桶狭間と武田信玄
永禄3年梅雨のころ、駿遠三の領主今川義元が尾張遠征の途、桶狭間で倒れたのは、戦国時代最大のニュースのひとつであったろう。武田信玄にとってもきわめて重大な出来事であった。当時の天下の情勢を考慮すれば、義元の死で最も得をするのが信玄ではなかったか。
今川家は、義元を失ってそれそれこそ大混乱であったであろう。後継の氏親が暗愚なので、なおさらだったであろう。大原崇孚も既になかったし。信玄が領内へ攻め込んできたならたちまち崩れたのではあるまいか。
信玄の動きを牽制できるものがあったであろうか。義元を打った信長は急いで戦場から逃げ帰った。たった34位の兵力で何万もの今川の大軍に包囲でもされたら、それこそ終りだったろう。逃げるしかなかった当時の信長はまだ尾張一国もまともにはまとめ切れていなかったかもしれない。家康に至っては、義元の死によってようやく人質の身分から解放されたばかりというありさまだ。
信玄の宿敵 長尾景虎はその目が関東を向いていた。翌永禄4年にかけて上野うまや橋にあって関東の名将を集め、北条方の勢力を撃破して小田原城を囲んだ。天下の名城は落ちなかったが、鎌倉で関東管領就任式をはなばなしく施行して越後へひきあげた。北条親子(氏康・氏政)は、この景虎の猛攻の前に小田原城を修理して必死でたてこもった。
というわけで信玄の動きを牽制できる者はなく、絶好の機会が永禄4年の夏秋の川中島の合戦まで続いていたわけである。この空前絶後の好機になぜ信玄が今川領を攻めなかったのであろうか。信玄の目は北信濃へ向いていたのか。川中島に海津城を築き前述の如く翌年上杉謙信(長尾景虎)と一大決戦を行うことになる。あるいは、義元の嫁を正室にしていた信玄の嫡男義信が今川攻めに反対したのか。ともかくこの空前の好機は失われ、今川領は人質から解放された家康が信長と同盟をむすんで三河を中心に急速にまとめて行き、信玄の力をもってしてもたやすく奪取できないようになっていく。