家康や家光などから寄進のための朱印状を得るとともに、当地に源を発する近江商人の守護神としての信仰も一心に集め、社は大いに興隆を続けていった。
祭神は、誉田(ほんた)別(わけの)尊(みこと)(応神天皇の神霊)、息(おき)長足(ながたらし)姫(ひめの)尊(みこと)(応神天皇の母である神功皇后の神霊)、比賣(ひめ)神(かみ)(田(た)心(ごり)姫(ひめの)神(みこと)、湍津(たぎつ)姫(ひめの)神(みこと)、市(いち)杵島(きしま)姫(ひめの)神(みこと)の神霊。この三姫神は玉依姫とも言う)の三柱を祀っている。
街中のどこからでも見渡せる八幡山の麓にあり、抜群の存在感を誇っているのが、日牟禮八幡宮である。2層から成る大きな三門を潜ると、正面に入母屋造りの大屋根を持つ拝殿が現れる。
拝殿の右手には、能舞台が設えられている。
能舞台自体は明治の建造(明治32年(1899))であるが、古色が滲み出ていて趣の深い味わいを湛えている。この時に能舞台の完成を祝して演じられた「日觸詣(ひむろもうで)」という観世流の能楽は、その後長らく上演されることなく途絶えていたものの、平成5年に93年ぶりに薪能として再演されて、以後は毎年演じられるようになったという。
拝殿の後ろの一段高くなった平地には本殿が控えている。紅白の紐が括りつけられた大鈴が5個も取り付けられていて、落ち着いた雰囲気の立派な建物である。
拝殿の後ろ側に一際目を引く金色の鳩が何(いく)つがいか、据えられていた。これらの鳩は金婚式を迎えた夫婦がそのお礼のために寄進したものだという。めでたい鳩の姿に、思わず心が和む。
ここ日牟禮八幡宮では、2つの有名な祭りが執り行われている。
一つは、八幡まつりである。
この祭りの起源は、なんと応神天皇の御代(6年(275))にまで遡るという。天皇が、母である神功皇后の生地である息長村(現米原市)を訪れた際、日牟禮八幡宮の大嶋大神に詣でるために琵琶湖から当地に上陸した。その時に地元の人々が天皇を道案内しようとして湖岸に群生する葦で松明を作り、火を灯して先導したのが祭りの始めであると伝えられている。
毎年4月14日と15日の両日、八幡町開町以前から存していた旧村落12郷の氏子たちによって執り行われる。
14日の宵宮祭は別名を松明まつりとも言い、各郷からしきたりに従った大小様々な大きさの松明が奉納される。松明と言っても、大きいものは笹を使って10mもの高い柱のように組み上げたものである。これを朝8時半頃から結い上げていく。
大松明以外の松明は、葦と菜種殻を使用して組んでいく。
午後7時頃になると、これらの松明が引き摺られるようにして拝殿前に運ばれてくる。これを宮入り(宵宮)と言う。そして、松明に火が放たれて(これを「奉火」と言う)祭りのクライマックスを迎える。
すべてが、応神天皇を迎えた際の当時の情景をそのままに今に伝えているものだという。
一夜明けて翌15日の本祭は別名を太鼓祭とも言われる。12郷の大太鼓が宮入りし、拝殿の前でそれぞれの流儀によって打ち鳴らされ、神職からの祝詞を受ける。
八幡まつりは応神天皇の頃の面影を色濃く残す、古色豊かな祭りである。
もう一つは、左義長まつりである。
左義長まつりは、元々は正月を祝う火祭の行事として漢時代の中国から伝わったもので、正月飾りなどを焼いて1年間の無病息災を祈ったという行事に由来している。三毬杖・三木張・三毬打・爆竹などとも書かれ、この行事自体は今でも全国で普通に行われている。
安土における信長は、毎年正月に自ら奇抜で華美ないでたちで安土の町へ繰り出し、見物衆の耳目を驚かせたことが『信長公記』に記されている。
黒き南蛮(なんばん)笠(がさ)をめし、御眉(まゆ)をめされ、赤き色の御ほうこうをめされ、唐(から)錦(にしき)の御そばつぎ、
虎皮の御行(むか)膝(ばき)、すぐれたる早馬、飛鳥の如くなり。(中略)
この外、歴〱、美々しき御出立(いでたち)、思ひ〱の頭巾、装束、結構にて、早馬(はやうま)十騎・廿騎宛
乗らさせられ、後には、爆竹に火を付け、噇(どう)と、はやし申し、御馬ども懸けさせられ、
其の後、町へ乗り出だし、さて、御馬納めらる。見物群衆をなし、御結構の次第、貴賤
耳目(じもく)を驚かし申すなり。
信長亡き後、豊臣秀次が近江八幡に城を築いて入城した際に、開町以前からの町衆が執り行う八幡まつりを目の当たりにして、一同その荘厳さに度肝を抜かれた。この八幡まつりに対抗すべく行われ始めたのが、近江八幡における左義長まつりの始まりであると伝えられている。
元からの住人と新興の住人との間のプライドを懸けた激突が目に見えるようである。
現在の左義長まつりは、毎年3月中旬の土曜・日曜に行われる。以前は14日・15日で日が固定されていたが、今は14日・15日に近い土・日に行われている。
左義長とは、新藁を12段の段状に積み重ねた高さ2mほどの三角錐の松明のことである。その上に長さ約3mの青竹を立てかけ、竹がしなるほどに大量の短冊型の細長い赤紙を据え付ける。
左義長の正面には、各町毎に意匠を凝らした「ダシ」と呼ばれる飾りものが取り付けられる。円形、扇形、方形などの様々な形態をした「台」に、その年の干支などに因んだ「虫」と呼ばれる動物が飾られ、この「台」と「虫」とを合わせて、「ダシ」と言う。
前述の日牟禮八幡宮の能舞台には、織田家の家紋であるモッコウが描かれた真っ赤な酒杯(台)に干支としての勇壮な虎の像(虫)が乗る「ダシ」が飾られている。幽玄な能を舞う舞台に華美な左義長まつりのダシは不釣り合いな気がするが、左義長まつりのダシを間近に見る機会はなかなかないので、それはそれでありがたい。
華やかに飾り立てられた左義長には、4本の担ぎ棒が通され、ちょうど神輿のように肩に担いで街中を練り歩くことができる。
祭り初日の土曜日の昼にはすべての左義長が日牟禮八幡宮に宮入りし、その後、左義長は終日町内を思い思いに練り歩く。左義長の周囲には踊子と呼ばれる町衆が取り巻いていて、「チョウサ、ヤレヤレ」「チョウヤレ、ヤレヤレ」との賑やかな掛け声を掛ける。
踊子の男性が女装をしたり化粧をしたりしているのは、信長が派手な格好で踊り出た故事を踏襲しているのだという。
2日目の日曜日も町内を練り歩いた左義長は、日暮れ時に日牟禮八幡宮に集結し、最後は奉火により神に捧げられる。
近江八幡の町衆が一月(ひとつき)あまりにもおよび精魂を込めて作り上げた左義長に火が入れられて、日牟禮八幡宮の夜空を真っ赤に染める様は、まさに天下の奇祭と呼ばれるに相応しい豪壮な祭りのクライマックスとなる。
人々の祈りと歓声とため息とが重なり合って、それらすべての思いが煙とともに天に上っていく……。
湖北地方に纏わる祭りのことは、次章の「曳山まつり」の章でもう少し踏み込んで考察してみたいと思っている。こうして古来から地元に伝わる祭りを見ていくことは、その地方の文化を知るうえでたいへんに貴重な材料を得ることにつながる。
祭りには、その祭りが始められるに至ったその地に特有の由来があり、その祭りが長い間地元の人たちによって受け継がれてきた歴史があり、そして祭りが維持されるための風土や土壌がある。
残念ながら私は、まだ実物の祭りを見たことがないので表面的な思考に止まらざるを得ないが、近江八幡の祭りの場合は、どちらも火が重要な要素になっている。
秀次による近江八幡開町以前からの住民たちによる八幡まつりと、近江八幡開町以後に移り住んできた人たちによる左義長まつりという、新旧2つの祭りのコントラストがおもしろい。
豪壮な火まつりに想いを馳せながら、ロープウェイで八幡山に上った。
ゴンドラが高度を上げていくに従って眼下に近江八幡の美しい街並みが拡がっていく様子を見ていくのは、快感だった。緑の木々に覆われていた視界が次第に展けていき、平らな平野に家々の甍が連なっている様子が明らかになっていく。
市街地の外側はすぐに田園地帯となり、さらにその外側にはもう山がちらほらと見られる。小ぢんまりとした近江八幡の街並みが我が眼下に一望されている。
ロープウェイ山上駅を降りた後、八幡山の山頂まではまだなお歩いて登らなければならない。
少し坂道を登り始めると、右手に大きな石垣が顔を覗かせてきた。やや粗い積み方の石垣(算木積みと言う)ではあるもののかなりの高さがあり、相当の大規模な石垣であることに驚かされた。
主に4㎞南方の岩倉山の石材を使った石垣とされているが、急な築城であっただろうから、安土城や観音寺城など周囲の城郭の石垣も再利用されたかもしれない。それにしてもこんな高い山上にこれだけの石垣を造った豊臣氏の権力の大きさを改めて思い知った。
私が訪れたのは新緑の季節で、まだ覚束ない透き通るような緑色をした楓の葉が、石垣を背景に差し込む陽光を通して輝くように見えた。秋の季節にはきっと、一面の緑が紅葉で真っ赤に染まることだろう。
途中、出丸跡、西の丸跡などいくつかの曲輪跡を経て、標高271.9mの北の丸跡に辿り着く。ここから望む琵琶湖の景色はとても美しかった。
眼下には田植えが済んだばかりの水田が拡がり、その向こう側に琵琶湖の広い湖面が見える。右側の視界に見える山は、長命寺のある長命寺山である。
北の丸跡を出て、時計回りに遊歩道を歩いて行くと、やがて本丸跡に移築された瑞龍寺の山門に至る。この門があった場所に、かつては本丸の入口にあたる虎口(こぐち)があったものと考えられている。
瑞龍寺は、村雲御所とも称し、日蓮宗唯一の門跡寺院である。秀次の生母である瑞龍寺殿日秀尼が秀次の菩提を弔うために文禄5年(1596)に創建した寺で、元は後陽成天皇から京の村雲の地に寺禄1000石を賜り、村雲御所と呼ばれる門跡寺院となった。
京の地から現在の八幡山城に移転したのは意外と最近で、昭和38年(1963)のことである。瑞龍寺から眺める近江八幡の街並みは、ロープウェイ山上駅よりも一段と高いせいか、より美しく見えた。
八幡山城は、天正13年(1585)に豊臣秀吉が甥である豊臣秀次のために自ら普請の指揮を取って築城した城で、八幡山城の完成とともに秀吉は安土城を廃城している。つまりは、安土城に代わって近江国を治めるために秀吉が新たに造った城が八幡山城であったということになる。
安土城が本能寺の変の後もなお織田氏の城であったことを考えると、秀吉が織田氏に代わって天下を我がものとするために、秀吉らしい巧妙な手口で織田氏の城を豊臣氏の城にすり替えたというのが実情であったと思われる。
八幡山は安土山よりも急峻であったために、山上に戦闘用の構えを築いたものの、平時は麓の秀次の居館で政務を執り行っていたものと考えられている。
秀次の館は、今のロープウェイの麓駅よりもかなり西側に建てられていた。八幡公園のさらに西側に、安土城のようなまっすぐの大手道が通り、その最上部に一段と立派な石垣に囲まれた秀次の館が存在していた。
家臣団は、大手道の左右の山の斜面に居を構えていたから、構造的には安土城に極めて類似した構造だったと言えるだろう。
一般の町民が住む城下町は、それよりさらに南側の平地に拡がっていた格好になる。
ロープウェイの麓駅と秀次や家臣団の館跡の中間に位置する八幡公園の中腹に、秀次の像が建てられている。衣冠束帯姿の立像だ。
台座には「従一位左大臣関白豊臣秀次卿」と彫られているが、八幡山城主時代の秀次はまだ関白ではない。天正13年(1585)の紀州および四国攻めで挙げた戦功により、関白になったばかりの秀吉から賜ったのが、近江八幡の43万石だったからである。
しかし近江八幡における秀次の治世は僅かに5年間でしかなかった。天正18年(1590)には尾張国清州城に移封となり、さらに文禄4年(1595)には謀反の罪を着せられて空しく高野山にて自刃させられこの世を去っているから、人の運命とは儚(はかな)いものである。
豊臣政権を維持するために、秀吉は秀次を後継者に指名して関白の地位を譲り、自らは太閤と称して陰で権力を掌握していた。ところが、そこに秀頼誕生という予期せぬ事態が生じてしまったために、関白である秀次の存在が秀吉にとっては急に疎ましくなってしまった。
難癖をつけて高野山に放逐したもののそれでも安心できず、ついには秀次に自害を強要する。秀吉が相手では勝ち目がないと悟った秀次は、高野山にて従容として死に就く。
その後秀吉によって行われた秀次の妻子や側室などの大量虐殺行為は、秀次の悲劇にさらに拍車をかけるとともに、秀吉の名声を地に貶めることにもなった。
八幡城山主に抜擢された頃の秀次は、10年後に我が身に降りかかる悲劇のことなど思いもよらなかっただろう。すべての出発点がこの八幡山城だったと思うと、秀次のことが一層不憫に思いやられる。秀次の像を前にして、そんなことなどをつらつらと考えていた。
秀次が清州城に移った後の八幡山城へは京極高次が入ったものの、秀次の死とともに八幡山城は廃城となり今に至っている。八幡山城は、築城から僅かに10年間しか使用に供されなかった悲劇の城であった。
いよいよ、近江八幡の城下町を散策する時間が訪れた。近江八幡は見どころ満載の美しい街だから、街を見ようとすると長時間を要することを覚悟しなければならない。と言うか、夢中で街を歩いているうちに、いつの間にか時間が経過してしまうのが、近江八幡の街の魔力である。
近江八幡の城下町は、八幡山城の外堀であり運河の役割りをも果たす八幡掘の外側に碁盤の目のように整然と築かれている。八幡山城の築城と同時に新しく造った街なので、計画的な街づくりが可能であったからだ。
他の典型的な城下町とは異なり、古い日本式の街並みのなかに洋風の建築物が点在し、しかもこれらの洋館が和風の街並みにも融合しているのが、近江八幡の街並みの特徴かもしれない。
そこにはヴォーリズという建築家の存在がたいへんに大きいのだが、ヴォーリズのことは次の章でゆっくり触れるとして、まずは古くから伝わる純日本風の街並みを歩いてみることにしたい。
八幡堀に平行して走る道に「京街道」と名づけられた道がある。まずは手始めに、私はこの京街道を歩いてみた。京街道とは、その名のごとく京へと通じている道であったに違いない。
私が最初に京街道を歩くことを選択したのには理由(わけ)があった。それは、この京街道こそが、前章の最後で触れた朝鮮人街道であったからだ。
中山道の鳥居本宿から分岐した道が佐和山の切通しを越えて彦根城下に至る。彦根の宗安寺で一泊した後、朝鮮通信使の一行はさらに進んでこの近江八幡の街並みへと歩を進めていく。
市立資料館の前の道に「朝鮮人街道」と刻まれた石碑が建てられている。一行はこの石碑が建つ道を通って、もう少し先にある本願寺八幡別院で昼食を摂るのが習わしであったという。
朝鮮通信使も通ったという道には、今でも黒板塀の趣のある家並みが続いている。右手に八幡山を望む美しい街並みだ。かつて朝鮮通信使や雨森芳洲も、今私が見ているのと同じ景色を見ていたのかと思うと、胸がわくわくしてくる思いがする。
京街道は、本願寺八幡別院の少し先のところで願成就寺に突き当たり、直角に左に曲がってさらに続いて行く。
私はここで引き返して、気の向くままに近江八幡の街並みを歩いてみた。
縦横無尽に道が走る近江八幡の街並みは、どこを歩いても城下町の趣を残す美しい街だ。紅殻色の格子のある家がある。黒板塀に白壁が美しい家もある。まるで木曽路の宿場町を歩いているのではないかと錯覚してしまいそうな古風な街並みが、木曽路の宿場町の数倍の厚みを伴って我が眼前に存在している様は、壮観でさえある。
そのなかでもとりわけ立派な建物が建ち並ぶのが、新町通りである。
新町通りは八幡山城から垂直に伸びている通りの一つで、旧西川家の住宅や伴家の住宅などの邸宅が甍を並べている。
旧西川家は、大文字屋という屋号で主に蚊帳や畳表などを扱っていた近江商人で、江戸、大坂、京都に店を構えて大層な繁栄を誇った名家である。
現在の建物は、初代の西川利右衛門から数えて3代目が宝永3年(1706)に建てた建物で、築造からすでに300有余年の歳月を経ており、国の重要文化財に指定されている。黒板(くろいた)に白壁を配した建物はどっしりと力強く、豪商としての自信に満ち溢れているように見える。
開け放たれた門から覗く路地にはまっすぐに敷き石が伸び、奥の土蔵の白壁とも相俟って趣のある空間を作り上げている。
西川家は昭和初期まで続いたが、昭和5年(1930)に子孫が途絶え、以来土地と建物は市の管理物となっている。
旧伴家も、西川家と同じく近江の商人で、扇屋の屋号で麻布や蚊帳や畳表などの商いをしていた。
西川家住宅からはかなり時代が下るが、現在の建物は7代目の伴庄右衛門能伊が文政10年(1827)から天保11年(1840)までの13年間の歳月を費やして構築したもので、2階に窓ガラスを多用したたいへん開放的な日本建築となっている。
大いに栄えた伴家であったが明治20年に廃絶となり、建造物は当時の八幡町に寄贈された。その後、小学校、役場、女学校、近江兄弟社の図書館、近江八幡市立図書館と実に数奇な運命を辿り、現在は市立資料館の一部として市を訪れる観光客に往時の繁栄ぶりを伝える語り部としての役割を果たしている。
近江八幡の街並みはどこを歩いても趣があり飽きることがないが、そろそろ私は、この近江八幡の章のハイライトであり主題であるウィリアム・メレル・ヴォーリズの建築について語らなければならない。
- 1. 近江八幡2(ヴォーリズの面影を追って)
2003年の冬に初めてこの街を訪れた時に私は、ヴォーリズという建築家の名前とその存在とを知った。その時以来、近江八幡の美しい街並みの印象とともに、ヴォーリズの名前は私の心に深く刻み込まれた。
ヴォーリズは、1880年(明治13)10月28日に、父であるジョン・ヴォーリズと母であるジュリア・ヴォーリズの長男として、アメリカ合衆国カンザス州レブンワース市に生まれた。
彼は両親からの強い影響を受けた敬虔なキリスト教の信者であった。そんなヴォーリズが日本の土を踏んだのは1905年(明治38)、彼が24歳の時のことだった。
国際YMCAの一員として近江八幡市に派遣されたことが、ヴォーリズの運命も近江八幡市の運命をも変えることになろうとは、この時には知る由もなかったに違いない。爾来ヴォーリズは83歳でこの世を去るまでずっと、近江八幡の街を愛し続け、そして近江八幡の街に住み続けた。
元々建築家になることを志望していたヴォーリズはマサチューセッツ工科大学(MIT)への入学が許可されるほどの学力を有していたのだが、家の経済状態を慮って近くのコロラド大学の理工系課程にて学問を学んでいる。
しかし人生とはわからないもので、このコロラド大学でヴォーリズはYMCAの活動に興味を持つようになり、また海外伝道学生奉仕団とも関係を持ったことなどから、キリスト教の教えを外国で伝道することに自分の生涯を捧げることを決意する。
コロラド大学在学中に、後に関西(かんせい)学院(がくいん)の育ての親とも呼ばれ第4代の院長となるC.J.L.ベーツ(1877-1963)と巡り会うことになったのも、日本への縁の始まりであったかもしれない。
文科系に転じて1904年(明治37)に哲学科を卒業したヴォーリズは、コロラドスプリングスのYMCAの主事補に就任する。そして翌年の1905年(明治38年)、日本との運命的な出逢いを果たすのである。
ヴォーリズは、滋賀県立商業学校(現滋賀県立八幡商業高等学校)の英語の教師として来日した。ヴォーリズと日本、ヴォーリズと近江八幡との深い関係の始まりである。
と書くとカッコいいが、実際は若者特有の正義感に燃え、何の根拠もない期待感に導かれるようにしての日本渡航であった。
古い蒸気船「チャイナ号」による長い船旅の後、18時間もの列車の旅を経て近江八幡の当時の小さな駅舎に降り立った時には、さすがのヴォーリズも自分が行った行動の無謀さに気づき、後悔したようである。この時の彼の日記にある短い言葉が、そのことを端的に物語っている。
独り、寒く、悩み多し、ホームシック。なのにここにいる。(1)
日本語をいっさいしゃべれず、ポケットの中には帰りの渡航費用はおろか、ほんの数枚の紙幣しか持ち合わせていなかった青年は、近江八幡における唯一の外国人として、守旧的で仏教徒ばかりの人々のなかで、キリスト教の布教活動を行っていかなければならないという本当の現実を初めて、心の底から実感したのであった。
ヴォーリズはこの滋賀県立商業学校で昼間に英語の授業を教える傍ら、放課後には自宅で聖書の教義を語るバイブルクラスを設けてキリスト教の伝道にも努めた。ヴォーリズを慕ってバイブルクラスに多くの生徒が集まる一方で、それを快く思わない人たちも近江八幡のみならず滋賀県内にたくさんいた。
結局このバイブルクラスが問題となり、1907年(明治40)にヴォーリズは英語教師を解雇されることになる。
普通であればこれで日本との縁が切れてしまうところだが、ヴォーリズはその後も日本に留まり、1908年(明治41)には京都・三条のYMCAで建築設計監督事務所を開設する。後のヴォーリズ建築事務所の前身である。哲学科を卒業し英語教師として来日しキリスト教の伝道に多大な精力を費やしたものの、ヴォーリズの才能の本領はやはり建築にあったと言えるだろう。
1910年(明治43)には建築家のレスター・チェービンやバイブルクラスの教え子であった吉田悦蔵らとともにヴォーリズ合名会社を設立する。さらに1918年(大正7)には、現ヴォーリズ記念病院の前身にあたる結核療養所「近江療養院」を開設するなど、キリスト教精神に裏打ちされ、愛に満ちた理想の社会を築き上げるために、ヴォーリズは様々な分野で次々と才能を開花させていった。
そして1919年(大正8)、ヴォーリズは一人の日本女性と出逢い、結婚する。
その日本女性とは、一柳(ひとつやなぎ)満喜子(まきこ)である。
満喜子は、播磨国小野藩主の家督を継いだ子爵・一柳末(すえ)徳(のり)の三女として、明治17年(1884)に東京の芝愛宕下(現東京都港区西新橋)で生まれた。母の栄子は伊予国小松藩主・一柳頼紹(よりつぐ)の娘である。
典型的な良家の子女として育てられた満喜子は、当時上流階級の間で流行していたミッション系の女学校に進学する。
そして早期に結婚を迫る父親から逃れるようにして、明治42年(1909)にはアメリカに渡り、苦労しながら自立心と国際人としての教養を身につけていった。
再三にわたる父親からの帰国要請にも従わずにアメリカに留まり続けた満喜子であったが、大正6年(1917)に父・末徳危篤の報を受けて満喜子は急ぎ帰国する。この帰国の時に満喜子はヴォーリズと知り合うことになるのだから、人の縁とは不思議なものである。
満喜子とヴォーリズとの出逢いは、ヴォーリズが兄である恵三邸の建築アドバイザーを務めていたことに起因している。
二人とも、一目惚れだった。
あれほど父親からの縁談を拒み続けてきた満喜子が、ヴォーリズを一目見た時から恋に落ちるとは、誰が予想しただろうか?これこそ、神が巡り合わせてくれた縁(えにし)であったと考えないではいられない。
ヴォーリズも、和服姿の満喜子を初めて見た時から満喜子に夢中になった。満喜子への最初の手紙がプロポーズの手紙であったというから、いかに短時間の間に満喜子への想いが急速に募っていったかが理解されると思う。
ところが華族である満喜子と外国人であるヴォーリズとの結婚は当時は前代未聞のことであり、周囲の反対は大きかった。今のように本人同士の自由意思のみで結婚が認められるような時代ではない。その反対を愛の力で押し切り、満喜子は華族という身分を捨てて平民となってヴォーリズに嫁いだのであった。
まさに、世紀の恋である。
二人は、ヴォーリズ自らが設計した明治学院の礼拝堂で挙式を挙げた。
爾来満喜子は、ヴォーリズの生涯の伴侶としてヴォーリズを愛し続け、そしてヴォーリズの活動を支え続けた。ヴォーリズの業績の陰には、妻である満喜子の貢献が何ものにも増して大きかったことを知る人は、意外にも多くはない。
ヴォーリズは、偉大なる建築家でありキリスト教の伝道者である傍らで、有能な実業家としての顔をも持ち合わせていた。
メンソレータムで有名な近江兄弟社は、1920年(大正9)にヴォーリズが近江セールズ株式会社として設立したのが社の起源となっている。
メンソレータムは元々、アメリカのメンソレータム社の製品であり、ヴォーリズは近江セールズ株式会社設立の10年も前の1910年(明治43)に、創業者であるアルバート・ハイド氏とシカゴで出会い、日本におけるメンソレータムの販売権を取得していた。
先々の展開を予測して予め必要な手を講じておく。1910年と言えば、ヴォーリズがヴォーリズ合名会社を設立した年である。この時すでにヴォーリズは、将来を見越して布石を打っていたことになる。
その後の日本におけるメンソレータムの普及ぶりを考えると、ヴォーリズの商才は並大抵のものでなかったことが理解される。
ヴォーリズが設立した近江兄弟社は、メンソレータム(現メンターム)に代表される医薬品事業のほかに、ヴォーリズが最も得意とした設計・建築事業(現株式会社一粒社ヴォーリズ建築事務所)を手掛け、さらには医療法人(現ヴォーリズ記念病院)や教育事業(現学校法人近江兄弟社学園)などを設立して社会への貢献を果たしている。
近江兄弟社という社名は、ヴォーリズが愛した「近江」という地名と、人類はみな仲間であり「兄弟」であるというキリスト教の博愛の精神とから、1934年に社名変更されたものである。欧米の会社によくあるように、兄弟で創業した会社ではない。
またヴォーリズは、青い目の近江商人とも呼ばれている。
実に言い得て妙な呼び方だと思う。
近江八幡をはじめとして日野や高島など近江国を拠点とし、他国に行商して活躍した商人のことを総称して近江商人と言う。その近江商人のモットーは、「三方よし」なのだそうだ。
三方よしとは、「売り手よし、買い手よし、世間よし」で三方よしである。当事者同士の売り手と買い手とが互いに利益を得る関係はある意味当然であるが、社会的にも貢献できる商いを指向していたところが、近江商人成功の由縁であるかもしれない。
近江商人は独特の商売感覚から「世間よし」を重要視したのだろうが、ヴォーリズの場合は深く信仰していたキリスト教の教えから、社会への貢献を目指したものであった。
建築家として様々な「名作」を日本に遺したヴォーリズであったが、近江八幡の市民から今でも親しみと尊敬の念とを持って迎え入れられているのは、単なる作品のすばらしさによるものではなくて、ヴォーリズのこうした博愛思想に基づく社会貢献活動に対する共鳴感よる影響が大であったものと考える。
そんなヴォーリズに対して近江八幡市は後に、第一号の名誉市民として彼の功績を讃えている(1958年(昭和33))。まさにヴォーリズと近江八幡市およびその市民とは、相思相愛の関係にあったことが理解される。
太平洋戦争開戦の年の1941年(昭和16)には、ヴォーリズは敢えて日本国籍を取得して一柳(ひとつやなぎ)米来留(めれる)という名を名乗った。米来留とは、彼のミドルネームであるメレルの当て字であるが、「アメリカから来て日本に留まる」というヴォーリズの並々ならぬ決意が込められている。
母国であり生まれ育った国であるアメリカと、心から愛する妻や多くの慈しむべき人々がいて自分が終生の住み処と思っている国である日本とが、戦火を交えることになろうとは!
61歳の老境を迎えたヴォーリズにとっては、悲しい現実であり、つらい決断であったに違いない。しかしヴォーリズは、日本国民となる道を選択したのだった。
日本人になったとは言え、さすがに碧い目の人間が近江八幡の街を歩き回ることには危険が伴ったのであろう。ヴォーリズは戦争が終結するまでの間、近江八幡に次ぐ日本における第二の故郷とも呼ぶべき長野県の軽井沢への疎開を余儀なくされた。
どんなにか不安な気持ちで近江八幡の街を後にしたかと思うと、言葉がない。
終戦後、ヴォーリズは連合国軍総指令官のダグラス・マッカーサーと近衛文麿との仲介工作に尽力したと言われている。
これも知られていないことだが、マッカーサーとヴォーリズは同じ1880年生まれで、実は同じレブンワース公立学校の同級生だった。もっとも、当時のヴォーリズはたいへん病弱な少年で、医者から学校に通うことを止められていたから、実際に教室で机を並べたことはなかったかもしれない。
この時にすれ違うようにして少しだけ交差した二人の運命の糸が、約60年後の日本において再び重なり合い、日本の将来を救うために固く結び合わされることになろうとは、歴史とはとても不思議なものだと驚かざるを得ない。
この時のヴォーリズの行動のことは、「天皇を守ったアメリカ人」として上坂冬子さんの作品にも採り上げられた。母国であるアメリカと帰化した国である日本という2つの国の狭間で、両国の関係修復に必死に奔走したヴォーリズの悲しみと誠実さと両国民への愛とを、私たちはけっして忘れてはならない。
1947年(昭和22)、ヴォーリズは妻の満喜子とともに天皇に謁見している。当面の危機を回避して朧気ながらも新しい日本の進むべき方向が見え始めてきたこの時期に、天皇とヴォーリズとの間にどんな会話が交わされたのか?知る由もないけれど、信頼感に満ちた温かい言葉がやり取りされたに違いない。
精力的に活動を続けてきたヴォーリズであったが、1957年(昭和32)に滞在していた軽井沢の地で、ヴォーリズはくも膜下出血のために倒れた。
近江八幡に戻り自宅での療養生活を余儀なくされていたヴォーリズは、ついに1964年(昭和39)5月7日、近江八幡市慈恩寺町元11の自邸(現ヴォーリズ記念館)2階の自室にて、帰らぬ人となった。83年間の波乱に満ちた数奇な人生であった。
妻の満喜子はヴォーリズ亡き後も近江兄弟社の取締役会長や近江兄弟社学園の理事長などを歴任しヴォーリズの偉業を引き継いできたが、1969年(昭和44)9月7日に85歳でこの世を去った。
少し長めに紙面を割いて、私はヴォーリズと満喜子の生涯について丹念に眺めてきた。ヴォーリズの作品である建築をよりよく理解するためには、ヴォーリズの人となりや考え方を知っておくことが必要だと思ったからだ。
そろそろ私は、近江八幡における最後の宝の箱をそっと開いてみることにする。
ヴォーリズが最初に訪れた日本の街が他の都市ではなくて近江八幡であったこと。そのことがヴォーリズにとっても近江八幡にとっても日本にとっても、一番に幸運なことだった。若干24歳の意気盛んで感受性豊かな青年にとって、近江八幡の街はあまりにも異国的であり興味の尽きない神秘に満ちた街であったに違いない。
元々建築に大いに興味を持っていたヴォーリズにとって、純日本的な近江八幡の街並みはどのように映ったことだろうか?
最初はとても奇異なものに映じたようである。それはそうだろうと思う。日本語を一言も理解できず、日本に関する何らの予備知識をも持ち合わせていなかったアメリカ人の青年にとって、アメリカと日本との間の文化的なギャップは大き過ぎた。
しかしヴォーリズは次第に、アメリカでは見たこともなかった特徴的な建築物群に、大いなる興味と好奇心とを触発されるに至っていった。
ヴォーリズの建築が純和風の街並みの中にあって少しも違和感を感じさせないのは、彼の建築の原点が日本家屋にあって、その和風の建物との調和を暗黙の前提として設計を行っていたからではないだろうか?
ヴォーリズのことを何一つ知らない私の勝手な感想であり、何の根拠もない想像である。
そんな想像を巡らしながら私は、近江八幡に遺されたヴォーリズの作品としての建築物を見ていった。
ヴォーリズが日本で最初に手掛けた建築は、近江八幡のYMCA会館の建設だった。
様々なかたちでの摩擦や抵抗もあったけれど、放課後のバイブルクラスの活動はどんどん活発になっていった。ヴォーリズの小さな借家では手狭になってきたために、それに代わる建物が必要になってきていたのであった。
ヴォーリズが英語教師の報酬として得た給料を倹約により蓄えていた貯金に加え、アメリカの友人から多数寄せられた賛助金などを元手として、ヴォーリズはYMCA会館の建設に着手した。
途中でバイブルクラスを開いていたことが原因となり英語教師を解雇されるというアクシデントに見舞われたものの、1907年(明治40)に無事にYMCA会館は完成し、ヴォーリズの活動拠点として大いに活用されることになる。
ヴォーリズが最初に興した建築事務所は、この近江八幡のYMCA会館の一室で小さな産声を挙げている。
残念ながら、記念すべきヴォーリズ建築の第一号とも呼ぶべき近江八幡のYMCA会館は、現存していない。
遺された1枚の写真を見ると、落ち着いた雰囲気の2階建ての建物で、洋館というよりは和洋折衷方式の、大きな窓と白い壁が印象的な清潔感漂う建物であったようだ。外壁に添うようにして組み上げられた1本のレンガ造りの煙突が、ヴォーリズらしさを象徴しているように見える。
このほかにも、近江兄弟社西館(1911年(明治44))、グリーソン邸(神戸市・1911年)、関西学院神学館(神戸市・1912年(明治45))など、明治期に造られた貴重なヴォーリズ初期の頃の建築物はほとんどが現存していない。
近江八幡の街で私が最初に訪れたヴォーリズの建物は、慈恩寺町通りにあるヴォーリズ記念館であった。
時代はやや下るが、この建物はヴォーリズが設計をして1931年(昭和6)に完成した建物で、ヴォーリズがその後半生を送った自宅として使用されていたものである。ヴォーリズが亡くなったのもこの建物の2階の自室であったことは、先に書いた。
今ではヴォーリズ記念館として、調度品なども当時のままに保存されている。
ヴォーリズ記念館は予約をしないと見学することができない。近江八幡に到着した後に、八幡山城址からも朝鮮人街道からも、何度となく電話を試みてみたのだがついにつながらず、この日の見学は断念せざるを得なかった。
仕方がないので、外観だけでも眺めることにした。
建物は黒い下見板張りの2階建てで、落ち着いたオレンジ色の入母屋屋根がいかにも日本風に設えられている。当初は切妻屋根で2階の角にはベランダがあったというから、今見える外観とはやや趣が異なって見えたかもしれない。
大小さまざまな大きさで取り付けられた白い窓枠がとてもお洒落で、黒板の壁とのコントラストを美しく演出している。そして、ヴォーリズ建築においていつも重要な要素となっている煙突が屋根の中央に高く突き出ている。
門柱と煙突とは同じ意匠で造られている。
剥き出しのコンクリートに部分的にレンガが嵌め込まれているのだ。灰色のコンクリートの素地を活かしながら、落ち着いたレンガの色がアクセントとなって彩りを際立たせる。ヴォーリズ建築の不思議な美的センスの一端を感じた。
玄関から見える部分は和風の要素を採り入れた洋館であるが、隣接して和室が造られている。満喜子夫人のために敢えてヴォーリズが付け加えたものだ。ヴォーリズの夫人への慈しみといたわりの気持ちが伝わってくる。
次に私が訪れたのは、池田町(いけだまち)の洋風住宅街だった。
近江八幡の街のなかでは南西部に位置する場所にある。ヴォーリズ記念館が街の北東部にあったから、近江八幡の街を対角線に移動することになる。碁盤の目のように区画されているから、道が1本違えば目的とする場所に辿り着かない。地図を見ながら慎重に歩を進めていくと、その区画だけ明らかに異なる雰囲気をもった不思議な街が眼前に現れた。
ここがヴォーリズの住宅街であることを、私は地図を見なくても即座に理解した。
私の頭のなかでは、バルセロナを舞台として活躍した建築家のアントニオ・ガウディとヴォーリズとがイメージのなかで重なって見えることがある。
バルセロナの街をそぞろ歩いていると、特異な雰囲気を持ったお洒落な家が突然目の前に現れて思わず歩みを止めてその建物に見入ってしまうことが度々ある。明らかに普通の建築物とは異なる特別なオーラを持った建物は、ほとんどが誤たずガウディの設計した建物であった。
ガウディは、住む人の気持ちや快適さを最優先に配慮して、住みよいがユニークな建物を次々とバルセロナの街に建設していった。
バルセロナを歩いていた時と同じような感覚、それは私にとってたいへんに心地よい感覚であったが、私はこの近江八幡の街を歩きながらその心地よさを感じていた。
ヴォーリズの建物は、外見はガウディのそれほどの派手さや奇抜さはない。しかしこんなところに住めたらさぞ快適だろうという雰囲気に満ちみちているのだ。
池田町に入って最初に私の目に飛び込んできたものは、レンガ造りの塀だった。
ここのレンガの塀は、一見して普通のレンガ塀とは異なっている。普通のレンガ塀は正確に均一に作られた四角いレンガを丹念に隙間なく積み上げていくものだが、池田町のレンガは一つ一つ大きさも形状も異なっているものが、適度な隙間をあけながら積まれている。
人間も一人一人に個性があってけっして均一でないことと通じているかもしれない。
さすがヴォーリズ!などと感激していたところ、実はこのレンガは製造の過程で焼き過ぎて膨張してしまった失敗作のレンガであることを後から知った。なるほど、失敗作だから一つとして同じ形のものがなかったわけである。
しかしそんなレンガを敢えて使用しながらも、そのばらつきがバラバラ感とはならずにむしろ統一感をもって感じられるところに、ヴォーリズのレンガ塀の真骨頂があるのだろうと、改めて感心した。
約1000坪の広大な池田町の洋風住宅街の敷地には、ヴォーリズが興した旧近江ミッションや近江兄弟社に関連した人たちのための屋敷や建物が並んでいる。
道に沿って左から、ヴォーリズ合名会社を設立した時の中心人物であった吉田悦蔵邸(1913年(大正2))、旧ウォーターハウス邸(1913年)、現存していないがヴォーリズ邸(1914年(大正3))があり、旧近江ミッション・ダブルハウス(1921年(大正10))の4つの建物群が並び建ち、ヴォーリズ邸の裏にはテニスコートまでが造られていたという。
一番左手にある吉田邸は、門の扉からしてまずお洒落だった。縦長の矩形の板を横に並べて門扉を形づくっているのだが、中央部分がやや低く両端にいくにしたがって少しずつ高さを増していく。
さりげない意匠であるのに、ヴォーリズ独特のレンガ塀に実によくマッチしている。
邸宅は、薄い灰色の3階建ての建物だ。門扉から十分な距離をとって建てられており、その間の空間には松やつつじなどの木々がセンスよく植え込まれている。
この邸に住む人やこの邸を訪れた人が建物を外から十分に鑑賞できる空間がさりげなく演出されているのが心憎い。
一部に3階を擁する木造2階建ての建物は、落ち着いた灰色を基調としたトーンで統一されている。やや濃い色のスレート屋根と真っ白な玄関扉のドアがアクセントになっていて、モダンなイメージを与えてくれる洋館である。
外からはわからないが、玄関のドアを入った右側の窓の下には長板で造られた腰掛けが設えられていて、まるで茶室を訪れる前に客人が通される待ち合いのようでもある。また2階の和室の板戸には松の絵が描かれているというから驚かされる。
さらに、横から見ないとわかりにくいが、屋根は途中で傾斜の角度がきつくなる腰折れ屋根になっていて、典型的なコロニアル・スタイル(2)の設計であることがわかる。
吉田邸のすぐ左手に純和風の家がひっそりと建てられている。黒板の外壁の一部が剥がれかけていて相当に古びて見えるものの、どことなく趣を持った建物である。
実はこの和風の家もヴォーリズの設計だと知って大いに驚いた。
この建物は、吉田悦蔵氏の夫人であった清野さんが街の夫人たちに教養を身につけさせるために開いた近江家政塾として使用された建物だ。
2つの切り妻屋根の建物を垂直に交わらせ、全体的には黒板壁を基調としているなかに白壁に丸窓を採り入れるなどしてアクセントを付けている。一見して古びた和風建築ながら何気なく漂う趣を感じたのは、単なる偶然ではなかった。
吉田邸の右隣にある建物は、ウォーターハウスと呼ばれている。ウォーターハウスというのは人の名前で、ヴォーリズが琵琶湖周辺の街々に伝道するためにアメリカから取り寄せたガリラヤ丸という船の船長として来日した人物であった。
まだ鉄道網が十分に発達していなかった当時においては、大津などの湖南地方や坂本などの湖西方面にも出向いて行かなければならなかったヴォーリズにとって、ガリラヤ丸の存在はたいへん大きな力になったものと思われる。
ウォーターハウスはそのガリラヤ丸を操船して、ヴォーリズを琵琶湖周辺の様々な街へと誘ってくれる人物として重要な役割を果たしていたのだろう。
例の失敗作を使用したレンガ塀の内側にローマの松のような独特の形をした数本の松が植えられているのが特徴的である。
3階建ての建物は、吉田邸とは異なり道から近いところにでんと建っている。正面の外壁の真ん中にレンガで組み上げられた四角い煙突が特徴的な建物だ。
煙突に使われているレンガは、外塀の不揃いな形をしたレンガとは異なり均一に焼き上げられている。しかも表面には艶があって、ところどころに黒に近い色のレンガが混ぜられているのがアクセントになっている。
暖炉と煙突に並々ならぬこだわりを見せたというヴォーリズらしい意匠だと思った。
しかしながら初めてこの建物を訪れた時、私にはとても新しい建物に見えたので、ヴォーリズが設計した当初の建物は失われてしまって、その跡地に新たに建てられた建造物かと思った。だからさしたる注意を払うこともなく通り過ぎてしまったのだが、家に帰って調べてみると、1913年(大正2)に建てられた紛うことなきヴォーリズ設計の建物であることを知った。
時を経ずして、この建物を見るために私が近江八幡を再び訪れたことは言うまでもない。
改めて眺めてみても、100年近くの歳月を経ている建物にはとても見えない。前述のレンガの煙突と窓を多用した1階の壁面を除いてはたいへんシンプルな設計であり、比較的近年に造られた洋館との印象である。
外観からは、いかにも著名な建築家が設計したという装飾性やセンスやオーラのようなものは窺えず、どこにでもありそうなごく普通の洋館であった。そういうさりげなさも、ヴォーリズの人間性を表していて私には好ましいものに思えてしまう。
今では財団法人近江兄弟社が所有し管理するウォーターハウス記念館となっており、残念ながら内部は公開されていない。
この旧ウォーターハウス邸の右隣にはかつてヴォーリズ邸があったはずである。だが今は失われてしまっていてその姿を見ることはできない。
腰折れ屋根を擁した2階建ての建物が、横長の位置で道路に面して建てられていたようである。その向かって右隣には切り妻屋根の小さな2階家が隣接していた。
そして最後の右角の建物が、旧近江ミッション・ダブルハウスである。
この建物は、レンガの壁を挟んで左右に同じ間取りの2軒の家がつながっている不思議な構造の建物だ。ダブルハウスという名称を聞いて、そういう意味だったのかと合点した。日本における集合住宅の草分け的存在とも言える。
2つの家の間を間仕切るレンガの壁は防火壁の目的を持っていたというから、驚かされる。ヴォーリズは万一の際の居住者の安全のことまでを考慮して住宅設計を行っていたことになる。
当時このダブルハウスには、アメリカから来たヴォーリズの両親と建築事務所の技師が入居していた。ヴォーリズが愛する両親のために心を込めて設計した建物だったのだろう。
道角で直角に曲がって伸びていく例の不揃いのレンガ塀に沿って縦長の位置に建てられているから、池田町に建てられているヴォーリズ設計の建物群のなかで最も間近に見ることができるのがこのダブルハウスでもある。
2階建の寄棟屋根の中央部に一部3階部分が突出している。そして建物の左右の屋根から突き出して象徴的に存在感を主張しているのが、四角い煙突だ。
もしかしたら一部分に改造が加えられていて、ヴォーリズが建設した当時の姿からは少し変わっているかもしれない。しかしそれは細部のことであって、ヴォーリズの設計の本質は今もこの建物のなかに脈々と生き続けている。
表札が掲げられているから今でもどなたかが住んでいるのだろう。こんなすてきな家に住むことができたなら、もうそれだけで毎日の生活が潤いで満たされるに違いない。そんなことを想いながら、私は池田町を後にした。
近江八幡の街には、今でも20棟以上のヴォーリズの建築物が遺されているという。いずれそのすべてを訪れてみたいと思っているが、旅人である私には今はその一部分を見る時間しか与えられていない。
限られた滞在時間のなかで、それでも私はなおいくつかのヴォーリズの作品を訪ねてみた。比較的街中にあるので見やすいのが、旧近江兄弟社の独身青年社員寮(地塩(ちえん)寮)、ヴォーリズが近江八幡における最初の活動拠点として日本で最初に設計をしたYMCA会館の跡地に建つアンドリュース記念館、洋館の診療所として街の人々に親しまれた旧岩瀬邸などである。
私は帰りの時間を気にしながら、これらの建造物を急ぎ足で見て回った。
単なるこの街の訪問者でしかない私は、ヴォーリズの建物を外から眺めるしか術がない。外観のみを見てヴォーリズの建物について書かざるを得ないわけだが、それは本当はヴォーリズにとって本意ではないだろう。
なぜなら、ヴォーリズの建物は、外観よりも内面をより重視して設計がなされているからだ。
ヴォーリズはハウスとホームの違いということを、いつも意識していたという。
ハウスとはただの家のことであり、屋根があって壁で囲まれている建物はどんな建物でもハウス(家)と呼ばれる資格を持っているだろう。
しかしヴォーリズが彼の建築のなかで追求したものは、外観としての単なる家ではなくて、そこに人が住み、温かい心の営みを築いて行くホームであった。
建築の風格は、人間の人格と同じく、その外見よりもむしろ内容にある。
建築家は日常生活のために使用する快適で健康を守るに良い、能率的な建物を熱心に
求めている建築主の意を汲む奉仕者となるべきである。
とはヴォーリズが語った言葉である。(3)
だからヴォーリズの建築の本当のすばらしさを知るためには、彼の建物の内部を見なければならない。
難しいのは、ヴォーリズの作品である建築物は人が住むために造られたものであり、今でもそこには人が住み、普通の生活が営まれているということである。個人の住宅であるから、そのほとんどが内部は非公開となっているのが実情だ。
ところが幸いにして、ヴォーリズの建築の内部を見ることができる建物が近江八幡の街中(まちなか)に遺されている。
旧八幡郵便局の建物だ。
八幡郵便局は1909年(明治42)に近江八幡の街に開業した特定郵便局で、1921年(大正10)にヴォーリズの手により既存の町屋の前面に増築されるかたちで局舎が造られ現在に至っている。和洋折衷のスパニッシュ・ミッションスタイルで寄棟様式の屋根をもつモダンで愛らしい外観の建物だ。
局長だった小西梅三さんが滋賀県立商業学校でヴォーリズから英語を学んだ生徒であり、またヴォーリズの右腕だった吉田悦蔵氏とは同期生であったことなどが縁でヴォーリズに設計の依頼が行われたものと考えられる。
しかしおもしろいことに、生徒時代の小西さんは仏教派で、ヴォーリズらの「YMCA」に対抗して「YMB(・)A」活動を展開して対抗したというから、当時はヴォーリズを悩ます生徒の一人だったのかもしれない。
その後十数年を経て、小西梅三さんからヴォーリズに八幡郵便局の増築依頼がなされた。当時の八幡郵便局は郵便業務を取り扱うほかに為替、電信、電話、電報、さらにはそれらに関連する工事業務までを執り行っていて、30人もの職員が朝の6時から勤務に勤しんでいたという。活気に満ちた職場であったことが想像される。
ヴォーリズは小西さんの期待に応え、日本の建築様式を巧みに採り入れ、周囲の街並みに違和感を感じさせないデザインによる気品高い郵便局の局舎を完成させた。
その後40年以上に亘って市民の郵便局としての役目を果たしてきたが、1960年(昭和35)にその役割を終えた。使用されなくなった建物は歳月の流れのなかで荒れるに任せた状態となり、やがては朽ち果てていく運命にあった。
記念すべき貴重なヴォーリズの建物をこのまま手を拱いていて失ってはならない。そんな熱い想いをもった有志が集まり「一粒の会」を発足させ、旧八幡郵便局の再生保存運動をスタートさせたのは1997年(平成9)9月23日のことだった。
一粒の会のリーダーである太田吉雄さんは、小冊子(4)のなかで次のように語っている。
そして私は今何故、ヴォーリズの設計した旧八幡郵便局の再生に取り組んでいるのか
と自問する時、この建物の痛んでいる部分の治療をすることによって、治癒させ健康な
体力を取り戻す最後のチャンスであるという思い、そして健康をそこなった建物の空間
は心の痛みと共に周辺に荒廃した空気を感じさせるもので有るという悲しい気持ちから
である。ヴォーリズの追い求めていた精神が人間としての健康(身も心も)で有る事を
思う時、社会奉仕に尽したヴォーリズの立派な気持ちを少しは理解できたらと思う。そ
の同じ気持ちが仲間と協力し、行動させるのだ。
一粒の会のメンバーは何度も旧八幡郵便局を訪れては清掃を繰り返した。雨漏りにより湿気を含んだ室内の空気は腐臭を放ち、積年の間に放置された廃棄物が部屋に充満していたという。
得体の知れない滑(ぬめ)りのある物体を素手で掴んでは廃棄用の袋へと放り込んでいく作業はけっして心地よい作業ではない。しかし参加している誰もが笑顔で、わいわいがやがやと賑やかに廃棄物を館外へと運び出していく。
こうした作業は、記録に残っているだけでも実に9回にも及んだ。時には2トントラックで6台分ものゴミを搬出した。
最初はゴミの山でしかなかった室内にスペースが拡がっていくと、次第にヴォーリズの世界が顔を覗かせていくのが実感として感じられるようになってきた。
不要なゴミが取り除かれていくに従って、随所にヴォーリズが施した快適な空間を創り出すための工夫が明らかになっていく。
防火と遮音効果を考慮したスタッコ壁の外壁、外壁と内壁の間に空気層を設けることにより断熱効果を狙った壁の二重構造(エアー循環構造)、曲線のデザインを採用することにより柔らかな雰囲気を作り出すとともに掃除のしやすさを考慮した天井の廻縁、採光を意識した横軸回転連窓、二重構造として間におがくずを敷き詰めることにより遮音を施した2階の床、二重床による床下配線ピット空間の創出、防虫網を施した天井裏や押し入れの中の通気孔、アメリカから輸入した建具・金物や照明器具などを使用したデザインの斬新性、さらにドアノブには幸福を呼ぶと言われている水晶や魔除けとしての紫水晶などが使われていた。(4)
これらのことは、現代の建築においては当たり前に行われていることも多いかもしれないが、大正時代という当時の日本の建築においては、画期的なことであったに違いない。
これらのヴォーリズの創意と工夫の跡を、私たちは実際に旧八幡郵便局において見ることができる。一粒の会が果たしてきた功績は計り知れないものがある。
ヴォーリズという誠実な設計者の心を持った建築家がいて、その功績を素直な心で評価し後世のために残そうと努力する善意の人たちがいて、私たちは今、こうしてヴォーリズの偉大さを知ることができるのである。
しかしながら、旧八幡郵便局の保存再生活動は発足から15年目となる今日に至っても、なおまだ完了してはいない。2階の壁には大きな穴が開き下地の木づり下地が露出したままの箇所もある。内壁の塗装も剝げ落ちたままである。
市民活動の難しさをつくづくと感じた。しかし彼らのヴォーリズを想う気持ちは今も非常に熱い。これからも彼らの活動はずっと続いていくことだろう。そして一人でも多くの賛同者を得て、このささやかな活動がますます活発に発展していくことを心から願っている。
最後に、一粒の会が掲げるヴォーリズ建築の10の特徴について引用して、ヴォーリズについての総括としたい。(3)
- 気候、風土に合わせる
建築に共通して感じられることは、デザインは基本的に洋風でありながら、そこに日本の風土・気候に合わせた合理性と実用性を上手く融合させた空間を構成している。
- 外観の特徴
外観の特徴はアメリカの伝統的なコロニアル様式で、赤レンガ、モルタル塗りスタ
ッコ仕上げで、シンボル的な煙突が起立し印象つけている。
- 太陽に光を取り込む
建物の配置は、体内時計を考えた南東向きから朝日が差し込むよう南面に大きな窓をとり、太陽の恵みを充分に受ける健康的な建物である。
- 耐久性
外壁の木製壁は、木製板の下見板張りのオイルステインとべんがらをミックスしたステイン塗り仕上げである。窓の下部の水切りは勾配をきつくし、下部には水切り溝をとり水掃けを良くし耐久性を重んじている。
- 風通し
建物の周りには風通しを確保して樹木を植え、その木立がフロントガーデンを経て玄関に導いている。
- 焼き過ぎ膨張レンガ
赤レンガ塀及び門柱は、ヴォーリズ建築のシンボル的な存在である。使用されている赤レンガは、ホフマン窯で焼成されたレンガの中で商品価値のない捨てられていた焼き過ぎ膨張レンガを無駄にせずに建築コストの低減を図りデザインに生かした。
- 工夫された玄関
玄関のドアは室内への内開きとし来客を招き入れた。外開きとすると、開けた時に来客を突き飛ばすことになりかねない。また、網戸は虫を引き込まない為に、外開きにしている。玄関に入ると固定椅子(下足箱)があり、民家の式台のように天板に腰を掛けて一息つけるように工夫されている。
- 誰でも安心して使える階段
階段は特に使う人の身になって設計されている。蹴上げは低くおさえ、踏面は広く子供からご老人までゆったりと使用出来る。各段板の先端は丸く面取りをしており、また最初の1段目は大きくコーナーを丸面に取り安全性を確保している。
- 掃除のしやすさ
掃除のしやすいように壁と床の取り合いには2重幅木とした丸面をとり、天井と壁の取り合いも丸面加工をなし埃の溜まらないように工夫している。室内に面する突出部分には丸面加工をなした優しさが現れている。
10. 住宅は子どもの成長の器
住宅は子どもの成長の器として第一に考え、ゆったりとした居間を取り、マントル
ピース(暖炉)を設けその前で家族団らんを重視し、家族のコミュニケーションを
はかった。
(1) Grace Nies Fletcher著 平松隆円監訳
メレル・ヴォーリズと一柳満喜子 ――愛が架ける橋―― より引用
(2) コロニアル・スタイル
イギリス人がアメリカ東海岸に入植した際に持ち込んだ建築スタイルで、切妻式
の腰折れ屋根、中央に1本の煙突などが特徴となっている。
(3) NPO法人 ヴォーリズ建築保存再生運動 一粒の会
近江八幡ヴォーリズ建築物マップ より引用
(4) NPO法人 ヴォーリズ建築保存再生運動 一粒の会
旧八幡郵便局保存再生運動 一粒の会