Ⅱ.江戸編 3. 彦根藩下屋敷(明治神宮)

久しぶりにJRの原宿駅で降りた。駅前は相変わらず、若い女性たちでごった返していた。竹下通りを中心とした一角は、いまだに全国の若者たちのメッカになっている。私にはとてもついて行けない感覚だが、駅に降り立った瞬間から独特のパワーが漲っているのが、原宿駅である。

原宿駅には、若者たちのほかに、外国人も多い。彼らのお目当ては竹下通りではなく、線路の反対側にある明治神宮のようだ。外国からの観光客が多いようだが、国内に住んでいる外国人も結構来ているのではないか。

clip_image006 明治神宮大鳥居

東京で日本らしさを感じられるスポットの一つが、明治神宮なのであろう。たしかに、広大な敷地を進んでいくと、神々が降臨した太古からこうであったであろうと思わせるような神々しい気持ちになってくる。

鬱蒼と生い茂る木々の間に玉砂利が敷き詰められた広い参道を歩き、金色の菊の御紋が眩しい大鳥居を潜ると、神宮のこの森の奥の社には尊い神様がおわすに違いない。思わずそんなふうに思えてくるから不思議だ。

明治神宮は、正月三が日の初詣の参詣客数が日本で一番多い神社仏閣として有名である。どのようにして数字を算出しているのかよくわからないが、警察庁が発表する参詣者数では毎年300万人を越える人出で、もう何年も連続でダントツ1位をキープしている。

そんな日本人にも外国人にも極めて親しい場所が、明治神宮なのである。

しかしながら、この明治神宮こそが、彦根藩井伊家下屋敷跡であったということは、ほとんどの人が知らないのではないだろうか?かく言う私でさえ、この文章を書くために調べものをするまでは知らなかった。

clip_image004 明治神宮御苑

航空写真で見ると、明治神宮一帯は広大な森である。この森は江戸時代よりもはるか以前から存在していたものと思い込んでいた。なにせ神々が宿る森なのだから。ところが実際は、明治天皇を偲んで大正9年(1920年)に創建されたというから、まだ100年も経っていないという事実にまず驚く。今では、樹齢何百年かというような太くて高い木々が随所に見られ神寂びた雰囲気を作り出しているが、大正4年(1915年)の造営前の写真を見ると、木々は疎らで畑や荒地であったことがわかる。

「歴史」も「神」も、人工的に作ろうと思えば100年足らずで作れてしまうという事実に、私は恐ろしさを感じた。

実際に尋ねてみてわかったのだが、江戸における彦根藩の屋敷は、上屋敷も中屋敷も下屋敷も、いずれもかつては加藤清正が領していた屋敷であった。加藤家は、清正の子の忠広の代に改易となり、その後に井伊家がそのまま土地と屋敷を拝領し、幕末に至った。安易と言えば安易な幕府の対応である。

加藤清正は元々が豊臣家の家臣であり、関ヶ原の戦いでは徳川方に付いたものの、譜代の井伊家と違って徳川家にとっては所詮は外様であったということなのであろう。二代目の忠広が暗愚であったことも災いした。九州の雄は、いとも簡単に歴史の舞台から抹消されてしまった。

明治神宮には、ここが彦根藩の屋敷跡であったことを示す痕跡は私が知る限り何もないが、かつて加藤家や井伊家の庭園であったと言われる明治神宮御苑には、清正井という井戸が残されている。加藤清正本人が掘った井戸であるかどうかは定かでないが、江戸時代の屋敷跡を知る唯一と言っていい遺構だ。

明治神宮御苑の中に入るには、入場料が必要となる。そのせいで、あれほど参道を歩いていた人の群れは御苑内ではほとんど見られず、静寂が周囲を支配する。森のように見える明治神宮の敷地の中でも最も中心に位置し、最も自然が残されているのが明治神宮御苑なのである。

ここには加藤清正の時代からの庭園が残されている。それ以外の場所は、直弼亡きあとの造営であるが、もしかしたらこの庭園だけは直弼が見たかもしれない風景なのだ。そう思うと、目に入ってくる緑の木々も清らかに流れる水も、特別なものに思えてくる。

clip_image002 清正井

清正井と呼ばれる井戸は、縦に細長い御苑の最も北のはずれに位置している。今でもこんこんと澄んだ水が湧き出(い)でている。訪れる人は誰も、丸い井桁の中に手をかざして、冷たい水の感触を確かめる。清正の時代から絶えることなく湧き続ける自然の水の恵みに驚かされる。

この清正井から流れ出た澄んだ水が水源となり、豊かな水を満々と湛える南池を構成している。上流には山里の長閑さを思わせるような風景の中に菖蒲田が作られ、池の周囲にはいくつかのあずまやが配されている。今私は、東京の都会の真ん中にいるのだという事実をすっかり忘れている。こんなに豊かな自然に囲まれた世界があったということに、素直に驚いている。

残念ながら、ここ明治神宮では、直弼の足跡を見つけることはできなかった。もしかしたら、御苑の一部は直弼が見た風景だったかもしれない。しかし、せいぜいそれだけだ。ここは明らかに、後世になってからある意図をもって作り上げられた「聖地」であると思った。敷地の広さや建造物の大きさで物事の価値を決めることはできない。抹殺という言葉が正しいのではないだろうか。それは直弼に対する冒涜である。上から黒いもので塗り潰されてしまった古書を見るような、そんな思いを抱いて私は人々の喧騒から離れていった。