海北友松

OLYMPUS DIGITAL CAMERA海北(かいほう)友松も、湖北が生んだ偉大な人物であり「五先賢」のうちの一人である。

前著『湖北残照 文化篇』のなかで私は、浅井氏の重臣として「浅井家海雨赤の三傑」という言葉を紹介した(「雨森芳洲」の章)。
「海」とは海北氏、「雨」とは雨森氏、「赤」とは赤尾氏のことである。
いずれも浅井氏を支えた強力な家臣団で、三家とも浅井氏滅亡の時に長政・久政と運命を共にしている。落城直前に信長方に寝返った阿閉(あつじ)氏や大野木氏などとは異なり、一族の命運をかけて浅井氏を盛り立て、そして散っていった名門一族である。
寝返った一族の結末もけっして幸せなものではなかったが、小谷山で滅亡した一族の末路はさらに辛酸を極めたものとなった。
雨森氏のその後については前著で詳しく紹介した。当時72騎と言われた一族の大半は討ち死にし、残された者たちも雨森の地を追われ辛酸を味わった。
赤尾氏は信長直々の助命により嫡男(清冬)の命は助けられ宮部氏(継潤)に仕えることとなったものの、その宮部氏が関ヶ原の合戦で西軍について所領を没収されたため、清冬の子の清正は京極高次に主を変えざるを得なかった。
浅井氏の遺臣たちは誰もが、生き残ることに汲々とした時を過ごしていた。
海北氏の当時の当主は綱親(つなちか)(永正7年(1510)- 天正元年(1573))である。
綱親は浅井氏の軍(いくさ)奉行を務め、天正元年の織田信長による小谷城攻撃の際にも、織田方の兵士たちを大いに悩ます存在であった。知勇兼備の猛将であり、敵方であるかの秀吉をして「我が兵法の師」とまで言わしめた傑物だった。今風に言えば、黒田官兵衛ばりの長政の軍師だったと言ってもいいかもしれない。
当然のごとく最後まで小谷城に籠り、浅井氏と運命を共にしている。
海北氏は、小谷城の南東に位置する瓜生(うりゅう)(現長浜市瓜生町)の地を本貫地としていた。先に「もう一度、小谷城址」で紹介した本宮の岩屋を望む波久奴(はくぬ)神社のすぐ南側が瓜生である。
そんな海北氏に変わり種の才能が生まれた。綱親の五男(三男との説もあり)として誕生した海北友松である。
友松は、天文2年(1533)に東浅井郡田根村(現長浜市瓜生町)で生まれた(一説には坂田(現米原市)で生まれたとの説もある)。幼少期の友松のことは、よくわからない。幼くして仏門に入り、京の東福寺で禅の修業に励んだと言われている。
友松の幼少期については記録が遺されていない。ほとんど唯一存在している資料が、友松の孫にあたる海北友竹が「海北友松夫婦像」の賛として書いた友松伝である。
孫が書いたのだから間違いないという見方もできるが、自らの先祖のことであるので多分に美化して書かれているであろうことは否定できず、どこまでの信憑性を持つ史料であるかについては評価が分かれるところである。しかし他に根拠となるべき文献が見当たらないので、この像賛を基本にして友松の幼少期を推測していく以外に手段がない。

及平信長公亡長政、海北氏父兄皆戦死場中。然従居士髫年時、喝食於東福寺、随侍和
尚、因得免焉、性善画図、和尚使狩野法眼永仙為之師而伝其術、永仙歎曰、箇児自尓
有梁楷之妙手、余何及乎、後必顕名乎。

この像賛によると、友松は幼い子供の頃から東福寺で喝食(かつじき)をしていたために一族滅亡から免れたと書かれている。
喝食とは『広辞苑第六版』によると、「禅家で、大衆(たいしゅ)誦経の後、大衆に食事を大声で知らせる役僧。後には有髪の少年が勤め、稚児(ちご)とも称した。」とある。ここでは、寺の雑事に従事する若い修行僧くらいの意味合いだろうか。
髫(ちょう)年時とは、幼い子供の頃の意である。友松が東福寺に入った時期については、この像賛にあるように幼少時という説のほか、青年期、一族滅亡時(天正元年(1573))など諸説が語られている。
像賛では、狩野法眼(元信)に絵を師事したとされている。そして元信をして「箇児自ら梁楷(りょうかい)の妙手あり、余何ぞ及ばんや、後に必ず名を顕(あらわ)さん」と言わしめている。梁楷とは南宋の画人で、日本の水墨画に大きな影響を与えた人物である。その梁楷の技法を身に付けていると褒め上げているのだ。

海北氏のほとんどが天正元年(1573)の信長による小谷城攻めの際に滅んだのに友松が生き永らえることができたのは、友松が海北綱親の末子であったが故に仏門に帰依していたからという説明はある程度頷けるものである。
戦乱の世にあった当時は、一歩間違えば一族が全滅する事態となることも想定しておかなければならなかった。一族の菩提を弔うためには誰かが僧籍に入っておく必要があったのだ。末子であった友松が寺に預けられたということは、十分あり得たことではないかと思われる。
友松の幼年期のことが記録にないのは、海北氏が信長により滅ぼされた一族であったからだと思う。小谷城落城とともに瓜生の集落も焼かれ、海北氏の館も所蔵されていた文書(もんじょ)類ともども、ことごとく灰燼に帰してしまったのではないだろうか。
歴史は勝者が作るものであり、敗者の言葉は歴史に残らない。
海北氏の歴史は、小谷城落城とともに忽然とこの世から消えていったのだろう。
友松が幼い時から修行に出された寺は、先にも触れた京の東福寺であると言われている。
慧日(えにち)山東福寺は臨済宗東福寺派の大本山で、摂政九条道家が奈良の東大寺にも興福寺にも負けない立派な寺を京に作るとの意図で、嘉禎2年 (1236)から建長7年(1255)まで実に19年間もの歳月をかけて建立した寺である。
東大寺の「東」と興福寺の「福」の字を取り、「東福」寺と命名したという。
京都駅の南東に位置し、今では紅葉の名所として知られている寺である。方丈と開山堂との間に深い谷があり、その谷を渡るために通天橋という回廊付きの橋が渡されている。その通天橋から見降ろす一面の紅葉は圧巻で、私の大好きな秋の京都の風景である。
また、方丈には近代日本を代表する作庭家である重森三玲さんが昭和14年(1939)に造った庭園群が築かれている。
八海の荒れ狂う海を表わした南面の八相の庭、西面の大きな市松模様の庭、北面の小さな市松模様の庭、東面の北斗七星の庭と、どれも斬新で独創的な発想で造られている秀逸な庭ばかりだ。
私は北面の苔と四角い石とを交互に並べて築かれた小さな市松模様の庭が大好きで、東福寺を訪れる際には必ず方丈の庭を拝見するようにしている。古い伝統のある寺に、斬新な昭和の技術と発想とを採り入れようとした東福寺の勇気に頭が下がる思いである。また、寺のその心意気に見事に応えきった重森三玲さんの才能にもただ驚愕するばかりである。
私にとってはそんなことで非常に身近な寺であるのだが、もちろん友松が入った時の東福寺には重森三玲さんの方丈の庭はまだ影も形もない。
友松はこの東福寺で、狩野元信(文明8年(1476)? – 永禄2年(1559))から絵画の手ほどきを受けたと言われていることは先に書いた。一説には、その孫の狩野永徳(天文12年(1543)- 天正18年(1590))に師事したとの説もある。
残念ながら東福寺には狩野元信や永徳の作品は残されていないので、彼らがどのように東福寺と関わり、その過程で友松が彼らからどのように絵画の技術を学んだかは、わからない。
当時の狩野派は飛ぶ鳥を落とさんばかりの活躍で、織田信長や豊臣秀吉など時の権力者は言うに及ばず、天皇家や有力寺院などから引く手数多(あまた)の注文を受けていたから、おそらくは、東福寺もそのような注文主の一つとして狩野派と浅からぬ関係を構築していたであろうことが想像される。
ただし惜しむらくは、現在にその作品が伝わっていないことである。
京の街は応仁の乱以来、戦乱に巻き込まれるかたちで多くの寺院の建物が焼失してしまっており、東福寺もまたその例外ではなかったから、古いものがあまり残されていない。焼かれずに残っていれば、この東福寺でも、私たちは元信や永徳の見事な障壁画を見ることができたかもしれない。
しかしその場合には、今ある重森三玲さんの庭は造られなかっただろう。古いものが残されていなかったからこそ、新しいものを採り入れる発想がここに生まれたのだと思う。二つの幸運は同時に成り立たないということだ。
私が知る限りで唯一、東福寺と狩野派との関係が確認できるのは、天正18年(1590)に狩野永徳が東福寺法堂の天井に龍の絵を描く仕事を受注したという事実である。
しかし永徳は、この絵を描いている最中に病を得、9月14日に亡くなってしまった。一説には過労死だったとも言われている。永徳は命の最後の炎を燃やして東福寺の天井画に挑んだのだが、残念ながら志を全うさせることができないまま、この世を去ってしまった。
永徳の最後の仕事が東福寺の天井画であったということが、この寺と狩野派との並々ならぬ因縁の所在を感じさせてくれる。
描きかけだった龍図は、永徳の遺志を継いで狩野山楽が完成させたと言われているが、残念ながらこの絵も今には伝わっていない。
ただし、永徳が東福寺で龍の天井画を描いていた天正18年には友松はすでに58歳になっていたから、幼少期に絵の手ほどきを受けていた時代とは重ならない。
そもそも、東福寺には友松が寺に入っていたという記録が何も残されていないので、詳細はよくわからないのだ。当時東福寺を舞台として活躍していた僧侶たちの日記類にも友松の名前はない。
いずれにしても、詳細はよくわからないものの、幼くして東福寺に入った友松は、狩野派の絵師たちから絵の描き方を伝授されたというのが通説となっている。
東福寺の修行僧の誰もが狩野派から絵を教えられたわけではないであろうから、友松は小さい頃から傑出した絵画の才能を顕していて、芸術家集団であった狩野派の絵師たちがその才能を誤(あやま)たずに見出したということなのではないかと私は思っている。
自分の涙で仏堂の床に鼠の絵を描いたとの逸話が残る雪舟の事例があるように、禅寺には絵画に関する文化が伝統的に存在していたのかもしれない。
なお、先にも少し触れたが、友松が東福寺に入った時期を天正元年(1573)の小谷城落城の時と考える説もある。
父・綱親の命により、友松は瑠璃光山珀清寺(はくしょうじ)という寺で剃髪し、雲水の姿となって城下を離れ東福寺に至ったとの説である。
珀清寺は、友松の出身地とされる瓜生にある真宗大谷派の寺だ。阿弥陀如来を本尊とし、友松直筆の屏風絵が遺されているという。住職も、海北姓である。
その説によると友松が仏門に入ったのは41歳であり、いくら遅咲きの花と言っても遅きに失しているとの観を免れない。また珀清寺の歴史も、寛永5年(1628)の創建と言われていることから、小谷城落城よりも後の時代のことになる。
矛盾点や不自然なことも多いので、私は幼くして東福寺に入門したとの説に与(くみ)することとしたい。

友松にとって大きな転機となったのが、小谷城落城と海北氏の滅亡である。
たとえ寺に入り出家の身となっていようとも、友松の身中には脈々と続く武士の血が流れていた。父や兄弟が戦死し一族が滅亡してしまうという非常事態となったからには、ただ一人残された身として海北氏の再興を成し遂げなければならない。強いプレッシャーが友松の心を押し潰そうとしたに違いない。
深い悲しみのなかで、友松は海北氏再興のために還俗した。
東福寺を離れ、得意の絵を描く傍らで、剣術、馬術、弓術などの武芸修得に励んだ。幼くして凡そ武家とは対極の世界にある僧門に身を置いた友松ではあるが、後に触れるように「海北友松夫婦像」の像賛によると、友松は画業修得の傍らで弓馬の術についても怠らずに研鑚に励んでいたようである。
やはり血は争えないということだろう。友松は武将としての才能をしっかりとその身中に擁していたのだ。武道における友松の力量は、みるみるうちに開花していった。単に剣術が優れているとか弓の名手であるというような個の武芸に秀でているというだけでなく、明らかに将としての器を兼ね備えていたようである。
世が世なら、良き将として武名を馳せていたかもしれない。しかし惜しいかな、今は仕えるべき主もいなければ従う家臣もいない。一族滅亡ということの重みを、友松は痛いほどに思い知らされたことだろう。
友松に欠けていたもの、それは武将としての教養であり武家としてのネットワークであったのだが、それを補うために友松は、里村紹巴(じょうは)から連歌を習い、千利休や古田織部らと交わり茶の湯の道を極めていった。
また、明智光秀の重臣である斎藤利三(としみつ)や東福寺退耕庵(たいこうあん)の元庵主だった安国寺恵瓊(えけい)らとも親交を深めていった。
後に永徳の娘を娶り友(ゆう)徳(とく)と改名したと伝えられているが、狩野氏を名乗るようにとの永徳の命に対して頑なにこれを拒んだのは、友松の心中に海北氏再興という使命が固く宿っていたからであろう。
自身のことを想えば、永徳の娘婿となり狩野一族の棟梁の座を継ぐことになれば、これ以上の安泰はなかったはずである。そんなありがたい話を断ってまで海北姓に拘(こだわ)り続けた友松の気持ちはただ、痛いほどによくわかる。

こんな逸話が残されている。
天正10年(1582)の山崎の戦いにおいて羽柴秀吉に敗れた明智光秀の重臣で、かねてから友松と親交の厚かった斎藤利三が近江国の堅田で捕捉された。
本能寺で主君織田信長に謀叛を起こし山崎の戦いで秀吉と覇権を争った明智光秀の重臣であるから、勝者の秀吉にとっては天下の大罪人である。利三の身柄は京に送られ、六条河原で斬首された。
あるいは斬首でなく磔にされたとも言われている。
磔の方が次の話の展開がしやすくなるので、ここでは磔にされたとして話を進めていくこととしたい。
ある言い伝えによると、槍を携えて刑場に現れた友松は、呆気にとられただ眺めるばかりの役人たちを尻目に、利三の遺骸を奪って堂々と去っていったというのだ。
その時に友松と行動を共にしたのが茶人であり真如堂(真正極楽寺)の住職であった東陽坊(とうようぼう)長盛(ちょうせい)で、利三の遺骸は彼の寺であった真如堂に葬られた。
ちなみに友松自身の墓も、遺言により利三の墓のすぐ隣に設けられている。
友松らが刑場から利三の遺体を強奪したかどうかは別として、友松と利三、それに東陽坊長盛との強い結びつきが窺えるエピソードである。おそらく三人は、茶の湯を介して互いに親しい間柄になっていったのだろう。
大罪人の遺骸を奪い去り手厚く埋葬したのだから、累が我が身にも及ぶ危険が十分に想定できたはずだ。そういう損得勘定や自身の毀誉褒貶に囚われず、自分の信念に基づいて行動する性格が友松を支配していたことがわかる。
そしてまたこの話は、友松が単なる絵描きではなく、武士としての精神と能力の一面を持ち合わせていたことをも物語っている。
この時に友松が命をかけて取った行動が、後に友松の子の友雪に幸いをもたらすことになるのだから、世の中はどこで何がつながっているかわからないものである。
実は、斎藤利三の娘のお福こそが、かの有名な春日局なのだ。
友松は、利三が刑死した後も、遺児となったお福らを手厚く養護していた。もちろん、その時にはお福が春日局として大奥を牛耳る存在になることなど夢にも思っていなかっただろうから、何かの見返りを期待するものではなく、純粋に利三の遺児を保護しようとしていたに過ぎない。
時が経ち立場が逆転した両者の関係により、友松の子の友雪は絵の注文を回してもらったり褒賞を受けたりして春日局からの援助を受けている。

武士になり海北氏を再興することこそが友松の望みであり宿命であったのだが、人生とはなかなか本人の意思通りにはならないものだ。
文禄2年(1593)に友松は、天下人となった秀吉の側近である施薬院全宗が招いた茶会で秀吉と席を同じくした。かねてから友松の画才を高く評価していた秀吉は、その席上で武士になる夢を捨てて絵師として生きることを友松に命じたのである。
秀吉にそう言われてしまっては抗うことができない。友松は心のなかで泣きながら、秀吉の言に従った。
天下統一が成り秀吉が支配する太平の世になった今は、もはや武士が武芸を以て活躍する時代ではない。そのことを誰よりもよく知っていた秀吉が、友松の真の才能を活かす手段として、改めて絵師となる道を定めようとしたのではないだろうか。
百姓上がりの秀吉が、武家の出である友松が武士に戻ることを断念させるという、奇妙な逆転現象となってしまっているが、結果的に私たちは秀吉の慧眼を認めざるを得ない。
海北氏と同様に小谷城落城の時に浅井氏と運命を共にした雨森氏が、結局は武門再興ならずに医者や儒者としての道を選択せざるを得なかったように、戦乱の世ならまだしも、平和が確立した世の中でお家再興を成し遂げることがいかに難しいことであったかを理解することができるだろう。
友松が秀吉の命に応じずに武士であることに拘ったとしたら、友松も海北氏も、歴史にその名を残すことは難しかったのではないだろうか。
友松は泣く泣く武士に戻ることを断念し、絵師に専念する道を選択した。

友松の武士への強い拘りの気持ちを表している言葉が、先に紹介した「海北友松夫婦像」の像賛に表されている。

及長果鳴其芸也。然居士不敢欲専其芸、志在武運、務学弓馬。

また、

嘗曰、余是江源嫡流、誤落芸家、顧乗時運而起武門、続父祖志以伝子孫耳。

とも記載されている。
前者の言葉は、師の狩野元信からの、私(元信)でさえ友松の絵には及ばない、友松はこれからきっと高い名声を得るだろうとの賛辞に続く言葉である。
東福寺で絵の修業中の身であっても芸のことに専念しようとはしないで、友松の志は常に武門にあり、学問や弓馬の術を追究していたことが記載されている。
また後者は、刑死した斎藤利三の遺骸を強奪し東陽坊長盛とともに真如堂に埋葬した後の言葉である。
海北氏は名門近江源氏の嫡流の流れを汲む一族であり、たとえ今自分は落ちぶれて芸術家としての道に身を置いているけれど、時が廻り来れば時運に乗じて武門再興を果たし、きっと父祖の志を子孫に伝える思いであるとの決意が漲っている。
このような武士への拘りが、友松の作風に色濃く影響を与えていたであろうことは想像に難くない。
いよいよ私たちはこれから、この章の核心部分である友松の作品の世界に足を踏み入れていくこととしたい。

友松は晩成の画家であった。若い頃の行跡もよくわかっていないくらいだから、若き日の絵は遺されていない。あるいは遺されていたとしても、それの絵が友松の作品だと判断することが難しい。
友松の絵として認められるもののなかで最も古い部類に属するものが、慶長4年(1599)に制作された建仁寺本坊方丈の襖絵であろう。
建仁寺は度々兵火に遭い焼失しているが、現在の方丈は安国寺恵瓊の尽力により慶長年間に再建されたものである。この時に、かねてから恵瓊と親交の厚かった友松が襖絵の製作を依頼されたものと考えられる。
建仁寺は、臨済宗建仁寺派の大本山で、建仁2年(1202)に鎌倉幕府第二代将軍の源頼家の寄進により栄西が開山した、京都で最古の禅寺である。
その由緒ある建仁寺で全50面という膨大な数の襖絵の製作を友松が一人で請け負ったのだから、その作業量の大きさにまず驚かされる。しかも、後に詳述するが、どの襖絵も秀逸なものばかりであることに更に驚かされる。
いくら仲がいいからと言って、それだけの理由で恵瓊が友松に50面もの襖絵の製作を依頼したとは考えられない。先に紹介したように、秀吉から絵師になることを命じられた茶会が文禄2年(1593)のことであるから、作品は今に残っていないものの、少なくともその頃までにはすでに、友松の絵師としての評価が定まっていたものと考えていいかもしれない。
友松の絵を見たい。
まずは取るものもとりあえず、私は建仁寺に向かった。

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京の花街の面影を今に残す祇園の花見小路を南に歩いて行くと、突き当りが建仁寺である。まさに繁華街の真ん中にぽっかりと存在する空間に建仁寺がある。
門前に掲げられている「海北友松筆 雲竜図 ―特別公開中-」と書かれたポスターが私の目を射る。心が逸る。無意識のうちに速足になっている私は、まっすぐに方丈を目指した。
方丈に入って最初に私を迎えてくれたのが、ポスターに描かれていた雲竜図である。
左右四面ずつ、計八面の襖に一つがいの龍が大迫力で描かれている。

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右側の四面が、口を開いて今にも飛びかかって来そうな勢いの阿形(あぎょう)の龍だ。長い2本の髭が波を打ちながら後方に棚引き、開(ひら)いた口からは長い舌が無気味に伸びている。ぎょろりとした丸い目には激しい怒りが籠められ、針金のような長い眉毛が目の上で枝分かれしながら伸びている。
雲の中の龍なので雲龍と言うのだろう。胴体は渦巻く雲に隠れて全貌を現さない。どれだけの大きさがあるのか測り知れない。墨の濃淡の使い方が巧みで、得も言われぬ幻想的な世界を見事に描き上げている。
左側の四面は、顔をこちら側に向けて睨みながら蹲(うずくま)る吽形(うんぎょう)の龍だ。
阿形の龍が動的であるのに対し、吽形の龍は対照的に静的に見える。しかしぎょろりとこちらを睨む目は威嚇的で、容易に人を近づけない厳しさをもっている。
同じく胴体は雲の中に隠れているが、雲間から覗く3つ指の手が今にもこちらに向かって伸びてきそうな無気味さで私の目を釘付けにする。
とても言葉では言い表すことができない迫力に、私はただただひれ伏すしかなかった。
難しい龍という題材をこれほどまでに見事に描き切っている友松の力量を私はいきなり見せつけられて、心が圧倒された。

次に私を迎えてくれたのは、「竹林七賢図」である。
竹林七賢とは、寺の説明書きによると、以下のとおりとなる。

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中国の魏晋の時代(3世紀半ば)国難を避け、竹林の中に入り、酒を飲み、楽を奏で、
清談(俗世から超越した談論)にふける七人の賢者のこと。当時の権力者である司馬一
族による礼教政治(言論の自由が許されない)を批判していたといわれ、その自由奔放
な言動が後世の人々から敬愛されたと伝わる。

迫力ある雲龍図から一転して、穏やかな人物図となる。
余白部分が多くごく簡単に描(か)かれた竹や松や岩などを背景に、隠遁地で暮らす賢人たちの姿が描(えが)かれている。
ある者は一人佇み、ある者は逍遥し、また二人で書面を覗き込み、あるいは話し込む賢人たちの姿だ。
どの人物も、ゆったりとした衣服の感覚を少ない筆数でさっと描き表わし、対照的に顔の部分は筆数を費やして詳細に描き上げている。
七賢人像と言うと、いわゆる隠遁生活を送り、自由気ままに悠悠自適の生活を送っている人たちの寛いだ姿を想像するが、友松が描く賢人たちの表情は総じて硬い。寺の説明書きに見られるような酒を飲み楽を奏でるという粋狂さはなく、世の中を真剣に愁えている様子が見て取れる。
物憂げな眼で歩く賢人の表情や、口をへの字に曲げて書面に見入る賢人たちの姿からは、少し陰気な印象さえ受ける。もしかしたら、賢人たちの表情が作り出す重苦しい雰囲気は、友松自身の心象だったのかもしれない。

龍図、人物画に続いて3番目の部屋は檀那の間と呼ばれる部屋で、ここには山水図8面が描かれている。

意図的に余白を活用した広い空間に拡がる幻想的な自然世界だ。

茫洋とした山の中腹から二(ふた)筋の瀑布が流れ落ち、山麓には楼閣が点在する。大きな自然の懐に抱かれた深い山の中の静かな光景がさりげない筆致で描かれている。
これといった特徴のない絵だが、ひたすら静かで大きくて、見ていると大らかな気持ちになり、心が落ち着く風景である。

4番目が、衣鉢の間と呼ばれる部屋に描かれた「琴棋(きんき)書画図」である。

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前3つの襖絵が水墨画であったのに対し、この琴棋書画図は淡い色彩で着色されている。
琴棋書画とは、琴と囲碁と書と絵画のことである。中国ではこの4つの技芸のことを「四芸(しげい)」と言って、高士が嗜む余技とされている。この琴棋書画図は、室町時代以降の日本で好んで描かれてきた画題である。
建仁寺の琴棋書画図は、画面の左右に大きなスペースを取り、中央寄りの5面の襖に、右側からそれぞれ、琴、書、囲碁、画に関係する人物を描いている。
絵の右側に、重そうに琴を肩に担いでやや前かがみになって歩む小柄な人の後姿が見える。ごつごつと突き出た岩やその岩に絡まるようにして生える木々を丁寧な筆致で描いている傍らで、人物は少ない筆数で簡潔に描かれている。
その左側には若者が読む書を松の木陰で聴聞している2人の老人の姿が見える。やや前かがみになり緊張した面持ちで書を音読する若者の表情と、それとは対照的に足を組みながら話に耳を傾ける老人たちのリラックスした姿が印象的だ。
書の左手の襖には、開け放たれた小部屋で囲碁に耽る人たちの姿が描かれている。
柱を隔てたさらに左側の襖には、これから絵を描こうとしているのだろうか、前がひらけた場所に立ち、振り返って絵画の道具を持つ従者に何かを話しかけている人物の姿が見られる。
淡いながら色彩が付けられているということも影響していると思うが、先の竹林七賢の図よりは明るく長閑な光景である。
友松は、狩野派の絵とも伝統的な水墨画とも異なる独自の画風で、建仁寺の襖を飾っていった。

最後の書院の間には、花鳥図が描かれている。

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小高く盛り上がった地面に、2本の松の幹が斜めに勢いよく伸びている。その松の根元で、今にも飛び立とうとして両足を地面に突っ張り、翼を拡げようとする瞬間の孔雀の姿が動的に描かれている。
動きのある迫力に満ちた絵だ。
2面の欠落した襖を挟んでその左側に続くもう4面の襖は、梅に叭々鳥図だ。
右側の2面は水辺の風景で、ほとんど何もない白い水の中に鴨が浮かんでいる。左の2面に梅の木が描かれ、変化に富んだ枝でひと番(つが)いの叭々鳥が羽を休めている。梅の花の香りが漂ってきそうな早春の長閑な風景である。

南面から時計回りに、私は方丈をぐるりと一周したことになる。いきなりの雲龍のド迫力に始まって、人物図があり、山水図があり、最後は花鳥図で締め括りとなった。
それぞれの絵に連関性はないけれど、一人の絵師がまとめて描いた絵であるので、友松の芸術性が重畳的に我が心に織り込まれていったような感動を覚えた。実に圧巻の光景だった。
私は鈍器で脳天を打たれたような衝撃を受けて建仁寺を後にした。
なお蛇足ながら、建仁寺の方丈近くには、友松の茶飲み友達であり斎藤利三の遺骸を強奪した共犯者でもある東陽坊長盛の茶室と、同じく友松との親交が深く建仁寺の襖絵の注文主でもあった安国寺恵瓊の首塚がある。
東陽坊の茶室は、北野大茶会において紙屋川の土手に建てられた副席として使用された茶室であり、秀吉に所縁の深い茶室である。

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恵瓊の首塚は、関ヶ原の合戦の後に徳川方に捕えられ六条河原で斬首された恵瓊の首を、恵瓊と所縁の深かった建仁寺の僧が持ち帰り、方丈裏に埋葬したものと伝えられている。

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実は、建仁寺で見られる友松の襖絵は、すべて複製画である。建仁寺の方丈は、昭和初期に飛来した大型台風により倒壊するという大惨事に遭っている。友松筆の襖絵はたまたま他の用事のために外されていて無事だったものの、それを機に襖絵を軸装に変えて今は京都国立博物館にて保管されている。
建仁寺は栄西禅師の没後800年となる平成26年を目指して「綴プロジェクト」と呼ばれるプロジェクトを立ち上げ、京都文化協会とキャノン株式会社とが共同で精密なデジタル画像により複製画を制作した。
現在建仁寺に置かれている襖絵は、現代の最高水準の技術で精密に複製されたレプリカである。レプリカであるものの、友松の作品のすばらしさは少しも色褪せることなく見るものをして心に感動を与えしめている。

これほどまでに卓越した技術を駆使し迫力に溢れた絵が忽然として世に現れたとは思えない。建仁寺の襖絵以前にも友松の作品はきっとあったはずだ。建仁寺の襖絵以前に友松はどんな絵を描いていたのだろうか?自然と湧いてくる興味である。
東京国立文化財研究所美術部研究員だった持丸(もちまる)一夫さん(大正8年(1919)- 昭和29年(1954))の著作(『建仁寺障壁画』(美術研究157号)昭和25年(1950))によると、建仁寺霊洞院襖絵、妙心寺花卉図、琴棋書画図、三酸・寒山拾得図、北野神社雲竜図などが建仁寺の襖絵以前に描かれた友松の作品であると論じられている。
ただし、妙心寺に伝わる花卉図、琴棋書画図、三酸・寒山拾得図は友松最晩年の作としている説もあり(武田恒夫著『日本の美術5 海北友松』)、学者の間でも大きく意見が異なっていることがわかる。
妙心寺の3作品はいずれも金碧屏風であり、一見には狩野派の屏風絵と見紛うばかりの鮮やかな金箔と色彩とが施された屏風図である。
建仁寺襖絵に見られるように水墨画に真骨頂を見せる友松であるが、狩野派の絵画を彷彿させる色使いの妙にも驚かされる。東福寺において元信または永徳から絵の手ほどきを受けたとの逸話もむべなるかなと思えてくる。
狩野派に絵画の技法を学びながら狩野派の枠に囚われず水墨画の技術にも長じていた友松は、すでにして建仁寺の襖絵製作以前から、まさに友松ワールドとでも呼ぶべき独自の境地を切り拓いていたのである。

友松の作品を見るのにもう一つ、うってつけの場所がある。それは、東京国立博物館である。
常に展示されているわけではないが、東京国立博物館の常設展(総合文化展)には、友松筆の「琴棋書画図」と「山水図」が比較的頻繁に展示されている。今日は友松の屏風図に逢えるだろうか?そんな想いを抱いて「東博(トーハク)」を訪れるのが、最近の私の一つの楽しみになっている。
重要文化財に指定されている琴棋書画図は、建仁寺のそれとは異なり着色されたものだ。しかも登場人物が男性ではなく唐美人であるところがたいへんに珍しい。

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右側の六曲の屏風には、画面の右端で軸装された絵を広げて見入る4人の女性の姿が華やかに描かれている。そして画面の中央やや左寄りに、大切そうに包みを押し抱いて歩む姿で描かれている童子の姿が碁石を表しているのだろう。唐美人の絵の中での囲碁の表現は難しい課題であったかもしれない。
左側の六曲屏風には、木に凭(もた)れて書を読む2人の女性とそれを聞いているのだろうか、右端で佇む2人の女性が、そして画面の左側には重そうに琴を運ぶ童子の姿が描かれている。
友松最晩年の作品とのことだが、しっとりと落ち着いていながら華やかな色使いが印象的で、早春の華やいだ雰囲気が伝わってくる。むしろ若々しいほどの友松の感覚を感じさせてくれる逸品だ。
もう一つは、いかにも友松らしい六曲の山水図屏風である。
画面の左手に幅の広い川がゆったりと流れている。その川から垂直に立ち上がるようにして画面右半分に険しい山が屹立している。川を隔てた左手奥には、もう一つの山が遠景として描かれている。
険しい山の中腹に見られる建造物は、塔が見えることから寺院であるのだろう。その寺を目指しているのか、川に面した崖に僅かに設けられた細い道を2人の人物が心細げにやや前傾の姿勢で歩む姿が見られる。小さな一場面だが、丹念な筆づかいが印象に残る。
この絵は、慶長7年(1602)に後陽成天皇の実弟にあたる八条宮智仁親王邸に友松が出向いて描いたことが、智仁親王の『親王日記』からわかる。
友松は、海北家再興という秘めたる想いもあり、意図的に戦国大名や高僧らとの交わりを求めていたが、当時の天皇家とも深い結びつきがあったことを物語るエピソードだ。
その後、八条宮家の後身にあたる桂宮家がこの絵を受け継ぎ、大正6年(1917)に御物から東京国立博物館に移管されたという氏素性が明確な作品である。

建仁寺の襖絵を中心にいくつかの友松の作品を見てきた。
友松は海北家の再興を死ぬまで願っていたという。武士としての矜持を生涯持ち続け、禅や茶や連歌の道にも深く通じた文化人でもあり、格調高く生きた友松の人生だった。
作風にも武人らしい精神の厳しさが前面に現れている。狩野永徳や長谷川等伯など同時代を生きた職人としての絵師たちとの決定的な違いである。
幽玄の境地や華やかな世界とは決別した精神世界を友松独特の筆づかいで描き上げている。空間を巧みに活かしたダイナミックな構図。中国の梁楷や室町時代の水墨画などの伝統的手法を基本に据えながら狩野派の新たな息吹きを採り入れ、そして友松独自の世界を構築していった。
巧みに描き分けられた墨の濃淡。風をはらんだように丸みを帯びた「袋人物」と呼ばれる独特な衣の表現。減筆法と呼ばれる大胆に簡略化された筆づかい。
高い精神性と確かな技術とで力量感溢れる作品を次々と描き上げていった。湖北が生んだ偉大な絵師として、私は海北友松という一人の人物を尊敬してやまない。
友松は慶長20年(1615)6月2日、83歳でこの世を去った。時はあたかも大坂夏の陣にて豊臣氏が滅亡してから1ヶ月と経たない時であった。
友松の死は、奇しくも豊臣氏の時代の終焉と一致している。前にも書いたとおり、友松の墓は京の真如堂に、斎藤利三の墓に並ぶようにして建てられている。