曳山タペストリーの謎
4月中旬には、長浜祭りが行われます。
長浜城主だった秀吉によって始められ、秀吉の男児誕生を祝って配られた金を
もとに町衆たちが舞台の付いた曳山をつくり、舞台では子ども歌舞伎が演じら
れるようになりました。
曳山の後面には見送り幕と呼ばれる大きな幕がかけられていますが、12基ある
曳山のうち、翁山と鳳凰山の2基の見送りには、16世紀後半にベルギー地方で
織られたタペストリーが使われています。
翁山の方は2人の武将を中心とした図柄、鳳凰山の方は4人の貴婦人を中心と
した図案です。鳳凰山の法は祇園祭鶏鉾の見送幕や霰天神山の前掛等と本来一
枚のタペストリーだったものを分割、切断した一部であることがわかっており
トロヤ戦争を題材に製作された王連作のうちの一枚だということが解明され
ています。
作者もブリュッセルの二ケイズ・アエルツという職人だとわかりました。翁山
のものも鳳凰山のものも、おそらく桃山時代から江戸時代初期にヨーロッパか
らもたらされたものでしょう。それが長浜の町衆の手に渡ったのは19世紀初
めの文化・文政の頃と言われています。
しかしながら、誰がどのようにしてヨーロッパから持ち込んだものか、そして
、日本へ来てから200年間どこにどのようにしてつたわったものか、謎は、
まだまだ尽きません。
それにしても、秀吉ゆかりの長浜祭りに、秀吉と同時代のヨーロッパで作られ
たタペストリーが飾られているということは、偶然なのでしょうか。秀吉の時
代、日本はヨーロッパと共に歩んでいました。南蛮船が来航し、ヨーロッパの
文物が入ってきて文明開化のような刺激を受けた当時の日本。ヨーロッパと接
しながらも劣等感も感ぜずに豪華絢爛たる安土桃山文化を現出した日本。
その後、徳川時代になり、残念ながら鎖国が始まり、日本は自らの殻の中に閉
じこもってしまいますが、あの輝かしい時代の形見ともいうべきタペストリー
が、今なお秀吉ゆかりの長浜祭りに花を添えているのはなんとも、感慨深いも
のがあります。