比叡山一日回峰行挑戦の記
この度の「平成30年7月豪雨」で亡くなられました方々に謹んでお悔やみを申し上げますとともに、被災された皆様に衷心よりお見舞い申し上げます。
平穏な日々が一刻も早く戻ることをお祈りいたします。
一日回峰行 終わりに
こうして、私の一日回峰行は終わった。
本来であれば、午前2時に居士林研修道場を出発してから9時に戻ってくるまでの間のことだけを書けばよいのだが、私の一日回峰行の修行は前日の朝に比叡山の麓を訪れた時からすでに始まっていると思っている。
そこからのこと全部を含めて私の一日回峰行なのだと言える。だから、少し長くなってしまったけれど、比叡山に到着してから比叡山を出るまでのほぼ24時間を、私の一日回峰行としてまとめた。
突然だが、千日回峰行の行者になるには、どうすればなれるのだろうか?
当然のことではあるが、誰もが行者になれるわけではない。
まずは最低でも7年間、僧侶としての基礎的な修行が必要となる。比叡山ではいわゆる住職を務めることができる僧になるために7年間の修行が必須であり、千日回峰行の行者になるためにもこの7年間の修行が出発点になる。
さらにその後、千日回峰行を満行された大行満大阿闍梨に最低でも3年間は付いて研鑽を積まなければならない。
師の推薦が得られて初めて、千日回峰行の行者としての選考を受ける資格が得られるのだそうだ。
選考では、比叡山の長老による満場一致の賛成がないと行者になることは認められないという。
そして、選考を受けるチャンスは一度しかないので、もしもこの時に満場一致の賛成が得られなければ、その人はもう一生、千日回峰行の行者になることはできないのだそうだ。
少なくとも10年間の修行を経て、日頃の素行や人格など様々な観点からのチェックを受けてこの人ならばという人でなければ行者になることさえできない。
まさに狭き門である。
千日回峰行について、私たちにもっとも鮮明な印象を与える言葉は、次の言葉ではないだろうか。
行ならずば死あるのみ
ひとたび千日回峰行の修行をやり始めたならば、途中で完遂することができなくなれば、死ぬしかない。
どんなことがあっても、途中で止めることが許されない修行であるということだ。
千日回峰行の行者の白い装束はいわゆる死装束であり、行者が首をくくるための紐と自決するための短剣とを携えているのも、そのことの現れとされている。
台風が来ても地震が起こっても休むことは許されないし、病気になったり怪我をしたりしても止(や)めることができない。
その厳しさばかりが強調されているような気がするが、千日回峰行の本質はもう少し別のところにあるような気がする。
今回、一日回峰行に参加してみて、一つは積み重ねることの大切さであり、もう一つは思考することの尊さについて私は学んだ。
今回の私のように、一日だけならできる人はたくさんいるだろう。
でも千回積み重ねることができる人は、ほんの一握りしかいない。一日を千回積み重ねることが如何に難しいし意義のあることであるかということを、今回の一日回峰行を通じて強烈に感じている。
しかも、千日の回峰行は一日一日が一期一会で、同じ一日がけっしてないのと同様に、同じ千日回峰行はけっしてない。
毎日天候も違うし季節も移ろっていく。その日の体調も異なるし気持ちも毎日同じではない。
同じことを繰り返しているようでいて、同じことでないのが千日回峰行なのではないだろうか?
そういうなかで、千日もの回峰行を一日一日積み重ねていくというのは、並大抵のことでできることではない。
十日ならできるかもしれないけれど、百日となると難しい。
百日できても、二百日はできるかわからない。そういうことの積み重ねが、千日という数字の意味であり意義なのではないだろうか。
そして、歩いている間にいろいろなことを考える。
その考えるということ自体が、行者にとっての修行であると同時に大きな宝となるのではないか?
たった一日だけの行であったけれど、私もいろいろなことを考えた。こんなに考えたことは、これまでの私の人生においてなかったかもしれない。
考えること。それが一日回峰行の大きな目的なのではないか。
歩きながら考えて、私が得た結論である。
まだ一回しか歩いていないから、次はどんなことを考えながら歩くのか、わからない。
おそらくは、最初に歩いた時のことを考えながら、新たに発見したことなどについて考えていくのだろう。
季節も異なるし天候も異なるので、見たり聞いたりする周囲の環境はそれこそ無限通りの組み合わせがあるはずだ。
毎回新鮮な気持ちで歩くことができれば、毎回いろいろなことを考えることができるのではないか。
今回、千日回峰行の行者が歩くのと同じ道を同じ時間に歩くことができて、大いなる達成感を感じることができたし、大いなる感動を得ることができた。
しかし今回の一日回峰行と千日回峰行とでは決定的な違いがあった。
私たちが参加した一日回峰行は、列の前後左右を4人の僧に守られての行程であった。
一人で行くのではなくベテランの僧が4人も付いていてくれるのだから、常に見守られているし、何かあっても大抵のことは何とかなるだろうという安心感があった。
ところが、千日回峰行の行者は本当に一人での孤独な行程である。
万一のことが起こったとしても、誰も助けてはくれない。そういう緊張感のなかで歩くのとある程度の安心感があるなかで歩くのとでは、精神的なプレッシャーが全然違う。
だから、私は千日回峰行の行者が歩くのと同じ道を歩いたけれど、行者とまったく同じ体験をしたとは思っていない。
擬似体験と言えばいいのだろうか?本質的には行者の行動とはまったく異なる表面的には似たような体験をしたということだと思っている。
それでも、うれしかった。
たとえ表面的であっても、ほんの少しだけでも行者に近づくことができたと思う。
一日回峰行は、また来年もほぼ月に1回のペースで開催されるという。
一日回峰行を一日回峰行で終わらさずに、二日回峰行、三日回峰行と続けていけたらいいと思っている。
その時に、私はどんなことを考え、どんなことを学ぶことができるのか、考えてみただけでもうれしくなってくる。