もう一度 賤が岳(黒田官兵衛ゆかりの地)当館より車で20分
賤が岳古戦場跡(秀吉と勝家決戦の地)
時代はやや下って、天正11年(1583年)となる。この時期は、時代の主(あるじ)が信長から秀吉に移りつつある微妙な過渡期にあった。
天正10年(1582年)、本能寺の変で明智光秀に織田信長が倒された後、中国地方での戦いから取って返した羽柴秀吉が光秀を討って、天下の大勢を支配しかかっていた。
賤が岳の戦いは、織田家の旧家臣団のなかで主導権を握りかけた秀吉に対して、旧勢力の代表的存在である柴田勝家がそれを阻止しようとした戦いであった。秀吉は、天下を獲るための最初のステップとして、対立する全国の諸侯と戦う前に、まずは織田家中での支配権を獲得しなければならなかったのである。
小谷城のあった小谷山から北国街道をさらに北上すると、やがて琵琶湖の最北端に近い場所に至る。加藤清正や福島正則やすでに触れた片桐且元らが七本槍として武名を轟かせた賤が岳は、この琵琶湖の北端と余呉湖との間に存する標高421メートルの山である。
知名度の割にはさほど高い山ではないし、山容に特徴があるわけでもない。どこにでもある普通の山である。実質的に秀吉が信長の後継者となることを決定づけた歴史的に重要な合戦がこの地で行われていなかったならば、賤が岳は2つの湖に挟まれたごく普通の風光明媚な山に過ぎなかったに違いない。
賤が岳が秀吉と勝家との雌雄を決する闘いの舞台として選ばれたのは、その立地によるものと思われる。
賤が岳がある滋賀県伊香郡は県の最北端に位置し、そのすぐ北側は福井県と県境を接している。北の庄(現福井市)に本拠を置く勝家と秀吉とが激突する場所としては、交通の要衝でもあるこの地をおいて他になかったのではないか。
賤が岳に登るにはいくつかのルートがある。一番手軽に賤が岳に触れるのであれば、南の琵琶湖側から登る賤が岳リフトがお勧めだ。山頂まで約6分で昇ることができる。
このリフト、最初に開業したのは昭和34年(1959年)8月8日だそうだ。実は、私が生まれた日と同じである。共に今年で半世紀の歴史を刻んだことになる。何とも言えない不思議な縁を感じるのは、私だけだが…。
その間に賤が岳山頂まで運んだ人の数はどのくらいになるのだろうか?想像することもできないほどの数になるのではないだろうか。50年とは、それほどの歳月だと思う。
今は近江鉄道グループが経営権を持ち、リフト自体も平成3年3月に新しいものに変わっているから、リフトの乗り心地は快適そのものだ。
地面からあまり高くない場所を通っているので、乗っていて恐怖感はない。しかしかなりの急斜面を登ってくことには驚かされる。振り返ると、次第に高度を上げていくに従って眼前に拡がっていく湖北地方の田園風景が美しい。
途中何度か、リフトの下を登山道が交差する。麓から自分の足で確かめながら、賤が岳の頂上を目指すのもまた楽しいだろうと思う。
リフトの山頂駅がそのまま賤が岳の山頂かと思っていたら、さすがにそれは甘かった。賤が岳山頂までは、リフトを降りてから10分ほど、急な斜面をさらに登っていかなければならない。しかし山頂までのこの道程は、それほど苦痛ではない。
なぜなら、そもそも麓から自力で登ることを考えれば相当楽な手段を行使しているのだし、途中の見晴らしが利く広場から眺めた琵琶湖の風景が雄大で、思わず歓声を挙げてしまうほど美しかったからだ。
いくつもの曲線を重ねながら半島のように伸びていく右岸の山々。深い紺碧の水を満々と湛える琵琶湖の湖水。ここが琵琶湖のほぼ北端である。青い空の下に、ここから南に果てしなく拡がっていく琵琶湖の大きさを想うと、心がおおらかになってきた。
山頂に辿り着く前に、一つ寄り道をする。寄り道と言っても本当に道を逸(そ)れて歩くのではなく、話の寄り道をするだけだ。山頂までの道の傍らに1枚の興味深い説明板が建てられていて、この話を是非とも伝えたいと思ったからだ。
「三味線糸、琴糸の里、梔子(くちなし)の里」と題された説明板の記載は、以下のとおりである。
七本槍の古戦場、賤が岳の南麓「大音」「西山」の里は千年の昔より製糸業(生糸)の
盛んな地方で、今も地場産業として数軒の農家(5、6軒)が昔ながらに足踏みグルマ製
糸の作業を受け継いでおり和楽器(三味線糸・琴糸)の原糸、生糸の生産高は全国の八
割を占めています。
三味線糸・琴糸は黄色であるがその染色は、昔は梔子の実が使用されていました。(現
在は、外国産ウコン粉が使用されています。)今も大音・西山の里には、家々にも庭先や
畑地の一隅にも必ず梔子が植えられています。梔子の果実を乾燥保存し、原糸の取引の
時など、いつも問屋さん(仲買人)にプレゼントしたという…又、漬物やお祭りのお餅
や団子蒸し御飯にもよく使われたと語りつがれています。このたび賤が岳にも梔子を植
栽し、七本槍の古戦場の歴史とともに三味線糸、琴糸の里、くちなしの里として伝統を
守り続け、より多くの人々に知って頂き、くちなしの白い花を見、香を利き、またいつ
の日か思い出して、訪ねて頂きたいと念ずる次第であります。
木之本町観光協会、賤が岳観光協会、大音・西山特殊生糸組合連名の案内板だ。長浜の章でも少し触れたが、賤が岳南麓に限らず、湖北地方は生糸の生産が盛んであった地域である。昔はこの辺りの村ではどこでも、糸ぐるまを回しながら糸を紡ぐ生糸の生産風景が見られたという。
リフトの山頂駅と賤が岳の山頂までの間に、「賤が岳合戦々没者霊地」と書かれた石柱が建ち、背後にある小さな社の周囲には色とりどりの前掛けを掛けられたかわいい石仏たちが配置されている。 これらの石仏は、合戦の犠牲者の霊を弔うために地元の人々が供えていったものだ。以前は賤が岳の山麓に点在していたものを、昭和57年(1982年)の賤が岳合戦400年を機にこの地に集め、まとめて供養するようになったのだそうだ。
長閑で静かな山中だ。こんな平和そのもののような山の中で多くの人の命が奪われた凄惨な戦いが行われたことなど、想像することなどとてもできない。亡くなった人の霊を鎮め、平和への願いを込めながら地元の人たちによって一つ一つ置かれていった可憐な石仏を見ていると、為政者たちの愚かさと領民たちの素朴さとが際立って見えてくる。
やっと賤が岳の山頂に辿り着いた。 山頂からの景色は絶景である。 南側には広大な琵琶湖が拡がり、アクセントのように竹生島が浮かびあがる。北側には余呉湖が一望のもとに眺められる。賤が岳の戦いでは、むしろこの余呉湖の西側での戦いが激烈を極めたと伝えられるが、今はただ、穏やかな湖面が眼下に見渡されるだけだ。そして東側には遠く伊吹山を望むことができる。
賤が岳からは、実に雄大な眺めが眼前に現れる。是非、天気のいい日に山頂を訪ねてみることをお勧めする。もうそれだけで、その日の小旅行は成功であろうこと請け合いだ。
よく整備された山頂のやや広いスペースには、琵琶湖を見下ろす展望台や、余呉湖を望むベンチなどが設置されている。そして長い槍を持ち疲れ果てたように岩に腰をおろしている何とも異様な姿の加藤清正の像が置かれている。
私が訪れた日も天気が抜群によかったので、鳥の声に耳を傾け、吹き過ぎていく風の音を聞きながら、持参したおにぎりを頬張った。自然に囲まれた中で食べるおにぎりは、何にもましておいしかった。
せっかく見通しが利く賤が岳の山頂に来たのだから、私はこの場所から、430年ほど前の当地での出来事を振り返ってみることにしたい。
天正11年(1583年)3月5日、柴田勝家はついに羽柴秀吉追討の兵を挙げた。北の庄はまだ雪深く進軍にはまったく適さない季節であったが、信長の後継者争いにおいて秀吉に遅れを取らないために、無理を押しての出陣であった。勝家の並々ならぬ闘志とともに、焦る気持ちが窺える。
勝家側は、前田利家、佐久間盛政らが加わり総勢3万人。一方の秀吉側は、高山右近、中川清秀らに丹羽長秀が加わり5万人の兵力であった。
数の上では勝家軍が不利であったが、勝家軍は要所要所で守りを固め、さすがの秀吉といえども容易には攻め込めず、両軍が睨め合う膠着状態がしばらくの期間続いていた。
秀吉は、勝家の養子の柴田勝豊から前年奪還したばかりの長浜城に一時退去し、機が熟するのを待つ。
そこへ勝家方の滝川一益らが岐阜に進軍したとの情報を得た秀吉は、長浜を離れて岐阜に向かった。秀吉が岐阜に赴こうとしたのは、滝川一益の動きを牽制する意味合いもあっただろうが、膠着状態に陥った賤が岳の戦線を動かすための誘い水であった可能性が高いものと考える。理由は後述する。途中、揖斐川の氾濫に遮られて、秀吉は大垣城に入城した。
秀吉の不在を知った勝家軍は、血気に逸る佐久間盛政が慎重な勝家を説き、賤が岳に連なる大岩山に陣取る秀吉方の武将中川清秀を急襲する。時に天正11年(1583年)4月19日のことであった。
中川清秀は摂津の国生まれの敬虔なキリシタン大名で、信長や秀吉などについて武名を轟かせていた。特に秀吉が光秀を討った山崎の合戦では先鋒隊の一員として大いに戦功を挙げ、秀吉の信任の篤かった武将の一人であった。当時は摂津の茨木城主を任されていたが、賤が岳の戦いにおいては、この大岩山に陣を張っていたものである。42歳と、まさに男盛りの年齢であった。
激戦であったという。
今でも鬱蒼と杉の林が続く細い山道だが、この日の大岩山は将兵たちの叫び声に満ち満ちていたことだろう。佐久間盛政の急な攻撃を受けた中川清秀は、援軍もないなかで勇敢に戦ったが、8,000人の盛政勢に対して清秀勢はわずかに1,000人だったと伝えられている。多勢に無勢はいかんともしがたい。この地で討ち死にを遂げることになる。早朝6時に始まった戦いは、午前10時には清秀の自刃により幕が閉じられた。
玉砕だったと言う。
凄惨な地獄絵図が想像される。
幸先のいい勝ち戦に気分が高揚しすっかり舞い上がってしまった盛政は、清秀に勝利した後は自重して自陣に引き返すことになっていた勝家との約束を無視して進軍を続ける。近くの岩崎山に陣取っていた高山右近をも撃破した盛政は、賤が岳に迫る勢いを見せていた。賤が岳の戦いにおける2つの重要な転機と言われるうちの一つめの転機がこの時である。
大岩山における急変を知った秀吉は、大垣城から賤が岳へと急ぎ取って返す。秀吉というと、本能寺の変を知って中国地方から引き返したいわゆる「大返し」が有名だが、大垣からの「大返し」もこの中国地方からの大返しに匹敵する神業であったと言われている。
先に秀吉が岐阜に赴こうとしたのは、膠着した賤が岳の戦線を動かすための誘い水であったと書いた。それを証拠づけるのは、大垣から賤が岳へ返す道々には夜中の行軍でも迷わないように松明が用意されていて、各所で握り飯があてがわれたという事実である。
明らかに秀吉は、留守中に動きがあることを予期していた。
予期していたというよりは、敢えて相手が動く状況を作って誘ったのである。
気の毒だったのは、中川清秀だった。こういう役割を、捨石と言うのだろう。しかしここで中川清秀が奮闘したことが、佐久間盛政の判断を誤らせ、それが雪崩的な秀吉軍の勝利につながっていく。捨石ではあったが、清秀の死は無駄石ではなかった。
戦国の歴史のなかでは、清秀のような役割を担い、使命を全うして果てていった武将たちが無数にいる。信長も秀吉も家康も、そういう真の意味で献身的に彼らを支えた武将たちの犠牲の上に、天下統一という偉業を成し遂げたということを、私たちはけっして見落としてはいけないと思う。
午後2時に大垣を出発した秀吉軍1万5,000人は、大垣から木之本までの52㎞の行程を僅か5時間で一気に駆け抜けたと言われている(7時間という説もある)。にわかには信じがたいが、時速に換算すると約10㎞である。現代のマラソンコースのように整備された道があるわけでもなく、細い山道を武具を携えて走ったことを思うと、驚異的なスピードであったことがわかる。
敵に勝利するための一つの常套手段が、相手の意表を衝くことである。
鵯(ひよどり)越(ごえ)における義経の奇襲攻撃が然り、厳島合戦における毛利元就の夜襲も然り。桶狭間の信長の行動もまさにこの範疇に属する。
大岩山に陣を張っていた佐久間盛政が、木之本方面から無数の松明が近づいてくるのを目の当たりにした時の驚きを想像することは難くない。
即座に撤退の判断を下した盛政は見事な判断力と行動力とで一旦は余呉湖北西の権現坂まで引き返すが、弟の柴田勝政が秀吉軍と激突して苦戦の状況にあるのを見て、再び余呉湖畔へと引き返す。
両軍が相まみえて戦った賤が岳の北面から余呉湖畔にかけての地域が、激戦の地となった。兵士たちの流す血で、湖水が真っ赤に染まったという。
勝政軍との合流を果たした盛政軍はよく戦い、この時点では両軍の優劣はつきがたい混戦状況にあった。後に勝敗の結果だけを見て、賤が岳の戦いは圧倒的に秀吉軍が優勢だったように思われがちだが、実際にはどちらが勝利してもおかしくない微妙な戦いだったのである。
ここで、この戦いの勝敗を決定づける2つ目の転機が訪れる。
権現坂の後方を固めていたはずの前田利家軍2,000人が、謎の戦線離脱を遂げたのだ。
勝家軍についていたはずの利家軍がなぜ裏切ったのか?理由は明らかになっていない。元々利家は与力として勝家軍に従軍していたものだが、与力は勝家のお目付け役に似た役割りであって勝家の臣下を意味するものではない。独自の判断で動くことが可能であったし、利家と秀吉とは竹馬の友である。心情的に秀吉寄りだったと考えることができる。あるいは戦況を見て秀吉方が有利と見た利家が勝家を裏切ったと見ることもできる。
この時の利家の心境は永遠に謎のままだ。
数的不利な状況を佐久間盛政を中心とする凄まじいほどの気力で補い善戦していた勝家軍であったが、利家軍の後ろ盾を欠いて、総崩れとなる。秀吉軍は余呉湖の北面を通り、湖の北東の狐塚に陣取っていた勝家に迫る。
勝家は狐塚で秀吉軍を迎え撃ち激戦を演じたものの数的劣勢を覆すこと叶わず、ついには退却を余儀なくされ、北国街道を一路北の庄へと奔った。近江国と越前国との境界にある栃ノ木峠は、皮肉にも勝家が上洛の便宜のためにと整備した道であった。
この後のことは、語るに忍びない。
間髪を入れずに、秀吉方に寝返った前田利家らによって北の庄城を取り囲まれた勝家と妻のお市の方は、4月23日、北の庄城の天守にて自害して果てた。
数多の戦いが演じられた戦国時代と雖も、最後の天守を巡る攻防戦にまで及んで落城したケースというのは、それほど多くはないのだそうだ。小谷城と北の庄城と2回もの天守落城を経験したお市の方の悲劇を想わないではいられない。
夏の夜の 夢路はかなき あとの名を
雲井にあげよ 山ほととぎす 勝家
さらぬだに うちぬる程も 夏の夜の
わかれを誘う ほととぎすかな 市
夏の夜というにはまだ早すぎる、早春のかなしい越前での最期であった。奮戦した佐久間盛政もやがて捕らえられ、斬首の上、首は京の六条河原で晒されたという。すべてが、兵どもが夢の跡、である。
ふと我に返って空を見上げると、強い風を切り裂くように大空を滑空する一羽のとんびが見えた。今の賤が岳山頂は、眩しいほどに長閑でうつくしい。
しばし山頂で休憩して景色を堪能した私は、賤が岳を後にした。
山頂からは、今見てきた激戦の跡を辿りながら、稜線伝いに大岩山を経て余呉湖に降りるハイキングコースがお勧めだ。
全体的には下(くだ)りながら、時には上りを交えてのコースである。木々の合間から時折垣間見える余呉湖が、清々しい。約1時間半の快適なハイキングだ。
ちょうどコースの三分の一を過ぎた頃だろうか、山道から少し脇道に入ったところに、清秀の首を洗ったとの言い伝えが残る「首洗いの池」がある。
当地に設置されている説明板によると、清秀の遺体は土民たちの手で谷下に降ろされ、敵方に見つからないように柴で覆われ守られたと言う。池というよりは、単なる水溜りのようなささやかな水だ。しかし大岩山の山中においては、僅かばかりでも湧水を湛えるこの場所は、土地の住民たちにとって神聖な場所だったに違いない。
首洗いの池からさらに余呉湖の方向に進んでいったところに、中川清秀が祀られている広い平坦地が現れる。清秀の百回忌にあたる天和2年(1682年)に建立された墓所は、思いの外に立派である。
中川氏は後に、次男の秀成が豊後国岡藩の初代藩主となり、岡藩主として幕末まで存続することになる。加藤清正や福島正則など七本槍として讃えられた武将たちの子孫が次々と徳川幕府によって改易となっていくなかで、賤が岳の戦いの初戦で早々と全滅してしまった中川氏の子孫が藩主としての地位を最後まで全うしたという事実は、実におもしろいと思う。人生まさに、塞翁が馬である。そうであってこそ、清秀の死も報われると言うものだ。
岡藩と言えば、美しい石垣を持った城と竹田の子守唄で有名な藩である。その岡藩の五代の嫡孫である久恒が清秀の霊を供養するために建立したのが、今私が眼前にしている墓であるという。 清秀の墓は、二段の広い石の基壇の上に、いくつもの石を積み上げて塔のように仕立てた重厚な墓だ。後世の造作と思われるが、墓の周囲には洒落た鉄柵が廻らされていて、正面はアーチのかかった門のような造りに設(しつら)えられている。その門扉には、キリシタン大名であったことを示すかのように、十字が模様化されて付けられている。
訪れる人は極めて稀であるけれど、このような立派な墓を子孫により建立してもらって、清秀も少しは心安らかに眠れるようになったのではないだろうか。そんな安堵感を抱きながら、私は再び、余呉湖畔への道を歩き始めた。
賤が岳から余呉湖までの道は、杉の樹林が延々と続く快適な道であるが、この杉の林は後の時代の植林によるもので、秀吉と勝家が争った当時の賤が岳は、全山がすすきや熊笹に覆われた山容だったのだそうだ。そうであるとすると、今とはだいぶ趣が違った山であったことが想像されるし、戦いの様子もまた別のイメージを持たなければならない。
こんな鬱蒼とした林の中の一本道でどのようにして戦ったのかと訝しく思っていたが、もう少し縦横無尽に兵士たちが丘陵地を駆け巡りながら刃と刃をまみえたであろう光景を想像した。
余呉湖の湖畔には、天女が舞い降りたと伝えられる羽衣掛の柳がある。羽衣伝説は、静岡県の虹ノ松原など全国各地に残されているが、穏やかに水をたたえる余呉湖の傍らに一本だけ独立して立つ大きな柳の木には、たしかに天女が降りてきても不思議でない神秘さがある。
この柳の木も、秀吉と勝家の戦いを見た歴史の目撃者なのであろうか?
賤が岳の戦いに勝利した秀吉は、天下人への道を一直線に駆け上っていくことになる。
最後に、賤が岳と言えばどうしても触れておかないわけにはいかないのが、七本槍だ。
七本槍と言うのは、加藤清正、福島正則、片桐且元、脇坂安治、加藤嘉明、平野長泰、糠屋武則の七人のことを言う。賤が岳の戦いにおいて活躍が顕著であった七人の若武者を讃えてこう呼ばれているのであるが、実はこの七人が活躍したのは戦いの大勢が決した後の追撃戦においてだったと言われているし、真の功労者は彼らの他にいたというのが後の歴史家たちの大方の判断のようである。 事実、最初の3人くらいまでは私も知っているが、残りの4人の名前はあまりおぼつかないというのが本当のところだ。秀吉一流のやり方で、子飼いの若手を世に売り出すために敢えて賞賛したのではないかとも言われている。
それはそうと、余呉湖の湖面は風もなく穏やかで、静かに水をたたえている。