Ⅱ.江戸編 7. 掃部山公園(桜木町)

clip_image002[6] 掃部山公園直弼像

横浜で直弼に逢えるとは、思ってもいなかった。

桜木町に掃部山公園という公園があることは知っていたけれど、これまで実際に行ってみたことはなかったし、それが井伊掃部頭の「掃部」であることにまでは、考えが結び付かなかった。

桜木町の駅を降りて横浜駅方面に少し戻り、そこから直角に山側に上っていく坂がある。紅葉坂という。有島武郎の「或る女」にも登場する趣のある坂だ。坂の途中、ユースホステルのところを右に曲がってまっすぐに行くと、小山に突き当たる。そこが掃部山公園である。

みなとみらいの高層ビル群が見渡せる眺めのいい高台に、ひっそりと直弼の銅像が建っていた。衣冠帯束姿の厳めしい表情をした直弼だ。どうしてこんなところに?予期せぬ人に偶然出くわしたような気持ちで、私は直弼の銅像に問いかけた。

 掃部山公園のある一帯は、明治5年(1872年)に新橋-横浜間で開通した日本で最初の鉄道を建設した外国人技師たちの官舎があった場所だという。鉄道建設の父と呼ばれているエドモンド・モレルもここに住んでいたとのこと。当時としては最先端技術者集団の華やかな暮らしの場だったのかもしれない。今でも山の斜面には、ブラフ積みと呼ばれるモダンな洋風の石積みが残っている。

その後明治14年に、横浜正金銀行の松井十三郎ら旧彦根藩士によって一帯の土地が買い取られ井伊家の所有になったところから、掃部山と呼ばれるようになった。公園の敷地内の一角には横浜能楽堂がある。明治8年(1875年)に東京・根岸の旧加賀藩主前田斉(なり)泰(やす)邸に建てられ、その後東京・染井の松平頼(より)寿(なが)邸に移築されて昭和40年まで使用されていた関東最古の舞台を復元したものだ。公演が行われていない日には無料で舞台を見学することができる。どこからか稽古の笛の音や鼓の響きが聞こえてきて文化の匂いがふんぷんと漂う雰囲気は、茶道に精通し能楽にも造詣が深かった直弼に似つかわしい。

 今見ている直弼の像は昭和29年(1954年 )に開国100周年を記念して横浜市が制作したものだそうだが、実はこの直弼像は二代目で、初代直弼像は明治42年(1909年)に横浜開港50年を記念して旧彦根藩有志が建立したものだと言う。残念ながら初代の直弼像は、戦時中の金属回収(昭和18年)により取り壊され、溶解されてしまった。

 この初代直弼像を掃部山(当時は戸部の丘と呼ばれていたらしい)に建立するに際しては、当時の世相にはなお直弼を良しとしない者も多数存在していて、建立推進派の旧彦根藩士らと建設反対派との間で抗争があった。恐ろしいことに直弼像の首は、これら反対派の人々によって除幕式の翌日に切り落とされたと言う。

死してなお直弼は、その是非を世に問われていると言うことか。まさに数奇な人生だったと言わざるを得ない。

これらの事実を以って、世に直弼は三度殺されたと言われている。

 一回目は、言わずもがなの桜田門外の変である。二回目が、この初代直弼像の首が落とされたこと。そして三回目が戦時中の金属供出。数々の悲劇を乗り越えて今の直弼像があるという事実に、直弼の執念のようなものを感じたのは私だけだろうか?

 そんな忌まわしい過去の歴史を超越するかのように、直弼像は屹然として青い空の下、港に向かって立っている。直弼と向かい合うように、172mと日本一の高さを誇るランドマークタワーが対峙する。さしもの直弼も、これほどの横浜の発展までは、予見できなかったに違いない。

 今では神奈川県の県庁所在地は横浜であり、一般には神奈川と横浜は同義語のように思われているかもしれないが、江戸時代までは神奈川と横浜は別の街だった。と言うよりも、街だったのは東海道五十三次の三番目の宿場町であった神奈川のみであり、横浜は東海道から外れた寂しい漁村だった。

この横浜に目をつけたのが、一説には直弼であったと言われている。直弼の像が横浜に建つ由縁でもある。日米修好通商条約において神奈川を開港地とすることにしたものの、外国人に神奈川から東海道を通って江戸に攻め込まれるリスクを考慮して、敢えて東海道からは少し外れた場所にある横浜を開港地としたのだと言う。それは反対に、急進的な攘夷派から居留外国人を隔離して守る役割も果たしていたかもしれない。

大阪に近い神戸もまた同様だったらしい。条約上では開港地は兵庫だが、実際の港は神戸に作られた。外国人たちから約束が違うではないかと言われないように、明治4年(1871年)の廃藩置県に際して、横浜がある土地を神奈川県、神戸のある土地を兵庫県と称したのだと言う。

神奈川でなく横浜を開港地とする判断を直弼が行ったとの話を明確に記載した歴史書は私が知る限りは見当たらないが、舟橋聖一さんの「花の生涯」では、直弼が横浜の地を開港地と定めたことが書かれている。直弼自身が考えたことだったかどうかは定かでないが、直弼が幕府の責任者だった時代に決定されたことであることは間違いない。

 そういう意味で私は、横浜と直弼とのつながりを重要なものとして位置づけたい。

2008年は日米修好通商条約が締結されて150年目にあたる年であり、翌2009年は日米修好通商条約に従って横浜が開港されて150年目の年である。

2008年の彦根では、その前年の彦根城築城400年の記念イベントに続いて、日米修好通商条約締結150周年の記念イベント(井伊直弼と開国150年祭)が華々しく開催されている。井伊直弼の偉業を讃えるイベントだ。

2009年の横浜では、開港150周年の記念イベントが着々と準備されている。国際貿易港として目覚ましい発展を続ける横浜市は、人口で大阪市を抜いて東京に次ぐ日本第2位の都市となっている。その礎を築いたのが、この日米修好通商条約であり、井伊直弼である。

 この2つの都市のイベントは、2008年8月23日と24日に実施された「彦根・横浜友好交流ウイーク」でつながった。

 日米修好通商条約の締結なくして横浜開港はなかった訳であり、そういう意味で直弼と横浜とはつながっているということか。そういうことが、一般の市民レベルで意識されるようになることは、好ましいことであると思う。

clip_image002[8] 掃部山公園直弼像

 彦根から始まった直弼を訪ねる旅は、最後に横浜で終えることにする。井伊直弼という、いろいろな意味で毀誉褒貶のある幕末を生きた大名の足跡を追ってきた。私は歴史学者ではないから、私が書いてきたことが歴史の真実であるかどうかはわからない。私が知りうる範囲内で、私の想像力を駆使して、直弼の生涯に迫ったつもりである。

 彦根時代は、直弼とともにたか女や主膳との華やかな交友関係に思いを馳せた。江戸時代は、桜田門外の変を中心に彼の政治思想面にスポットライトを当てて考察を試みた。最後にあたって、私なりの直弼像について総括することにする。

直弼には世界が見えていた。しかしながら、直弼は極めて開明的な君主ではあったものの、あくまでも幕府を中心とした幕藩体制の枠から発想をはみ出させることはできなかった。それはむしろ、直弼の人間的能力の限界ということではなくて、直弼は大名中の大名であり、大名としての立場の限界だったのではないか。

幕末に彗星のごとく現れた名臣として私が尊敬してやまないのが、勝海舟である。海舟は同じように世界が見えていた。世界の見え方自体は直弼とさほど変わらなかったのではないと思う。しかし決定的に異なるのは、海舟は清貧を極めた貧乏旗本の出身であり、幕府という枠に捉われる必要が最初からなかった。幕府の枠に捉われる必要がなかった分だけ、自由な発想を確保し得たのではないか。

先に私は安政の大獄は直弼の意志ではなくて、長野主膳の功名心によって引き起こされたのではないかと述べた。たしかに最初はそうであったかもしれない。しかし次第に安政の大獄の惨状が明らかになっていく過程において、直弼であれば止めようと思えば止められたはずだ。それを止めなかった、あるいは止められなかった背景には、直弼自身が心のどこかにおいてこの行為を是認していた事実があったにほかならない。

権力者であれば誰もが陥る誤謬。それは力に対する妄信と言い換えてもいいのかもしれない。直弼は図らずして幕府の中枢権力者となっていた。幕府の権威を守らなければならない立場、役割を彼は担っていたのだ。彼の発想の中では絶対的であり崩すことができない、いや、崩してはいけない江戸幕府という枠組みを守るためであったら、幾多の人々の命を犠牲にしたとしても、それはやむを得ないとの判断だったのではないか。

歴史に「たられば」はあってはならないものだが、もしも直弼が相も変わらず埋木舎での部屋住み生活を続けていたとしたら、果たして同じような判断を下したかどうか。安政の大獄という苛政は、直弼が幕府大老という役職に立って初めて出来(しゅったい)した発想だったのではないか。

それにしても、強い意志を持った人だった。その意志は、最後まで変わることがなかった。自分の与えられた役割を最後まで全うした直弼の生き方を、私は潔いと思う。太く短い人生の中に、直弼という人間の良いも悪いもすべてが凝縮された人生だった。