井伊直弼生誕200年によせて 安政の大獄

井伊直弼生誕200年によせて

 

 

安政の大獄

 

井伊直弼の名を最も貶めた事件がこの安政の大獄であることは、誰にも異存はないだろう。

安政の大獄さえなかりせば、井伊直弼はこれほどまでに世間から嫌われる存在となることはなかったし、桜田門外であのような形で横死することもなかったであろうことを考えると、まことに残念でならない。

しかしこの安政の大獄についても、直弼は数々の誤解を受けている。

これまでの通説では、直弼は自分の思い通りの政治を実行するために、安政の大獄により政敵を次々と滅ぼし、罪もない人々までをも捕らえ死罪を含む厳しい処罰を与えたということになっている。

しかし私の見るかぎり、この通説はやや的外れな見方であり、というか悪意と大きな偏見とに基づく真実の歪曲であると思わざるを得ない。

このことを語り始めるためには、時を直弼の時代から250年ほど遡り、関ヶ原の合戦の頃まで戻さなければならない。

 

時の井伊家の当主井伊直政は、家康普代の将として徳川四天王の一人に数えられるほどの勇者であった。

関ヶ原の合戦においても、抜け駆けにより先陣の名誉に浴した。抜け駆けは戦場においては大罪であり、本来なら軍紀を乱した罪により処罰されても仕方のない行為であったのに、家康は叱責するどころか直政を大いに褒め称え、実質的な西軍の大将であった石田三成の居城であった佐和山城を直政に与えた。

井伊直政治像(彦根駅前)

井伊直政像(彦根駅前)

直政は、佐和山にほど近い彦根の地に新しく城を築き、彦根藩の藩祖となった。

徳川将軍家の井伊氏に対する信頼は絶大で、後の加増も含めて彦根藩に35万石という普代大名としては最大級の石高を与えるとともに、江戸城中では「溜間(たまりのま)」詰めとして老中に次ぐ家格を用意し、時には老中の上の臨時職である大老の大任を井伊家に負わしめている。

直弼を含め大老を拝命した大名は江戸時代を通じて13人いるが、このうち過半数の7人が井伊氏であることからも、徳川幕府において井伊氏がいかに重用されていたかが理解されると思う。

長々と徳川幕府における井伊氏の重用ぶりを書いたのは、直弼も井伊直政から脈々と続く徳川恩顧の普代大名の一人であるということを言いたかったからである。

直弼は幼い頃から普代大名としての井伊氏の歴史と位置付けと役割りとを頭に叩き込まれてきた。

直弼の発想の原点はいつもここであり、家康以来の先祖へのご恩に対していかに報いるか、普代大名筆頭格の家柄として徳川幕府にいかに仕えるか、直弼の思いはこの点に尽きている。

安政の大獄も、そんな直弼の発想の観点から見ていくと、立て板に水のように真実が理解できるのだ。

 

直弼が自分の理想とする政治を実現したいがために安政の大獄を引き起こしたのでないことは、自明の理だ。

事のきっかけは、朝廷から水戸藩に下った攘夷実行の密勅である。

元々水戸藩は勤王の伝統の強い徳川御三家の一つの家柄であるが、さらに、当時の藩主であった徳川斉昭は強硬な攘夷論者であった。

水戸藩

水戸藩藩校弘道館に掲げられている「尊攘」の掛軸

 

持論であった攘夷を決行せんがために、朝廷に工作をして攘夷の密勅を出させたのである。

ところがこの水戸藩の行為は、当時の徳川幕府の権力構造そのものを根底から否定するものだったのである。

朝廷の窓口は幕府が独占していた。他藩の介在を許さず朝廷との交渉を幕府が独占することにより、徳川幕府は他藩に対して優位な立場で国政を遂行することができるよう、体制を構築していたのだ。

だから、朝廷から直接水戸藩に勅書が下るなどという道筋はあり得ないものであったし、それを敢えて実行した水戸藩の行為は徳川幕府に対する挑戦以外の何物でもなかった。

徳川幕府に深いご恩を感じている直弼にとって、水戸藩のこの行為は絶対に許しがたい行為だった。

直弼は、自身の政策遂行のためではなく、徳川幕府の権力構造そのものを守るために、それに反する行為を行った者たちを厳しく処罰しようとしたのである。

そこには直弼の私心はまったくなかった。幕府の秩序を守らなければならない。直弼はその使命感だけで、密勅降下の企みに与(くみ)した輩を厳しく取り締まり処罰したのであった。

このときの直弼の行為に悪影響を及ぼした要因がひとつだけある。それは、直弼の腹心であった長野義言(よしとき)の存在である。

長野義言は直弼の国学の師であり、当時最も信頼していた家来であった。国学や和歌などを通じた公家たちとの結びつきの強さから、義言は当時京において諜報活動の任に当たっていた。

京都御所京都御所

 

江戸にいる直弼は、義言からの情報を基に判断を下さなければならない。ところが義言を以てしてもこのときの水戸藩への密勅降下の動きは、事前に察知することができなかった。

義言はこのことを自分の失策であると思い、それを挽回せんがために直弼への報告がやや恣意的内容になってしまったきらいがある。結果的に、直弼は必ずしも正確でない情報に基づいて判断を下さなければならなかったため、正しい判断ができなかったという側面があることは否定できない。

以上が、私が考える安政の大獄の真相である。

よく吉田松陰を死罪にしたことが安政の大獄の大きな罪状として採り上げられるが、吉田松陰の処刑はたまたま時を同じくしただけで、安政の大獄の本質とは関わりがない。

吉田松陰は、海外渡航が国禁とされていた時代にペリーの船に乗り込んでアメリカ行きを企てたのだから、それだけで十分に死罪に値する。

さらに、問われもしないのに白砂の場で老中襲撃の計画を自ら告白したのだから、国家に対する反逆罪として処刑されたのは当然の結末であったと言わざるを得ない。

たまたま、松陰を師と仰ぐ長州藩の下級藩士たちが明治維新で権力を握ったものだから、彼らの尊敬する師を死に追いやった直弼のことを悪し様に批判したのが、直弼の最大の悲劇であった。

吉田松陰終焉の地

吉田松陰終焉の地(小伝馬町)

 

話が脱線するが、吉田松陰は果たして長州藩士が尊敬するほどの人物であったのだろうか?

明治維新の元勲となった人たちを感化させてあれだけの行動を起こさせたのだから、教育者としての熱意と力量はたしかに尊敬に値するものがあったと思う。

しかし松陰は、海外の事情に精通していたにも拘らず、攘夷の実行を主張した。

これは大いなる誤謬であった。

京都の朝廷が攘夷を唱えていたのとは事情が異なる。

海外の情報は幕府が独占していたので、朝廷には当時の正確な情報はほとんど入っていなかったと考えていい。正確な情報がない以上、攘夷などという実現不可能で幼稚な発想を持つこともある意味仕方がないことだったと思う。

ところが朝廷と異なり、松陰は十分な海外情勢に関する情報を持っていた。海外の事情を把握していながらなおかつ攘夷を主張したということ自体が、私には理解しにくい事実である。

実際のところ、松陰の教えを信じて下関で外国の連合軍と戦った松陰の教え子たちは、攘夷の実現不可能を悟って藩論を攘夷から開国へといち早く変換してしまったではないか。

話が外れてしまったので、元に戻す。

直弼は、自身の信ずる政治を実行するためではなく、徳川幕府の権力構造の根幹をなす秩序を守るために、秩序を乱そうとした水戸藩を中心とする関係者を捕らえ処罰したのである。

なおもう一つ、当時の幕府政治の構造について書いておかなければならない。

それは、幕府政治は合議制が原則であり、一人の独裁者の暴走が許されるような権力構造にはなっていなかったということである。

それはかつて側用人のような特定職を設けて専制的な政治が行われた経験からくる抑止策であったかもしれない。

あるいは、誰も責任を取らないで済むための救済的な意思決定制度であったかもしれない。

少なくとも幕末期における徳川幕府の意思決定のしかたは、大老と雖も独断で政策決定を行うことはできず、老中らとの合議制が基本であったということだ。

だから、安政の大獄の罪が重いと言われるのであれば、それは直弼一人の考えによるものではなく、老中など当時の幕政を担っていた徳川幕府中枢の総意によるものであったということを銘記しておかなければならない。

老中が安政の大獄で捕えられた者の処罰案を作成して大老である直弼のところに持っていくと付箋が付けられて戻されてきて、その付箋には老中案よりも各々一段ずつ重い刑が書かれていたとの越前藩主松平慶永の回顧談が残っている。

慶永は家中の橋本左内を安政の大獄で失っており、直弼には恨みをもつ立場にあった。片方の当事者の主張を鵜呑みにすることは、フェアーな対応ではない。

直弼研究の第一人者である京都女子大学の母利美和教授によると*2、付箋に書かれた文字の筆跡は直弼のものではなかったとの検証結果が示されている。

直弼に私心がなく、心から恩義に感じている徳川幕府の秩序を守るために事件に関わった水戸藩関係者等に強い態度で臨んだのだとすると、それは幕政を担う立場の人間として極めてまっとうな行為であったと言えるのではないだろうか。

直弼は桜田門外の変で早々にこの世から消え去ってしまい、直弼の立場で歴史を語るべき人材がいなかった。

一方で直弼の反対派は、水戸藩関係者を筆頭に前述の松平慶永や吉田松陰門下生である長州藩士など多数が明治時代まで生き延びていて、多勢に無勢、直弼の劣勢は如何ともしがたい状態だった。

もっとも、直弼が生きていたとしても、我が身を取り繕うような釈明は直弼の性格からして一切しなかったであろうから、安政の大獄の誤った解釈と負のイメージは免れ得なかったかもしれない。

 

*2 母利美和著 幕末維新の個性6『井伊直弼』 吉川弘文館 P215