「終わりに」に代えて 村山たか女のこと
井伊直弼生誕200年によせて
「終わりに」に代えて 村山たか女のこと
人間井伊直弼を語る時、村山たか女に関するほんのりとした艶話も欠かすことのできない一要素となる。
生真面目で剛直なイメージの強い直弼であるが、一人の美しい女性との間に艶やかな恋物語がある。「終わりに」に代えて、村山たか女との恋の話を最後に書いて、私の拙い文章の締め括りとしたい。
彼女の出自は詳らかでない。多賀大社の神宮寺であった般若院の院主の落とし胤との説もある。
たか女出生地跡(多賀大社前)
たか女という名前自体が、多賀大社との結びつきを連想させる名前である。
船橋聖一さんの名作『花の生涯』では、三味線の師匠としてこのたか女が初めて埋木舎を訪れる場面から物語をスタートさせている。
元は、兄であり当時の彦根藩主であった井伊直亮に仕えた侍女だったとも言われている。
とにかく詳しいことがわからない謎多き女性である。
どのようなきっかけで、たか女が埋木舎を訪れるようになったのかもわからない。確かなことは、このたか女が埋木舎で直弼と昵懇の間柄になったということである。
埋木舎でほとんど禁欲生活のような毎日を送っていた直弼にとって、美しくかつ歌舞や和歌などの才能に優れた6歳年上のたか女の存在は、非常に刺激が強かったに違いない。
たちまちにして、直弼はたか女に夢中になったのではないだろうか。
しかし、もしもたか女が単に容姿が美しいだけの女性だったなら、直弼はたか女にそれほどまでに惹かれることはなかったかもしれない。
たか女には深い教養と芸の才能とがあった。才色兼備の女性だったからこそ、最初は憧れ、そしてすぐに恋に落ちていったのではないだろうか。私の想像である。
たか女は、直弼の知的好奇心を大いに刺激したことだろう。打てば響くような機知に富んだ会話のやり取りや情の籠った和歌の贈答に、時が経つのも忘れて二人は夢中になったのではないだろうか。
埋木舎内部
もちろん男と女の間である。甘くとろけるような濃密な時間も過ごしたことだろう。
運命が直弼をこのまま部屋住みの身として生きることを許していれば、あるいは直弼とたか女は、そのまま埋木舎で平凡だが幸せな生涯を終えたかもしれない。
しかし皮肉な運命の糸が二人を引き裂いた。
兄であり長く彦根藩主の地位にあった直亮には子がなかった。仕方なく養子とした直元(直中の十一男)にも子が生まれないまま、直元は世を去ってしまった。十四男だった直弼が彦根藩35万石の世子となることになったのだ。
それは直弼が兼ねてから望んでいたことであり、そのために自らを磨いてきたのであったが、皮肉なことに、奇跡とも言える直弼のこの大出世が、直弼とたか女の仲を引き裂くことになってしまった。
直弼が、彦根藩主であることにもっとルーズな考えの持ち主であったならば、直弼はたか女を諦める必要はなかったかもしれない。
直弼は一人の男である以前に将来の彦根藩35万石の藩主であり、彦根藩の藩主であるということは譜代大名筆頭格として他藩に先んじて徳川幕府を守り、盛り立てていかなければならない宿命を背負っていることを、誰よりも自覚し譽れに思っていた男であった。
幕府のために一命を賭してお仕えする覚悟だった。そんな時に一女性のことにかかずらわっていることは許されない。
直弼の武士道であり、人生哲学であった。
この頃書かれたものだろうか。直弼から主膳宛に、たか女のことはうまく後始末をつけてくれというような趣旨の手紙が残されている。
このことを以って直弼はたか女に愛想をつかしたのだとか、単なる遊び心だったのだと主張する学者がいる。
私はそうは思わない。直弼なりの愛情で、直弼は敢えてたか女に対して冷たい態度を取ったのだと思っている。
そうでもしなければたか女のことを思い切れなかったのだと思う。直弼とは、そういう男なのだ。
この不器用さと真っ直ぐな思いとが、私にとっての直弼の一番の魅力である。
単に捨てられたのであれば、その後のたか女の行動を説明することが難しい。
たか女は、直弼の代わりに長野主膳とつながりを持ち、その後も主膳とともに大老となった直弼のために京での情報収集活動に尽力した。
突き放すことで敢えてたか女との関係を断ち切ろうとした直弼と、別れても陰で直弼の力になろうとするたか女。
どちらも愛の形は違うけれど、相手を想う気持ちにおいては同じ想いだったのではないだろうか。
京で直弼のために諜報活動に奔走していたたか女は、どのような想いで突然の直弼死去の知らせを聞いたのであろうか。
想像するだに忍びない。
さらに、桜田門外の変から2年後の文久2年(1862)8月27日、長野主膳が彦根藩によって処刑されこの世を去った。彦根藩は藩の保身のために直弼の行った政治を否定し、直弼政治の推進者であった主膳と宇津木六之丞とを斬首したのであった。
その2ヶ月半後の11月14日、今度は京に潜伏していたたか女自身に禍が襲い掛かる。たか女は反幕府を掲げる天誅組によって捕捉され、鴨川の三条河原で三日三晩に亘って晒し者にされたのであった。命を取られずに済んだのは、たか女が女性であったからだという。
しかもたか女は、直弼と出会う前に設けた一子である多田帯刀をも、この時に失っている。母のたか女と共に直弼のために諜報活動を行っていたために、捕らえられ斬殺されたものである。
たか女は、直弼を失い、主膳を失い、一人息子の帯刀までをも失って、茫然自失だったことだろう。
この世に心を寄せる人が誰一人として消え失せてしまった虚しさを、たか女はどうやってしのいだのか?
金福寺
やがて、京の東の山里にある金福寺(こんぷくじ)という寺に入り、そこで剃髪して尼僧となったたか女は、弁天様を祀る小さな祠を建て、日夜仏に仕えながら静かに余生を送った。
金福寺は、紅葉で有名な詩仙堂のすぐ近くにあり、金福寺自体もたいへんに紅葉が美しい寺であるけれど、詩仙堂ほどの知名度はない。
しかし、本堂の裏山には芭蕉にゆかりの茶室が建てられ、芭蕉を慕ってやまなかった蕪村の小さな墓がある。
たか女の生涯を考えるとき、文学的雰囲気に満ちみちたこの金福寺の瀟洒な佇まいは、いかにも彼女に相応しいものに思えてホッとしてくる。
たか女の墓は、その金福寺から程近い圓光寺にある。圓光寺もまた、紅葉の美しい寺である。
最後に、近年、京都の井伊美術館館長の井伊達夫さんによって、直弼がたか女に宛てて書いた「恋文」が発見されている。
直弼生誕200年を記念した私のささやかな文章の最後に、この恋文のなかで直弼がたか女に贈った歌を記して私の結びの言葉としたい。
名もたかき 今宵の月は みちながら
君しをらねハ 事かけて見ゆ
この歌は、直弼がまだ埋木舎の住人であった天保13年(1842)頃の歌だと言われている。直弼28歳であり、世子となって埋木舎を出る4年ほど前の時期にあたる。
すでにこの時期には彦根藩の世継ぎ問題が深刻化していて、世子の直元に変事があった場合に備えて直弼の存在がクローズアップされていたようである。
藩の反対でたか女との逢瀬を禁じられた直弼が、たか女への思いきれない気持ちを素直に綴った恋文である。
その恋文に添えられていたのがこの歌なのだ。
中秋の名月として名高い今宵の月は真ん丸に満ちているけれど、(一緒に見るべき)あなたがいなければ、私の心には欠けた月に見えてしまいます。
名も「たか」き、とさりげなくたか女の名を歌に織り込んでいるところが、何とも心憎い。直弼、なかなかやるな、といったところだ。
あとは読んで字の如くの意味である。ストレートでわかりやすい内容であるが、それだけに直弼の熱い想いが直に伝わってくる。
この恋文の存在により、直弼が埋木舎で学問ばかりしていたのではなかったことがわかり、私は内心ホッとしている。ますます人間井伊直弼のことを私は好きになってしまった。
今年平成27年(2015)が、井伊直弼の真実再考のきっかけとなる年になってくれればと、心から願う次第である。
晩年のたか女像(滋賀・高源寺)
最近、皇居のランニングを始めた。
桜田門前の広場を出発して、二重橋前から大手門の前を通り、竹橋、半蔵門を通過して国会議事堂を右手に見ながらゴールの桜田門を目指す、1周ちょうど5㎞のコースである。
仕事が終わった後に、健康維持の目的で会社の同僚と走り始めたものだが、最後の数百メートルはまさに直弼が桜田門で暗殺された時のコースと一致する。
暗いので明瞭には見えないが、左手に「柳の井」の説明版が見え始める辺りのちょうど道の反対側が、かつて彦根藩の上屋敷があった場所である。
この辺りに差し掛かると俄かに私の心がさざめき立つ。今私が走っているこの同じ道を、安政7年(1860)3月3日の朝に直弼も辿ったからだ。
左手前方に丸の内の高層ビル群の灯りが桜田濠の水面に鮮やかに映し出されている。直弼の生きていた時代には当然、存在していなかった眺めである。
美しい光景だ。これぞ、東京の夜景だと言っても過言ではない絶景である。その美しい景色を眺め、わたしはいつも万感の想いを胸に抱きながら、桜田門を目指してラストスパートをする。
5㎞の道程の最後の500mほどの距離を、私は直弼に背中を押されるようにして力をもらって走っている。こんなランナーは他にいないだろうなって思いながら、走っている。
これも直弼と私との何かの縁なのかもしれない。
皇居を走りながら私はいつも、直弼の無念を思い、そして直弼への感謝の気持ちを持ちながら、最後の力を振り絞っている。
平成27年9月27日 中秋の名月の日に書き終わる