小谷山の一角 本宮の岩屋巡り 一日回峰行
5月23日、小谷山の一角にある洞窟(本宮の岩屋)への一日回峰行がありました。ここは、物部守屋が蘇我氏と戦って負けて逃げ隠れていたところです。
朝8:30参加者続々登場。聞くところによると、かなりハードとのことで、私はご辞退するはずだったのに私よりご年配のご婦人方に戒められ参加することになってしまいました(泣)。
主催者側が参加者の為に杖を用意してくださってましたが、うちの社長の杖は、自前。魔法使いの杖みたい!!
登山の前の準備体操。ラジオ体操第一よ~うい~!!
いざ出発。地元のテレビ局も取材にきました。このお姉さん、途中までカメラを担いで山を登られました。ご立派!!
まずは、浅井家に仕えた侍女のお墓から。
相応和尚(そうおうかしょう)生誕の地(写真がずれました!!)相応和尚は、比叡山の千日回向の創始者で、もともとこのイベントはこの和尚さんを偲んで始められたものです。
相応和尚(そうおうかしょう)は、菅原道真公と互いに学び支え合う無二の親友だったそうです。菅原道真公が右大臣のとき、左大臣と意見が合わず九州に左遷されることになり、和尚との別れの際、「死んだら、これで弔ってくれ。」といって2品の形見を手渡しました。そのひとつが、菅原道真公自作の肖像です。
もうひとつの形見の品はこの鏡。今も残っているなんてすばらしい!!!
早くも出遅れてます!!さあ、いよいよ登山。もう後へは引けません!
話は変わりますが、向うに見える小さな集落が谷口(たにぐち)。石田三成は、関が原に負けて、写真右手の山道を逃げて、この集落で一夜を過ごしました。
この辺りから、私メは、へばって参りました。写真の数も口数も激減していきます。ごめんなさい。
こじきさかと読みます。ここで、姉川の合戦に負けて逃げてきたお市の方と三姉妹は、乞食の服装に着替えて実宰院(じっさいいん)に逃げこんだといわれています。山なので、坂があるのはしかたない。
松くい虫にやられた松。
ひたすら無言で歩きます。かなりへたばってます。
本宮の岩屋へは、一旦登って、また少し下ります。
おお、いよいよ洞窟が見えてきました。しめ縄がしてる???
立派なしめ縄。しめしめ・・・ジョークを行ってる余裕は全くなし。
メタボ検診ではありません。でも、こんなに狭いところを通らなくてはならないのです。ここの奥が洞窟になっています。
地元の方が、こっちに右足かけて、こっちに左足のせて、一段下がって・・・と誘導して下さって、なんとか、洞窟の中にやってきました。とりあえず真っ暗闇です。とりあえず、シャッターを押したけれど、何がなんだかちんぷんかんぷんです。川西さん(指導員さん)の携帯が鳴りました。なんだか、そんなことでさえ、ほっとします。「こんなとこでも通じるんや。」と川西さんがおっしゃいました。天井に懐中電灯をやってみたら、こうもりが100匹くらいぶら下がってました。ぎゃ!!
物部守屋氏はこんなところに、隠れていたんだ!!村の人たちもここまで、食事を運んであげたのですね。なんだか、じ~んと来てしまいました。洞窟から出てきたある男性は、「心が浄われた気持ちだ!!」とおっしゃってました。すばらしい。
洞窟に別れを告げ、登山を続けること20分。さて、これから以降は、戦国時代の史跡がどんどん現れます。お、これは、須賀谷温泉と同じ色の水たまり・・・。やっぱ、お市の方は、須賀谷温泉のお湯に浸かっていたんだ、ここで確信した次第です。
ちょっと、平坦な場所に出てまいりました。昨日雨が降ったので、木々がきれいです。
写真でわかるかな?べこんと、道が深く掘り下がってました。これは、自然にこうなったのではなくて、敵陣の馬が足をとめるように、わざとやったそうです。
本丸への表示と、刀洗池。
石垣が少し残ってました。
やっと着きました。本丸。ここでお昼ご飯。
赤尾屋敷跡への表示。家来の屋敷で、長政公は自刀(泣)
馬洗池。
首切石って、小さい頃は呼んでた・・・
小谷山にはカモシカも生息しています。
小谷山の麓に広がる西池(ため池)。こだまが響き、幻想的な池です。この池は、物部氏が住民たちの厚い心に感謝し、貯水の方法を伝授したものです。物部氏は西池のほかにも、たくさんのため池をこの地に作りました。そのおかげでこの地は豊作に恵まれました。人々は物部氏に感謝し、物部氏が亡き後も、波久奴(はくぬ)神社に霊を祀り大切に思いました。今もなお、この神社は「はぎのさん」と呼ばれこの地の人々に親しまれています。