百済寺樽 その5 (生育状況視察)

百済寺樽 その5(生育状況視察)

 

風薫る5月の田植えから2ヶ月半が経過した7月21日土曜日の朝、私は再び百済寺町の公民館前に立っていた。

 

田植えの時とまったく同様に、夜行バスに乗り早朝名古屋に着いて、名古屋から名神高速道路の路線バスに乗り換えて百済寺バス停で下車する、という強行プランだった。

ただ一つ違ったことは、夜行バスが高速道路の事故渋滞に巻き込まれて大幅に遅れてしまったことだ。午前3時半の時点でまだ神奈川県から静岡県に入ったばかりの足柄サービスエリアにいたのだから、7時15分に名古屋を出発する高速路線バスに間に合うかどうかは予断を許さない状況だった。

当然、気が気でないから眠れない。元々夜行バスでぐっすり眠れるような性格ではないところへこの遅れだったため、途中で何度も携帯の地図アプリで現在地を確かめては、名古屋への到着時間を勝手に推測した。

推測したところでどうなることでもなくて、運転手さんの運転に任せるしかなかったのではあるが、心配性の性格はこういうところで損をする。

運よく7時ちょっと過ぎに夜行バスが名古屋駅の在来線口に到着した。7時15分にバスが出る新幹線口は駅の反対側となるため、バスを降りて名古屋駅の在来線口から新幹線口へと通ずるコンコースを走った。

15分あったので間に合うとは思ったけれど、こういう時にも少しでも早く目的地に着いていないと安心できない性質(たち)なので、ほぼ全力で走った。

そんなこんなで今回の百済寺行きは、スムーズにいった前回とは異なり、最初からアクシデントに見舞われてのスタートとなった。

 

8時50分頃に百済寺のバス停を降りた私は、百済寺町公民館を目指して、誰もいない静かな山道を歩き始めた。

2ヶ月半前と同じ、雲一つない青空だった。そして、私の目の前にはあの時と同じ緩やかな上り坂が続いている。

しかしあの時とまったく違ったのが、降り注ぐ太陽の光の強さだった。

ここまで来てしまえば、集合時間の9時40分までには確実に百済寺町公民館に着くことができる。暑いので無理をしないように、ゆっくりと一歩一歩足取りを確かめるようにしながら、私はずっと上り坂になっている公民館への山道を上って行った。

そして、歩き始めてから約20分の後に、見覚えのある大きな切り妻屋根の公民館の前に立つことができた。

強烈な真夏の太陽からの熱線を浴びて、すでに私の額からは大粒の汗が滴り落ちていた。今年の夏の暑さは、今までに経験したことがないような異常な暑さだ。

今日は、稲の生育状況を確認することを目的の一つとして百済寺町を訪れたのだが、その後で百済寺にて厳しい?修行が待っているという話を比嘉さんからお聞きした。

今回のテーマは「寺子屋」だそうで、作務衣に着替えて百済寺でみっちり勉学に励むとのことだった。

どんな修行なのか不安があったけれど、まずはメンバーの皆さんとの久しぶりの再会に心が和む。私にとっては田植えの時以来の再会となるのだが、2ヶ月半の時間の隔たりを全く感じないくらいに自然と心が打ち解けている。

今回は、比嘉さんが名札を用意してくれたので、唯一不安だった名前についても解決となった。この歳になると物覚えが悪くなってしまって、なかなか人の名前を覚えることができないのが悩みの種だった。

再会して最初に皆が口にするのが、今年の夏の異常な暑さのことだった。

つい数日前に広島や岡山などで雨による大きな災害が発生したばかりで、それに追い打ちをかけるようにして、梅雨が明けて今度は猛暑が襲い掛かってきた。

平成になって最大規模とも言われる先日の水害と過去に例を見ないような40度に迫る猛暑の中で、果たして私たちが植えた稲はどのような状態になっているのだろうか?皆の関心は、その一点に集中していた。

比嘉さんたちから、今のところ稲は順調にすくすくと育っているとの話を聞いて、一同まずはホッと胸をなでおろした。

太陽の光は稲の生育にとって無限の恵みとなる。しかしその一方で、田に引く水が枯渇したり、あるいは太陽の熱で水の温度が上昇してお湯のようになるような事態になると、稲にとって大きな影響が出てしまう。

水温が上昇すると稲に病気が発生したり、あるいは害虫の大量発生を誘発する虞があるのだという。

そうでなくても今後は、稲の大敵であるカメムシが発生しやすい時期を迎えるのだそうだ。カメムシは、生育中の稲の実(コメ)のエキスを殻の外から吸い取ってしまい、稲を台無しにしてしまう恐ろしい害虫だという。

しかも田舎のカメムシは都会で見るカメムシよりも一回り大きくて屈強な体格をしているらしい。

これからは、そういった病気や害虫という新たな障害による被害を受けやすくなるようなので、これまで順調に育ってきたからと言ってまだまだ安心はできないことがよくわかった。

全員が揃ったところで、いよいよ田んぼに向かう。

公民館から田んぼまでは下り坂だしそれほどの距離でもなかったので、暑いけれど当然歩いていくつもりでいたところ、田んぼまで軽トラックで運んでもらえることになった。

前回の田植えの時に初めて軽トラックの荷台に載せていただいて、すっかりその気持ちよさの虜になってしまった私は、今回もお言葉に甘えて軽トラックの荷台に飛び乗った。

車が動き出すと、心地よい風が体に当たる。それまで体に纏わりついていた熱い空気が瞬く間に吹き飛ばされていく。荷台なので普通の車に乗るよりも一段高い位置から景色を眺めることになり、これがまた気持ちがいい。

ほんの少しの時間だったけれど「田園のオープンカー」を満喫しているうちに、私たちは見覚えのある田んぼに到着した。

そこは一面、輝く緑の世界だった。

真っ青な空の下(もと)で、稲の若々しい緑の葉が田の全面を覆い尽くしている。

ほんの2ヶ月半前にはまだ細くて弱々しい稲の苗が心もとなげに列をなしていて、茶色い土の色を映した水が田の全面を支配して見えた。今は水がほとんど見えなくなって、すっかり成長した稲の茎と葉とで覆い尽くされている。

思いの外に成長した稲を見て、感無量だった。

もちろん、自然にこのように成長するはずがない。草取りをしたり肥料を撒いたり害虫駆除をしたり、晴れの日も雨の日も毎日欠かすことなく稲の面倒を見てくださった地元の生産者のみなさんの協力があってこそのことであることを忘れてはならない。

飛び出し坊主 後ろが、私たちが田植えをした田

道端には、百済寺樽の瓶を持った僧の姿をした「飛び出し坊主」が立てられていた。

特注品で、かなりの製作費がかかった代物とのことだ。目印として、わざわざ私たちが田植えをした田んぼに比嘉さんたちが立ててくれたものだそうだ。

とてもかわいらしいので、みんなで順番に写真を撮った。

外から田んぼを眺めているだけではよくわからないので、持参した田植え用長靴を履いて、田んぼの中に入ってみた。まさか田植え以外の時期にも田植え用長靴を使用することになろうとは、思っていなかった。

田の中では太く成長した稲が土の中でしっかりと根付き土のスペースが少なくなっていたので、どこに足を置けばいいのか迷うくらいだった。あんなにスカスカだった田植えの時と比べて、稲の成長を実感することができた。

まだ外見からではわからないけれど、稲の茎の内部にはすでに小さな稲穂が成長しつつある。農家の方が1本の稲を手折って、茎の内部を剝(む)いて見せてくれた。

すでに稲の茎の内部には、2センチほどの稲穂の原型ができあがっているのを見て取ることができた。この稲穂の原型は、1日に1ミリくらいずつの速さで成長していくのだそうだ。茎の中から稲穂が顔を出す日もそう遠くはないだろう。

田んぼのあぜ道から機械を使って農薬を噴霧する作業もデモンストレーションで見せていただいた。小さな霧となった農薬が田の中央の稲までも確実に届くように、美しい放物線を描きながら放射されていった。

これからもたくさんの障害が成長していく稲に襲い掛かっていくのだろうが、経験豊富な農家の方たちのサポートがあるので、そういった障害を乗り越えて、きっと見事な酒米へと成長していってくれるものと、私は確信した。

昨年は1丁程度だった田の面積を、百済寺樽の好調な売れ行きを反映し、今年は1丁半にまで増産しているのだそうだ。滋賀県に特有の「玉栄」という銘柄の酒米が、14枚の田で栽培されている。見渡す限りの生命感溢れる光景が目に眩しい。

燦燦と降り注ぐ真夏の太陽の恵みを思い切り吸収して、私たちの玉栄はすくすくと成長を続けている。

すっかり満足し、また安心して、私たちは再び田園のオープンカーに運ばれて百済寺町公民館まで戻った。

 

ここからは、百済寺での厳しい?修行が私たちを待ち構えている。

比嘉さんたちが用意してくれた思い思いの色の作務衣に着替え、私たちは百済寺に向かった。すっかり気に入ってしまった軽トラックの荷台に乗り、見慣れた百済寺の本坊近くまで坂道を上ってきたところで、なぜか軽トラックは下りの坂道へと方向を変えて下り続けていく。

坂道を下っていくということは、その分をどこかで上らなければならないということを意味している。やっぱり修行だから、そうそう楽な道は歩ませてもらえない。

私たちを乗せた軽トラックは、本坊からかなり下ったところにある赤い山門の前で停まった。今日の修行の始まりは、どうやらこの赤い色をした山門からスタートすることになっているらしい。

山門の袂に一人の男性が佇んでいた。

比嘉さんの紹介で、その方は東近江市の歴史編纂に携わられている山本一博さんであることがわかった。百済寺町には山本姓の方が非常に多いが、山本さんもその一人である。

これから1時間半くらいの時間を使って、山本さんの説明をお聞きしながら百済寺についての知識をより深める勉強をすることになる。

山本さんは百済寺の歴史について非常に正確で詳しい知識を持たれた方で、これまで上滑りをした知識しか持ち合わせていなかった私の欠陥を大いに補っていただけたありがたい存在となった。

百済寺の辺りは、江戸時代には山本村と呼ばれていたそうで、今も山本姓が非常に多いのはそのせいなのだそうだ。みんな山本さんだから、苗字ではなく名前で呼んで区別していたとのことである。

その後、明治時代になって百済寺町となり、山の上の方から順に甲乙丙丁と区切られていった。つまり、百済寺甲、百済寺乙、百済寺丙、百済寺丁といった具合だ。

そう言われてみると、阪神高速道路の百済寺バス停を降りて百済寺町公民館を目指して歩いている途中の山道に消火ポンプの設備が設置されていて、真っ赤に塗られたその扉に白い文字で「百済寺丁」と書かれていたことを思い出した。

「百済寺丁」と書かれた消化ポンプ

今の地名でも山の一番高いところは「百済寺甲町」の地名が残っており、百済寺のある辺りが「百済寺町」、その門前が「百済寺本町」となっている。

そんな町名にまつわる話をイントロダクションとして、私たちは山本さんの話に引き込まれていった。

山本さんが比嘉さんから依頼を受けた今日のお題は3つあるのだそうだ。

一つ目がいま私たちがいる赤門について、二つ目が今回のプロジェクトの主題である百済寺樽について、そして三つ目がこれから写仏をすることになるという弥勒菩薩についてであるという。今日はこの3つの項目を中心に、山本さんから貴重なお話をお伺いすることになる。

 

早速赤門の間近まで移動して、山本さんの解説に耳を傾ける。

百済寺の伽藍図を見ると、一番上に植木観音が安置されている本堂があり、そこから下って庭園や遠望台がある本坊の喜見院があり、さらにずっと下ったところにこの赤門があるという伽藍配置になっている。

赤門は、広い百済寺の境内の入り口であり、非常に重要な寺の建造物であるということがわかる。赤い紅殻(べんがら)で塗られているから赤門と通称されているが、正確には総門と呼ばれる類の門であるそうだ。

百済寺赤門

本堂と同時期の慶安3年(1650)の再建であり、長らく厳しい風雪に晒され続けていたために老朽化が著しく、昨年から修復工事が行われていたが、私たちが田植えをする2日前の5月3日に修復が終わり開門式が行われて、鮮やかな赤色の姿が復活したばかりであるとのことだった。

修復前の赤門の写真を見ると、僅かに赤色が残る古風な門の風情があり、それはそれで趣があったと思うのだが、門に塗られた紅殻は近江国を代表する美しい色であり、生き生きとした色合いがやはり美しい。

山本さんのお話によると、こういう文化財を修復する場合、常に議論となるのが「どこまで修復するか」ということの問題なのだそうだ。

その辺りの考え方はヨーロッパなどの海外と日本とでも異なる。

基本的に石造りの海外の建造物は、そのままの姿かたちで残すことが基本方針となる。一方で木を建材として使用している日本の建造物は、どうしても「そのまま」残すということができない場合がある。木は時間の経過とともに腐ったり、あるいはシロアリ等害虫の被害を受けたりするからだ。

だから、使用に耐えうる部分はそのまま残し、腐敗が進行したりして次世代までそのままの状態で残すことが困難な部分のみを切り取って新しい部材で補強する。

よく見てみると、赤門の柱にも、部分的に切り取られて継ぎ足された箇所が何か所かあることが認められる。

事前の調査で、思ったよりもシロアリによる被害が拡大していて、新しい材料で補わざるを得なかった箇所が多くなったとのことだった。

また、古い建物になればなるほど、過去に何回もの修復が行われている。どの時代の修復にまで戻せばいいのかも、非常に難しい問題なのだそうだ。

そう言えば、改修が済んだばかりの姫路城がイメージよりも白くなり過ぎていて周囲の不評を買っていたことを思い出した。また、同じく修復なった日光東照宮の陽明門がきらびやか過ぎてやや下品な印象になってしまっていたことも記憶に新しい。

仏像も、当時は極彩色の装飾が施されていたようで、CGにより復元された奈良・新薬師寺の十二神将像などを見ると、色使いがけばけばしくて、幾星霜を経て落ち着いた色合いのイメージが180度変わってしまう。

やがて時間が経過していくにしたがってそういう違和感は薄れていくのかもしれないが、修復に携わる方々が常に抱えている悩みであり矛盾である。

ともあれ、赤門は色鮮やかに復元された。

門を構成している個別のパーツ毎に山本さんから詳細な説明を受けた。この門は4本の主たる柱から成るいわゆる四脚門であるが、2本の親柱だけでなく残り2本の控柱まで丸い形の柱となっているのは、稀なケースなのだそうだ。控柱の左右には袖塀が併設されていてより重厚さを増している。

門の前に置かれた下乗と彫られた石は、小野道風の筆跡と伝えられている。

私たちは静々と門をくぐり、緑のトンネルのような青もみじのなかを上へと参道を登って行った。

楓の木々によって太陽の光が遮られているので照り付けるような暑さではなかったけれど、反対に坂道を登っていくので全身に力を入れなければならず、途中で立ち止まると汗が体中から噴き出してくる。

 

かなり登ったところで川を渡る橋があって、私たちはその橋の袂で再び山本さんの話をお伺いする機会を得た。

今度は2番目のテーマである百済寺樽に関する話である。

この百済寺境内を流れているやや深い渓谷のような川は「五の谷川」と呼ばれているそうだ。山本さんの説によると、一の谷川から順番に五の谷川まであるのではなくて、大雨が降って川が増水した時などに、上流から大きな岩がゴロゴロと転がってきて、その音が擬音化されてごろごろ川となり、それが転訛して五の谷川になったのではないかとのことである。

等々力(とどろき)という地名なども、川の水が流れる音から来ているということを民俗学者の柳田(やなぎた)国男さんの本(『地名の話』)で読んだ記憶がある。

山本さんがこの場所で立ち止まられたのは、水がポイントになっている。

百済寺の山に降った雨水が豊富に流れ込むこの川の水こそが、日本酒造りに非常に重要な役割を果たしているということである。

旨い日本酒造りには、良質の酒米と水とが欠かせない要素になっている。

酒米は、米どころ近江のお米であるので問題はない。

百済寺は湖東平野の水源地帯に建てられた寺なのだそうだ。したがって水も、鈴鹿山脈系統の山々に降り注いだ良質の水が供給されるため、心配は無用である。

百済寺には、旨い酒が造られる要素が揃っていたことになる。

酒造りと言うと、今は金属製のタンクの中で醸造される様子をイメージするのではないかと思われる。あるいは、もう少し昔ながらの製法だと、大きな樽に満々と湛えられた麹菌の入った酒の素を木製の長い柄杓のようなもので杜氏がかき混ぜている光景を思い浮かべるかもしれない。

私も同じ口だったのだが、山本さんの説明によると、百済寺樽を造っていた当時には、金属製のタンクは言うに及ばないが、木製の大樽を作る技術もまだ確立されてはおらず、備前焼や常滑焼などの固く焼き締められた大きな壺をいくつも並べて、壺の中で酒を造っていたとのことである。

現に百済寺の境内からは、壺がたくさん並べられた状態で出土した例がいくつかあるのだそうだ。それらの壺がすべて百済寺樽の醸造に使用されていたものかどうかはわからない。もしかしたら、酒以外にも味噌や醤油を造っていたものかもしれない。

しかし間違いなく百済寺樽は、大きな樽ではなくて、たくさん並べられた壺で造られていたということがわかった。

私には初耳の、たいへん参考になる話だった。

そう言われてみてなるほどと思ったことだが、先日テレビを見ていたら鹿児島県で黒酢を製造している光景が映し出されたことがあった。そこには広い敷地一面に甕が並べられていて、その甕の一つ一つで黒酢が醸造されていたのだ。

酒も酢も基本的な製造方法があまり変わらないことを、高島市の淡海酢という酢の醸造元の見学をした時に学んでいる。

少しだけ百済寺樽醸造の光景がより確かなイメージとなって私の脳裡に描かれていった。

しかしそうであるならば、「百済寺樽」という表現は少し正確ではなくて、むしろ「百済寺壺」とでも表現しなければならなかったのではないか?との新たな疑問が私の頭の中に湧いてきた。でも百済寺壺だとあまり魅力的なお酒をイメージすることができない。百済寺樽はやっぱり百済寺樽のままでいいと改めて思った。

百済寺樽は、思わず飲みたくなってしまうような、すてきな名前だと思う。

 

次に私たちは、通行止めの鎖をまたいで、普段は通ることができない道を山本さんの案内で歩いて行った。もちろん、事前にご住職から通行の許可をいただいているそのことである。

この道の先の方に、発掘済の僧坊跡が残されているそうなので、まずはその見学に行くためだった。

300坊と称された百済寺の僧坊跡の一つがかつて発掘調査されて、当時の様子を窺い知ることができるとのことで、山本さんの解説をお聞きしながら当時の僧坊での僧たちの生活について想像を逞しくさせた。

発掘調査されたと言っても、素人の私たちが見る分には、単なる平らに区画された草茫々の空き地にしか見えない。ところが山本さんの説明を聞いていくうちに、その草茫々の空き地の中に僧坊の建物がイメージされて、僧たちの生活ぶりの一端を垣間見ることができるようになったのだから、まったく不思議だった。

この僧坊跡は、僧坊としてはあまり大きくはなく、師となる僧とその弟子が2人くらいの少人数で暮らしていたものと思われるとのことだった。

百済寺には女性は住んでいなかったと言われている。そのことの証拠として、彦根の大洞(おおほら)弁財天の建立に当たって藩内の一般庶民から一人一文の寄進を募った際に、百済寺からもまとめて寄進があった。その際の奉加帳に女性の名前が一人も記載されていなかったことから、そのように理解されているそうだ。

僧坊跡

僧坊跡の背後には高い石垣が築かれていた。その石垣の手前に今ではわかりにくいけれど、井戸が一つ掘られていた。山での生活にとって、水は貴重な資源であったことがわかる。

僧坊の手前にも小さな窪地があって、そこにも水が溜められていたものと推測されている。敷地自体がそれほど広くはないので、僧坊そのものも比較的ささやかなものであったのだろう。

そこで寄り添うようにして師弟が日夜仏教の修行に明け暮れていた。そんな光景を瞼の裏に思い描いた。

厳しい修行の合間に、もしかしたらここの僧坊に住んでいた僧たちも、百済寺樽の恩恵に浴していたかもしれないと思うと、ますます僧たちに親近感が湧いてくる。

その僧坊跡からさらに山道を上がっていった上の比較的広い僧坊跡から、いくつもの常滑焼の壺が整然と並べられた状態で発掘されたという。

壺は動かないように下部を土中に埋められて使用されていたようだ。この地点よりももっと下方の今の本坊近くでも、同じような壺がいくつも並べられているのが発掘されているとのことだ。

広い百済寺の境内の何ヶ所かで、密かに?百済寺樽が造られていたかもしれないと思うと、ミステリアスな雰囲気が芬々(ふんぷん)としてくる。当時の様子を想像力を逞しくして想起してみることは、なかなかにおもしろい。

 

百済寺樽を醸造していた跡かもしれない多数の壺の出土地点を後にして、私たち一行は本坊近くまで戻り、弥勒半跏石像が建立されている広場で足を止めた。

この弥勒半跏像は、座高1.75メートル、全高が3.3メートルもある石造で、紀元2000年を記念して百済寺の秘仏とされている金銅製の弥勒像を拡大して制作されたものだそうだ。

 

弥勒半跏石像

秘仏の実際の大きさは、27センチメートルのたいへんに小さなものである。

上野の国立博物館に法隆寺宝物館という建物がある。東京国立博物館のなかでも非常にユニークな展示館で、明治11年(1878)に法隆寺から皇室に献納され、戦後になって国へ移管された法隆寺の宝物が300点余り保管され展示されている。

そのなかで、6世紀から8世紀までに制作された金銅仏がざっと60体以上展示されている不思議な部屋がある。同じような仏像が一体ずつ同じような展示ケースに入れられて、一つの部屋の中にびっしりと並べられているのである。

概ね30センチくらいの金銅仏ばかりで、そのなかに菩薩半跏像が10体ほど含まれている。百済寺も聖徳太子に所縁のある寺であるから、おそらくは東京国立博物館の法隆寺宝物館に展示されているような菩薩半跏像のうちの一体が百済寺にも伝わったということなのではないかと想像している。

右足を左膝の上で組み、右膝の上に肘を乗せた右腕の人差し指を右頬につけるようにして思索に耽っているお姿の像である。

半跏思惟像と言うと、京都・広隆寺の半跏思惟像と奈良・中宮寺の半跏思惟像をすぐに思い浮かべるのではないだろうか。

どちらの像も、神秘的な笑みを浮かべて何かを考えていらっしゃるような表情をしていて、慈愛に満ちた美しくて優しい雰囲気を持った菩薩像である。両仏ともに、日本を代表する仏像であると言って過言ではないだろう。私も大好きな仏像の一つだ。

弥勒半跏像は日本だけでなく、韓国でも見ることができる。平成28(2016)年に上野の国立博物館で奈良・中宮寺の半跏思惟像が展示された時、韓国からも韓国国立中央博物館所蔵の銅製の半跏思惟像が対峙する形で展示されて話題となった。

百済寺の弥勒半跏像は、どちらかと言えば中宮寺の半跏思惟像よりは韓国の半跏思惟像の系統に属している像のように思われる。

とても温和なお顔をされていて心もちふっくらとした姿かたちの観音様である。これからお昼ご飯を挟んで、私たちは百済寺のお庭に面した本堂の廊下で、この弥勒半跏像を写仏しなければならない。果たしてうまく描けるかどうか、心許なく思いながら弥勒半跏像のある広場を後にして、本堂へと向かった。

 

それにしても、今年の夏は本当に暑い。

広い百済寺の山中を歩き回り本堂に辿りついた時には、着ていた作務衣が汗でびっしょりになっていた。夏だから暑いのは当たり前ではあるのだけれど、今年の夏は格別な気がする。

それでも、山中を歩き回った後なので、本堂の裏側の縁側に腰掛けて食べたお弁当はとてもおいしかった。

楓の木々の緑色が眩しくて、生命の源のようなその鮮やかな緑色を眺めながらお弁当を食べることができるなんて、とても贅沢なことだと思った。

暑いけれど、そよ風が建物と建物の間を縫うようにして吹いていく。そのわずかな涼感を肌に感じることにも、幸せな気持ちを味わうことができた。

ちょうどお弁当を食べ終わったころ、どなたかが庭に面した本堂の板戸に緑色のカエルが張り付いている、と言って教えてくれた。

これだけ自然が豊かな百済寺の境内なので、カエルの一匹や二匹くらいいても不思議はないと思ったが、そのカエルというのが国の天然記念物に指定されているモリアオガエルであるということを聞いて、すぐに私の身体が反応した。

モリアオガエル

詳しいことは知らないけれど、モリアオガエルというカエルは水に面した木の上に卵を産むという珍しいカエルであるということは知っていた。木の上で孵化したモリアオガエルのオタマジャクシは、水中に落下して水中で成長する。

私の知っていることと言えばその程度のものでしかなかった。もちろん、実物を見たことはなかったので、逃げてしまう前に是非ともお姿を拝見しておかなければと思い、急いで本堂の庭側に回ってみた。

ぴょんぴょん跳ねて逃げていくカエルを想像していたので急いだのだが、モリアオガエルは身動き一つしないで本堂の廊下の板戸に張り付いていた。

アマガエルのようなもっと小さなカエルを想像していたら、意外と大きいことにまず驚いた。トノサマガエルをさらにひと回り大きくしたようなサイズだろうか。色は鮮やかな緑色をしていて、目がとても大きいことが特徴的だった。

人が寄ってきても恐れる様子はなく、前足の手のひらを大きく拡げてじっと板戸に張り付いたままでいる。これがモリアオガエルなのか。想像していたカエルとは違っていて愛くるしいので、何枚も写真を撮ってしまった。

 

背後の板戸にモリアオガエルが張り付いた状態のまま、時間となり午後の百済寺での寺子屋の授業が始まった。

本堂の庭に面した廊下に緋毛氈を敷いて、その上に長机が並べられていた。

百済寺では通常このようなことはやっていないそうなので、私たちのためだけに準備された特別な仕様ということになる。ご住職のご厚意をつくづく感じる。

最初にご住職のお話をお聞きした後、早速、写仏の作業に取り掛かる。昨年は般若心経を写経して、その後でその般若心経を読経したのだそうだが、2年連続で参加されているオーナーさんもいることから、今年は少し趣向を変えて写経の代わりに写仏となったとのことだった。

ご住職からは、ひと線ひと線に心を込めて描いて、けっして疎かにすることがないように、との戒めの言葉をいただいた。

まったくその通りだと思った。

それはそうなのだが一方で、仏様の絵など今まで描いたこともなければ描こうと思ったこともなかったので、果たして私に描けるものだろうかと、不安の方が先に立った。

写仏用に弥勒菩薩の絵が2枚配られた。1枚は弥勒菩薩全身像が描かれた線画で、もう一枚は弥勒菩薩のお顔だけが描かれたちょっと複雑な絵であった。2枚配られたのは、最初に全身像の方から着手して、時間に余裕があればお顔の絵にチャレンジするようにとの趣旨だそうだ。

私は、字を書くこともけっして人に誇れるレベルではないけれど、絵を描くことに比べたらそれでも数倍マシなほどに絵を描くことが苦手である。

写仏と聞いて最初、仏像を見せられて、その仏様を写してみるようにと言われたらどうしようかと内心絶望的な気持ちになっていたのだけれど、弥勒菩薩の線画を上から写すだけと聞いて、これなら絵の描けない私でも何とかなるかもしれない、と少しだけ安心した。

ただし、そもそも筆ペンを使うこと自体が日常生活では皆無と言ってもいい。筆ペンの使い勝手を体得するだけでも最初は難しいことかもしれない。

まずは弥勒菩薩の頭の部分から、恐る恐る筆を下ろしていく。

軽くと思って筆先を紙面に触れただけなのに、筆先から思った以上の墨が紙の繊維に染み出してしまって、慌てて紙から筆を離す。相当繊細に筆先をコントロールしていかないと、細い線を描くことが難しいことを、いきなり思い知らされた。

私は細心の注意を払いながら右手の筆先に神経を集中させた。

線を描き進んでいくに従い、少しずつ筆ペンの扱いにも慣れてきて、上から順に弥勒菩薩の像が次第に形づくられていった。

考えてみれば、原画があってその線を上からなぞっているだけなのだから、小学生の子どもでもできることをしているに過ぎない。

むしろ子どもたちの方が、こういう作業には慣れているだろうし得意かもしれない。大の大人が情けないことだと思った。しかしそういう気付きがあったということだけでも、今日の写仏は私にとって大きな成果があったと言える。

慣れてきても、ご住職の教えの通りに、ひと筆ひと筆を疎かにしないようにと自らを戒めながら筆を進めた。

自分でも意外なほど、スムーズに描けたと思った。

心は極度に集中しているのだけれど、そういう状態の方がかえって、不思議と池の鯉が跳ねる音や水の流れる音がはっきりと聞こえるものだということを知った。

ひと通り書き上げて周りを見ると、まだほとんどの人は半分も進んでいないような状況だった。

左が原紙 右が写仏

私は思い切って、2枚目の弥勒菩薩像の写仏への挑戦を始めた。

線の太さがほぼ均一だった1枚目の線画と異なり、2枚目の絵は線の太さが自在に変化し、墨の濃淡が表現されている。より高度な技術が要求される絵だった。

しかし私は、何事にも挑戦することがたいせつなことだと思った。全部を写し取れなくても、写せるところだけでもいいではないか。

私は迷うことなく2枚目の絵の写仏に取り掛かった。

2枚目の絵は、弥勒菩薩の全身像ではなくお顔の部分のみを大写しにした絵である。まずはお顔の輪郭の部分を中心に、太い線の上をなぞっていく。

意外といけそうだ。

線の太さが自在に変わっている絵なのでまったく同じようにはとても写しきれないけれど、そこはあまり気にしないで、自分が描ける太さでお顔の輪郭をなぞっていった。

続いて、目と鼻と口を入れたら、それなりに弥勒菩薩のお顔になってきた。

私の机の前を通られたご住職が、「きれいに描けていますね。」と声をかけてくださった。

絵のことで人に褒められたことなど、私の人生のなかで一度もなかったことなので、恐縮してかえって筆を握る手が固くなってしまった。

薄いぼかしのところは難しくて私の技術の及ぶところではなかったけれど、できる限りの「抵抗」は試みてみた。

やがて時間となり、ご住職を中心に描いた絵を示しながら、みんなで記念写真を撮った。板戸に張り付いたままのモリアオガエルも一緒に写真に収まってくれた。

 

その後、ご住職の声に合わせて、皆で般若心経を読経した。

由緒ある百済寺の本堂の廊下で、池に面した庭に向かって般若心経を読経するなんて、なんて贅沢なことをさせていただいているのだろう、と感動した。

 

強い陽射しが照りつける暑い一日の行事であったけれど、稲が着実に成長している様子を自分の目で確かめることができた。また、百済寺についてより深い知識を得ることができて、さらに写仏や読経をして身も心も豊かにまた清らかになって、百済寺を下山することができた。

次にここを訪れるときは、秋の収穫の時である。

その時まで、病気や害虫の害に遭わず、台風や大雨の被害も受けず、順調に稲が育っていってくれることを祈って、私は百済寺を後にした。