北国脇往還

岐阜県関ヶ原町から滋賀県長浜市木之本町までの40kmの道程を歩く、「浅井三姉妹街道ウォーク」という催しがあることを知った。
  この道は、かつては北国脇往還と呼ばれた街道であり、関ヶ原以東から越前方面に抜けるショートカットとして利用された道である。
  京と越前方面とを結ぶ街道として琵琶湖東岸を北国街道が通っていて、これを本線とすると脇往還は支線のような位置づけになる。
脇往還というと、いかにも付け足しの道のような印象になってしまうが、北近江にとってはたいへんに重要な街道であった。
途中、小谷城下を通るほか、沿道には国宝十一面観音のある渡岸寺の観音堂や雨森芳洲庵などの名勝や史跡を通る魅力的な道でもある。
マラソンの距離にほぼ匹敵する40kmという距離がどのくらいの長さなのか、実際に自分の足で体感してみたいとの興味もあった。
北国脇往還を通った昔の人たちが、どんな景色を見ながら歩いたのかも、知りたく思っていた。
たしか賤ヶ岳の戦いの時に、秀吉が岐阜から大返しした時に通った道も、北国脇往還だったのではなかったろうか。
私がこのイベントに申し込みをしたのは、言うまでもない。

   平成24年11月3日はカラッと晴れた天気とはならず、どんよりと曇った生憎の空模様となった。迂闊にも傘を持参するのを忘れた私にとっては、雨を心配しながらの道中となった。

  集合時刻の午前8時には、想像していた以上に多くの参加者が集まっていたことに、まず驚いた。
ゼッケンの番号から類推するに、おおよそ250人くらいの参加者であろうか。意外にお年寄りが多い。
スタート地点にあたる関ヶ原町の和ざみ野広場には、茶々、初、江の三姉妹のイメージキャラクターや賤ヶ岳の七本遣にちなんだ7人の甲冑姿の男性などが出現し、雰囲気を盛り上げてくれた。
準備体操の後、いよいよ出発となる。

関ヶ原は、日本人なら誰でも知っている日本史の舞台である。これから40kmもの長丁場を歩くスタート地点としては、これほどふさわしい場所はない。
まずは戦国時代に思いを馳せて、東軍西軍が相争った戦場の跡などを眺めながら歩いていくか。
と思っていたらいきなり、私の想像とは大いに様相が違う展開が始まって、まずは戸惑った。

   今日のイベントは、史跡を巡り美しい景色を眺めながら戦国の時代を偲ぶウォーキングの会ではなかったのか?
ところが意に反して、周囲の景色を眺めて歩く人などほとんど皆無で、参加者たちは遠い前方をまっすぐに見つめながら、ひたすら全速力で歩いていく。
まるで競歩大会だった。
私は間違って、競歩の競技大会にエントリーしてしまったのだろうか?
あまりの想定との乖離に、唖然とした。
こんなにキラキラと光る史跡が散りばめられている歴史の宝庫を歩いているのに、脇目も振らずに歩いていくなんて、なんてもったいないことだろうか。
人それぞれの価値観の差だから、史跡を見ないで速く歩きたい人は歩けばいいと思った。
でも不思議なものて、周囲の人たちが全速力で歩いていると、そうは思いながらも、ついつい速足になってしまっている我が姿に気付いて、思わず苦笑した。

スタート地点の和ざみ野広場から暫くは、民家が建ち並ぶ街中の道を行く。
 やがて、不破の関と書かれた案内板が見えてきた。あぁ、こんなところに不破の関があったのだなぁ、などと立ち止まって感慨に耽っている間に、十数人の人たちに抜かれていった。
抜いていく人たちは抜いていく人たちで、こんなところで何を立ち止まって写真を撮ったりしているのだろうと、怪訝そうな目で私のことを見ながら通り過ぎていく。
通行の邪魔にもなるし、仕方がない。今日は下見ということにして、改めて別の機会にゆっくり訪れるしかなさそうだと考えを改めた。
 さらに歩いていくと、大谷吉継の陣の近くを示す案内板などが見え、ここがまさに関ヶ原であることを実感する。
地名にも、勝敗の行方を決した小早川秀秋が陣取っていた松尾山と関係があるのだろう、松尾という地名の街を通るなど、早くも合戦気分の一端に触れることができて、私としては内心で大いに盛り上がることができた。

   関ヶ原を出てからは、北国脇往還というよりは中山道を辿る道となる。

しばらくは車が猛スピードで行き来する幹線道路沿いの道であり、山中の道ではあるものの、趣きはない。
 やがて、道を反対側に渡り、さらに鉄道を越えたところでやっと、昔ながらの街道の雰囲気を持った道となる。
 かつて日本橋から箱根まで、旧東海道の約100kmの道程を歩いたことがあり、旧街道の道幅は何となく身体が覚えている。
 少し行くと、寝物語の里の碑が見えてきた。
ここがあの寝物語の里か!
司馬遼太郎さんの『街道をゆく』で紹介された、美濃国と近江国との国境にある名所である。
道を横切ってチョロチョロと小さな小川が流れている。この小川こそが、国境線になっている。
手前が美濃国で、向こう側が近江国だ。
 国境の小川と言っても、うっかり見落としてしまいそうなささやかな水の流れであり、かつてこの小川を挟んで2つの家が隣接して建てられていた。
両家は声を出せば聞こえる距離にあり、夜、布団の中に入りながら隣家と語り合ったと言われている。
美濃国と近江国の住民が、寝ながらにして語り合ったことから、寝物語の里として知られている。
近江国を旅した司馬遼太郎さんは、この寝物語の里を見るために、わざわざ滋賀県から車を飛ばしてこの地を訪れている。
 当時は今と異なり案内板も十分には整備されていなかったのだろう。一度岐阜県側に行き過ぎてから引き返してやっと寝物語の里に辿り着いた様子が書かれている。

感動しながら写真を撮っていると、近くに住んでいる老婆から話しかけられた。
 「今日は何の大会があるのか?さっきからたくさんの人が通り過ぎて行くが、誰も寝物語の里の碑に目をくれることなく急ぎ足で通り過ぎていく。他所から来たお客さんはたいてい、この碑を目当てにして来て、この碑を見て喜んで帰っていくんじゃがのう。」

さもありなん、と思った。
せっかくこんな名所の前を通りながら、立ち止まりもしないで行き過ぎていくのは、いかにも惜しいことをしているように私には思えてならない。
 さらに歩いていくと、やがて柏原宿に辿り着く。
いかにも宿場町という感じの古い家並みが散見される。
 ここまではいわゆる中山道の道程を辿ってきたが、柏原駅の手前を右折したところから、北国脇往還独自の道に足を踏み入れることになる。
右手には、伊吹山の特徴ある山容を望むことができる。
 北国脇往還の旅は、近くに遠くに、常に伊吹山を見ながらの旅でもあった。
関ヶ原では右手前方に見えていた山が、いつの間か右手後方に見えるようになっていく。
 私たちは、伊吹山の南麓から転じて、今度は西麓を歩いていくことになる。
広い田んぼの中の畦道が続いている。前方には新幹線の高架が見える。すぐ近くに見えるのだが、歩いても歩いてもなかなか高架まで辿り着かない。
 その間に、何本もの新幹線が通り過ぎていく。新幹線はこんなにも短い運転間隔で走っているのかと、改めて日本の鉄道技術に驚かされる。
伊吹山を背景にした新幹線はなかなかに美しい。
 新幹線の高架を潜り抜けさらに歩いていくと、勝居神社という神社に辿り着く。
 境内に休憩所が設けられていて、飴をもらった。この地点が歩き始めてから10.2kmの地点になる。
 ずいぶん歩いたように思えるが、まだやっと四分の一程度しか歩いていないことを認識し、改めて道程の遠さを実感した。

勝居神社を出た後は、街中の道を進んでいく。
 靴の紐の締め具合いが緩かったせいか、歩く度に靴の中で足が擦れて、くるぶしの下の皮が剥け始めた。
 まだ30km近くあるというのに、早くも黄色信号が灯る。
足がしっかりと靴に固定されるように、スタート地点においてもっと靴紐をきつく締めておくべきだったと後悔した。
が、後の祭りである。改めて、長い距離を歩くにはしっかりとした準備が必要であることを実感した。
 なるべく患部を靴に触れないように歩き方を工夫しながら、次のサポートポイントである三島池まで歩く。
 この地点で約15kmになる。道程はまだ遠い。
 ここには三島池という美しい池があり、その池を巡ってグリーンパーク山東というアウトドアスポーツを中心とするレジャー施設が建てられている。
 水を飲み、甘くて酸っぱいレモンの蜂蜜漬けとソーセージのもてなしを受けた。これまでの疲れが一時的にだか解消されたような安堵感を覚える。
 ここで遅ればせながら、靴紐をきつく結び直して、靴を足にしっかりと固定した。
 幸い、この措置が功を奏して、その後、踝の痛みに悩まされることはなかった。

三島池を出てからは、20km地点の長尾公民館を経て、その先25km地点のプラザふくらの森で昼食休憩となる。
あと10kmを乗り切れば40kmの行程の半分を越えることになるし、残りの15kmの大半は訪れたことがある既知のエリアになる。
この間は、さしたる見所もなく、主要街道にしてはジグザグと曲がり角の多い道を歩いて行くことになる。
 それまでずっと、今まで歩いたことがない道を歩いていて、実際に自分がどこを歩いているのかわからないまま、ひたすら歩き続けていた。
昼食休憩のプラザふくらの森の直前になってやっと、かつて訪れたことがある大依山の近くを通りかかる。
知らない道を歩くというのは不安が大きいものだ。一方で新しい発見をもたらしてもくれるが、自分の現在位置が見えないということは、やはり相当なストレスになる。
かつて訪れたことがある場所まで歩を進めてきてやっと、安堵の気持ちが湧いてきた。
私にとって今日の40kmの行程は、前半が未知の道程であり、後半は既知の領域を歩くことになる。
そういう意味では、疲労が蓄積されるであろう後半に知っている地域を歩くというのは、心強い。
知っていると言っても、点でしか知らないので、点と点とを結ぶ線を自分の足で歩くというのも、今回のウォーキングにおける私の密かな楽しみの一つであった。
安堵の思いで昼食休憩となる。

係の人からおにぎりと暖かい豚汁を受け取り、敷かれた茣蓙の上に腰を降ろした途端、身体中の力が抜けて、暫く立ち上がることが出来なかった。
 まだ半分の行程を少し越えたばかりだだというのに、無意識のうちに相当無理をしていたということだろうか?改めて40kmという距離の長さを実感した。
 空腹を満たし、豚汁で身体が暖まった私は、渾身の力で立ち上がり、再び北国脇往還を歩き始めた。
北国脇往還は、江戸時代には越前方面から江戸を目指す参勤交代の道としても使われた道であった。
 前にも書いた通り、この街道がショートカットになっているのである。一名を「越前道」とも呼ばれていた所以である。
 「ふくら」の森と呼ばれるこの辺り一帯は、当時は鬱蒼と木々が茂り、昼間でも薄暗い寂しい土地であったという。
 狐や狸が出て、追い剥ぎが出没した恐ろしい場所であったようだ。
一種の難所である。
 無事にふくらの森を通過した福井の殿様が、奥方様に道中の無事を安堵する知らせを送ったとも言われている。
近くを流れる草野川には橋が掛けられていなかったそうだから、さぞかし難儀を極めた道中だったのだろう。
 当時の面影を僅かばかり残す疎林の脇をすり抜け、車道を渡ると、そこから暫くはよく整備された細い道に入る。
 当時の街道はこのくらいの道幅だったのだろうと想像させるような狭い幅の道の左右には趣のある家が建ち並び、独特の雰囲気を醸し出している地域だ。
 まっすぐな一本道ではなく、右に折れたり左に曲がったり、小刻みに道が○○しているのが、かえって昔の街道の面影をよく残しているように思える。
 もう少し行くと、実宰院である。(さらに続く)