百済寺樽 1

百済寺樽

 

百済寺

 

日本酒好きが昂じて、ついに酒米作りから日本酒に関わることになってしまった。

百済寺樽という日本酒を造るために、その材料となる酒米を栽培する作業からプロジェクトに参加することになった。

 

百済寺とは、滋賀県東近江市百済寺町にある古刹の名前である。

百済寺と書いて、「くだらじ」とは読まずに「ひゃくさいじ」と読む。

近隣の西明寺、金剛輪寺と合わせて「湖東三山」と呼ばれ、紅葉の名所として地元の人たちにはつとに有名な寺である。

湖東三山については、前著『湖北残照 文化篇』で少し詳しく紹介しているので、併せて参照していただけるとありがたい。

百済寺庭園の紅葉

 

私は紅葉を見るために、ほぼ毎年のようにこの寺を訪れている。秋の季節になると、寺を訪れるための車の列が延々と続く。

 

寺の創建は聖徳太子の時代にまで遡る。

聖徳太子が師である高句麗の高僧慧慈(えじ)を伴い近江国の太郎坊山を訪れ滞在していた時のことである。東の山並みの中に不思議な光を見た。夜が明けてからその光が放たれたであろう場所を探してみると、山中に枯れた杉の大木を見つけた。

その杉の木の周りにはたくさんの猿たちが群がり何かの儀式をしているようにも見え、また木の根元には供えるようにして果物などが整然と並べられていた。

杉の木は、上半分が無くなっているものの不思議なオーラを放っていて、容易には近寄りがたい不思議な力が周囲を支配していた。

「これはいったいどうしたことであろうか?」

聖徳太子の問いに慧慈は、

「この木の上半分は十一面観世音菩薩像を造る材料として伐り出され、百済国(はくさいこく)の龍雲寺(ヨンウンサ)に渡ってご本尊として崇められています。」

と答えられた。

「この木は、百済国と日本国とを取り結ぶ霊木であらせられましょう。残された木を使って百済国の龍雲寺の十一面観世音菩薩像と向き合うように日本国にも十一面観世音菩薩像を彫ってお供えしましょう。」

聖徳太子はそう言うと、根が付いたままの状態で杉の木に刀を入れ、十一面観世音菩薩像を彫り始めた。その像が完成すると、百済国と日本国とを結ぶ寺としてこの百済寺を勅願により建立した。

時に、推古14年(606)のことであった。

この時に聖徳太子が彫られた十一面観世音菩薩像は、度重なる堂宇の焼失の際にも難を免れ、今でも百済寺の本堂にご本尊として祀られている。世に言うところの「植木観音」である。

植木観音は秘仏であり、普段は見ることができない。おおよそ50年に1度のご開帳というから、一生のうちに一度拝めるかどうかの仏様ということになる。

その後、百済寺は天台宗の寺となり、多くの堂宇を擁する大寺として大いに興隆した。

この寺に大きな転機が訪れたのは、安土桃山時代のことだった。

元々南近江を支配していたのは佐々木源氏の血を引く六角氏であった。そこへ、天下統一を目指す織田信長が近江国へ攻め込んできた。天正元年(1573)4月のことである。

六角氏に付くか織田氏に付くかの選択を迫られた百済寺は、長く南近江の統治に君臨してきた六角氏に付くことを選択した。

百済寺は密かに六角氏の支城である鯰江(なまずえ)城に兵糧を送るとともに、鯰江城にいた婦女子を山内の僧坊に匿った。

この行為が百済寺に進駐していた信長軍の知るところとなり、信長の強い怒りを買った。六角氏を密かに援助する行為を信長に対する敵対行為と考えた信長は、百済寺の徹底的な焼き討ちを命じた。

おおよそ半月間にも亘って燃え続けたという百済寺は、完膚なきまでに破壊された。三百坊と伝えられる堂宇は悉く灰燼に帰し、城塞のように積まれた石垣は安土城築城のために崩されて運び出された。

 

この時に失われたものは、堂宇や石垣だけではなかった。

実は、百済寺に延々と伝えられてきた僧坊酒である「百済寺樽」の醸造技術がこの時に数多の僧坊や石垣とともに消し去られてしまったのであった。

僧坊酒とは、密かに寺の僧坊にて醸造された酒のことである。

仏教では酒は禁物であるがそれは表向きで、僧も人の子であり寺でも密かに酒造りが行われていたとは、百済寺の住職の言である。

現実的には、酒を造るのにはそれなりの資本力が必要であり、官衙による酒造が衰えてくると、酒の造り手として寺院が次第にその役割を代替してきたのではないかと思えなくもない。

かつてはいろいろな寺で僧坊酒が「密造」されていたのかもしれないが、畿内では近江国百済寺(百済寺樽)のほかに、大和国正暦寺(菩提泉)、大和国興福寺(南都諸白)、河内国金剛寺(天野酒)の僧坊酒がつとに有名で、そのなかでも百済寺の「百済寺樽」は超一流の銘酒として知る人ぞ知る存在であったという。

百済寺樽が室町幕府にも献上されていたことが古い文書(もんじょ)にも記録されている。

百済寺樽の説明版

 

当時の寺は単に仏教の修業道場としての存在に留まらず、様々な才能や能力を持った人材が集まり、学問や文化の担い手としての役割をも果たしていた。酒造りにもそういった文化としての側面があったものと考えることができる。

幸いにして、近江国は米どころであり、酒の材料となるべき良質の米を採ることができた。また、百済寺の近辺には鈴鹿山脈の伏流水がもたらす豊富な良水が存在していた。そこへ酒造りの技術を持った僧が加われば、最高品質の日本酒を造ることができたであろうことは想像に難くない。

大寺である方が様々な能力に長けた人材が集まりやすく、従って大寺の方がうまい日本酒を造る技術も発達していたと考えることができる。

当時の百済寺がいかに大きな力を持った寺であったかということの一つの証明であるかもしれない。

実に残念なことに、百済寺の伽藍も百済寺に伝わってきた百済寺樽の醸造技術も、信長の焼き討ちによってすべてがこの世から消え去ってしまったのであった。

 

百済寺の堂宇はその後、江戸時代になり徳川幕府の力によって再建された。重要文化財に指定されている今の本堂は、慶安3年(1650)に再建されたものである。最盛期の規模までの再興には至らなかったものの、百済寺は今現在も相当の寺域を誇っている。

伽藍は再建されたけれど、百済寺樽の醸造技術は復活しなかった。

酒を造るには杜氏職人が必要だが、一度離散してしまった職人を百年近く後の時代に集めなおすことは難しかったに違いない。さらに、酒造りの主体が寺から民間の醸造所へと次第に移りつつあったことも影響していたと私は思っている。

例えば、伏見の銘酒月桂冠の創業は寛永14年(1637)、富翁の創業は明暦3年(1657)、神聖の創業は延宝5年(1677)と言われている。百済寺の堂宇再建の時期とほぼ重なっていることがわかる。

これら民間の醸造所に杜氏職人を奪われるかたちで寺から酒を造る技術が消失していったのではないかと私は推察している。

民間の醸造所の興隆とともに、百済寺樽のことも次第に人々の記憶から消え去っていった。