北国脇往還

北国脇往還

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岐阜県不破郡関ヶ原町から滋賀県長浜市木之本町までの40kmの道程を歩く、「浅井三姉妹街道ウォーク」という催しがあることを知った。
この道は、かつては北国脇往還と呼ばれた街道であり、関ヶ原以東から越前方面に抜けるショートカットとして利用された道である。
京と越前方面とを結ぶ街道として琵琶湖東岸を北国街道が通っていて、これを本線とすると脇往還は支線のような位置づけになる。
脇往還というと、いかにも付け足しの道のような印象になってしまうが、北近江にとってはたいへんに重要な街道であった。戦国時代には、本線である北国街道よりも、支線である北国脇往還の方が交通量が多かったという説もある。
途中、小谷城下を通るほか、沿道には国宝十一面観音のある渡岸寺の観音堂や雨森芳洲庵などの名勝や史跡を通る魅力的な道でもある。
マラソンの距離にほぼ匹敵する40kmという距離がどのくらいの長さなのか、実際に自分の足で体感してみたいとの興味もあった。
北国脇往還を通った昔の人たちが、どんな景色を眺めながら歩いたのかも、以前から知りたく思っていたことである。
賤ヶ岳の戦いの時に、秀吉が大垣から50㎞の距離を僅か5時間(あるいは7時間との説もある)で引き返した時に通った道も、この北国脇往還であった。
秀吉は、大垣に攻め込むことでわざと隙を見せて、北ノ庄(現福井市)にいる柴田勝家を賤ヶ岳におびき寄せたのであった。大返しすることを想定し、北国脇往還の沿道に握り飯や松明を用意させておいたことからも、秀吉の魂胆は明らかだ。賤ヶ岳の戦いにおける秀吉の勝利の重要な要素となっている。
私がこのイベントに申し込みをしたのは、言うまでもない。

平成24年11月3日はカラッと晴れた天気とはならず、どんよりと曇った生憎の空模様となった。迂闊にも傘を持参するのを忘れてしまった私にとっては、雨を心配しながらの道中となってしまった。
雨が降ったらコンビニで傘を買えばいいというのは都会の人の発想で、40kmの道程においてコンビニはたったの2軒しかなかった。結果的に濡れずに済んだのは、幸運だったと言うしかない。
集合時刻の午前8時には、想像していた以上に多くの参加者が集まっていたことに、まず驚いた。
ゼッケンの番号から類推するに、おおよそ250人くらいの参加者であろうか。意外にお年寄りが多い。
スタート地点にあたる関ヶ原町の和ざみ野広場には、茶々、初、江の三姉妹のイメージキャラクターや賤ヶ岳の七本槍にちなんだ7人の甲冑姿の男性などが出現し、雰囲気を盛り上げてくれた。
和ざみ野広場とは聞きなれない名であり付近に何の説明版もないけれど、今から1340年ほど前の壬申の乱の時、近江朝の大友皇子と対峙する大海人皇子が陣取った場所であると言われている。
和ざみ野から程近い不破の野上に行宮を置いた大海人皇子の許に地元の人たちから桃が献上された。桃は戦場において魔除けとして貴ばれていた果実である。小振りの山桃だが、たいへんに美味であった。
大海人皇子は地元の住人に命じて全軍の兵士たちにこの桃を配らせた。大海人皇子の名において配られた桃は兵士たちの士気を大いに高め、大友皇子軍を打ち破る原動力になったと伝えられている。
兵士たちに桃を配った山は、後に桃配山と呼ばれるようになった。
それから900年後の関ヶ原の戦いにおいて徳川家康は、天下分け目の壬申の乱におけるこの縁起を担いで、その桃配山を本陣とした。
そんなエピソードを思い出させてくれる場所が、ここ和ざみ野広場である。
三姉妹のキャラクターや賤ヶ岳の七本槍など戦国時代の雰囲気で盛り上げられているが、和ざみ野広場に限って言えば、むしろ壬申の乱の雰囲気こそが相応しい場所であるというのが実際のところではある。
ともあれ、準備体操の後、いよいよ出発となる。

関ヶ原は、日本人なら誰でも知っている日本史の舞台である。これから40kmもの長丁場を歩くスタート地点としては、これほどふさわしい場所はない。
まずは戦国時代に思いを馳せて、東軍西軍が相まみれた戦場の跡などを眺めながら歩いていくか。
と思っていたら、いきなり私の想像とは大いに様相が違う展開が始まって、戸惑った。
今日のイベントは、北国脇往還という歴史色豊かな街道を歩いて、史跡を巡り美しい景色を眺めながら戦国時代の昔を偲びたい。それが私の想定だった。
ところが意に反して、周囲の景色を眺めて歩く人などはほとんど皆無で、参加者たちは遠い前方をまっすぐに見つめながら、ひたすら全速力で歩いていく。
まるで競歩大会だった。
私は趣旨を間違って、競歩の競技大会にエントリーしてしまったのだろうか?
あまりの想定との乖離に、唖然とした。
こんなにキラキラと光る史跡が散りばめられている歴史の宝庫を歩いているのに、脇目も振らずに歩いていくなど、なんてもったいないことだろうか。
人それぞれの価値観の差だから、史跡を見ないで速く歩きたい人は歩けばいいと思った。
でも不思議なもので、周囲の人たちが全速力で歩いていると、そうは思いながらも、ついつい速足になってしまっている我が姿に気付いて、思わず苦笑した。

和ざみ野広場から暫くは、民家が建ち並ぶ街中の道を行く。
やがて、不破の関と書かれた案内板が見えてきた。あぁ、こんなところに不破の関があったのだなぁ、などと立ち止まって感慨に耽っている間に、十数人の人たちに抜かれていった。
抜いていく人たちは抜いていく人たちで、まだスタートしたばかりのこんなところで何を立ち止まって暢気(のんき)に写真なんか撮ったりしているのだろうと、怪訝そうな目で私のことを見ながら通り過ぎていく。
でもここは天下に名高い不破の関跡である。時間をかけてでもじっくりと見るべき場所ではないのか?
不破の関は、天武天皇元年(672)に起こった壬申の乱の後に設けられたという、たいへんに古い関所である。
東山道(中山道の前身)の不破の関(美濃国)として、東海道の鈴鹿の関(伊勢国)、北陸道の愛発(あらち)の関(越前国)とともに、律令制下における三関(さんげん)の一つに数えられている。
不破の地をして歴史上有名ならしめたのは、壬申の乱においてである。
病が篤くなった天智天皇は、弟である大海人皇子を病床に呼び寄せ皇太子への就任を懇願する。しかし天皇の本心が長子である大友皇子にあることを察知していた大海人皇子は、皇太子への就任を固辞し、自らの安全を守るために先手を打って吉野へと遁走した。
天智天皇10年12月3日(672年1月10日)に天智天皇が崩御したとの報に接すると、大海人皇子はすかさず吉野を脱出し、伊賀国、伊勢国を経由して美濃国に入った。この時大海人皇子に付き従った伴の人数は僅かに30人ばかりだったと言う。また、4日間で170㎞もの強行軍であったと伝えられている。
そして大海人皇子は、ここ不破の地に至って東国からの道を封鎖し、東山道・東海道から入ってくる兵士たちを自軍に組み入れた。その数、おおよそ3万人と言われている。
大海人皇子は不破の地を押さえたことにより、たった4日間の間に1000倍もの兵力を動員することに成功したことになる。
不破の地の西側には、当時関の藤川と呼ばれていた藤古川が流れている。この川を挟んで東岸に大海人皇子軍、西岸に大友皇子軍が対峙した。
壬申の乱は、この藤古川の戦いによって戦陣が切って落とされたのである。
この初戦に勝利した大海人皇子軍は、近江宮(大津)を目指して進軍を開始する。
その間、大海人皇子は妃の鸕野讃良皇女らとずっと不破に留まり、不破から戦況を見守っていた。
数に勝る大海人皇子軍は快進撃を続け、大津の近江宮に迫る勢いを見せた。それを阻止せんとする大友皇子軍が宮を出て大海人皇子軍と激突し決定的な敗北を喫したのが、有名な瀬田の唐橋の戦いである。
大友皇子はその翌日に自決し、古代における最大の内乱と言われる壬申の乱がここに幕を閉じた。
自害した大友皇子の首は、不破にいる大海人皇子の許まで届けられたと伝えられている。
壬申の乱に勝利した大海人皇子は、翌天武天皇2年(673)2月に飛鳥浄御原宮にて即位し、第40代天武天皇として日本の国政を担うことになる。
壬申の乱の経験により、不破の地が東国との交流における重要地点であることを実感した天武朝は、ここに関を置いて東国への睨みを効かせた。
関は1町(約108m)四方の広さを誇り、東端と西端に城門(きもん)や楼が設けられていた。
内部には、庁舎、官舎、雑舎(ぞうしゃ)などの建造物が建ち並び、周辺の土塁内には兵舎、食料庫、兵庫(へいこ)、望楼などが設けられていた。相当に大規模で堅固な施設であったことが窺える。
特に関の西側の城門は、当地を流れる藤古川の河岸段丘を巧みに利用した自然の要害であった。

不破の地には、「大海人皇子の兜掛石、沓脱石」と言われている石がある。
兜掛石は、壬申の乱の時に大海人皇子が兜を脱いで掛けた石であるという。また、その左斜め後方には、大海人皇子が沓を脱いで置いたという沓脱石がある。いずれも、不破関の中心部にあたる庁舎跡にあたる場所にある。
また藤古川の東岸の松尾地区には大海人皇子を祀る井上神社が、西岸の山中(やまなか)、藤下(とうげ)地区には大友皇子を祀る若宮八幡神社があり、両軍が藤古川を挟んで対峙していた様子を窺うことができる。
それぞれ、「郷社井上神社」、「村社 若宮八幡神社」と刻まれた、神社の存在を示す石柱が道の傍らに建てられているのだが、それに注目する参加者は皆無である。
天下分け目の決戦というと慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いが想起されるが、その900年余り前にも、この地で天下の行方を決するもう一つの決戦が行なわれていたことを、私たちはあまり知らない。
不破の関一帯には、大海人皇子の本宮があったとされる野上行宮、大友皇子の首を葬ったとされる自害峰など、当時の戦いを偲ぶ遺跡が多数ある。
いずれも、三姉妹街道ウォークのメインストリートから僅かの距離なのだが、これら壬申の乱に関する旧跡を巡るだけでも一日仕事になってしまうだろう。私はこれ以上の詮索を断念して人の流れに流されるようにしてその場を後にした。

さらに歩いていくと、大谷吉隆(吉継)の墓の近くを示す石柱などが見え、ここがまさに関ヶ原であることを実感する。
また、勝敗の行方を決した小早川秀秋が陣取っていた松尾山と関係があるのだろう、松尾という地名の街を通るなど、ほんの一端ではあるが関ヶ原の戦いの雰囲気を感じることができた。
40㎞を歩くという今日の目的がなければ、私は間違いなくこの地に留まっていただろう。

関ヶ原を出てからしばらくの間は、北国脇往還ではなく旧中山道を辿る道となった。
車が猛スピードで行き来する幹線道路(国道21号線)沿いの道であり、山中の道ではあるものの、趣きは感じられない。
やがて、幹線道路を左手に外れて中山道59番目の宿場町である今須(います)宿に至る。車道を離れ、いかにも昔ながらの街道の雰囲気を持つ街のなかに入りホッとする。
今須宿にある妙応寺という寺が今日の最初のチェックポイントであった。
スタートしてから4.1㎞の地点である。まだ今日の行程の10分の1しか歩いていないことに愕然とする。
チェックポイントでゼッケン番号のチェック意を受け、疲労を和らげるための飴をもらい、私は再び歩き始めた。まだまだ先は長い。ここでのんびりしているわけにはいかない。
ここ今須宿は、美濃国と近江国との国境(くにざかい)として栄えた宿場町で、本陣が1軒と脇本陣が2軒、それに最盛期には問屋が7軒もあったという。
その問屋のうちの1軒である山崎家が、今も当時のままに残されている。
また、関ヶ原の戦いの翌日、石田三成の居城であった佐和山城を攻めるために徳川家康が今須宿を通りかかった。本陣の伊藤家に立ち寄り休息した際に腰掛けたという石が、移設されて「東照宮大権現腰掛石」として近くの青坂(せいばん)神社境内に保存されているという。
妙応寺の向かいにある常夜灯は、文化5年(1808)に京都の問屋河地屋(かわちや)が建立したものであり、「永代常夜燈」と刻まれている。
大名の荷物を運ぶ途中、ここ今須宿付近でその大切な荷物を紛失してしまった。途方に暮れた河地屋は、金毘羅様に願を掛け一心に祈った。その祈りが通じて荷物が無事に出てきたため、お礼に建てたのがこの常夜灯である。
当時の街道を行き交う人々には、いろいろなドラマがあったのだろう。
現在の今須宿は、それほど古い建物もなく往時を想起させるような街並みではないが、それでもどこかに宿場町としての雰囲気と面影とを残していて、歩いていて郷愁を感じさせてくれる街であった。
さらに歩を進めると、「車返しの坂」という奇妙な名前の坂に至る。
南北朝の昔、不破の関屋が荒れ果てて板庇から漏れる月の光が美しいとの噂を聞いた二条良基(よしもと)という公家が、その月の光を見たいと思いたち、わざわざ都から牛車に乗ってやって来たとの言い伝えが残されている。
古代律令制下で重要な役割を果たした不破の関であったが、関の寿命は意外にも短かった。延暦8年(789)には停廃されて、その後は関守が置かれるのみとなり、関屋は当時荒れ果てていたのだろう。
二条良基は、長期に亘り北朝4代の天皇の摂政・関白を務めた大物貴族であり、また歌人・連歌の大成者としても知られている当世随一の人物であるが、相当に酔狂な人だったものと思われる。
おそらくは、関が近づいてきたので家来の者を先に下見にでも遣(や)ったのだろう。この坂を登る途中で戻ってきた家来からの報告を受けた良基は、落胆した。
残念なことに、不破の関屋の屋根は修理されてしまっていたというのだ。
それではおもしろくないと、良基は関を見ずに引き返して都に帰ってしまったという。「車返しの坂」の名の由来である。

国道21号線を北側に渡ると、右手の道端に芭蕉にちなんだ5基の石碑が並んで建てられているのを見ることができる。
なぜここに芭蕉なのか?
最初、私にはやや唐突のようにも感じられたが、よくよく考えてみれば、芭蕉は『野ざらし紀行』と『おくのほそ道』において、この辺りを歩いているのだ。
『野ざらし紀行』では、前年に亡くなった母の墓参を兼ねて伊賀上野を訪ね、その後、二上山当麻寺や吉野などを巡った後に、京都から中山道を大垣まで歩いている。

やまとより山城を経て、近江路に入て美濃に至る。います・山中を過て、いにしへ常
盤の塚有。伊勢の守武(もりたけ)が云ひける「よし朝殿に似たる秋風」とは、いづれのところか似
たりけん。我もまた、

義朝の心に似たり秋の風
不破
秋風や藪も畠も秋の風

大垣に泊りける夜は、木因が家をあるじとす。武蔵野を出(いづ)る時、野ざらしを心にお
もひて旅立ければ、

しにもせぬ旅寝の果よ秋の暮

『野ざらし紀行』の一節を引用した。
芭蕉は、我が身は倒れて野晒しになろうともとの悲壮な決意で江戸を発った。芭蕉はそんな思いを抱いて今私が立っているこの場所を歩いて行ったのかもしれない。
『野ざらし紀行』は、芭蕉が著した最初の紀行文であった。そして、集大成となったのが、『おくのほそ道』である。
『おくのほそ道』の最後の旅程は敦賀から大垣までであり、芭蕉は北国脇往還を通って大垣まで行ったものと推定されている。厳密に言えば『おくのほそ道』において芭蕉はこの道を歩いてはいないが、美濃国と近江国との国境に近いこの地に芭蕉の石碑があってもおかしくはないと納得した。

「おくのほそ道 芭蕉道」と書かれた石柱の傍らには、『おくのほそ道』のダイジェスト版が彫られた石碑が建てられていて、

行春や鳥啼魚の目は泪

蛤のふたみにわかれ行秋ぞ

という、「序章」の句 (1) を除いた『おくのほそ道』の最初の句と最後の句が刻まれている。
こうして並べて見るとなるほど、芭蕉は「行春」に旅に出て、「行秋」に旅を終えていることがわかる。全編を通じて見事な対になっていることを知って感激した。
もう一つの石碑群は、「おくのほそ道 芭蕉道」の石柱の左側にあり、「野ざらし芭蕉道」と刻まれた石柱でまとめられている3基の石碑である。
この石柱には、

年暮れぬ笠着て草鞋はきながら ばせを

という芭蕉の句が刻まれている。またその左隣の黒い石の石碑には、

貞享元年十二月野ざらし紀行の
芭蕉が郷里越年のため熱田より
の帰路二十三日ころこの地寝物
語の里今須を過ぐるときの吟

との説明が付ざれている。
貞享元年(1684)12月25日、芭蕉は郷里である伊賀上野の兄松尾半左衛門宅に帰りそこで越年している。
この黒い石碑によると、『野ざらし紀行』に所収のこの句は、熱田から伊賀上野に帰省する際に、今須宿あたりで詠まれたということになっている。
『野ざらし紀行』には、熱田から伊賀上野までの間の記述がまったくないので、私にはこの句が今須で詠まれたと確証する何の根拠も認め得ないが、ここは素直にそういうことであったとしておくことにする。
左端にある大きな石碑が一番目立っているのだが、この石碑には、

正月も
美濃と近江や
閏月

と刻まれている。
不思議なことに、この句は『野ざらし紀行』には収録されていない。どうしてこの碑がここに建てられているのか、もしかしたら石碑の裏側を見れば由来が刻まれているのかもしれないが、すでに十分、多くの人に抜き去られてしまっている私は、気の焦りからか石碑の裏側に廻り込むことなく先を急いでしまった。

さらに少し行くと、寝物語の里の碑が見えてきた。
ここがあの寝物語の里か!
司馬遼太郎さんの『街道をゆく』で紹介された、美濃国と近江国との国境にある名所である。
道を横切ってチョロチョロと小さな小川が流れている。この小川こそが、国境線になっている。
手前が美濃国で、向こう側が近江国だ。
国境の小川と言っても、うっかり見落としてしまいそうなささやかな水の流れであり、かつてこの小川を挟んで2つの家が隣接して建てられていた。
両家は声を出せば聞こえる距離にあり、夜、布団の中に入りながら隣家の人と語り合ったと言われている。
美濃国と近江国の住民が、寝ながらにして語り合ったことから、寝物語の里として知られている。
近江国を旅した司馬遼太郎さんは、この寝物語の里を見るために、わざわざ滋賀県から車を飛ばしてこの地を訪れている。
当時は今と異なり案内板も十分には整備されていなかったのだろう。一度岐阜県側に行き過ぎてから引き返してやっと寝物語の里に辿り着いた様子が書かれている。
感動しながら写真を撮っていると、近くに住んでいる老婆から話しかけられた。
「今日は何かの大会があるのか?さっきからたくさんの人が通り過ぎて行くが、誰も寝物語の里の碑に目をくれることなく急ぎ足で通り過ぎていく。他所から来たお客さんはたいてい、この碑を目当てにして来て、この碑を見て喜んで帰っていくんじゃがのう。」
さもありなん、と思った。
せっかくこんな名所の前を通りながら、立ち止まりもしないで行き過ぎていくのは、いかにも惜しいことをしているように私には思えてならない。私が碑の写真を撮ったり老婆と話をしたりしている間にも、十数人の人が私を抜いていった。

さらに歩いていくと、道の両側を楓が立ち並ぶ楓並木を経て、やがて柏原宿に辿り着く。松並木が多い徳川期の街道のなかで、楓並木とは風流である。秋の季節には紅葉してさぞ美しく街道を彩ったことだろうと思った。
柏原宿は、中山道第60番目の宿場町であり、いかにも宿場町という感じの雰囲気を残す古い家並みが残されていた。
鎌倉時代には柏原弥三郎為永という当地の地頭が築いた柏原城があった。弥三郎には悪行が目立ったため、近江国守護の佐々木定綱の追討を受け、その跡地を佐々木京極氏が賜り館や寺院などを建立したのが柏原の町の生い立ちである。
京極氏が建立した寺院は清滝寺徳源院という寺院で、京極氏の菩提寺として今も京極氏累代の宝篋印塔が建ち並んでいる。
その後京極氏を中心に柏原の街は発展を遂げ、関ヶ原の戦いの頃には戸数500戸の大規模な宿場へと成長していった。
江戸時代になると、中期までは幕府が直轄する天領として代官が支配する町であったが、8代将軍徳川吉宗の時代に大和郡山藩柳沢氏の所領となっている。
柏原宿を最も有名ならしめたものは、何と言っても伊吹もぐさの存在だろう。
江戸時代後期に亀屋左京の六代目松浦七兵衛が、持てる商才を駆使して江戸に伊吹もぐさを売り込んだ。この戦略が大当たりして、伊吹もぐさは全国的に評判を得、柏原宿にはもぐさを販売する店が次々と開店した。
伊吹もぐさとは、柏原宿のすぐ北側に聳える名峰伊吹山の山麓に自生する蓬(よもぎ)を主な原料として作るお灸のことである。
伊吹山には、蓬以外にも様々な薬草が生えている。この薬草を採取して鳥居本宿の有川家が赤玉信教丸という胃腸薬を販売して成功を収めたことは、前著『湖北残照 文化篇』に書いた。
湖北地方の人々にとって伊吹山は、まさに宝の山なのである。
伊吹もぐさを売る亀屋左京の店舗の様子は、歌川広重が描く「木曾街道六十九次」のなかの柏原宿の光景として描かれている。
伊吹もぐさを売る亀屋佐吉の店構えが画面一杯に表現された絵だ。店は左右2つに分かれていて、右側が伊吹もぐさを売る店舗で、左側は旅人が休憩できるスペースになっている。
店舗には「薬艾」と書かれた衝立てと大きな福助人形が置かれ、伊吹山の模型が飾られている。福助は、かつて亀谷左京に実在した番頭であり、誠実な人柄と大きな耳たぶが話題を呼び、評判を聞きつけて伏見の人形屋が縁起物として売り出したのが福助人形の起源であると言われている。
一方の休憩所には金太郎人形が置かれ、奥側にきれいな庭園を望むことができる。目を凝らすと「酒さかな」の看板が掲げられているから、もぐさを買った客は隣の部屋に移動して庭を眺めながら酒を飲んで寛いだのかもしれない、
単にもぐさを売るだけでなく、美しい庭園を見ながら旅人に寛いでもらおうというホスピタリティこそが、七兵衛独特の商才だったのではないだろうか。
柏原宿のほぼ真ん中に位置する亀谷左京の店舗は、今も現存している。
残念ながら私は、東海道本線柏原駅の手前で右側(北側)に右折してしまったため、亀谷左京の店舗を見ることはできなかった。
なお、この右折地点にある八幡宮境内には、

戸を開けはにしに
山有いふきといふ花にも
よらす雪にもよらす只
これ弧山の徳あり

其のま〱よ
月もたのまし
伊吹山
桃青

と刻まれた芭蕉の句文碑が建てられている。
元禄2年(1689)、芭蕉は『奥の細道』にて敦賀から大垣へと、伊吹山を左手に見ながら歩いていった。この句は、大垣の門人高岡斜嶺の宅で開かれた句会において披露されたものであるという。
柏原宿は中山道の宿場町であり、北国脇往還を通ったとすれば、芭蕉はその手前で関ヶ原方面に曲がってしまっているはずだから、厳密に言うとこの場所を通っていないことは前述のとおりである。
しかし細かいことは詮索しないで大雑把に、芭蕉はこの辺りを通り伊吹山を望みこの句文を作った。そう思えばよいだろう。
当地周辺には芭蕉の句碑が非常に多い。

柏原宿まではいわゆる中山道の道程を辿ってきたが、ここからは北国脇往還独自の道に足を踏み入れていくことになる。
右手には、伊吹山の特徴ある山容を望むことができる。
北国脇往還の旅は、近くに遠くに、常に伊吹山を眺めながらの旅でもあった。
私たちは、伊吹山の南麓から転じて、今度は西麓を歩いていくことになる。
伊吹山に向かってまっすぐ北に延びている道の両側に広い田んぼが拡がっている。その田んぼの中の畦道をジグザグと右折左折を繰り返しながら歩いていく。
前方には新幹線の高架が見える。すぐ近くに見えるのだが、歩いても歩いてもなかなか高架にまで辿り着かない。
その間に、何本もの新幹線が通り過ぎていった。新幹線はこんなにも短い運転間隔で走っているのかと、改めて高い日本の鉄道技術に驚かされる。
伊吹山を背景に新幹線が走る光景は、なかなかに美しい。私はまたしても立ち止まり、何枚もの写真を撮った。
新幹線の高架を潜り抜けさらに歩いていくと、勝居神社という神社に辿り着く。
ここが、今日の2番目のチェックポイントになっている。境内に休憩所が設けられていて、飴をもらった。この地点が歩き始めてから10.2kmの地点になる。
ずいぶん歩いたように思えるが、まだやっと四分の一しか歩いていないことを認識し、改めて道程の遠さを実感した。
ここ勝居神社は、垂仁天皇(紀元前29~紀元後70)の頃から産土神(うぶすながみ)として当地にて崇められてきた神社である。
大日靇貴尊(おおひるめのみこと)(天照大神)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)(須佐之男命)、大己貴命(おおなむちのみこと)(大国主命)の三柱の神を祀っている。
当地は伊吹山の麓に位置し、山麓に降った雨水が湧き出ずる場所にある。居住に適した土地であり、縄文の昔から多くの人々が生活を営んでいたのだろう。その集落の中心的存在だったのが、神社があるこの場所だったのではなかったのか。
この地にあった井戸は、いつの間にか「勝井」と呼ばれ、人々の信仰の対象となっていった。勝井が勝居となり、勝居大明神として地元の信仰の中心となった。
後醍醐天皇の御代(文保2年(1318)- 延元4年(1339))には、建武の中興に際し皇太子の守良親王(五辻宮)がこの地に本拠を置いたと伝えられている。
また、戦国の世になり、織田信長、丹羽長秀、羽柴秀吉が勝居明神高札を掲げ、さらに賤ヶ岳の合戦に際しては、大垣からの大返しを演じた秀吉がこの地で神域の竹を刈り必勝を祈願し、

ゆく先の いくさに 勝居明神の
利生の旗の 竿にありけり

の歌を奉納した。
勝居神社の名前にあやかり自軍の士気を高めようとした、秀吉一流の人心掌握作戦であったにちがいない。
戦の後、秀吉は社殿の改修を行い、灼(あらた)かなる霊験に懇ろに応えた。
勝居神社にも、芭蕉の句碑が2基ある。

鶯や柳のうしろ藪(やぶ)の前

人も見ぬ春や鏡のうらの梅

前の句は『続猿蓑』に、後の句は『己が光』に所収の句である。いずれも、元禄5年(1692)(前の句は元禄7年との説もあり)の句である。どうして芭蕉の句が当地にあるのかは、わからない。

勝居神社を出た後しばらくは、街中の道を進んでいく。
靴の紐の締め具合いが緩かったせいか、歩く度に靴の中で足が擦れて、くるぶしの下の皮が剥け始めてしまった。
まだあと30km近くもあるというのに、早くも黄色信号が灯る。
靴がしっかりと足に固定されるように、スタート地点においてもっと靴紐をきつく締めておくべきだったと後悔した。
が、後の祭りである。改めて、長い距離を歩くにはしっかりとした準備が必要であることを実感した。
なるべく患部を靴に触れないように歩き方を工夫しながら、次のサポートポイントである三島池まで歩く。
この地点で約15kmになる。道程はまだ遠い。
ここには三島池という美しい池があり、その池を巡ってグリーンパーク山東というアウトドアスポーツを中心としたレジャー施設が建てられている。
三島池は、姉川の伏流水を灌漑用に貯えた人工の池であり、別名を比夜叉池とも呼ばれている。
昔、佐々木秀義(天永3年(1112)- 元暦元年(1184))が当地の領主であった頃、日照りが続き米の収穫に支障をきたす事態となった。その時に秀義は夢で神のお告げを聞いた。女性を人柱に立てれば、雨が降るだろうとの神託であった。
秀義の乳母である比夜叉御前が、生贄になることを進んで申し出た。そして比夜叉御前が池に身を投げると、神のお告げのとおり、黒雲が立ち込め忽然として雨が降ったと伝えられている。
この伝説によると、佐々木秀義の頃にはすでに三島池は存在していたことになるから、この池が作られたのは今から800年以上も前ということになる。
人工の池と言っても人工臭さを感じさせないのは、長い歳月の間にすっかり周囲の自然に溶け込んでしまっているからなのであろうか。
今日のコースからは角度的に窺えないが、伊吹山が池に写って美しい姿を見せてくれる池である。
水分を補給し、甘くて酸っぱいレモンの蜂蜜漬けとソーセージのもてなしを受けた。これまでの疲れが一時的にだが解消されたような安堵感を覚える。
ここで遅ればせながら、靴紐をきつく結び直して、靴を足にしっかりと固定した。
幸い、この措置が功を奏して、その後、ゴールをするまで踝の痛みに悩まされることはなかった。

三島池を出てからは、20km地点の長尾公民館、25km地点のプラザふくらの森と、ほぼ5km毎にチェックポイントが続き、プラザふくらの森で昼食休憩となる。
概ね時速5㎞の速さで歩いてきているから、1時間に1回、チェックポイントを通過する勘定である。
昼食休憩のプラザふくらの森まで行けば、40kmの行程の半分を越えることになる。後半の道程の大半は、過去に訪れたことがある既知のエリアでもある。まず私は、プラザふくらの森を当面の目標地点として定めて歩き続けることにした。
この間は、さしたる見所もなく、主要街道にしてはジグザグと曲がり角の多い道を歩いて行くことになる。
歩き始めてから3時間余りが過ぎた頃、一面に拡がる畑の一角に色とりどりのコスモスが咲き乱れている場所があった。休耕田を利用して観賞用のコスモスを栽培しているのだろうか?
すでに冬枯れしている周囲の景色のなかで、心のオアシスに遭遇したような安堵感と清涼感とを覚えた。
そしてよく目を凝らして見てみると、コスモス畑のはるか遠方、目前の山々の連なりが切れたその向こう側に、見慣れた三角形の頂をもつ山が見えているではないか。
小谷山に違いない。
私の心は高まった。小谷山が見えてくれば、もう安心だ。
ここまでずっと、私にとっては初めて歩く道であり、実際に自分がどの辺りを歩いているのかが正確にはわからないまま、ひたすら歩き続けていた。
知らない道を歩くというのは不安が大きいものだ。一方で新しい発見をもたらしてもくれるが、自分の現在位置が見えないということは、やはり歩いていて相当なストレスになっていた。
見覚えのある山が見える場所まで歩を進めてきて、やっと安堵の気持ちが湧いてきた。
私にとって今日の40kmの行程は、前半が未知の道程であり、後半は既知の領域を歩くことになる。
そういう意味では、疲労が蓄積されるであろう後半に知っている地域を歩くというのは、心強いと思った。
知っていると言っても、点でしか知らないので、点と点とを結ぶ線を自分の足で歩くというのも、今回のウォーキングにおける私の密かな楽しみの一つであった。

安堵の思いで昼食休憩となる。
係の人からおにぎりと暖かい豚汁を受け取り、敷かれた茣蓙の上に腰を降ろした途端、身体中の力が抜けて、暫く立ち上がることが出来なかった。
まだ行程の半分を少し越えたばかりだというのに、無意識のうちに相当無理をして歩いていたということだろうか?改めて40kmという距離の長さを実感した。
空腹を満たし、豚汁で身体が暖まった私は、渾身の力で立ち上がり、再び北国脇往還を歩き始めた。
北国脇往還は、江戸時代には越前の松平家や加賀の前田家をはじめ越前方面から江戸を目指す大名たちが参勤交代の道として使った道でもあった。
前にも書いた通り、この街道がショートカットになっているのである。別名を「越前道」とも呼ばれた所以である。
「ふくら」の森と呼ばれるこの辺り一帯は、当時は鬱蒼と木々が茂り、昼間でも薄暗くて寂しい土地であったという。
狐や狸が出て、追い剥ぎが出没した恐ろしい場所であったようだ。
一種の難所である。
無事にふくらの森を通過した福井の殿様が、奥方様に道中の無事を安堵する知らせを早飛脚で送ったとも言われている。
近くを流れる草野川には橋が掛けられていなかったそうだから、さぞかし難儀を極めた道中だったのだろう。
当時の面影を僅かばかり残す疎林の脇をすり抜け、国道365号線を西側に渡ると、そこから暫くはよく整備された細い道に入る。
当時の街道はこのくらいの道幅だったのだろうと想像させるような狭い幅の道の左右には趣のある家が建ち並び、独特の雰囲気を醸し出している地域だ。
まっすぐな一本道ではなく、右に折れたり左に曲がったりして小刻みに道が屈折しているのが、かえって昔の街道の面影をよく残しているように思える。
さすがに旅人が道に迷いやすかったからなのだろう。曲がり角には道案内のための石の道標が置かれている。

左 江戸道
右 越前道

この辺りに遺る道標のなかでは最も古いと言われている石柱には、このように刻まれていた。
この道が、越前と江戸とにつながっていることを実感させる道標だ。

もう少し行くと、実宰院がある。
実宰院は、小谷城落城の際、城を逃れたお市の方と茶々•初•江の三姉妹が匿われたとの伝説が残る曹洞宗の寺である。
浅井長政の姉に当たる昌安(しょうあん)見久尼(けんきゅうに)が庵主を務めていた。
見久尼は身長180cmの大柄の女性で、信長方の追っ手が庵を訪れ長政の残党改めをした際、幼い3人の姫たちを白い袈裟の中に隠して難を逃れたと言い伝えられている。
本堂には、淀殿が寄進したという見久尼の像が祀られている。なるほど、大女だったとの逸話のとおり、かなり太めの像である。
一般には、お市の方と三姉妹は信長軍に保護されて、清洲城や岐阜城などに移されて信長の支配下に置かれたとされている。
しかし地元には、このような興味深い伝説が残されているのである。
この説を裏付けるものが、さらに実宰院には保管されている。秀吉の朱印状などの書状である。
どこにでもありそうな地方のこの小さな寺に、どうして秀吉の朱印状があるのか?
その背後には、秀吉の側室となった淀殿の存在が見え隠れしている。
幼き日の自分が見久尼に匿われて過ごした寺だから、淀殿は秀吉に頼んで特別に篤く遇したと考えることは少しも不思議ではない。
せっかく実宰院を訪れたのだから、本堂に上がらせていただいて見久尼の像を拝みたかったのだが、本堂の戸は閉められたままだった。
本堂前でゼッケン番号のチェックを受けただけで、私は実宰院を後にしなければならなかった。

DSCF3877

実宰院を出た後は、小谷城へと向かう道となる。
目の前に均整の取れた小谷山が聳えて見える。
プラザふくらの森の手前あたりから、常に私の意識を引きつけてきたのは、小谷山の端正な山容である。
富士山のように際立って均整の取れた形をしているわけではないが、周囲の山々のなかで頭ひとつ抜きん出た高さと三角形の山頂の形とで、私は小谷山を正確に見分けることができる。
いよいよ私は、小谷城の城下町へと足を踏み入れるのである。
小谷山の手前にある集落が、伊部である。伊部には、伊部本陣と呼ばれる本陣があった。
今でも古くて立派な造りの住宅が多く、独特の上品な雰囲気を醸し出している。
街の途中で道が90度左に曲がっているのは、城下町特有の敵が来襲した際の防御のためのものなのであろうか。
小谷城の城下町のことは、章を改めて書くので、今日はさらりと歩いて過ごすことにする。
というか実際に、私の足は相当程度限界に近づいていた。歩き始めに痛めた踝(くるぶし)はその後問題を起こしていないが、太ももやふくらはぎなど、足全体の筋肉が疲労で痛みを感じている。
あと10kmくらいなのだが、最初の10kmと最後の10kmとではこんなにも違うものなのかと思った。もう寄り道をしようなどという気持ちも起こらずに、ただひたすらゴールの木之本に着きたいという思いばかりで、急に重くなってしまった足を引きずっていた。
見慣れた小谷城への登り口を今日は素通りする。そして、郡上の集落へと歩を進めた。
この集落も、伊部と同じような古くて立派な家が建ち並ぶ雰囲気のある街並みだ。
そして、集落の真ん中で道が左へと曲がり、さらにすぐ右へと曲がっている。小谷城直下の城下町として、防御が意識された町割りを感じる。
小谷城が落城した後は、秀吉がこの城を与えられ城主となったが、秀吉は1年もしないうちに小谷城に見切りをつけ、当時は今浜と呼ばれていた今の長浜に新たに城を造って移ってしまった。
その際に、伊部や郡上などの住人を引き連れて街ごと長浜に移転してしまったから、しばらくこの辺りの街は脱け殻のようになっていたことだろう。
その後、400年の時を経ていぶし銀のような鈍いが確かな輝きをもった街並みとして、新たな輝きを放っているのが、今の伊部や郡上の町並みである。

郡上を過ぎると左手前方に、ちょっと小高い丘のような小山が見えてくる。
丁野城があった岡山だ。
丁野と書いて、「ようの」と読む。知らなければ絶対に読めない地名である。
丁野のことも後の章で書くので詳しくは触れないが、丁野城の麓の辺りが浅井氏三代発祥の地だと言われている。
この岡山を左手に見ながら進むと、山の形が少しずつ変わって見えることに気付いた。
車に乗っていると気付かないことだが、一つのことに着目しながら歩いていくと、見る角度によって不思議な発見ができるものだと思った。
道は、川を渡る。
高時川だ。
姉川に対して、妹川の別名がある美しい川である。渡り切ったところで右折し、しばらくは川沿いの土手道を歩いて行く。
この堤には桜の木が植えられていて、春の季節になると見事な桜のトンネルになる。
いつだったか、そんな桜が満開だった時に訪れたことなどを思い浮かべ感慨に浸りながらの道中となった。
しかしながら今は桜とは程遠い秋から冬に向かう季節である。落葉し殺風景で単調な道を、ひたすら歩いて行く。
ふと見ると、左手に見慣れた景色が目に映った。そしてその視線の向こう側に小さく寺の建物が見える。
間違いない。国宝の十一面観音像がある渡岸寺観音堂の建物だ。
普通の状態なら当然、寄り道をして観音像の尊顔を拝するところだが、なにしろもう足が言うことを聞かない。
今はただひたすら、ゴールに辿り着くことだけを願っている。
25kmを過ぎてから急速に足腰に疲労がきた感じだ。40kmという道程がこんなにも遠くて苦しいものだとは思っていなかった。ただ、こういう苦しい体験ができたことも、今回のウォーキングに参加した成果の一つだと思っている。
今と違い、昔の人は歩くことがほとんど唯一の移動手段であったから、歩くことに対する耐性が比べものにならないくらいに強かったものと想像される。
それにしても、40kmに到達するはるか以前から足腰が危機的状況に陥ってしまったことに、我ながら少なからぬショックを受けた。

そのまま高時川の堤防を歩いて行くと、やがて一つの集落の入口が見えてきた。
見覚えのある風景だ。
さらに、見覚えのある石碑が目に映る。

湖北の村からアジアが見える。

初めてこの石碑を見た時は、真の意味はわからなかったものの、スケールの大きいフレーズに驚嘆したものだった。
小さな湖北地方の一集落から、どうしてアジアが見えるのか?
雨森芳洲という、この地が生んだ偉大な人物のことを深く知らないと、この言葉の大きさと奥深さとはわからない。
雨森芳洲は、寛文8年(1668)にここ雨森の集落で生まれた。
雨森一族の歴史を話すとなると、少ない紙面ではとても書ききれない。ここでは、雨森氏がかつては浅井氏を支えた名門一族で、その後、浅井氏滅亡の後に辛酸をなめ、芳洲の父の代になってようやく、故郷である雨森に戻ってきたことを記すに止めたい。
医者だった父の下で芳洲は、幼い頃から漢文の書籍に親しんだ。当時の医学は漢方であり、医学を学ぶことは即ち、漢文を学ぶことでもあったのだ。
やがて芳洲は江戸に出て、木下順庵に師事して頭角を現す。同門には新井白石がおり、詩は白石、文は芳洲と並び称される存在となる。
順庵の推薦を受け、芳洲は対馬藩に仕官し、朝鮮方佐役(さやく)として朝鮮との外交の最前線に立たされることになる。
芳洲は、朝鮮の人との交流を円滑に行うために朝鮮語会話を学び、彼らの考え方を理解できるように朝鮮の歴史や文化をも積極的に学んだ。
こうした苦労が歴史の表舞台に現れたのが、2度にわたる朝鮮通信使への同行だった。
現場のことを知らない幕府のお偉方の身勝手な要求に、芳洲は身命を賭して戦った。
しかも戦った相手というのが、事もあろうか新井白石だったりもした。白石は、たまたま仕官した甲府藩の徳川綱豊が6代将軍(家宣)に就任したことから、揺るぎない権勢を振るえる立場にあったのだ。
片や、日本の果ての小藩の一役人に過ぎない芳洲は、無力感に苛まれる。泣く泣く白石の理不尽な要求に従いながらも、なお朝鮮との友好を心から願った芳洲の良心は、日本と朝鮮との架け橋となった。
誠心交隣。
芳洲の思想を一言で表そうとすれば、この言葉に尽きるだろう。
少ない紙面ではとても芳洲の偉大さを表しきれないが、私が尊敬してやまない人物である。
その芳洲の旧家跡に建てられた芳洲庵が、この日の最後のチェックポイントであった。
もう立っているのが精一杯だった私は、芳洲庵の中に入ることも断念して、ゴールの木之本へと向かった。

雨森から木之本まではあと4kmだった。40kmの道程の10分の9を歩き終えて、残りは僅か4kmである。
計算のうえではそうなのだが、最後の4kmのなんと辛かったことか。
雨森を出てすぐに、井口の集落となる。井口も、浅井氏の重臣であった井口弾正の本拠地であった集落だ。井口氏の菩提寺である理覚院の前を通る。かつて、観音像を観に訪れたことがある寺だ。
足が痛くなければ当然に立ち寄っていくところだが、今日は仕方がなく素通りである。
そこからしばらくは、ほとんど夢うつつの状態で、ひたすら木之本を目指して歩き続けた。
かつて訪れたことがある北国街道と北国脇往還との分岐点まで辿り着いて、ホッと安堵した。
木之本宿は、越前国方面から来ると、京方面に向かう北国街道と、美濃国方面に向かう北国脇往還との分岐点として栄えた宿場町である。
往時は道の真ん中に堀割が流れ、旅人が休むための大きな一本の木が植えられていたという。木之本宿の名前の由来であろうか。
沿道には、かつての本陣(現在は薬屋になっている)のほか、造り酒屋や醤油屋などの古い建造物が軒を連ね、往時の宿場町の風情を今によく残している。
また今回のウォーキングのゴールにもなっている浄信寺は、別名を木之本地蔵とも呼ばれ、本尊である地蔵菩薩像が眼病に霊験あらたかであるとして、多くの人々からの信仰を集めている。
街の様子をゆっくり眺めている心の余裕はなかった。とにかく、一刻も早くゴールに到着したいとの一心で、最後のメインストリートを歩いた。
やがて、木之本地蔵尊の石垣が見えてきた。私は石段を登って、最後のチェックポイントでゼッケンのチェックを受けた。
全体で見れば、3分の2くらいの人がすでにゴールインしていたのではないだろうか。
スピードを競うものではないと言いながら、順番を気にしている自分が不甲斐なかった。
昼食休憩の時間も入れて、8時間弱の行程だった。時速にして5kmを僅かに上回る速度は、私にしてはそれほど悪くないスピードだと思った。
生姜がたっぷり入った甘酒を振舞われてベンチに坐ったら、しばらく動くことが出来なかった。
秋の一日は早い。既に陽が暮れかけていて、寒気が身に沁みた。
40kmを完歩したものの、達成感からは程遠い気持ちだった。もっと歩けるものと思っていたし、もっと寄り道をしたかったのにできなかった。
それでも、歴史上名高い北国脇往還の全長を自分の足で歩けたことは、私にとって何よりもうれしいことだった。
秀吉も芭蕉も通った道である。
私は痛い足を引き摺りながら、JR北陸本線木ノ本駅を目指して、下り坂となる道を歩いて行った。
来年ももしこの催しがあるのなら、今度はもっと訓練を積んで、しっかりとした足取りで完歩できるよう精進したいと思った。

最後に、若干の説明が必要である。
文中でも少し触れたけれど、今回私が三姉妹街道ウォークで歩いた道は、かつての北国脇往還そのものとは若干異なる箇所がある。
実際の脇往還は、一部で林道を通ったり、あるいは道が失われている箇所があったりするようである。
おそらくは、多数の人が参加するウォーキング大会であるから、一部の区間を歩きやすい道に変えて大会運営に当たられたということなのだろう。
特に関ヶ原を出てからしばらくの道は、柏原宿まで中山道に沿って西に行くルートを歩いたが、実際の北国脇往還は関ヶ原からすぐに北西に向かい、伊吹山の山裾ぎりぎりを通って、玉、藤川、春照(すいじょう)、野村と宿場町を通過していくコースだったものと思われる。
いずれその道も歩いてみたいと思っているが、反対に本来の北国脇往還を歩いていたら、今須宿や柏原宿、それに寝物語の里などは見られなかった。
ものは考えようである。そんな細かいところに拘泥しないで、関ヶ原から木之本までの40kmの全行程を自分の足で歩いたということに、私は満足している。
(1) 草の戸も 住み替はる代(よ)ぞ 雛の家