海北友松没後400年法要同行記
海北友松没後400年法要同行記
私は法要が始まる13時ぎりぎりに珀清寺(はくしょうじ)に到着した。
珀清寺とは、安土桃山時代を代表する絵師である海北友松の出身地と言われる長浜市瓜生町にある、友松に縁(ゆかり)のある地元の寺である。
平成27年(2015)5月30日(土)。初夏の気候が心地よい、よく晴れた爽やかな午後だった。
いつもは本堂の扉が閉じられてがらんとしている境内に多くの車が駐められ、すでに本堂の中にはたくさんの人が着座していた。
緊張した面持ちで本堂に上がる。堂内には所狭しと参列の人たちが着座していて私の坐る余地はなかった。私は部屋の外の廊下部分に正座して静かに佇んだ。
心を落ち着けて周囲を見回してみると、すでに法要は始まっていて、参列者が順番に焼香をしているところと見受けられた。参列者の胸には名札が付けられていて、よく見るとみなさんが一様に「海北」という姓であることがわかる。
ひととおり焼香が終わると、海北友松から数えて12代目の子孫にあたるという今日の会の幹事を務められている方からの挨拶があった。
私はその挨拶を聞いて、今日の会のあらましを知ることができた。
これまで小規模な会合は何年かに一回くらいの間隔で行われていたものの、このような形で海北友松の子孫が一堂に会するのは、実に40年ぶりのことのようである。
今年は海北友松の没後400年の区切りとなる年であることから、全国の海北姓を名乗る友松の子孫たちが、友松生誕の地と言われている瓜生地区に参集したのだという。
数にして凡そ40人くらいになるだろうか。
400年以上も遡った自分たちのルーツが明確にわかっていて、こうして一族としての共通の意識を持って集まることができるというのは稀有なことであり、ある意味幸せなことだと思った。
我が一族など哀しいかな、せいぜいが祖父の代までのことを知るのが精一杯で、そこから先のご祖先様のことなど知る縁(よすが)もない。もっとも、わかったところでどうせろくな素性ではないに違いない。
珀清寺での法要が終わった後、参列者全員で集合写真を撮り、一同は五先賢の館に向かった。14時から予定されている長浜城歴史博物館の大竹研究員による海北友松の講演を聞くためである。
五先賢の館は、旧東浅井郡浅井町田根地区の近辺から輩出された五人の賢人たちを顕彰する目的で平成8年に開設された施設であり、五賢人とは、比叡山の高僧で千日回峰行を創始した相応和尚(831-918)、狩野永徳や長谷川等伯と並んで安土桃山時代を代表する絵師である海北友松(1533-1615)、槍ヶ岳の七本槍の一人であり大坂の陣に際して最後まで豊臣氏と徳川氏の間を取り持とうと奔走した片桐且元(1556-1615)、きれい寂びと呼ばれる茶道を完成させ南禅寺や大徳寺などの名庭を造園し当代随一の審美家として知られた小堀遠州(1579-1647)、そして漢詩と書道の大家として名を残した小野湖山(1814-1910)の五人である。
広い畳敷きの講演会場にはすでに多くの聴講者が集まっていて、広間だけでは収まり切らずに周囲の廊下にまで溢れて坐っている状態だった。
そこに海北一族の人たちが到着して加わったものだから、会場内は相当に窮屈な状況になっていた。
大竹研究員の講演は、期待以上に充実した内容のものだった。
友松の生誕地には、瓜生と坂田の二説がある。友松の孫(友竹)が遺した文献(海北友松夫妻像画賛)には坂田と明記されているのだが、坂田には友松に関する伝承が伝わっていないのに対して瓜生にはいくつもの伝承が遺されている。
子孫が先祖の氏素性をより立派なものにしようとして取り繕うことはよくあることであり、坂田説はそのような背景から作られたのではないかと結論づけられていた。
坂田は佐々木源氏の支流が支配していた土地であり、一族の出自を近江源氏に求めたい孫の友竹による脚色ではないかというのが大竹さんによる瓜生説の根拠である。なかなかに説得力のある説明であると感銘した。
その後、絵師としての友松の作品紹介、そして武人としての友松の熱い思いなどを、スライドを交え、静かな口調だか的確に語られてたいへんに有意義なものだった。友松をテーマにした講演を聞ける機会はほとんどないので、いいタイミングでいい話を聞くことができたとうれしかった。
講演の後の質問時間に海北家の方から、(松を友とすると書く)友松という名前を名乗るくらいだから、友松の作品には松を描いた作品が多いのか?とのユニークな質問が提起された。
大竹さんは少しの間困ったような顔をされていたが、やがて自身のパソコンのデータから松が描かれている友松の作品をプロジェクターに映し出して、特別に松をテーマにしたものではないが、狩野派に師事した経歴からも友松の作品でも松は重要な題材であることを説明された。
和やかなうちに講演会が終わり、海北家一同は懇親会場である須賀谷温泉に向かった。
海北一族は多くの方が現在は埼玉県本庄市にお住まいになられているのだそうだ。
本庄市と言えば、須賀谷温泉からもほど近い浅井能楽資料館の山口憲(あきら)さんが作られた本庄まつりの本町(もとまち)の山車を飾る胴幕のことが思い出される。
群馬の森(群馬県高崎市)で開催されていた能装束の復原を手掛けられている山口さんの作品展を見た本庄市本町地区の自治会関係者の方が、山口さんの卓越した手腕に惚れ込み、なんとかして本町の山車を山口さんが制作する作品で飾りたいと熱心に頼み込んだのが事の始まりであった。
本町の方々の熱意に押され、山口さんは渾身の力を振り絞って山車の胴幕の製作に当たられた。そして見事に完成したのが、現在の本町の山車を飾る胴幕である。
これも何かのご縁だからということで、今日の懇親会で山口さんと本庄まつりのことを私がスライドで紹介することになっていた。
午後5時、海北家の人たちが宴会場に集合して賑やかな宴が始まった。
私はどのタイミングでスライドの紹介をすればいいのだろうか?詳しいことを幹事の方から何も伝えられていないので、私は緊張感を保ったまま宴会場の後方に佇んでいた。
楽しそうに飲んだり食べたりしている人たちを見ながら素面でいるというのは、あまり楽しいことではない。ましてやスライドを紹介するという大役が控えているので、私は不安と緊張とを持続させながらじっと出番を待っていた。
次第に会話が弾んでいき、追加のビールが次々と注文されていく。幹事の方も私の前を行ったり来たりしているのだが一向に私に気を止める素振りを見せない。
このまま宴が盛り上がっていけば、もはやスライドなんて誰も見ないだろう。私の心は大いに萎えていった。
やがて幹事の方が一人の女性を私の前に連れてきてくださった。私が本庄まつりの話をすると聞いて、わざわざ自宅にあった本庄まつりの山車の写真を持ってきてくださったのだという。
しかし、その方が取り出して見せてくださった写真は、私の見たことのない山車の写真だった。
おかしいなぁ。13基ある本庄まつりの山車は全部見たはずなのに、見たことがない山車があるなんて。あるいは、13基もあるので、もしかしたら見たけれど記憶に残っていない山車があるのかもしれない。
なにしろ、物忘れの激しさは最近の私の特技でもある。
それにしてもどうもおかしいと思っていたら、話している間にこの違和感の原因が判明した。
本庄まつりが2つあるのだ。
一つは、私が見た本庄まつりである。
そしてもう一つは、旧児玉町のまつりだったのだ。
旧児玉町が市町村合併によって本庄市に編入されてしまったため、旧児玉町のまつりも今では本庄まつりになってしまっていたのだった。
本庄まつりが2つあるなんて夢にも思っていなかったから、私は大いに驚いた。
どうりで見たことがない山車だったはずである。
私は埼玉県出身だから、本庄市の近くに児玉町という町があったことは知っていた。でも、児玉町が合併して本庄市の一部になっていたことは知らなかった。
児玉町の本庄まつりも、本庄市の本庄まつりと同じ11月3日に開催されるのだそうだ。
そして、海北家の多くが現在お住まいになられているのは、本庄市でも旧児玉町に属する地域であることがわかった。
和やかな宴がさらにしばらく続いた後、海北家の皆さん方の近況報告の時間となった。
一族と言ってもしょっちゅう顔を合わせているわけではないし、なかには今日初めて会ったという親族もいたであろう。
その近況報告の前に、私の本庄まつりの山車の紹介の時間を作っていただいた。
海北友松の故郷である浅井の地で作られた山車を飾る胴幕が、現在の海北氏と縁のある本庄市で人々の注目を集めているとのストーリーを考えていたのだが、あてが外れてなんだかピントがボケた話になってしまった。
それでも、海北家の方たちは好意をもって私の拙い話を聞いてくださった。
話し終えた後、本庄市児玉町小平でホンモロコの生産・販売をしているという海北さんが、わざわざ私のところにいらしてくださった。
ホンモロコは琵琶湖の固有種だと思っていたので、埼玉県でホンモロコの生産をしているということ自体に驚いたのだが、後で調べたところ、休耕田等を利用して埼玉県ではホンモロコの生産が盛んなのだそうだ。
元々埼玉県ではモツゴ(クチボソ)という小魚を甘露煮にして食べる習慣があったのだが、モツゴは養殖が難しい。そこでモツゴに大きさや姿形が似ているホンモロコを琵琶湖から移植したところ、見事に増殖に成功したのだという。
今では埼玉県がホンモロコの出荷量日本一になっていることを知って、驚いた。
本庄市では海北さんの海北養魚場のみだが、行田市、熊谷市などを中心に県内の広い地域でホンモロコが生産されているらしい。
2つの本庄まつりのことと言い、ホンモロコ生産のことと言い、今日は驚くことばかりの一日となった。
その後、各家族毎に舞台の上に立って海北家の家族の紹介と近況報告が行われた。
海北家の本家の方も本庄市の児玉地区に住まわれていて、今では農業をされているとのことだった。
本家の弟さんは親しく私に話しかけてくださった気さくな方だったが、聞いてみれば小学校の元校長先生だったそうだ。
そんな海北家のなかで目立つ存在だったのが、ロストインタイムという3人組のロックバンドのボーカルを担当されている海北大輔さんだった。
大輔さんは、ちょうど6月3日にニューアルバムである『DOORS』のリリース直前であり、親族のみなさんに新しいアルバムを買ってくださいとアピールしていた。
絵画の天才だった海北友松の子孫に音楽のアーチストが誕生したことに不思議な因縁を感じた。
大輔さんは忙しいスケジュールの合間を縫って今日の会に参加されたのだろう。宴の半ばで温泉を後にして東京へと帰られていった。(大輔さんのブログによると、無事に新幹線には乗ったものの、途中で小笠原沖の地震の影響を受けて新幹線がストップし、ご苦労をされて東京に帰られたようである。)
和やかな一族の宴も終わり、締めの手拍子でお開きとなった。明日は朝早くに温泉を出て、京都の建仁寺を訪れ友松の襖絵等を見るのだそうだ。
私の驚きに満ちた一日もこれで終わった。海北友松の子孫の方たちと過ごした半日は、とても有意義だった。外ではそろそろホタルが飛び始める頃だろうか?
ホタルを見るにはまだ少し明るい空を見上げながら、しばらく私は感慨に耽っていた。