比叡山一日回峰行挑戦の記

比叡山一日回峰行挑戦の記

一日回峰行 登り(律院~無動寺坂~居士林)

6時15分に律院を出発する。

後から律院に到着した女子班の人たちは、先に叡南師のご加持をいただいた後に朝食を食べることになっていた。

律院を出発する頃には、もうすっかり夜が明けていた。新しい一日の始まりの凛とした厳かな雰囲気が漂うなかを、私たちは比叡山を目指して再び歩き始めた。

これからの道程が容易なものでないことはわかっていたので、私の心の中は再び緊張感で満たされてきた。

一度登り始めたら、もう引き返すことはできない。行くしかない。ある意味、悲壮な決意だった。

坂本の延暦寺に所縁のある里坊や寺院などが建ち並ぶ前を通り過ぎ、比叡山病院という病院の横に現れた登山口から登り始める。

後ろから何かに照らされたような感覚を感じて思わず振り返ってみると、ちょうど琵琶湖の向こう側から太陽が顔を出したところだった。

眩い光に照らされて、東側の空が燃え上がっている。思わず足を止めて見入りたくなるような荘厳な夜明けの風景だった。

しかしそんなことにはお構いなしに、引率の僧は真っ直ぐに前のみを見て坂道を登っていく。従っている私も、後ろの景色に浸っている心の余裕はなかった。

最初のうちは舗装された広い幅の林道のような道だったけれど、すぐに細くて角度の険しい山道となる。

その後は、ひたすら登るだけの厳しい道が続いた。

登りになって、引率の僧の歩く速さが一段と速くなってきたように感じられた。

最初の10人くらいは必死に食らいついているけれど、その後は次第に遅れが目立つようになっていって、列が間延びしていく。

私はちょうど10人目くらいのところで何とか付いて行こうとしていたのだが、途中で靴紐が解けてしまったため、道端で紐を結び直している間に何人もの人に抜かれていった。

まん中くらいの位置で歩いていると、それほどのスピード感を要求されずにある程度マイペースで登ることができた。

体力的には楽になったけれど、先頭との距離は間違いなくどんどん拡がっているはずだった。

人生も同じで、常にトップランナーでいないと先頭集団からどんどん離されて差がついていってしまう。

そして一度ついた差は、なかなか挽回することができない。

先も見ず、後ろも振り返らず、ただただ次の一歩を踏み出す場所だけを見つめて登り続けた。

足を上げる度に太ももの筋肉が悲鳴を上げた。しかし登らなければならない高さは決まっているので、一歩一歩で稼いだ高さの分だけ間違いなくゴールに近づいていくのだ。

私は歯を食いしばって急な山道を登っていった。

それにしても、厳しい登り坂だった。心臓の鼓動が強く打ち付ける音が聞こえる。休みなしで30分ほど登ったところで、やっと小休止が入った。

休憩が少ないのは、道が険しすぎてたくさんの人が一時(いちどき)に休むことが出来るようなスペースがなかなか見出せなかったということもあるのかもしれない。

立ち止まると、心臓は楽になるけれど、その代わりに汗がどっと吹き出る。

居士林を出発する時にあんなに凍えていた身体が、今は火照って熱い。

休憩している間に続々と後続部隊が到着してくる。

みんな、激しい登り坂に表情が歪んでいる。引率の僧が涼しい顔をしているのとは対照的だった。

暫しの休憩の後、再び出発する。

途中で案内板や道標の標柱などがあるのだが、そんなものにはお構いなしに僧はずんずんと道を進んで行く。

従って、今どういうところを通っているのか皆目見当がつかない。

事前に地図で見た記憶から、ケーブルカーの走る左側を歩いていることだけは容易に想像ができた。

昨日、ケーブルカーに乗って比叡山に向かっている時に、座席に坐って窓の景色を眺めているだけでも急坂で驚いたものだが、その坂道を自分の足で登っているのだから、我ながら信じられない気がする。

とにかく道が険しくて、ひたすら登るだけの坂が延々と続いていた。

普通の山道は、登りのなかにも一時的に下りの局面もあって、登ったり下りたりのなかで登っていくものなのだが、無動寺坂は下る局面がなくてただただ登り坂があるのみだった。

道はすべて登り坂なのだが、その中でもとりわけ厳しい登り坂を登った後に訪れる比較的緩い登り坂に差し掛かると、ほんの少しだけだが楽に感じられる時がある。

平坦な道を歩いているときつく感じられる坂道でも、より厳しい坂道を登っていればむしろ楽に感じられるということを実感した。

人生も同じで、いつも楽な人生を歩んでいると、少しのことでも辛く感じられてしまうものだ。

登り坂を登りながら、いろいろなことを考えた。

暗い山道を歩いている時にもいろいろなことを考えたけれど、苦しい登り坂でもいろいろなことを考えた。

何度かの休憩を挟んで、さらに登り続けると、突然、道が下りに転じた。

せっかくここまで登ってきたのに下るということは、その分、さらにまた登らなければならないということである。

これはつらいなぁと思っているうちに、道はどんどんと下っていく。

どこまで下るのだろうと思っていたら、道はついに谷川がささやかに流れる谷底にまで降り着いてしまった。

周りの展望が展け、明るい太陽の光が差し込む気持ちのいい場所だった。

ここが無動寺谷であろうか?

相応和尚がこの地を選んだわけがわかったような気がした。

谷というのだから、下っていかないと辿り着かない。問題は、ここから無動寺までどれくらい登って行かなければならないかだった。

一度下り坂で緩んだ気持ちと筋肉とを再び奮い立たせるのは、なかなか容易なことではない。

しかしここでリタイアするわけにはいかないから、また急な登り坂を渾身の力を入れて登り始めた。

幸いなことに、少し登ったところで上方に何やら人工的な建造物の一部が見えてきた。

もしかしたら、玉照院の建物ではないだろうか?昨日無動寺明王堂からさらに降りてきて、もうここから先は行けないと思って引き返したあの寺院であったらうれしいと思った。

その真偽を確かめるべくさらに坂道を登って行くと、目の前に急に視界が展けて見覚えのある変わった形をした山門が見えてきた。

間違いなく玉照院だ。

もうここからは知らない道ではない。私はこの瞬間に、一日回峰行の満行を確信した。

ここから先、居士林まではなお登りの道が続くものの、険しい山道はもうないしほぼ知っている道だった。

一日回峰行に所縁のある無動寺地区に入ったので、もう少し各寺院を巡りながら明王堂を目指すのかと思っていたのだが、引率の僧は玉照院も大乗院も軽く手を合わせただけで先を急ぐようにして歩いて行く。

昨日私が偶然見つけた相応和尚入寂の地も軽く手を合わせただけでほとんど素通りだったのは意外だった。

引率の僧は、一路、明王堂を目指してずんずんと進んで行く。

そして、急角度な石段を登り切り、明王堂の前の広場に到着した。7時40分のことであった。

律院を出発したのが6時15分だったから、思っていたよりも本当の登りに要した時間は長くはなかったことになる。

全員が揃うのを待って整列し、般若心経を読経する。

明王堂の横には相応和尚の像もあるのだが、引率の僧からは何の説明もなかった。

千日回峰行の創設者なのだから、この一日回峰行においてはもっと相応和尚に焦点を当てた解説があってもいいのではないかとやや物足りない思いを抱いたのは私だけであっただろうか?

相応和尚や堂入りのことなどは、この文章の最初の章で書いたので、ここでは繰り返さない。

私たちは暫しの間、明王堂からの絶景を楽しんだ。

前にも書いたとおり、ここから眺める琵琶湖の眺望は美しい。誰となく参加者の人たちがカメラや携帯を取り出してその景色を写真に収めていた。一日回峰行はハイキングではなく修行である。本来は修行の最中に写真を撮るなどということは許されないと思われるのだが、ここまで帰ってきた安堵感も拡がっているなかなので、引率の僧も見て見ぬふりをしてくれていた。

十分な休憩と美しい眺望とに息を吹き返した私たちは、再び東塔へと向かう坂道を登り始めた。

坂道と言っても舗装された道であり、無動寺坂の山道とは比べようもない。

8時20分に根本中堂を見降ろせる広い階段の前に至る。

さすがにこの時間になり延暦寺の中心的建造物前となると、参拝客がちらほらと現れ始めている。

この場で7回目の般若心経読経を行う。

根本中堂はちょうど今、平成の大修理が行われている最中で、建物全体が覆い屋根に覆われていて、その傍らにはクレーン車の姿が見られる。お馴染みの根本中堂の壮観な景色を見ることはできないけれど、その代わり、覆い屋根に覆われている根本中堂を見る機会は私が生きている間にはもうないだろうと思った。

そう思えば私は今、貴重なものを見ていることになる。

引率の僧から根本中堂の由来や不滅の法灯などの説明を聞いた後、浄土院に向かって歩き始めた。

8時40分に浄土院に到着する。

浄土院は、延暦寺の開祖最澄の廟所で、比叡山の中でも最も「清浄」な場所である。

何事にも先達はあらまほしきものなり。

実は以前この場所を訪れた時には、手前の建物を見ただけで知らずに帰ってしまったのだが、引率の僧の説明により最澄の廟が建物の後ろにあることが今回初めてわかった。

浄土院は、千日回峰行と双璧を成す比叡山で最も厳しい修行である十二年籠山行が行われている場所でもある。

千日回峰行が動の荒行と呼ばれるのに対して、十二年籠山行は静の荒行とも言われている。

十二年間、浄土院の外に一歩も出ることを許されず、ひたすら最澄に仕える毎日を送らなければならない。

延暦寺では、今も最澄の魂が生きていると考えられていて、最澄の肖像画に朝晩の食事を供え、祈りを捧げる毎日を過ごさなければならない。

千日回峰行は毎日違う環境のなかを千日間歩き続ける修行であるのに対して、十二年籠山行は十二年の間、何一つ変わることのない環境のなかで全く同じことを日々続けていく修行である。

変わっていくのは周囲の環境ではなくて、自分の内面ということになるのだろう。

十二年という歳月は途轍もなく長い時間である。その間に、少しずつ変わっていく自分を自覚しながら、しかしどんなことがあろうと一日たりとも休むことが許されないというのは、並大抵のプレッシャーではあるまい。

現に、十二年籠山行では、満行に至らずに病を得て亡くなる人の割合が1~2割もいるという。それだけ十二年という歳月が長く厳しい年月であることを物語っているのだ。

浄土院前で最後の般若心経を唱え、釈迦堂を経て居士林まで戻った。

 

ちょうど9時だった。

深夜の2時に出発してから7時間。何とか無事に帰ってくることができたことへの安堵感と、たった一日ではあったけれど千日回峰行の行者が歩くのと同じ道を歩くことができたという達成感とで、胸が一杯になった。

出発の時と同じように居士林前の空き地に整列して、後続部隊が到着するのを待った。

結局、大きく遅れている2人を除いて49人が到着したところで、解散となった。遅れていた2人もその後に無事到着したとのことで、参加した51人全員が無事に満行したことを聞いて安堵した。

部屋に戻ってお風呂に入り、さっぱりして居士林を後にした。

疲れているのかもしれないが、気持ちが高揚しているからか疲労感はなかった。

朝と言ってももう早朝とは言えない時間になっていたけれど、それでも朝の空気が爽やかに感じられた。

まだシャトルバスが動き出す時間の前なので、参拝客も日中に比べたらかなり少ない。

私は、昨日訪れることができなかった浄土院を訪ね、今度はしっかりと最澄の廟所まで行って手を合わせて拝んで、さらに東塔のバスセンターまで歩いて、バスとロープウェイとケーブルカーとを乗り継いで京都側の八瀬まで降りて比叡山を後にした。

振り返ると比叡山のボリューム感のある山容が大きく見えた。