百済寺樽 番外編
百済寺樽 番外編
2018年11月25日 日曜日
百済寺樽のプロジェクトとは直接の関係はないけれど、今年は春先から何度も百済寺を訪れているので、秋の紅葉の季節の百済寺も是非見ておきたいと思い、個人的に百済寺を訪ねてみた。
かつては毎年のように紅葉の季節になると湖東三山を訪れていたのだが、滋賀県だけでも美しい紅葉の名所がたくさんあって、ここ数年はなかなか湖東三山を訪れる機会がなかった。
友人に入口の駐車場まで送ってもらって、観光客の人の流れに乗って百済寺の境内を歩いて回った。
5月の田植えの時にも7月の生育状況視察の時にも、ほとんど参拝客が疎らで静かだった百済寺が、今日はとても大勢の人で賑わっていた。
静かな百済寺の方が心が落ち着けて好きだけれど、秋の季節にはこの賑わいがやっぱり似つかわしい気もする。
かつて私たちが腰掛けてお弁当を食べた本堂裏側の縁側を眺めながら、拝観料の600円を払った。
道順は、まずはお庭の拝見からである。人の流れに沿うようにして、フクロウの焼き物が出迎えてくれる柱の間をくぐる。
目の前には、見慣れた池とその向こう側の築山が見える。本堂の前から池越しに見る紅葉は、それほど赤くはなかった。
それでも、あの若々しい緑一面だった百済寺の庭がしっとりと秋色に染まっている光景を見ていると、一年のなかでの時の移り変わりをしみじみと感じる。
あの時に見たモリアオガエルは、どこへ行ってしまったのだろうか。
私は本堂の縁側に腰掛けて、暫しの間、穏やかな時間の余韻を楽しんだ。この廊下に非毛氈の絨毯を敷いてもらって、私たちは写仏と読経をしたのだった。
やがて飛び石伝いに池の向こう側に渡り、天下遠望の庭の方へと池の背後の築山を登っていった。
池の右奥、ちょうど築山の登り鼻あたりに一本の赤い楓の木があった。光線の関係で池側から見ると普通の楓の木だったものが、山側に転じてから振り返って見てみると、本堂の甍を背景に逆光の光を受けて赤やオレンジに輝いて見えた。
木の幹の間からは池の水面がきらめいている。
なかなかに美しい写真をカメラに収めることができて、私はうれしかった。
その先の左手にちょっとした平らな土地があって、その入り口に1本の背の高い楓の木が立っていた。
ここもかつては僧坊が建てられていた場所なのだろう。その僧坊に住む僧が、入り口に目印となる楓の木を植えたのかもしれない。
百済寺の紅葉
ちょうど本堂の方角から太陽の光が射し込んでいて、下から見上げる感じで陽の光を通して見る紅葉は絶妙の色のバランスで、とても美しかった。
百済寺の紅葉は、いわゆる深紅に燃えるような色の紅葉は少ない。やや薄めの赤い色なのだが、一つの色で統一されているのではなくて、赤い色からオレンジ色を経て黄色い色まで、様々な色の葉が一本の楓の木に寄り集まって一つの色を構成している。
そういう意味ではとてもやさしい色づかいの紅葉だと言えるだろう。背が高い木が多くて、自然と下から見上げる形になる。今日のようにきれいに晴れた日には逆光の位置で太陽の光を通して紅葉を見ることになり、光の加減によって楓の葉が輝いて見えて美しい。
私は少しずつ角度を変えながら、何枚もカメラのシャッターを押し続けた。
百済寺の紅葉
その一本の楓の木からさらに細い道を登って行くと、天下遠望の展望台に至る。ここから望む景色は、いつ見ても心が洗われる思いがする。
ご住職の濱中さんによると、この方向の延長線上にかつての百済国があったという。日本に帰化した百済の人たちが遠く我が故郷である百済の国を望む望郷の景色だったのだそうだ。
百済国は660年に唐によって国が滅ぼされてしまったから、この地から百済の方角を眺めたという百済の人たちにとっては、国が滅亡してしまった後にかつて在りし日の百済の国を偲び、万感の想いを胸に抱いての望郷となったのであろう。
単に距離が離れていて帰りたくても帰れないのではない。もちろん距離も離れているけれど、彼らにはもう帰るべき国そのものが無くなってしまったのだ。自分の故国がないということほど悲しいことはない。
天下遠望の庭の眺望図
今は、遠くに比叡山を望み、微かに琵琶湖を認めながら太郎坊宮を眺め、豊かに拡がる湖東平野を愛でる絶景を展望できる場所になっている。
湖東三山はどれも高い山の上に建てられているけれど、これほどの眺望が楽しめる寺は百済寺だけである。
心ゆくまで百済寺の展望を楽しんだ後、私は本尊の植木観音が祀られている本堂に向けて山道を歩いて行った。
途中の仁王門に奉納された大きな草鞋が目を惹く。
この草鞋はつい最近、地元の有志の方の手によって何年振りかで新調されたばかりのものだ。
大草鞋の下に奉納者の名前が列挙されている木の看板が掲げられていた。ほとんどの人が山本さんなのでおかしくなってしまった。
ここは江戸時代には山本村という名前の村で、山本村に住む人はみな山本さんであったことは、以前も書いた。
百済寺仁王門
本堂も大勢の参詣客で賑わっていた。百済寺の本堂は、ご住職の粋な計らいで靴を脱がずに土足のまま外陣まで入ることができる。
ほんの少しのことだけれど、靴を脱いで本堂に上がるのはなかなか煩わしいものだ。ご住職のやさしいお気持ちが本当にうれしい。
百済寺本堂
ご本尊の植木観音は秘仏のために拝見することができないけれど、お前立ちの仏様を拝み、脇仏である如意輪観音(膝立半跏思惟)像と聖観音(拈華微笑)像およびその横の聖徳太子孝養像を拝み、私は本堂を後にした。
ご本尊である植木観音は、聖徳太子が立ち木のままの状態で彫られたとの言い伝えが残る十一面観音像で、天正元年(1573)4月7日の信長による焼き討ちに際しては、その前日に東へ8キロも離れた奥の院に遷座させて難を免れたと伝えられている。
2メートル60センチ(蓮台を入れると3メートル20センチ)もある大きな仏様だそうだから、差し迫っている信長の攻撃を前にして急ぎ遷座させるのはさぞかし難儀なことであっただろうと想像される。
脇仏としてご本尊の左右に控えるのは、左に如意輪観音像、右に聖観音像である。いずれも明応8年(1499)および明応7年(1498)に仏師の院祐が制作した名品である。信長による焼き討ちの時には、ご本尊の植木観音とともに堂外に持ち出されて難を免れている。
ここ百済寺をはじめとして、太郎坊宮、教林坊などこの辺り一帯には聖徳太子の旧蹟が多数存在している。火のないところに煙は立たずと言うけれど、きっと聖徳太子の時代にこの地域と聖徳太子との間に何らかのつながりがあったであろうことは想像に難くない。
ご本尊の植木観音の右隣の厨子に収まっているのが、極彩色の聖徳太子孝養像である。この像は、百済寺再建を命じた3代将軍徳川家光が本堂の落慶を記念して奉納したものと伝えられている。
元は、家光の乳母である春日局が大奥で拝んでいた像であったと言われている。
本堂裏手のもう一段高くなった場所に、旧本堂跡と五重塔跡の礎石とが残っているようなのだけれど、五重塔跡に通ずるであろう本堂に向かって右側の道は通行止めとなっていた。
旧本堂跡に通ずるであろう現本堂に向かって左側の道は特に通行止めにはなっていなかったので、試みに石段を登ってみた。
しかしその石段は途中で終わっていた。凹凸のある足場の悪い場所を渡り、何とか現本堂の裏手にあたる広い平坦な場所まで行くことはできたのだけれど、そこが旧本堂跡かどうかを確認する術がなかった。
旧本堂跡?
その場所は、木と草とに覆われて岩が点在している荒れ果てた場所だった。
旧本堂は信長の焼き討ちによって焼失したもので、今の本堂のある場所の10倍の広さを持つ土地に、今の本堂の4倍もある7間4面2層の大規模な建造物が建立されていたと伝えられている。
今はその3分の2の面積が土砂崩れのために埋もれてしまい、往時の面影を想起することは叶わなくなってしまっているそうだ。
百済寺には、こうした未整備の場所がまだたくさん残されている。改めて信長が行った焼き討ちの残酷さを想うとともに、失われたものは百済寺樽だけではなくてたくさんあったということを改めて思い知った。
一つ一つ整備をしていくだけでも、膨大なエネルギーを必要とする作業になるだろう。
誰も訪れることのない静寂の世界から、鐘撞堂のある喧騒の世界へと再び戻った。
だらだらと緩やかな下り坂が続く道を歩いて、本堂のあるところまでさらに戻ってきた。
この後、湖東三山の金剛輪寺と西明寺に行きたいのだが、シャトルバス乗り場がわからなかった。交通整理をしていたガードマンに尋ねてみたところ、シャトルバスは下の赤門のところから出るとのことだった。
ただし、始発便が12時50分発だと聞いて、私は唖然とした。まだ1時間半以上あるではないか。これから百済寺を見るのであればちょうどいい時間なのだが、すでに百済寺を見終わってしまった人間にとっては、途轍もなく長い時間に思える。
とは言え、まずは赤門まで降りてみることにした。
この道は、7月に比嘉さんによる寺子屋学習の一環としてみんなで登ってきた道の反対ルートになるから、迷うことなく赤門まで行くことができた。
百済寺赤門
赤門に到着して、12時50分発のバスが出る前に何とかして金剛輪寺まで行く方法はないだろうかと考えた。
周囲を見回してみたけれど、タクシーの姿など見当たらない。携帯のアプリを使ってタクシーを呼び出そうとしたけれど、応答しない。タクシー会社に電話をしてみたけれど、空きのタクシーがないと断られる。歩いて八日市駅に出るには時間がかかり過ぎる。
いろいろ試みてみた結果、何もしないでおとなしくここでバスが出るのを待つのが最良の方法だとの結論に至った。
せっかくなので、赤門の周りを何度も巡ってじっくりと観察をした。それはそれでとても勉強になることだった。
夏の時の復習を十分に行って、私は赤門の近くの石に腰掛けてバスの発車時間がくるのを待った。
通行止めになっているが、よく見ると赤門を背にして左手に伸びていく道があって、その道の入口には、峻徳院殿御墓道と彫られた石柱が建てられていた。
井伊直滋墓所の石柱
あぁ、ここが井伊直滋(なおしげ)の墓所へと続く道なのか。私の心は思わずさざめき立った。
井伊直滋は、井伊家2代藩主井伊直孝の長子として生まれたが、父直孝との間での折り合いが悪く、藩主となることを許されず廃嫡のうえ百済寺に預けられ、寛文元年(1661)に当地で50歳の短い生涯を終えられた人である。
亡くなったのちにも彦根藩の意向を慮ってか、長いこと葬儀が行われなかったとも伝えられている。
つい最近、葬儀が行われた永源寺にて直滋の甲冑が発見されたとして話題になった。その甲冑の兜に付けられた天衝(てんつき)(角のような飾り)は、兜の脇に立てられた藩主の格式を示すものであったという。
井伊家に纏わる話でありとても興味があるので一度は墓所に詣でたいと思っているのだが、普段は立ち入り禁止となっているために実現させることができない。
長らく赤門の前で待った後、やっとシャトルバスが発車する時間になって、私は無事に次の金剛輪寺に行くことができた。
穏やかに晴れた暖かな初冬の一日で、こうして何もしないで赤門の前で時間を過ごすのも、とても贅沢な時間の使い方だと思った。