百済寺樽 4

いよいよ、田植え

 

公民館から田植えをする田んぼまではそれほど遠くはないそうだ。長靴のままぶらぶらと公民館前の坂道を降りて行った。

やがて右手に水を張ったまだ田植えをしていない田が見えてきた。手前の畔道にはこれから植える苗の塊りが並べられている。思っていたよりも広いことに緊張感が走る。こんなに広い田んぼを果たして苗で満たすことができるのだろうか?

田の向かいの農家で早乙女姿に変身した女性陣も加わり、いよいよ田植えが始まる。

最初に地元の農家の方から苗の植え方の説明を受ける。

苗の塊りから3~4本の苗を親指と人差し指とでちぎり取り、それに中指を添えて地中に差し入れる。それだけなのだそうだ。とは言え、実際にどんな感じなのかは田んぼの中でやってみないことには実感がわかない。

私たちは、左右に分かれて恐る恐る田んぼの中に入っていった。

最初の第一歩は特に緊張した。田んぼの水面が畔から一段下がっているので、その分、自然と勢いがつく。ずぶずぶっという不思議な感触を感じながら長靴を履いた足が土中にめり込んでいった。

続いて畔に残っているもう一方の足をバランスを崩さないように細心の注意を払いながら田んぼの中に踏み入れる。

これで完全に両足が田んぼの中に入ったことになる。まだ長靴の長さには余裕があった。もっと深く沈み込むのではないかと想像していたのだが、思ったよりは土中にめり込んでいないことに安堵した。

 

 

 

 

田植え用の苗

 

スタッフの人たちは、不慣れな私たちがまるでお笑い芸人のように田んぼの真ん中でバランスを崩して転ぶ姿を密かに期待していたようである。そんなハプニングが起きれば、たしかに場は大いに盛り上がるに違いない。

しかし田の中で転んだりしたら泥を取り除いたり服を乾かしたりと後の処理が大変そうなので、少なくとも私自身が被害者になることがないように田の中での移動は慎重のうえにも慎重を期した。

私たちはこれから植えていく方に背を向け、田の畔に向かって等間隔となるように横一列に並んだ。列の途中ところどころに地元の農家のおばちゃんたちがライン参加してくれているのが心強かった。

目の前の畦道に田の左右から1本の紐が渡されていて、その紐には等間隔で赤い結び目が付けられている。この赤い結び目が苗を植える際の目安になるのだそうだ。私たちは、左右から渡された紐に付けられたこの赤い結び目の真下に苗を植えていけばよい。

横一列に苗を植え終えたら、みんなで後ろ(これから田植えをする方向)に一歩ずつ下がり、紐も15センチほど後ろに移動する。そこが次に私たちが苗を植えるラインになる。

こうしてみんなで横一列になって紐の赤い結び目を頼りに一斉に苗を植えていけば、自然と縦にも横にもきれいに整列した形で苗が植えられていくことになる。

 

 

 

 

田植えをした田んぼ

 

自分が受け持つのは縦の1列だけかと思っていたのだが、田の幅に対して田植えをする人の数がそれほど多くはないので、一人で4~5列を受け持たなければならなかった。素早く苗の塊りから植え付ける苗をちぎって、赤い結び目の目印の下に苗を植えていく。

苗の塊りは苗同士が互いに固く根を張り巡らせているので、簡単にちぎり取ることができない。手間取っていると、周りの人たちに遅れてしまう。自分の守備範囲の苗を植え終えた人は、他の人たちが植え終わるのを待つ状態になる。

一人一人が素早く自分の受け持ち部分の苗を植えてタイミングを合わせないと、全体のリズムが崩れることになってしまう。

「もうええか~?」

両端で紐を持つ人が頃合いを見計らって呼びかける。

「は~い。もういいで~。」

田の中から応答があると紐が一段後ろにずらされる。時には、

「ちょっと待ってぇ~。」

という答えが返ってくる時もある。誰かが手間取っていてまだ所定の場所に苗を植えきれていない場合だ。そうすると、残りの皆が一斉に腰を上げて「もういいで~。」という声が返ってくるのを待つ。

自分の受け持ちは概ね4列から5列なのだが、厳密に責任分担が定められているわけではない。余力があれば左右の人の列の分まで植えてあげる場合もあれば、反対に自分の列を植えてもらう場合もある。

互いに協力し合い補い合って1段ずつ、苗が植えられていく。和気あいあいとした長閑な光景であり、大空の下で自然に囲まれながら静かに時が流れていくのを実感することができた。

田の中には、いろいろな生き物が棲息している。

一番よく目にしたのは、赤い色をした糸のようなミミズだった。田の土の中に潜んでいて、私たちが苗を植えようとすると驚いたように蠢(うごめ)く。畔には小さな緑色をしたカエルがぴょんぴょん飛び跳ねていた。

青い空と土と水、それに澄んだ空気。

田植え自体は終始腰をかがめ低い姿勢を保っていなければならない重労働ではあるものの、実に気持ちのいい充実した一日を過ごしているとの満足感を味わうことができた。

誰かが後ろを振り返って、

「だいぶ進んだと思っていたのに、まだ残り(の距離)がこんなにあるんだ!」

と叫んだ。

「後ろを振り返っちゃだめだめ。」

別の人がやり返す。

たしかに、目の前には植えられた苗の列が長くなってきていることを実感できていたので、田植えは順調に進んでいるものと思っていた。ところが、振り返ってみると実際にはまだまだ先が長いことを思い知らされた。

田植えはそんなに甘くないということだ。

中腰の姿勢を長く続けていたために次第に腰が重くなってくる。一歩後ろに下がる毎にぬかるむ泥の中から足を抜いて、転ばないようにバランスを取りながら再び泥の中に足を踏み入れなければならない。足にも次第に疲労が伝わっていく。

田植えとはなかなか過酷な作業だということを、自分が実際にやってみて痛感した。しかし、いま私がこうして植え付けている苗がやがて根を張り成長して黄金色の実を付けるのだ。その実(米)から旨い日本酒が醸造されるであろうことを思うと、私のモチベーションは非常に高い状態のままで保ち続けられた。

いつの間にか2時間の時間が過ぎていた。

和気あいあいと、しかし一歩ずつ着実に距離を伸ばしてきた私たちの田植えは、

「そろそろ2時間になるのでここで終わりにしましょう。」

という比嘉さんの一言で終了となった。まさに神の声だった。

思ったよりも蛇行しないで苗の列がまっすぐになっているのは、赤い結び目のある紐のお蔭だろうか?

最後まで行き着けなかったのは少し心残りであったけれど、それでも1枚の田んぼの7割以上は進むことができたのではないだろうか。初めての田植えにしては上々の出来だったと自画自賛した。

最後の最後でお笑い芸人にならないように慎重に畦道に上がり、最初に説明を受けた道端に移動した。

道の端の溝に勢いよく水が流れていて、その流れで長靴に付着した土を洗い流す。土の肌理が細かくて、靴の表面にこびりついた土をきれいに洗い落とすのには苦労した。気がつけば爪の間にも土が入り込んでいて、水で洗い落とそうとしてもなかなか落ちない。

そうなることを想定して爪は短く切り揃えて田植えに臨んだのだけれど、それでも爪の間に入り込んだ土は落ちなかった。

私たちが長靴の土落としに躍起になっている頃、植え残された田んぼに田植え機を入れて田植え機による田植えが行われていた。

車の後ろの部分に苗の塊りをセットして、トラクターを運転するような感覚で田んぼの中を進んでいくと、きれいに苗が植えつけられていく。

そのスピードといい正確さといい、わざわざ私たちが不慣れな田植えをしなくても、最初から田植え機を使って田植えをすればもっと楽でスムーズに田植えができたはずだ。

でもそれではおもしろくない。少しの区画にしても、自分たちの手で苗を植えたことに価値があるのだと思い直した。私たちの魂の籠った苗が、やがて陽の光を浴びて成長し、秋にはたわわな実を結んでくれることだろう。

その米の一粒一粒から冬に旨い酒が造られる。

まだまだ先のことであるけれど、と言うか先のことだからこそ余計に、その瞬間が待ち遠しい。今年は一年間、百済寺樽の完成を待ち焦がれながら過ごす一年になることだろう。

 

私たちは公民館に戻り、服を着替えた。

ひと仕事終えた後は、とても気持ちがいい。ちょうどお腹も空いてきたところで昼食となった。一階の広間に四角く机が並べられていて、その机の上にお弁当が置かれていた。

身体を動かした後だから何を食べてもおいしい状態だったけれど、用意されたお弁当は心づくしのもので、地元の食材をふんだんに使ったおいしいお弁当だった。これにお酒があれば言うことがないのたが、これから私たちは百済寺に詣でる予定になっていたので、飲み物はお茶で我慢だった。

食べながら一人一人自己紹介をして、和やかな昼食になった。

 

 

昼食を食べてすっかり元気を取り戻した私たちは、比嘉さんたちの先導により徒歩で百済寺に向かった。

百済寺は、公民館から坂道を15分ほど登って行ったところにある。

これまで紅葉の季節以外には来たことがなかったので、百済寺と言うと参拝客による交通渋滞のイメージが先に立つけれど、ゴールデンウィーク期間中であるにも拘わらず参拝客の数は驚くほど少なかった。

紅葉の季節であれば、すでにこの辺りは駐車場に入るための車の長い列ができている場所である。ところが今は車の列どころか車が通ることさえ稀で、歩くにはやや広い車道が曲がりくねりながら続いている。

見上げると、青い空を背景にして楓の若葉が眩しいくらいに光を放って見える。陽の光を透かして見ると、重なり合った葉が微妙な陰影を作り、複雑な光の世界を作りあげているのがわかる。以前メールで比嘉さんが「新緑の百済寺もとてもきれいですよ!」と書いてくれたが、なるほどその通りだと思った。

本坊の入口のところまで住職の濱中亮明さんがわざわざ出迎えてくださった。脚を痛めていらっしゃるようで杖を突きながらのお姿は痛々しかったが、それでも飛びっきりの笑顔で私たちを迎えてくださり、寺の歴史や百済寺樽復活の経緯などを自ら語ってくださった。

百済寺には従前から、境内のあちらこちらに丁寧な解説版が設置されていて、初めて寺を訪れた人でも容易に寺の歴史や見どころなどを理解できるように配慮がなされていた。

それらの掲示板もみな、ご住職が作られたものだった。研究熱心で情熱を持ったご住職である。

ご住職は最初に、ディスプレイ用の百済寺樽の四斗樽が3つと解説版が設置されている場所に私たちを導いて、百済寺樽の歴史と僧坊酒について語られた。

百済寺樽のことはこの作品の最初の章で書いたので、ここでは繰り返さない。

信長の焼き討ちによって途絶えてしまった百済寺樽の復活を念じていたご住職の秘めたる熱意を比嘉さんが感じ取って、熱い情熱と強力な行動力とで実現させたのが、昨年の百済寺樽復活プロジェクトであったということだけを、書き留めておくのみとする。

その後、ご住職の案内で本坊である貴見院の池泉式庭園と「天下遠望の名園」と呼ばれる庭とを見て巡った。

ご住職は、古い文献などを丹念に調べ上げられていて、たくさんの示唆に富んだお話を私たちに語ってくださった。

なぜ「くだらじ」と読まずに「ひゃくさいじ」と読むのか?という問いに対しては、元々「百済」を「くだら」と読むのは日本独特の偏った読み方であり、「ひゃくさい」と読むのが本来の正しい読み方だというお話をいただいた。

百済寺は、緯度で言うとちょうど北緯35.1度の線上にあって、その35.1度線をずっと西に辿っていくと、太郎坊宮(八日市市)-比叡山(延暦寺)-次郎坊宮(鞍馬寺)-百済(光州)が一直線に連なって位置していることがわかる。

ご住職の話によると、これらの事実はけっして偶然の一致ではなくて、これらの建造物がある目的を持って意図的に造られたことの結果であるというのだ。

百済から日本に渡ってきた渡来人たちは、最初は日本海に面した若狭に入り、そこから湖北-湖東のルートを辿って京(山城国)へと定着しながら進んでいった。その過程で、遠い故郷である百済を偲んで、近江国や山城国の特定のポイントを選び、そこから百済がある方角を崇め祀ったものと考えられる。

 

 

 

 

ご住職の語らい

推古10年(602)に来日し日本に暦、天文学、陰陽道などの知識をもたらした観勒(かんろく)という百済の僧は、日本で初めて大僧正となった名僧であるが、彼が百済寺創建のための選地や方位決定等に深く関わったと考えられている。

聖徳太子とも親しい関係にあり、先進的な技術を持った百済僧である観勒らの関与によって百済寺が創建されたと考えるとき、ご住職が語られた一見荒唐無稽のようにも聞こえる北緯35.1度線の話は、大いなる説得力を伴って私の頭の中にインプットされる。

池泉式庭園に隣接して築かれた築山を上っていくと、天下遠望の名園と称される見晴らしのいい展望台に出る。ご住職は、杖を突きながら高い位置にある展望台にまで足を運んでくださった。

ここから西の方角を望むと、正面に太郎坊宮が見え、僅かに顔を覗かしている琵琶湖の水面を隔てて比叡山を望むことができる。そしてそこからさらに800キロのはるか先には、かつての百済が存在していたことになる。

ご住職はこの北緯35.1度の線を「百済望郷線」と呼んでいるのだそうだ。毎年春と秋のお彼岸には、太陽が比叡山の山頂付近に沈んでいくという。まさに神秘的な光景だ。

眼下には、名神高速道路と新幹線が通り、この地が今でも交通の要衝であることが見て取れる。外見的には見えないけれど、東日本と西日本とを結ぶ情報ネットワークの基幹回線網もこの地を通っている。

今でも交通の要衝であると書いたが、昔も今と変わらずこの地は交通の要衝であった。近江を制するものは天下を制する、という言葉がある。信長も秀吉も家康も、この地を通らなければ京に上ることができなかった。

百済寺の庭が「天下遠望の名園」と称される由縁は、百済寺の立地が戦国武将たちが天下を目指すうえで重要な戦略的拠点にあったということをも意味している。

戦国時代の百済寺は多くの石垣で外敵から守られており、一種の城塞化した存在でもあった。最盛期には境内に300坊あったと伝えられる僧坊は、それ一つ一つが石垣で区切られた小さな平地であり、城で言えば「曲輪(くるわ)」にあたる構造をなしている。

百済寺を信長が徹底的に焼き討ちにした理由は、百済寺に敵方の勢力が籠って信長に抵抗しようとする芽を早い段階から潰しておきたいとの狙いがあったものと思われる。

百済寺を焼き討ちにした後、信長は安土に新たな城を築くために、百済寺の石垣に使用されていた石を安土まで運んだ。

その道が、石曳の道と呼ばれる道である。

百済寺には、「石曳図額」と呼ばれる額絵が遺されている。横183cm縦96cmの板に描かれた大きな額だ。

この図によると、大きな車輪のついた牛車に巨石を乗せ、一等の黒い牛とともに24人の石曳人夫が懸命に綱を引いている様子が窺える。運ばれる岩の上には緞子が被され、人夫頭が軍扇を拡げて石曳たちを鼓舞する様子が生き生きと描かれている。

牛車の向こう側の路傍には、当時の今風の若者や修験者と思しき人たちが、口惜しそうに石が曳かれていくのを眺めている。

石曳の道は、百済寺から北西方向に約10キロ続いて大門というところで旧東山道に至り、そこから南西の方向に方角を転じてさらに6キロほど運ばれて安土に到着したものと推測されている。

百済寺の石垣の石が曳かれていったこの石曳の道は、実は同時に、それまでは百済寺樽が寺の外に運ばれた際に使われた道と同じであったと言われている。

百済寺から大門に至る道を、百済寺では石曳の道と言わずに「樽酒の道」と呼び、大門から安土までの道を「石曳の道」と呼んで意図的に区別している。

安土城の石垣は相当短期間のうちに急いで築かれたもののようで、石仏や墓石などがそのままの姿で転用されている。これらの石仏や墓石は、もしかしたら百済寺からこの石曳の道を通って安土に運ばれたものだったのかもしれない。

ルイスフロイスの『日本史』によって「多数の相互に独立した僧院や座敷と庭園・築山を備えた僧坊が建ち並びまさに地上の楽園」と称された百済寺は、こうして信長の手によってこの世から消し去られてしまったのであった。

 

ご住職からの貴重なお話をお伺いした後、私たちは本坊よりさらに高いところにある本堂を目指して長い石段を登っていった。

途中、大きな草鞋が奉納されている仁王門を潜り、さらに石段を登って行くと本堂に辿り着く。

途中の楓の若葉が美しくて、何度も上を見上げてはその景色を写真に収めた。この緑が秋には真っ赤に染まるのだから、その美しさといったら言葉に表すことができない。

 

 

 

 

百済寺の新緑

百済寺の本堂は、先にも少し触れたとおり慶安3年(1650)に再建されたものであり、平成16年に国の重要文化財の指定を受けている。

入母屋造りのこの本堂の中に、別名を「植木観音」とも呼ばれるご本尊であり秘仏の十一面観世音菩薩立像が安置されている。2.6メートルもあるという大きな観音様だそうだ。

焼き討ちで消失する前の元の本堂は、今の本堂の位置よりもさらに高い場所に建てられていたようで、約10倍の広さの敷地に約4倍の大きさの本堂が建てられていたというから、想像を絶する規模であったことがわかる。

今では土砂崩れにより敷地の三分の二が埋まってしまい、その上に木々が生い茂っているため、広大な土地が存在していたことさえ確認することが難しい。

さらに旧本堂の右手には五重塔もあったとのことで、今でもその礎石が遺されているという。

少し歩いただけではまだ十分に見尽すことができないほどに、かつての百済寺の伽藍は広大であったことを改めて想った。

 

そんな由緒ある近江国を代表する古刹である百済寺の日本酒造りに縁あって関わることができたことを、心からうれしく思った。

これから一年間、私は百済寺と様々なかたちで関わり合いながら生きていくことになる。次は7月に田の草取りをして百済寺で写経することが予定されている。秋にはたわわに実った稲を収穫し、そして年が明けた1月頃には収穫した米から芳(かぐわ)しい日本酒が誕生するのを楽しむことになるだろう。

私の今年の一年は、百済寺とともに歩む一年になるものと思われる。今からとても楽しみな一年である。