桜田門外の変

桜田門外の変

 

日米修好通商条約締結、将軍継嗣問題、安政の大獄と、ことごとく直弼と水戸藩の徳川斉昭とは対立し、その結果として水戸藩や斉昭は直弼に叩きのめされて苦しい立場に追い込まれていった。

直弼の方が正論で、斉昭の考え方の方が古いうえに筋が通っていないのだから、このような結果となるのはある意味当然のことなのだが、水戸藩側からしてみればおもしろくない。

目の上の瘤というか、とにかく直弼は何事につけて邪魔な存在だった。

単に邪魔なだけでなく、直弼によってどんどんと藩そのものが窮地に追い詰められていく。水戸藩士たちの直弼への恨みと憎悪は急速に募っていった。

水戸藩には水戸藩の論理があって、彼らは自分たちに非があるとは思っていない。悪いのは直弼だと心の底から思っている。しかも、御三家としてのプライドもある。自分たちは将軍家の親戚であるが、井伊は単なる将軍家の家来ではないか。

直弼憎しの感情は最高潮に達していった。

正当な手段により相手を倒すことができなければ力ずくで倒すしかない。直弼暗殺の実行計画は、水戸藩士たちにより水面下で密かに進められていった。

彼らは水戸藩を脱藩し、三々五々、江戸に集まっていった。藩を脱藩したのは、主家である水戸藩に類が及ぶことを避けようとしたためである。

水戸藩脱藩の17名に薩摩藩士の有村次左衛門が加わった18名は、安政7年(1860)3月2日の夜に品川宿の妓楼土蔵相模に集結し、翌3日の未明に愛宕神社で大願成就を祈願した後、襲撃予定地である桜田門へと向かった。

桜だ列しの碑 愛宕神社

桜田烈士の碑(愛宕神社)

時ならぬ雪がしんしんと降りしきる寒い朝であった。

この日は3月3日の桃の節句の日にあたり、大名たちは総登城することになっていた。彦根藩上屋敷を出てから直弼が登城する道筋と時刻は調査済みだ。

水戸浪士らは桜田門外の道の両側に分散して佇み、直弼の行列が通りかかるのを待った。

当時は大名の行列を見物するのが一種のブームのようになっていて、大名の家紋が描かれた武鑑と呼ばれるガイドブックまで発行されていた。

大雪の早朝にも拘らず桜田門の周辺にも見物人が屯していたために、水戸浪士たちの存在が目立つことはなかったという。

徳川幕府の諜報網は強力だったので、実は直弼にはこの日の襲撃情報が事前に入っていたと言われている。

仮病を使ってこの日の外出をキャンセルすることもできたし、敵の襲撃に備えて供回りの人数を増やすことだってできたはずである。

しかし直弼には大老としてのプライドと責任とがあった。一国の宰相たる者が、それしきのことに狼狽(うろた)えて予め定められた予定を変えたり規則を破ったりしてはならない。

直弼一流の美学であり、直弼の信じた武士道であった。

水戸浪士に襲われた時、直弼を警護する武士たちが刀の束を雪から守るため布覆いを着けていて容易に刀を抜くことができなかったことが彦根藩に不利に働いたと言われている。

直弼は供回りの者に襲撃の可能性を一切告げていなかったことがわかる。

敵が襲ってくるかもしれないとわかっていたら、わざわざそんなカバーをするはずがない。いつ敵が襲ってくるかと身構えながら隊列を組んで歩いていたに違いない。

供の者たちにとっては、まったく寝耳に水の襲撃だったのである。

水戸浪士たちは、予め示し合わせておいたとおり、訴状を掲げた森五六郎が行列の前に進み出て、行列を止めた。

静寂に支配されていた桜田門外の雪景色に俄かに緊張が走った。

何者だ。無礼であるぞ。

彦根藩士の声が響き渡る。そしてその時、一発の銃声が轟き渡った。

この銃声を合図にして、道の両側から抜刀した男たちが一斉に行列に向かって走り寄る。

不意を打たれて直弼警護の彦根藩士たちは狼狽した。先程も書いたとおり、雪から刀を守るため束に着けていた布覆いを外すことができず、その間に次々と水戸浪士たちの刃の犠牲になっていった。

これが井伊の赤備えと恐れられたあの彦根藩の藩士たちなのか?と思わず疑ってしまうほど、戦いは一方的だった。

たった18人の水戸浪士たちに対して、直弼の供回り衆は60人もいたという。

数で圧倒的に有利な彦根藩士たちが、たったの15分程の戦闘で主人の首を敵方に渡さざるを得なかったというのだから、まったく勝負になっていない。

まさに水戸浪士たちの周到な準備と気合いとが一瞬にして勝敗を決する要因だったと言える。

短いが激しい戦闘のさなかに、直弼の籠に近づいた水戸浪士の稲田重蔵が渾身の力で籠の中に刀を差し込んだ。

確かな手応えを感じた。

そこへ薩摩藩士の有村次左衛門が駆けつけ、手荒く籠の扉を開けた。

中には、ぐったりとした大老がうずくまっていた。

次左衛門は籠から直弼の体を引き摺り出して、首を取った。

水戸浪士たちの歓声が轟き渡る。

桜だもん 桜田門

 

彦根藩士たちは直弼の首を取り戻そうとして、必死に次左衛門に襲いかかった。

次左衛門は大事な首級を渡してなるものかと、必死で逃げる。その次左衛門に彦根藩士が追いすがり、後ろから斬りつける。

次左衛門は深手を負いながらも、なお走り続けた。凄まじい気力である。

桜田門から日比谷濠を直角に左へ曲がり、和田倉門を経て更に進んだ辺りで次左衛門は力尽きた。

近江三上藩の若年寄遠藤胤統(たねのり)邸の門前で動けなくなった次左衛門は自決し、直弼の首は一時遠藤家に収容された。

彦根藩は極秘のうちに遠藤家から直弼の首を取り戻し、藩邸で藩医が桜田門外で回収した直弼の胴体に首を縫い付けて体裁を整えた。

後継ぎのないままに当主が死亡すればお家は取り潰しになるのが江戸幕府の掟だった。彦根藩では、直弼は負傷して床に臥せっていることにして幕府にその旨を届け出た。

大老を出している譜代大名筆頭格の井伊家のことだから、特別の図らいにより井伊家は事なきを得た。

以上が桜田門外の変の概略である。

なお、この日の供回りを務めた者たちは後日、手傷を負った者は切腹に、怪我をしなかった者は戦闘に加わらなかったとみなされて打首となり、怖気づいて現場から逃げ去った一部の者を除いて全員が彦根藩によって処刑されている。

主人の命を守ることができなかったのだから、武士としては当然の仕打ちかもしれないが、残酷極まりない処分である。

それにしても、幕府にとっても彦根藩にとっても、失った代償は大き過ぎた。

徳川幕府は、大事な屋台骨を失って、爾後は瓦解に向かってまっしぐらに堕ちていくことになる。

直弼の死とともに、徳川幕府は終焉を迎えたと言っても過言ではない。

 

井伊直弼の墓は、江戸における井伊家の菩提寺であった世田谷の豪徳寺にある。

豪徳寺は曹洞宗の名刹で、二代藩主井伊直孝が付近で鷹狩りをしていた際、急な雷雨に見舞われて大木の下で雨宿りをしていたところ、向こう側で手招きをしている猫がいる。何事かと思い猫のもとに歩き始めると、その直後に、もと居た大木に雷が落ちた。猫が手招きをしなければ直孝は雷に打たれて死んでいたところであった。

こんな伝説が残っていて、豪徳寺は招き猫伝説の寺としても有名である。境内には猫が描かれた彫刻のある三重塔があり、また境内にある招猫観音の傍らにはたくさんの招き猫が納められていて実に壮観な景色である。

豪徳寺

豪徳寺の招き猫

 

そんな豪徳寺の最も奥まった場所に、直弼の墓がある。

似たような姿形の歴代藩主や正室たちの墓が建ち並んでいるなかで、直弼の墓はたくさんの花が供えられているのですぐにそれとわかる。

実はこの直弼の墓に直弼が葬られていないという説がある。というのは、平成21年に世田谷区の教育委員会が直弼の墓の改修工事を行った際に、少なくとも地下1.5mまでに石室がないことを確認した。

その後、東京工業大学がレーザーを使って調査したが、地下3m以内には石室が見つからなかった。

直弼は4月10日にここ豪徳寺に埋葬されたことになっているけれど、地下3mまで調べて石室がなかったということになると、実際には直弼はここには埋葬されていないと考えたほうがいい。

私はそのニュースを聞いて愕然とした。

では直弼は、いったいどこに葬られているのだろうか?

今までここが直弼の墓であると信じられていて、ほかに何の文献も残されていない以上は、私には直弼が葬られている真の場所を知る由がない。

直弼の遺体はどこへ消えてしまったのか?直弼の突然の死から埋葬までの間に、彦根藩にいったいどんなドラマがあったのだろうか?

幕末の混乱する時代のなかで、直弼は痕跡を何ひとつ残すことなく、忽然とこの世から姿を消してしまったのであった。

井伊直弼の墓 豪徳寺

井伊直弼の墓(豪徳寺)

 

 

みなとみらい地区を望む桜木町の掃部山の一角に、ランドマークタワーと対峙するようにして立つ直弼の像がある。

直弼が横浜開港の陰の立役者であることは、あまり知られていない。

横浜発展の道筋を拓いたのは、実は直弼だったのである。そのことを忘れないようにと直弼への感謝の気持ちを込めて建てられたのが、この掃部山の直弼像である。

もっとも、当時の直弼には横浜の街を発展させようとの特別な意図があったわけではない。東海道五十三次の宿場町である神奈川宿を開港地とすることにリスクを感じて、街道から少し奥まったところにある漁師町であった横浜村を開港地と定めたのであった。

皮肉なことに、今では神奈川よりも横浜の方がはるかに街として発展を遂げ、神奈川という地名はわずかに県名として名を留める程度になっている。

当時の直弼は、横浜を長崎の出島のようにすることを考えていた。海を埋め立てて新たな島を作り、そこに外国人を住まわせる。

外国人居留地は海や川で本土とは隔離されているから自由に出入りすることができない。

出入口には関所を設け、入退管理を厳格に行う。この時の関所の内側(外国人居留地側)が、今の関内である。

幕府が積極的に外国人居留地での売買を奨励したため、横浜の街は大いに賑わった。

直弼が主張した開港策は大いなる成功を収めたのである。

桜木町の掃部山公園に立つ直弼の像は、そんな横浜の街の発展をどのような気持ちで眺めていることだろうか。

 

井伊直弼像

掃部山に建つ直弼像

 

私は、井伊直弼の人生からいろいろなことを学んだ。

心が挫けそうになった時、直弼が青年時代の15年間を過ごした埋木舎のことを想い、けっして諦めてはいけないと自戒している。

可能性が限りなくゼロに近くても、夢を諦めないで自分を磨き続けた直弼の忍耐力と信念を、私はわが人生の訓戒としている。

また、仕事や人生において悩みを抱えた時、日米修好通商条約締結時の直弼の苦悩とプレッシャーとを想い、その時の直弼の悩みに比べたら自分の悩みなんてちっぽけなものだと思うようにしている。

一歩間違えば中国と同じように欧米列強の植民地にされかねない危うい状況のなかで、国内には朝廷や水戸藩などの猛烈な開国反対派が勢いを増していた。

そんな追い詰められた状況のなかで、直弼はギリギリの決断をした。

岩瀬らの暴走により必ずしも直弼の真意に沿った解決にはならなかったけれど、彼らの暴走分まで含めて直弼は一切の弁明を行わずに責任を一身に背負い込んだ。

直弼のこのときの心情を想うとき、私は涙を禁じ得ない。

直弼こそ武士のなかの武士だと思う。一国の国民の命と生活とを預かる政治家として、直弼は自分の信念を貫き通して日本の窮地を救った。

実に鮮やかで爽やかな手腕である。

私たち日本人は、明治維新以降に反幕府勢力によって捏造された偏見を拭い去って、もう少し井伊直弼という人物について理解を示さなければならないと思う。

私が尊敬する幕末の英傑である勝海舟は、こんな言葉を残している。

 

行蔵(こうぞう)は我に存す。毀誉(きよ)は他人の主張、我に与(あずか)らず我に関せず。

 

直弼のこの時の心境も、きっと勝舟のこの気持ちと同じだったのではないだろうか。

後世の人たちが自分のことをどう思うかなんていう気持ちは直弼の心のなかにはこれっぽっちもなくて、自分が正しいと思った道をただ無心で歩いただけだったのだと思う。

その潔さも、私が直弼のことを尊敬してやまない一つの理由である。