5. 天寧寺
私にとって天寧寺は、妙に艶めかしいイメージが付きまとう寺だ。
それもこれも、諸田玲子さんの小説「奸婦にあらず」のせいである。埋木舎での15年間の忍耐の末に彦根藩主となった井伊直弼が、お忍びでたか女との逢瀬の舞台として選んだのが、ここ天寧寺ということになっている。
もちろん小説の中での話ではあるが、さもありなんとの思いもする。天寧寺は、彦根城と多賀大社とを結ぶ道の中間地点にあるからだ。二人がどんな想いでこの天寧寺を訪れ、この建物のどこかで語り合い、愛を確かめ合ったのか。そんな想像をするだけでも楽しいではないか。
そもそもの寺の縁起が、直弼の父である十一代直中が、腰元の不始末を責めて手打ちにしたものの、不義の相手が我が息子であったことが後にわかり、その腰元と初孫の供養のために建立した寺と伝えられる。男女の間にまつわる因縁の深い寺なのだ。
しかもここ天寧寺には、井伊大老供養塔、長野主膳の墓、村山たか女之碑の豪華3点セットが揃っている。ちょっと出来過ぎの感がしないでもないくらいだ。今で言うところの三角関係と言ってしまっては下世話過ぎるか。三人の関係を想像することも、また歴史のおもしろさである。
井伊大老供養塔 長野主膳墓
井伊大老供養塔は、桜田門外の変で暗殺された直弼の血染めの土や遺品を四斗樽に入れて埋めたものであると言われている。東京の豪徳寺にある本物の墓よりもこちらの供養塔の方が墓らしくて立派なくらいだ。残された彦根の人々が直弼の突然の死を悼み、直弼を偲ぶ唯一のよすがとして、心を籠めて建立したものに違いない。その時の人々の悲しみがひしひしと伝わってくる。
長野義言之奥津城と刻まれた主膳の墓は、生い茂る楓の緑に囲まれて全貌が見えない。墓と言うよりは記念碑のような大きな墓石だ。直弼亡き後の主膳は、虎の威のなくなった狐よろしく、追い落とす立場から追い落とされる立場に境遇が一転した。最後は直弼の後を継いだ直憲の命により打ち首となったと伝えられる。死してなお藩民から慕われた直弼とは対照的に、主膳は彦根藩によって処刑されたことになる。
たか女之碑は、直弼の供養塔や主膳の墓石と比較して小さなもので、ひっそりと建てられている。説明板も何もなくて、建立の由来がわからない。天寧寺がたか女ゆかりの寺であることは確かであるのだろうが、誰が何のために建てたものなのか、ついぞわからなかった。何の変哲もない石碑であった。
私の中での天寧寺はこれら三人が主人公である寺なのだが、一般に天寧寺は、むしろ五百羅漢のある寺として世に知られている。例の直中が自らの過失により葬ってしまった腰元と孫の霊を鎮めるために京都の名工駒井朝運に命じて作らせたものと伝えられている。
「奸婦にあらず」のなかでも諸田さんは、直弼、主膳(主馬)、たか女の三人をこの羅漢堂に赴かせている。その一節を以下に引用する。
三人は回廊伝いに羅漢堂へ赴く。小坊主が堂の入口で恭しく出迎えた。扉を開けて中へ誘い、外から扉を閉ざす。 次の瞬間、四方の壁いっぱいに居並んだ羅漢像が、鈍い光彩を放ちながら、圧倒的な威容で迫ってきた。これまで何度かお詣りしているたかでさえ感嘆の吐息をもらす。ましてや、はじめて足を踏み入れた主馬は、荘厳な眺めに我を忘れているようだった。
今は入口に小坊主はおらず、セルフサービスで御堂の扉を開けるシステムとなっているが、扉を開けた瞬間の驚きと感動は、まさに諸田さんが書かれたそのままである。光背を擁した極彩色の羅漢像が一斉に私に向かって語りかけてくる圧力。 何万人も入るスタジアムの真ん中に自分がいて、スポットライトを浴びながら観客である羅漢から凝視されているような、そんな錯覚にも陥った。静寂が支配する広いお堂の中で、羅漢と自分の真剣勝負が演じられている。心地よい緊張感に私は酔いしれた。
天寧寺の裏庭からは遠く彦根城を望むことができる。今では高い建物が並び立ち、必ずしも美しい景色とは言えないが、直弼がここから見たであろう彦根城は孤高の高さを天に誇っていたことと思う。彦根城の遠景を見ていると、なぜか心が落ち着いてくる。大洞弁財天から見た彦根城も、天寧寺から見た彦根城も、みなうつくしい。
直弼とたか女を慕って彦根とその周囲を経て巡った。一旦ここで、彦根における私の小さな旅を終わることとする。次は、舞台を江戸(東京)に移して、再び直弼の足跡を追ってみたい。その前に、直弼についてごく簡単に私なりの総括をしておく。
一般に、安政の大獄を断行した首謀者として、直弼のイメージはすこぶる悪い。桜田門外で横死したことも、滅びゆく徳川幕府の象徴として印象づけられ、事実直弼の死から歴史は大きく討幕へと流れが切り替わっていくことになる。桜田門外の変から明治維新までの時間が僅か8年でしかないことを考えると、この事件が徳川幕府にとってはまさにターニングポイントであったことがわかる。
直弼が推進した日米修好通商条約の締結とそれに基づく横浜や神戸等の開港は、後の歴史の流れを眺めてみれば紛れもない正解であり、直弼の判断が正しかったことに疑いの余地はない。ではその実現手段としての安政の大獄が、果たして選択し得る唯一の手段であったかどうか。
そもそも安政の大獄とは何だったのか?直弼は、そこまでして力による弾圧を強行しなければならなかったのか?安政の大獄がなかりせば、これほどまでに直弼の名が天下に貶められることはなかったであろうに。
私には、日米修好通商条約を締結した直弼と、安政の大獄を実行した直弼とが、どうしても同一人物には思えない。あるいは英明な君主の一面と冷徹な為政者の一面の両面を持ち合わせていたと考えられなくもないけれど、私はそのようには思いたくない。埋木舎での15年間の忍耐と、その間気持ちを切らすことなく自己精進を続けた強い意志力は、並大抵のものではない。人の苦労と人生の悲哀とを熟知した直弼が、いとも簡単に何人もの尊いはずの人命を奪ってしまうようなことが、本当にできたのだろうか?
そこで湧き起こってくる疑問が、安政の大獄は本当に直弼の意志によるものだったのか?という疑問だ。何の根拠があっての説ではないが、直感的に、そこには直弼と主膳との間のディスコミュニケーションがあったように私には思えてならない。あるいは、主膳の独走というか暴走だったのではないか。
主膳の行動の中には、単なる国学者としての活動に止まることなく、強い立身出世欲と野望とが見え隠れしているように思える。もう少し言葉を悪くして言えば、どこかに胡散臭さがあるのだ。直弼を利用して自らの思いなすところを実現せしめる。私の直感が正しいかどうかの結論は、もう少し長野主膳という人物に焦点を当てて調査研究を行った後でなければ下すことができない。
たとえ主膳に原因があったとしても責任は主(あるじ)である直弼に存するものであり、それを知る直弼は従容として死に赴く。逃げ隠れすることなく、実直なまでに生きてそして死んだ直弼という人間の苦悩と意地と責任とを想った。
雪の桜田門外に置かれた駕籠の中で、断末魔の直弼は何を思って死んだのか。もしかしたら、うつくしい彦根の町並みとたか女のことだったかもしれない。