井伊直弼生誕200年によせて
井伊直弼生誕200年によせて
はじめに
井伊直弼は、文化12年10月29日(1815年11月29日)に彦根藩第十三代藩主井伊直中の十四男として彦根城二の丸内の槻御殿にて生を受けた。
今年は直弼の生誕200年にあたる記念すべき年にあたる。
かつて井伊直弼の生涯に惹かれて直弼の足跡を訪ねる旅に出た私にとって、今年の訪れは何にも増して感慨深いものがある。
私は2009年に『井伊直弼と黒船物語』という紀行エッセイを上梓したが、この記念すべき年にあたり、改めて井伊直弼について考えてみたいと思い、筆を執った。
最近になって何度か、NHKの番組などで井伊直弼のことを採り上げた番組が放送されるのを見た。
かつては安政の大獄の実行者としてダーティーなイメージで否定的に語られることの多かった井伊直弼だが、最近はむしろ、日本を開国に導いた開明的な為政者としてプラスのイメージで評価されることが多いような気がする。
私の持っている井伊直弼観にかなり近い形で直弼のことが紹介されているのを見て、うれしく思っている。
ダーティーな直弼観は、幕府と敵対関係にあった薩長などが演出して作り出した虚像であり、正しい直弼像を表してはいない。
言ってみれば亡くなって(安政7年(1860)3月3日)から155年の間、直弼は世の中から誤解し続けられてきたわけで、ここにきてやっと、真実の直弼の姿が心ある人たちによって明らかにされつつあるということだと思っている。
直弼の生誕200年にあたるこの年にもう一度、私なりに直弼のことを冷静に見つめ直してみたいと思っている。
直弼の生涯を俯瞰するとき、いくつかのポイントとなるできごとがあった。
埋木舎での15年間、将軍継嗣問題、日米修好通商条約、そして安政の大獄、などだ。
まずは一つずつ、これらのポイントとなるできごとについて改めて見ていくことで、私なりの直弼像を再構築してみようと思う。
埋木舎での15年間
井伊直弼は、父であり前の藩主であった井伊直中が亡くなった直後(天保2年(1831))に、生まれ育った槻御殿を後にして、弟の直恭(なおやす)とともに中堀のすぐ外側に面した小屋(しょうおく)に転居した。
尾末町屋敷、世に言う「埋木舎(うもれぎのや)」である。
埋木舎表門
時に17歳だった直弼は、自分がいわゆる部屋住みの身であり、藩主になることの叶わない境遇であることを痛いほど思い知らされたことだろう。
父直中存命中は、父や兄弟たちとともに欅の材をふんだんに使用した豪華な御殿で何一つ不自由のない生活をしてきた直弼だっただけに、埋木舎の粗末さとのあまりの落差に愕然としたに違いない。
改めて父の存在の偉大さとありがたさを想うとともに、己が身の非力を思い我が行く末を心細い思いで歎いたことだろう。
藩から支給される扶持米は、僅かに300俵だった。今までのような贅沢はとても叶わない。さりとて路頭に迷うこともない微妙な境遇だった。
藩主継承順位が著しく劣るとは言え、現藩主である兄の直亮(なおあき)に子がなかったこともあり、前(さき)の藩主の子としてのひとかどの教育を受けることはできた。
まぁ贅沢をしないで適当におもしろおかしく人生を生きようと思えば生きられたとも考えられる。
ところが直弼は、人生を諦めなかった。
元々が極めて生真面目な性格だったのだと思う。
この少年時代からすでに確立されていた生真面目さが、この後の直弼の人生の決定的な場面でいつも顔を覗かせることになる。
そのことは今後おいおい触れていくとして、直弼はこの埋木舎での15年間を勉学と武道修行それに茶道や能楽などの修得や鍛錬に費やした。
世の中を よそに見つつも うもれ木の 埋もれておらむ 心なき身は
直弼の歌である。
はじめ直弼は、我が境遇を花も咲かずに朽ちていく「埋れ木」に喩え、ただ嘆いてばかりいた。
特にそんな直弼の気持ちに大きな打撃を与えたのが、直弼と一緒に埋木舎に移り住んだ弟の直恭が延岡藩主内藤政順(まさより)の養子となることが決まり、埋木舎を出ることになったことであろう。
直恭とともに養子就職活動のため江戸に出たのは、埋木舎に移り住んでから3年後の天保5年(1834)のことだった。それから約1年間の就職活動により養子となることが決まったのは弟の直恭のみだった。
なぜ直弼が養子になれなかったのかは、わからない。愛想があるほうではなく、どちらかと言えば朴訥なイメージの強い直弼の第一印象があるいは災いしたのかもしれない。
埋木舎を出立したときには直恭と二人だったのに、戻って来たときには直弼ただ一人だった。直弼にとって大きな打撃であったことは間違いない。そのときの直弼の落胆した気持ちを想うと、継ぐべき言葉がない。
しかし直弼は、いつまでも自分のことを埋れ木に喩えて嘆いてばかりいる男ではなかった。
次第に直弼の心は、柳の枝のように風に吹かれてもしなやかに靡きけっして折れることのない、柔軟でかつ強いものへと変化していった。
この直弼の心境の変化は、直弼が自身のことを表した言葉により窺い知ることができる。
当初は「埋木舎」と称していたものが、やがて「柳和舎(やぎわのや)」、そして同じ読みながら「柳王舎」へと変わっていく。
定められた境遇を甘んじて受け入れ、しかしその境遇に押し潰されることなく、また流されることもなく、我が身と心とを鍛錬し磨くことに力を尽くすようになっていく。
埋木舎時代の直弼の睡眠時間は、僅かに日に4時間だったと言われている。
直弼の何物にも屈しない強さ、人並み外れた忍耐力、そしてここ一番という時の的確な決断力などは、このときに形成されていったものと思われる。
さらにこの埋木舎時代の直弼の行動で特筆すべきことは、学問や武術という当時のひとかどの武士であれば誰もが身に付けていた教養以外に、和歌、茶の湯、能、禅などの文化や思想に極めて造詣が深かったことである。
先に引用した歌をはじめ、直弼は数々の歌を遺している。
あふみの海 磯うつ浪の いく度か 御世に心を くだきぬるかな
この歌は、埋木舎からも程近いいろは松の並木の途中にある直弼の歌碑に刻まれている歌だ。
寄せては返し幾度となく磯辺に打ち寄せ砕ける琵琶湖の波のように、直弼は御政道のことに一心に心を砕く所存である。
すでにこの時には死を覚悟していたであろう直弼最晩年の歌である。
茶の湯の世界に目を転じれば、「一期一会」という言葉を世に拡めたのが直弼だと言われている。
一期一会という言葉自体は、山上宗二(やまのうえそうじ)が師である利休のことばとして『山上宗二記』のなかで記したのが初出とされているが、世に拡めたのは直弼が著わした『茶湯一会集(ちゃのゆいちえしゅう)』であると言われている。
直弼はこの『茶湯一会集』の冒頭で、
そもそも、茶湯の交会は、一期一会といいて、たとえば幾度おなじ主客交会するとも、今日の会にふたたびかえらざる事を思えば、実に我一世一度の会なり、去るにより、主人は万事に心を配り、聊(いささか)も麁末(そまつ)なきよう深切実意を尽し、客にもこの会にまた逢いがたき事を弁(わきま)え、亭主の趣向、何壱つもおろかならぬを感心し、実意を以て交わるべきなり、これを一期一会という、必々主客とも等閑(なおざり)には一服をも催すまじき筈の事、即ち、一会集の極意なり*
と書いている。
同一の主と客とが集う茶会であっても、一度としてまったく同じ茶会というものはありえない。一回一回が真剣勝負であり、一生にただ一度の機会と心得て主も客も心を籠めてもてなし誠実な心でもてなされなければならない。
直弼は、埋木舎の部屋の一部を改造して澍露軒(じゅろけん)という茶室を造り、茶道に精進している。当時武士の間で流行していた石州流の茶の湯を極め、一派を創出するまでに至っているのだ。
仏教、とりわけ禅への深い帰依に基づき、流租片桐石州(貞昌)が求めた茶の湯の源流を究めようとした。
また直弼は、能の世界への造詣も深く、自ら能面を彫ったり謡曲を創作したりするほどの力の入れようだった。
直中の子として欅御殿に住まわっていた頃からしばしば直弼は能を観る機会に恵まれていた。能は江戸時代に武家の式楽として徳川幕府が正式に認めた芸能である。
武家は単に力が強いのみで教養がないと京の公家たちから嘲笑されないよう、江戸時代の武士たちは必死に勉学に励んだし、公家の式楽であった舞楽に対抗して能を武家の式楽として定め、教養を身に付けようとしていたのである。
井伊家にも代々伝わる膨大な能装束や能面などが保有されていた。これらの一端は今でも彦根城博物館で見ることができる。
また、直弼が『伊勢物語』から想を得て創作したと言われる謡曲『筑摩江(つくまえ)』が、平成19年に横浜能楽堂で160年ぶりに上演され話題になった。
これら直弼の埋木舎での精進の根本にあるものが、禅の思想であると思われる。
父直中は非常に仏教に対する信仰の篤い人だった。城下に天寧寺を創建したり、井伊家の菩提寺であった清凉寺の伽藍を整備し江戸の豪徳寺から独掌道鳴(どくしょうどうめい)という高僧を招聘したのも直中の所業だった。
幼い時から直弼も直中に連れられて清凉寺に通い、いつしか禅の道に足を踏み入れていたのだろう。
直弼の参禅時期は十三歳の頃まで遡ることができる。
独掌道鳴の他、聡泰師虔(そうたいしけん)、仏洲仙英(ぶつしゅうせんえい)といった清凉寺に招いた名僧に直接師事し、これらの高僧から禅の道を悟ったことを認められるほどにまで禅の世界を極めていった。
直弼の禅の基本は、只管打坐(しかんたざ)である。
只管打坐とは、何も考えずに心を空にしてひたすら坐り続けることだと言われている。心を空にするとは、言葉で言うのは簡単だがいざ実践するとなると非常に難しい技だ。直弼は厳しい修行を通じて禅の極意を我が物にしていった。
世に出た後の直弼の行動に何事にも動じない強さがあるのは、この時の禅の修行によるところが大であると思われる。
直弼は、すべてのことについて表面上の理解では満足できず、物事の深奥まで追究し極めなければ気が済まない性格だった。その粘り強い性格に禅の精神性が融合し、あの強靭な直弼像が成立していったのだろう。
埋木舎玄関
埋木舎は、直弼の原点である。
もう一つ、特筆しておかなければならないのが、この埋木舎で直弼が長野主膳と邂逅したことである。村山たか女との淡い恋のひとときを過ごしたのも、この埋木舎でのできごとだった。そのことは、直弼にまつわるエピソードとしてまた別の機会に触れることになるだろう。
セミがたった一週間の地上での生を生きるために地中で3年間もの月日を過ごすように、直弼は大老として日本の行く末を決定づける大仕事をなすために、この埋木舎で15年もの長い歳月をじっと息を詰めて過ごしたのであった。
直弼にとって埋木舎が世に出る原点であったが、私にとってもこの埋木舎が我が人生の大きな転機となった。
2002年に初めて埋木舎を訪れた私は、直弼が15年もの間、可能性が限りなくゼロに近いにも拘らず我が身を磨き続けた事実を知って感動した。
人生をけっして諦めてはいけないということを、私は直弼と埋木舎とから教えられた。
その時の驚きと感動とがなかったら、『井伊直弼と黒船物語』という本が世に出ることはなかったし、私自身が様々な人生の岐路に立たされた時にプレッシャーに打ち負かされずに生きてこられたのも、埋木舎での直弼の姿が人生の師となっているからである。
私は感謝の気持ちを籠めて、この奇跡のような建物をいつも眺めている。
* 井伊直弼著・戸田勝久校注 『茶湯一会集・閑夜茶話』 岩波文庫