Ⅱ.江戸編 5. 桜田門

桜田門を訪れた私にとって非常に意外だったことは、日本史の中でも極めて有名な事件であるにも拘わらず、桜田門の周辺には事件について記述された説明板や標柱等がどこにも見当たらなかったことである。

誰もが知っている事件だからであろうか?

それにしても、何らかの「痕跡」が残されていてもよさそうなものであるのに…。clip_image002 桜田門

安政7年(1860年)3月3日は、太陽暦で言うと3月24日にあたるという。春分の日も過ぎて、普通の季節であれば春の訪れを感じる季節であろうが、この日は朝からしんしんと雪が降っていた。

一説によると、この日の早朝、井伊家には直弼襲撃の企てがあるとの情報が寄せられていたとも言われている。そうでないとしても、当時の江戸幕府の高度な情報収集能力から考えれば、危険の兆候はかなりの確度で察知されていたものと考える。

病気と称して江戸城への出勤を取りやめることもできたであろうし、増やそうと思えば供回りの人数を増やすこともできたのではないか。あるいは替え玉を使うことだって不可能ではなかったはずである。本当に命を惜しむのであれば、いろいろな回避策を取れたはずなのに、直弼は敢えて、いつもとまったく同じようにして上屋敷を出立した。

井伊家の門からは、やむことなく降り続ける雪が視界を遮って、目と鼻の先にある桜田門でさえ見えなかったかもしれない。

早朝に愛宕神社に詣でた水戸浪士等は、8時頃には桜田門に到着していたようである。今と違って長靴もなければ使い捨てのカイロなどもない時代である。雪の降りしきる屋外に長時間滞在するだけで彼らの体温は奪われ、さぞかしつらい時間を過ごしたことと想像する。もっとも、これから彼らが起こす企てのことを思えば、興奮と緊張とで寒さなど眼中になかったかもしれない。

当時は江戸城に出勤する大名行列を見物することが江戸の一つのブームのようになっていて、見物に便利なようにと大名の家紋が記載された武(ぶ)鑑(かん)という小冊子まで発行されていたそうである。今で言うところのプロ野球の選手名鑑のようなものだろうか。

だから桜田門の周辺で武士が屯(たむろ)していても、一般にはそれほど怪しい風景には映らなかったのではないかと言われている。それにしても雪がしんしんと降り続く日に大名行列を見物するのは、あまり普通の光景とは思われない。ましてや、殺気立った雰囲気はきっと周囲にいた人ならば察知できたに違いない。

彼らは目立たないようにばらばらとお濠側と大名屋敷側とに分かれ、時を待った。

午前9時。直弼の行列がちょうど今の桜田門交差点に差し掛かったところで、突然事件が勃発した。clip_image004 直弼襲撃地点付近の現在

水戸浪士の一人である森五六郎が訴状を掲げて隊列の先頭に近付いた。狼藉者だ。にわかに緊張が走る。そして一発のピストルが発せられてからは、猛烈な切り合いが始まった。

直弼の供回りは60人と伝えられている。それに対して水戸浪士たちは僅か18人。圧倒的な数的有利を直弼サイドは活かすことができなかった。雪の中の行進であったがために、刀の柄に覆いがかけられていて即座に刀が抜けなかったためと言われている。それにしても、三分の一以下の数の敵に対してなす術もなく殿様の首を取られた彦根藩士の弱さは、目を覆わんばかりである。

そこには、井伊の赤備えと称して恐れられた藩創建当時の精兵のイメージはない。長年続いた太平の世の中で、実戦経験もないままに、武士そのものの魂と戦闘術が弱体化していったものと考える。恐ろしさのあまり、殿様の一大事にも拘わらず持ち場を離れ、逃げ去った家来が複数いたことがわかっている。

一方の水戸浪士側も、実際のところは決して褒められた戦闘とは言えなかったようであるが、そこは直弼に対する怨念を強く持っていた分、彦根藩の藩士たちよりは気力において勝(まさ)っていたものと思う。

やがて水戸浪士の稲田重蔵が行列中央に置かれた駕籠に向かって白刃を突き刺した。そして唯一薩摩藩から参加した有村次左衛門が駕籠の扉を開けぐったりとしている直弼を引き出して、首級を挙げた。

直弼はどうして戦わなかったのか?

桜田門外の変のシーンは幾多もの映画やドラマで演じられているが、どれを見ても直弼は駕籠の中でじっと坐ったまま無抵抗である。自分の家来を最後まで信じてじたばたしなかったのか?もちろん、それもあると思う。直弼ほどの胆力のある人であれば、この期に及んでうろたえることなどなかったはずだ。

もう一つ考えられることは、敢えて直弼は水戸浪士らに自分の命を与えようと考えたのではないか?安政の大獄を断行して多くの尊い人命を奪った罪は、直弼自身が一番よく承知していたはずだ。彼らに命を与えることが解決になるとは私は全然思わないが、直弼はこの日が来ることを予め予期していて、自ら従容として死に就いた気がしてならない。

舟橋聖一さんの「花の生涯」では、襲撃の合図となった最初の一発の銃弾が直弼に命中した説を採っている。その可能性も非常に高いと私も思っている。

いずれにしても、たった15分程度の戦闘で、すべてが終わった。

すべてが終わったと同時に、新しい何かがここから急速に始まっていく。clip_image006 桜田門から彦根藩邸跡を望む

直弼の首級を挙げた有村は、追いすがる彦根藩士に後ろから袈裟掛けに切られながらも、直弼の首を抱えたまま逃げ続けた。今で言うところの皇居前広場を濠に沿って駆け続け、大手門の手前、遠藤但馬守の屋敷前で自刃したと伝えられている。今のパレスホテルの辺りであると思われる。本人にとっては極めて不本意であったろうが、有村と一緒に直弼の首は、ずいぶんと遠くまで運ばれてしまったものだ。

直弼の首は、遠藤但馬守邸から飯びつに入れられて戻ってきたそうである。その後、藩医によって胴体と縫合されたと伝えられている。大名は後継ぎがないままに死亡した場合お家取り潰しとなるため、井伊家は直弼の死をひた隠しに隠した。そのための窮余の策が藩医による縫合だったのであろう。

急を聞いて彦根藩邸から藩士たちが駆け付けた時には、すでに水戸浪士たちの影はなかった。直弼の突然の訃報に接した彦根藩邸の人々の驚きと悲しみはいかばかりだったことだろうか。彼らはこみあげてくる悲しみと怒りを堪(こら)え、無残に散らかっている遺品を集め、藩邸に収容したに違いない。この時の血染めの土などを彦根に運んで埋めたのが、前に書いた天寧寺の井伊大老供養塔である。どんな形であれ、直弼の最期に所縁(ゆかり)のあるものを形見として彦根に伝えたいという江戸詰の藩士たちの気持ちであったのだろう。

それにしてもどうして、こんなに藩邸から近い距離での襲撃が可能だったのか?私の疑問は依然として残る。降雪という気候条件が水戸浪士側に幸いしたことは言うまでもない。それに先にも書いたが、歴史的に有名なこの戦闘はたった15分で終わったという。今と違って携帯電話もない時代だから、雪の中を援軍を求めて藩邸に駆け戻ったとしても、時すでに遅しだったのかもしれない。せめてあと15分でも持ち堪えることはできなかったものか?

実に呆気ない最期だった。

一国の宰相が、こんなに簡単に命を落とすことがあってもいいものか?直弼の生涯をずっと追い続けてきた私にとっては、実に残念でならない結末である。類まれな胆力と忍耐力でここまで上り詰めてきた人にしては、なんと淡白な終幕であったことか。

直弼の最期の潔さは、本能寺の変で逝った信長のそれに似ているかもしれない。信長があともう少し生きていたら安土桃山時代の歴史は別のものになっていたかもしれないのと同様に、直弼がなお存命であったならば幕末の歴史もまた変わっていたに違いない。

しかし歴史の残酷さは、埋木舎からはるばる長い旅をしてきた直弼を突然に歴史の大舞台から葬り去った。直弼の役割は、ここまでの運命にあったということか。

今の桜田門に事件を物語る何の痕跡もなかったものだから、ついつい想像のみで桜田門外の変の様子を長く綴ってしまった。直弼が落命した場所は、今は警視庁前の中央分離帯となっている辺りだろうか?

そんな恐ろしい事件があったことなど関係ないとでも言うように、市民ランナーたちがひっきりなしに桜田門の前を通過していく。その光景は、平和そのものである。深い緑色をたたえるお濠の水も緩やかな土居を埋める草々も、心に馴染んでうつくしい。