もう一度、小谷城址 ~追手道~
もう一度、小谷城址 追手道
前章で天正元年(1573)の小谷城攻防戦のことに思いを馳せていたら、もう一度小谷城址に登ってみたくなった。
観光で小谷城址を訪れる方はたいてい、金吾丸の駐車場まで車かバスで上がり、そこから本丸あたりを目指して行くのだろうが、実は小谷城址にはもっと様々な登山ルートがあって、それぞれ異なった趣を見せてくれるのである。
そういう意味では、小谷城は実に味わい深い城であったと言うことができるだろう。
今回は、いろいろなルートから小谷城址に登り、そんな小谷城址のいろいろな表情を見てみたいと思っている。
追手道
小谷城の正面ルートはどの道だったのだろうか?
先程も書いたとおり、観光で小谷城を訪れる場合は、現在の「戦国ガイドステーション」(以前の「小谷・江のふるさと館」)があるところから車かシャトルバスで望笙峠を経て金吾丸の駐車場まで上り、そこから番所跡-御茶屋-御馬屋跡-馬洗池-桜馬場-黒金御門跡-大広間跡-本丸跡-中の丸跡-京極丸跡-小丸跡-山王丸跡と急な坂道を登って行くのが最もポピュラーなルートであると思う。
元気のある人は、山王丸跡からさらにそのまま道を進んで、一旦六坊跡まで下りた後、そこから小谷山最高所にある大嶽(おおづく)まで一気に急な上り坂を登って行くかもしれない。
私も、小谷城址を訪れ始めてからまだ日が浅いうちは、この道が正面ルートだと思っていた。
しかし実際の小谷城の正面ルートは、清水谷(きよみずだに)の入口にある小谷城戦国歴史資料館のあたりから右に折れる「追手道(おってみち)」と呼ばれるルートが正面ルートであったと言われている。
追手道に入る手前の左側、清水谷の入口に位置する場所には、智善院という名の寺があった。
発掘調査の結果、境内には庭園があったことが確認されており、池跡からは陶器や磁器、それにかわらけなどとともに、こけら経や笹塔婆などが発掘されている。
笹塔婆には、「元亀三年七月十四日」の日付が墨書されていた。信長の攻撃により落城する約1年前の日付である。
前章で見てきたとおり、7月21日に織田信長が虎御前山に至り、佐久間信盛、柴田勝家、木下藤吉郎、丹羽長秀、蜂谷頼隆らに命じて小谷城下に攻め入り、小谷城の脇腹にあたる「水の手」にまで至っているから、この笹塔婆が作られ法華経書写の供養が行われたのは信長から攻撃を受ける僅か1週間前ということになる。
この時の信長軍の攻撃により城下町が打ち壊され、長政の屋敷があった清水谷の奥深くにまで攻め込まれていることからすると、智善院もこの時に破壊されたか、あるいは破壊にまで至らなくとも、大きな打撃を蒙ったであろうことは想像に難くない。
智善院は後に、信長から小谷城を与えられた秀吉によって、新しく造営された長浜の町に移されているから、廃寺に至るほどの被害は免れていたのかもしれない。
長浜市元浜町にある現在の智善院には、大坂城落城の際に持ち出されたと伝わる秀吉の木像と、淀殿から京極高次(妹の初の夫)に宛てた書簡が遺されている。
智善院跡から清水谷へと向かう道を「追手道」と書かれた案内板のところで右折して、いよいよ小谷城址への登山道に入る。
歩き始めてすぐの左手に、「磯野屋敷跡」と書かれた案内板が現れる。
ここは、姉川の合戦等で活躍し、境目の城として浅井氏の重要な戦略拠点であった佐和山城主を務めた磯野丹波守員昌(かずまさ)の屋敷があった場所と伝えられている。
追手道の入口に屋敷を与えられていたということは、磯野氏が浅井氏にとっていかに信任の厚い重臣であったかを窺わせる事実である。
さらに道を進んでいくと、次第に上り坂が厳しくなってくる。
左手の木々の間から三角形をした小谷山の山頂を拝しながら登って行くと、やがて間柄峠址と刻まれた石柱が現れる。案内板の記述によると、
大永五年(一五二五)七月、江南の六角定頼が小谷城へ来攻した際、浅井亮政を助けるため越前より朝倉金吾宗滴(そうてき)と先鋒真柄備中守が来援した。
越前軍が布陣した地をそれぞれ、金吾丸、真柄峠と称するが、地元では古くから「間柄峠」として伝わる。
ということになる。
浅井氏三代の初代・亮政の時代には、京極氏から北近江の統治権を奪取したと言ってもまだ十分な基盤を構築しきれておらず、絶えず南近江を領有する守護大名である六角氏の侵攻に晒される危うい状況にあった。
南への対抗策として、亮政は越前の朝倉氏と同盟関係を結び、朝倉氏の助力を得てどうにかやっと北近江の統治権を維持することができたのである。
その事実を如実に表しているのが、小谷城に登城する際の正面ルートである追手道に残された真柄氏や朝倉氏の名前が付けられたこれらの峠や曲輪なのであろう。
間柄峠を越すと一旦下りとなった後、再び道は金吾丸の西側を通る厳しい上り坂の道となる。
そしてその道を登り切ると、やがて番所跡の石柱が見えてくる。
ここから先は、観光ルートと一緒になり、また前著『湖北残照 歴史篇』と重複することになるので本書では触れない。