4. 大洞弁財天・龍潭寺・井伊神社
彦根城からこんなに近い場所に、こんな不思議な場所があるということを、私は知らなかった。
大洞(おおほら)弁財天の存在を知ったのは、諸田玲子さんの著書である「奸婦にあらず」によってであった。本書では、直弼の愛人として知られる村山たか女は多賀大社の坊人であるとの設定であり、加えてたか女は弁財天の加護を篤く受けていたことが書かれている。悲しいことやつらいことがある度に通ったのが、この大洞弁財天であった。
弁財天は、佐和山城のあった佐和山から連なる大洞山の中腹にある。
どこにでもあるような弁財天の像を想像して、さして期待感もなしに参道となる急な坂道を昇っていった私であったが、昇り詰めたところに意外と立派な伽藍が出現したので、まず驚いた。琵琶湖を背景とした彦根城を遠望できる風光明媚な立地に、二層から成る立派な山門が建立されている。その山門と対峙するように建てられた本堂とともに、細かな彫刻が彫り廻らされている。
さらに、本堂に昇る階段の前に立って中の御本尊を仰ぎ見た時、私は思わず驚きの声を挙げた。薄暗い空間の向こう側に、金色(こんじき)の光に彩られた大きな弁財天が鎮座しておられたからだ。それは、私の想像を遥かに超えた大きさだった。大きさでご利益を計れるものではないが、この大きさは圧倒的な力で私を支配した。文句なしに、凄い。 大洞弁財天
小説の中でたか女が、この弁財天の化身として、心から帰依していることも素直に頷けた。
木製の格子に隔てられ、金色の帳の向こうにおわします弁財天は、右手に剣を携え左手に宝玉を持ち、実に神々しいお姿をされている。訪れる人も稀な静かさの中に、白いお顔が浮き出て見える。
直弼も、見たであろうか?
きっと見たに違いない。彦根城からここまでは、目と鼻の距離である。訪れていないと考える方が不自然である。この御堂の麓には、直弼が参禅のために通った清涼寺もある。
なんとも神々しい気持ちになって弁財天のある大洞山を降りた。降りきったところに、龍潭寺(りゅうたんじ)がある。この辺り一帯は、佐和山城下だったところで、石田三成や島左近の屋敷があったという。寺に向かう入り口に、何かを語りかけているかのように端正に正座した三成の像が建立されている。ここの土地は今でも、井伊家のお膝元である以上に、石田三成の居城があった、三成ゆかりの土地なのだ。
龍潭寺は、しっとりと落ち着いたお庭がきれいな寺だ。方丈に入ってまずは、枯山水の庭園を、縁側に腰かけてじっくり観る。流れる水を表すような砂の白い色と石の周囲の苔の緑とが溶け合って、なんとも清々しい。有名な京都竜安寺の石庭よりも石の数も緑の割合も多くて、その分親しみやすく心にすうっと沁み込んでくるようなお庭だ。 龍潭寺庭園
暫しの間、静かで贅沢な時間を過ごす。
龍潭寺には、背後の佐和山を借景とした回遊式の庭園もあり、こちらは斜面に生える木々と池とが調和して、枯山水とは異なった趣を見せてくれる。名刹と呼ぶにふさわしい、立派な寺院である。
龍潭寺の左手に、井伊神社という神社があった。入口の説明板によると、直弼の兄であり先代彦根藩主であった直(なお)亮(あき)が、井伊家の始祖である井伊共保の750回忌にあたり、遠州引佐郡にある井伊谷八幡宮から井伊大明神を分霊して祀ったものであるという。井伊神社と書かれた額が掲げられている石造りの鳥居をくぐり、草深き参道を本殿に向けて歩を進めた。
すると、弁財天や龍潭寺を見てきた後の私には、異様とも思える光景が眼前に現われてきた。なんと、鳥居の奥に建立されている井伊神社の本殿は荒廃が著しく、保護のためなのかフェンスで覆われていて、それ以上中に進むことができなかった。
直亮が建立した神社であるのだから、160年ちょっとしか経っていないというのに、どうしてこんなに荒れ果ててしまっているのか?隣接する龍潭寺や弁財天の整備された伽藍と比較すればするほど、疑問は高まる。そういうことも含めて、この場所一帯は、初めて訪れた私にとって、不思議な空間であった。
先にも少しだけ触れたが、この地域には井伊家の菩提寺である清涼寺という寺もある。寺域は元々は石田三成の武将であった島左近の屋敷跡と言われ、関ヶ原の戦いで戦功を挙げて井伊家繁栄の礎を築いた直政の墓所がある寺としても知られている。
残念ながら清涼寺は一般公開されていないが、幕末に直弼が参禅のために何度となく足を運んだことは先に書いた。
古くは石田三成の城下として栄え、その後は井伊家の聖地として祀られ、崇められてきたのがこの地域なのだと知った。ほんのりと直弼やたか女の面影を感じとりながら、この不思議な場所を後にした。次に来る時には、三成の気持ちになって佐和山の頂上に昇ってみたいと思った。