湖北残照 2.須賀谷温泉
1. 須賀谷温泉(片桐且元出生地)
湖北の歴史や文化を巡る旅の出発点として私が選んだのは、小谷山(おだにやま)の麓にある一軒宿の温泉だった。その温泉の名は、須賀谷温泉(すがたにおんせん)と言う。
湖北を代表する武将と言えば、やはり浅井長政(あざいながまさ)だろうと思う。信長の妹であり絶世の美人と伝えられるお市の方を娶り、まさに将来が約束されている立場にありながら、先々代から続く越前・朝倉氏との盟友関係を選択して信長を敵に回すことになり、ついには信長に滅ぼされた悲劇の武将。
長政がどんな人物で、どうして信長ではなく朝倉を選択をしたのか?以前から抱いていた私の疑問だった。それを知る手がかりが、長政が居城としていた小谷城(おだにじょう)にあるのではないかと思った。だから、まずは何を差し置いても、私は最初に小谷城に行ってみたかった。
その小谷城に行こうと思って地図を開いて見ていたら、なんと小谷山の麓に温泉があるではないか。私は、まずこの温泉を訪ね、ここを拠点として湖北の土地を歩いてみようと思いたったのだった。
須賀谷温泉への入口は、北陸本線の河毛駅である。
「かわけ」と読む。駅名の由来はわからないが、何ともユニークな名前の駅だ。京都から新快速に揺られること80分。長浜からならほんの2駅だ。安土、彦根、米原、長浜と知名度の高い駅を通り過ぎてさらに電車を乗り続けると、やがて目指す河毛駅に到着した。新快速に乗ると意外と京都から近いことに驚いた。
この河毛駅は、無人駅である。乗降客もほとんどなく、何もない駅舎だが、はるばる旅をしてきた身としては、何もないところにかえって旅情を感じてしまう。
駅まで迎えに来てくれた親切な旅館の方の車で、温泉に向かう。どの山が小谷山だろうか?目の前に見えてくる山の一つ一つに注意の視線を向けているうちに、すぐに温泉に到着した。駅からそれほど遠い距離ではないのに、温泉の建物の周囲は木々に覆われた山ばかりで、こんなところにいで湯が湧きでていることが不思議なくらい静かなところだった。
ちょうど紅葉の季節だった。錦秋とまではいかないけれど、山のところどころに燃え立つように楓が赤く浮かび上がり、旅情を掻き立ててくれる。
旅館の入口に立つと、一重ねの鮮やかな錦の着物が飾られているのが目に飛び込んで来た。フロントの背後の壁にはお市の方の肖像画も掛けられている。この温泉は、お市の方を身近に感じることができる温泉である。戦国時代の昔から連々と湧き続けているささやかないで湯を大切に守りぬいてきたのが、この須賀谷の湯なのだろう。
実は須賀谷温泉の名前を、私は以前から知っていた。こんなに小谷山から近いところにあるということまでは知らなかったけれど、いつか尋ねてみたいと思っていた温泉の一つであった。というのは、みうらじゅんといとうせいこうが著した『見仏記2』という本の中に、この須賀谷温泉が登場するからだ。
湖北地方は仏像の隠れた宝庫である。
このことはまた後の章で触れることになるが、渡岸寺(どうがんじ)の国宝・十一面観音像を頂点として、数々の美しい仏像が湖北地方の寺々に点在している。このことは、一般にはあまり知られていない。二人が湖北の仏像を訪ねる旅の途中で須賀谷温泉に宿泊したことが彼らの著作の中に書かれていて、私の頭の中にもインプットされていたものである。
怪しい雰囲気を醸し出す男の二人旅を旅館の仲居さんが意味深な関係と勘違いして、布団がぴったりと敷かれていたというエピソードが紹介されていて、とても印象に残っている。
残念ながら?二人が泊まったのは今は使われていない旧館の方だと思われるが、彼らが泊まった同じ宿に宿泊することができるということも、特にみうらじゅんさんのファンである私にとっては、喜びの一つだった。
須賀谷温泉は、とても不思議な温泉である。
湧き出してくるお湯の色は透明なのに、浴槽のお湯全体は、赤茶けた色をしている。これは、お湯の中に含まれる天然の鉄分が、空気に触れると酸化して茶色く変色するためと言われている。いきなり化学反応を起こして深みが増していく湯の色を眺めながら、実に神秘的な湯だと思った。
泉質はヒドロ炭酸鉄泉で、効能は、神経痛、筋肉痛、肩凝り、冷え性、胃腸病、アトピー、病後の回復、疲労回復に効くという。ほとんどどんなことにも効能がある感じだが、実際に書かれている効能以上に効きそうな気がしたのは、私だけであろうか?屋内にある2つの内風呂と、屋外にある露天風呂をはしごして、すっかり身も心も温まった私は、別室で宿ご自慢の夕食をいただくことにした。
秋の連休を外した平日の夜だった。温泉に泊まるお客さんはそれほど多くもなくて、贅沢にも私は、自分の部屋とは別の部屋に一人で案内されて、そこで料理長心づくしの懐石料理をいただいた。
須賀谷温泉の夕食は、絶品だった。黒塗りの卓の上に置かれた光沢を湛える春慶塗りのまるいお盆と杉の柾目の箸がまず目を引いた。旅人をもてなす料理人の心憎い演出に感心する。この旅館には、旅人の心を満たす粋な思いやりが溢れている。
やがてその盆に籃(らん)胎(たい)の八寸が置かれる。彩りを意識しながら一つ一つの小さな料理に心がこもる。この前菜だけでもお酒がすすむ。
続いて、とろけるように甘いエビととろ鮪のお造りに舌鼓を打つ。そして自分で焼いて食べる焼きガニ。さりげなく素材に添えられた赤い紅葉が美しい。すでにお腹が苦しくなりつつあるのだが、鯛の荒炊き、そして近江牛のしゃぶしゃぶと続く。脂身と赤身が絶妙に織りなす美しい肉は、私がこれまで食べた牛肉の中で間違いなく最も柔らかく、味わいに満ちたおいしい肉だった。そして最後はまつたけの炊き込みごはん。こちらも、自分の卓で釜で炊く。適度に付いたお焦げが香ばしい。
お腹が一杯になりすぎてしまって苦しいことを除いては、こんな豪華で心が籠った夕膳を私は食べたことがなかった。須賀谷温泉では懐石料理の他に、近江牛のしゃぶしゃぶやすき焼きのコースなどを選択することもできるそうなので、次回宿泊するときには是非、そちらの方にも挑戦してみたいと思った。
宿泊するお客さん一人ひとりの個性と好みに応じて提供するサービスを微妙に変えてくれる心遣いは、現在のサービス業から次第に失われてつつあるもてなしの精神を私たちに思い起こさせてくれて、実にありがたいことだと感心した。
前日まで京都に宿泊して京都の喧噪から来た私にとって須賀谷の宿は、本当に静かで、心から休まる宿に思えた。
それに、地球温暖化の影響だろうか、京都の紅葉から年々鮮やかさが損なわれているように思えてしまうのだが、ここ滋賀の紅葉は変わらずに美しい。観光客が多くない分、ゆったりとした気持ちで心行くまで紅葉を鑑賞することができる。これは意外な穴場を見つけたものだと思った。
最後に須賀谷の歴史を探索する。
須賀谷は小谷山の麓にあるという立地だけでなく、歴史に名を刻む武将を輩出している。その武将とは、片桐且元である。
今、私の手許に一冊の古びた本がある。かれこれ30年近く前に神田の古本屋で購ったものだ。奥書きに昭和4年6月13日印刷、昭和4年6月15日発行と書かれた鮮やかなオレンジ色の表紙の本は、改造社刊の現代日本文学全集第二編『坪内逍遥集』である。
明治の文豪坪内逍遥の作品を集めた作品集だが、その巻頭を飾っているのが「桐一葉」という戯曲である。坪内逍遥の最高傑作の一つに数えられているこの戯曲の主人公こそが、片桐且元であった。
片桐且元は、弘治2年(1556年)にこの須賀谷の地で生まれている。父は、浅井氏の家臣である片桐孫右衛門直貞、母の名は伝わっていない。浅井長政が秀吉によって滅ぼされた後は秀吉に仕え、秀吉と柴田勝家とが織田の跡目を争った賤ヶ岳の戦いでは、加藤清正や福島正則らとともに賤ヶ岳の七本槍として武功を讃えられている。
清正や正則のような武闘派の武将としてよりは、むしろ石田三成のような官僚派の知将として能力を発揮するタイプだったものと思われる。秀吉が天下を取った後の且元の働き場所は戦いの最前線ではなく、街道の整備や軍船の調達など後方支援に重きが置かれていた。
天下を統一する過程においては武力に秀でた能力が重用されるが、天下平定後に求められる能力は、武力ではなく調和力である。且元は、豊臣家からも徳川家からも厚い信頼を置かれ、秀吉亡き後は両家をつなぐ重要な役割を果たした。
「国家安康」「君臣豊楽」の銘により徳川家から大きな嫌疑をかけられた方広寺鐘銘事件においても且元は大いに奔走し、徳川家に足繁く通って和平交渉に尽力した。
ところが堕ちていく一族とはこんなもので、疑心暗鬼に陥っている豊臣家ではこの且元の行為を徳川家への内通と疑い、且元は大坂城を追われるようにして後にせざるを得なかった。
大坂夏の陣が終わり、且元は家康から4万石に加増を得たものの、夏の陣からわずか20日後に謎の死を遂げる。最後まで秀頼の助命を嘆願していたと伝えられる且元の死は、あるいは豊臣家と徳川家とに挟まれて苦悩のうちに自ら死を選択した結果かもしれない。60年の波乱に満ちた生涯であった。
須賀谷に生まれ、浅井、豊臣と次々と主(あるじ)を失っていくなかで、且元は誠実に人生を生きてきた。坪内逍遥はそんな且元の生き方に感銘して「桐一葉」の名作を世に送り出したに違いない。
且元の墓は、京都市の大徳寺(玉林院)と静岡市(丸子宿)の誓願寺にある。
片桐且元を偲ぶ遺蹟は、須賀谷温泉の裏手の山の中にある。
細い坂道を登っていくと、右手に「観音堂跡石積」と書かれた石標と石垣のような石組を見つけることができる。小谷城落城の際、亮政、久政、長政の浅井家三代の守り本尊を戦火から護るために、且元が長政の命を受けてこの地に運び降ろし、祀った観音堂があった場所と伝えられている。
石標の背後に残る苔むした石垣がわずかに当時の様子を今に伝えるのみで、往時の面影は完全に失われている。自生したものか、崩れた石垣の向こう側には竹藪が続いていた。寂寥感というのだろうか。時代が変遷し、取り残された者の悲しさを痛いほどに感じた。
落城の危機の中で、数ある家臣の中から浅井家の守り本尊の守護を託された且元への信頼感を、私はたいせつに考えたい。且元という人間の誠実さを長政も強く頼りにしていた証拠であると考える。
この浅井家の守り本尊は、その後も地元の志ある人々に守られて、今に伝えられている。須賀谷から車で5分ほどのところにある「五先賢の館」で展示されている十一面観音とその脇侍たちがそれである。
守り本尊というからには、ある程度の大きさの仏像を想像していた私にとってはやや意外であったが、仏像そのものは30㎝ほどのごく小さなものだった。いつ頃の作なのかは記載がないのでわからないけれど、それほど時代を遡ったものでないことは確かだろう。
ただし、小さいながらも作りは精巧で、戦国武将の守り神として信仰を受けていたことが十分肯われる仏様だった。このような展示館で展示されるのが果たして仏像にとって幸せかどうかはわからないが、地元の人々によって代々守り続けられてきた点においては、心洗われる思いがした。
湖北地方は戦国時代に多く戦火に晒された土地柄であるだけに、仏像に対する信仰心も篤く、また仏像を戦火から守るために様々な労苦を惜しまずに提供してきた。浅井家の守り本尊も、そんな地元の人々のまごころを受け継いできた仏像の一つなのだと思う。そういう目で見ると一層、神々しく見えてくる仏様だ。
余談になるが、五先賢の館は、旧浅井町が誇る五人の先賢を顕彰する目的で平成8年に開設された施設で、相応和尚(831年~918年、比叡山の高僧)、海北友松(1533年~1615年、狩野派代表の画家)、片桐且元(1556年~1615年、賤が岳七本槍の名武将)、小堀遠州(1579年~1647年、茶道・造園美術建築の巨匠)、小野湖山(1814年~1910年、漢詩・書道の大家)の業績が紹介されている。
話を須賀谷に戻す。
「観音堂跡石積」を過ぎて小川にかかる橋を渡ると、左手の狭い平地に「片桐且元公居館跡」と書かれた石標が見えてくる。今では大きな木々が立ち並びススキが風に穂先を揺らす風景の中にとても居館が建っていたようなスペースは認められないが、それも長い歳月の間に地形が移り変わってしまった結果なのだろう。
浅井家の二代当主久政は、小谷城の麓に位置するこの地を且元の父である孫右衛門直貞の屋敷地として定めた。孫右衛門は、この山の谷に鷹の巣をかける岩があることから「巣ヶ谷」と命名したのが、今の須賀谷の地名の起こりであると紹介されている。
孫右衛門の子としてこの地で生まれた且元は、この地で育ち、そして居館を構えて浅井家に仕えた。且元にとってはまさに故郷となる想い出の地である。そう思うと、万感の思いが込み上げてくる。
さらに小道を登っていくと、やや大きい道に突き当たるところに、「片桐且元公顕徳碑」の大きな石碑と「片桐且元公の父 片桐孫右衛門の墓」の石標と小さな墓石がある。自然石に多少の加工を施したのみで、墓名も何も刻まれていない質素な墓石だ。
戦いに明け暮れた戦国の世の習いとは言え、破れて歴史から取り残されていった者の末路は哀しい。跪いて、心安らかにと心から霊を弔いたい気持ちがふつふつと込み上げてきた。
思いがけずも最初の訪問地である須賀谷温泉で、私はいろいろな発見に接することができて、心が満たされた。何度でも訪れてみたい、そんな魅力に満ちた温泉に心から来てよかったと感謝の念を表したい。