浅井三姉妹(茶々、江、初)姫が育てられた小谷山 実宰院(じっさいいん)
須賀谷温泉からそれ程遠くない距離のところに、平塚という20戸足らずの小集落がありその中ほどに実宰院という曹洞宗のお寺があります。
ここには、浅井長政の腹違いの姉、昌安見久尼が開基して住んでいました。
小谷落城(1573年8月)の前夜、浅井長政は、妻お市の方と、茶々、お初、お江の娘3人を小谷山東部の「嫁落としの岩場」から「梯子岩」を経て池奥へ逃れさせ、ここで、用意させておいた野良着に変装させ、坂を経て、北野を通り田川堤を下って、平塚の実宰院に逃れさせ、長政の姉、昌安見久尼がお市の方と娘たちをかくまったのです。
かくまわれたというだけあって、須賀谷温泉から近いといえども、とても行きにくい、わかりにくい場所にあります。
さて、この浅井三姉妹、父である長政を小谷落城で失い、母お市の方も、その後再婚した柴田勝家とともに、北之庄城(福井)で死んで、全くのみなしごとなってしまったのですが、この三人娘を命がけで守り立派に育て上げたのが 彼女達のおばさんにあたる 昌安見久尼 だったのです。彼女は子育て名人として知られています。仏教の信仰も厚く、また、学問教養にもすぐれていた 見久尼は、兄長政から託された3人の娘の養育のため、日夜心をくだき、数々の努力を重ねたようです。 寺の中に閉じ込めて学問を子どもに押し付けるのでは、人間として成長できないと考えた見久尼は、戦国の乱世の底辺で骨身を削って働く農民の姿を見せ、農民と和合させることも大切だと考えました。また、この近辺には、天然記念物(戦国時代にはモチロン指定されていなかった!!!)であるハリヨが今も泳いでいますが、浅井三姉妹もきっと、ハリヨを川で採ったり、タンポポを摘んだり、浅井の恵まれた自然の中ですくすくと育ったことでしょう。
この浅井での心豊かな暮らしがあったからこそ、浅井三姉妹は、後に歴史に名を残す賢明な女性となったのでしょう。