湖北残照 3. 姉川古戦場跡

3. 姉川古戦場跡(浅井氏と織田氏の激戦の跡)

DSCN0621 今の姉川の流れ

 湖北地方を車で移動していると、何度となく姉川という川を渡る。その度に、あぁ、あの姉川の戦いがあったのはこの川での出来事だったのかと思う。

 どこにでもよくある普通の川だ。

川幅が特に広いわけでもなく、川原に特徴があるわけでもない。この川を挟んで浅井軍と織田軍とが戦った「姉川の戦い」という合戦がなかったら、姉川という川の名前さえ記憶に残らなかったかもしれない。

しかしこの川を渡るとき私は、えも言われぬ感慨を覚える。

実は今まで、「姉川の戦い」について私は、詳しいことをほとんど何一つ知らないでいた。浅井と織田とが戦って、浅井が敗走した。それくらいのことは歴史の知識としては知っていたけれど、反対にそれしか知らなかったことに今更ながらに気づいた。

湖北地方を訪ねる旅のはじめとして、浅井氏の本拠である小谷城を訪ねる前に、まずはこの姉川の戦いについて考えてみることにしたい。

 近江鉄道バスに「姉川古戦場」というバス停がある。姉川の川原の傍らに立つバス停の近くに、「史跡姉川古戦場跡」と書かれた大きな看板が設置されている。今私が立っているこの場所こそが、姉川の合戦の現場であったことが近くに建つ説明板でわかる。

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  元亀元年(1570年)6月28日

  戦いは午前5時ごろに始まり午後2時ごろには終わった。

 説明板は、こんな見出しで始まっている。

 姉川を挟んで織田軍と浅井軍とが対峙した。今私が立っている場所は姉川の北側の「野村」という土地で、今では幹線道路である国道365号線の1本東側を通る側道となっているが、昔は北国脇往還と呼ばれる街道だった。

 道に沿って北側にまっすぐ行けば、近江弧蓬庵と須賀谷温泉に辿り着く。

こちら側に浅井・浅倉連合軍18,000人が、川を挟んで反対の南側に織田・徳川連合軍28,000人が陣取っていた。

 遠くに伊吹山を望む長閑な風景が拡がる土地である。

 川の流れが真っ赤に染まり、両軍合わせて2,500人もの犠牲者を出した凄惨な戦いがこの場所で行われたことを私はとても信じることができない。今の姉川は、清らかな澄んだ水が陽光を反射してキラキラ光りながら静かに流れている。

 姉川の戦いを語るに際して、織田と浅井の関係をどこまで遡って書けばいいだろうか。

長政が支配する北近江の国は、信長が京に上るに際しての要所にあり、天下を目指す信長にとって浅井氏を味方につけておくことは、重要な意義を有していた。そこで信長は、美人との誉れの高い妹のお市の方を浅井家の嫡男長政に嫁がせた。戦国時代によくある典型的な政略結婚である。

残された肖像画によると、長政は小太りの体型であったようだ。美男子と言うには程遠い容姿だが、優しさが滲み出ている。気配りがきき包容力のある長政のことをいつしかお市の方は慕うようになり、二人は仲のいい夫婦(めおと)として睦まじく暮らしていた。長政とお市の方の間には、万福丸、万菊丸の2人の男子と、茶々、初、お江の3人の姫が生まれた。子宝にも恵まれ、充実した幸せな日々を送っていたことと思われる。

そこに信長の朝倉攻めである。

第15代将軍の足利義昭を擁して京に上った信長は、かねてから信長に服従しようとしなかった越前の朝倉義景に上洛を命じるが、義景はそれに応じない。そこで元亀元年(1570年)4月20日に京を発した信長は、朝倉氏の居城のある越前・一乗谷を一気に攻めた。

浅井家は、祖父の亮政の時代から朝倉家とは深い同盟関係にあった。それも浅井氏にとっては、近江国の覇権を争っていた六角氏に攻め立てられて窮地に陥ったところを朝倉氏に助けられた恩である。反対の立場にたった今、長政は義理の兄を取るか、祖父の代から続いている朝倉家との関係を取るか、悩みに悩んだに違いない。

歴史の結果を知っている私たちは、織田と朝倉との勢いの差を知っているから、長政の立場に身を置けば迷わず織田方に味方する道を採るだろう。長政も、力の強弱だけで考えれば、織田方に与したに違いない。ましてや、信長は愛する妻の実の兄である。何の迷うことがあろうか?

 しかし長政は、朝倉氏との同盟関係を重視する父・久政の言葉を無視することができなかった。長政は結果として、愛の力よりも実利よりも義を選択したことになる。長政の判断の根底には、朝倉氏を攻める信長に対する不信感があったかもしれない。

なぜなら、浅井氏と朝倉氏の同盟関係は信長もよく知るところであったはずである。しかも、朝倉氏と事を構える際には事前に浅井氏に知らせるという約束を反故にしての突然の朝倉攻めである。義の武将である長政には、約束を軽々しく破る信長の人間性に懐疑を抱いたのではないか。あるいは、浅井氏を軽んじられたと思ったのかもしれない。

長政は妻の実の兄を見殺しにする辛い選択をした。

信長は、お市の方の婿である長政の反攻をまったく予想していなかったようである。用心深い信長にしては極めて異例のことだが、それだけ長政のことを信頼していたものと考える。あるいは長政がこの信長に背くはずがないと、たかをくくっていたのかもしれない。

朝倉の本拠である越前に攻め込んでいる背後を長政らに衝かれて挟み撃ちに遭った信長は、命からがら逃げた。この時の信長はまさに危機一髪、恥も外聞もなくひたすらに逃げた。九死に一生を得ての生還だった。

 信長は誰よりもプライドが高く、そして執念深い男である。妹婿から受けた屈辱を決して許すことはできなかった。十分な兵力を整えた信長は、盟友の徳川家康の助力も受け、今度は朝倉義景ではなく浅井長政を追討するために立ち上がった。越前での敗走からわずか2ヶ月後のことである。

 姉川の戦いで勝利した後、小谷城を攻めるまでに3年の歳月を費やしているのと比べると、2ヶ月というのは破格の短時間である。自分を裏切った長政のことを思うと、居ても立ってもいられない心境だった信長の気持がよくわかる。

 長政はこの動きを察知し、朝倉の援軍を得てこの姉川の北に陣取った。これが、世に言う姉川の戦いの背景である。

 時に元亀元年(1570年)6月28日のことだった。

 午前5時に始まった両軍の激突は、始めは浅井側が攻勢であったと伝えられている。浅井軍の快進撃に、信長の陣はジリジリと後退を余儀なくされた。織田の本体23,000人に対して浅井の本体は僅かに8,000人である。数の上では3倍近い織田軍が劣勢に立たされたという事実に、私は長政をはじめとする浅井軍の並々ならぬ気迫と決意とを感じる。8,000人が一致団結して23,000人を追い立てる様は、まさに壮観以外の何ものでもない。

 姉川を挟んでの正面衝突である。そこには軍略とか戦略とかは存在しない。両軍の闘志がそのままぶつかり合って、そして両軍の闘志の差が織田軍の後退となって現れた。このままの戦いが継続していたら、あるいは歴史が変わっていたかもしれない。

 転機が訪れたのは、織田と浅井の本体同士の戦いではなかった。

織田軍の左翼に陣していた徳川家康が、相対する朝倉景健軍を突き崩した。こちらは逆に、6,000人の徳川勢が10,000人の朝倉軍を撃破した形になる。

 勝負の分かれ目は数ではなかった、ということだ。

 朝倉が守っていた右翼を徳川軍によって崩された浅井勢は、横から敵方の攻撃を受ける形となり、ついに耐えきれずに敗走を始める。信長の本陣に肉薄しながら無念の退却であったに違いない。

 勝敗は9時間で決した。

 家康が朝倉軍と戦った姉川北岸の地点が一番被害が大きく、散っていった兵士たちの血潮で染まったその激戦の地は、今でも「血原」という地名で呼ばれている。

 終わってみると、戦いは実に呆気ない。後に残るのは、虚しさと累々と積まれた戦士たちの亡骸のみである。

 長政との戦いに勝利した信長軍であったが、勢いをかって小谷城までを一気に落とそうとはしなかった。小谷城の堅固さを知り尽くしていたからである。盲目的に深追いをしたら反対に壊滅的な打撃を受けるかもしれないことを恐れた。賢明な状況判断である。

 十分な準備を整えた信長軍が、今度は長政の息の根を止めるために再び北近江に現れたのは、姉川の戦いからさらに3年の月日を費やした後の事だったことは先に述べた。浅井家の最期については、次の章で詳しく触れることになる。

地元には、「姉川の合戦再見実行委員会」なる会があり、「合戦マップ」を作成したり説明板を合戦に所縁のある場所に設置するなどして、訪れる人たちの利便性向上に大いに資しているので、ここで紹介しておきたい。

resize0063 姉川の合戦の看板

実は先程私が紹介した「元亀元年(1570年)6月28日 戦いは午前5時ごろに始まり午後2時ごろには終わった。」というコピーが書かれていた説明板は、今はない。姉川の戦いに関係する様々な場所に、センスのいいデザインで統一された説明板が新たに設置されたからだ。この「史跡姉川古戦場跡」の看板が建つ地にも、内容を刷新された新たな説明板が立てられている。

私はその案内板に誘われて、激戦の地であったと伝えられている「血原」を訪ねてみた。

本体同士が激突した野村地区の戦場跡から400mほど西に行ったところに、血原がある。入り口に「史跡姉川古戦場跡 血原塚」と書かれた大きな古い看板が建てられているので、すぐにそれとわかる。今では一面にじゃがいも畑が拡がる長閑な平原となっていて、往時の激戦を思い起こさせるものは何もない。激戦地跡の一部は、小公園としてきれいに整備されていた。

例によって、「姉川の合戦再見実行委員会」が建てた説明板がとても参考になる。

この血原の地で一人、気を吐いたのが、朝倉方の武将である真柄十郎左衛門直隆であったと、説明板は解説している。刃の長さが五尺三寸(160㎝)もある大太刀を振り回しては押し寄せる徳川方の将兵たちをバタバタと薙ぎ倒していったという。

最後には向坂式部という徳川方の猛将と渡り合うところを、式部の弟の吉政が十文字槍で加勢してようやく十郎左衛門を倒したと伝えられている。全軍敗走のきっかけを作った朝倉景健軍であったが、彼らのなかにも十郎左衛門のような豪傑がいたということを知った。

説明板の上に、真柄十郎左衛門が使用した原寸大の大太刀のレプリカが設置されている。説明板の幅を遥かにはみ出す長さに驚かされた。こんな太刀で一撃を受けたら、どんな人でもひとたまりもない。

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血原を訪れたついでに、朝倉景健の本陣があったと伝えられる三田村氏館跡を訪れた。血原の地からさらに北西に少し行ったところにある。

やや広い道から右に折れて、三田村館のある方角へと細い道に足を踏み入れた途端、目の前に見える景色が一変した。

さすがに長政の時代の街が現れたとは思わないけれど、いい雰囲気の小集落が我が眼前に出現したのだ。浅井家の重臣であった三田村氏を中心に一つの世界を作り上げ、今に至るまでその文化を伝えてきた街なのではないかと思った。

その集落の中心的存在である三田村氏の館跡は、今では寺院となっている。

DSCN0662 三田村館

黒板の壁に大きなえんじ色のトタン板の屋根が特徴的などっしりとした本堂が、敷地の真ん中に鎮座している。ところどころにしか残っていないからわかりにくいが、よく見ると周囲は積み上げられた土塁により囲まれているのがわかる。

説明板に「館跡」と書かれているので普通の邸宅が建てられていた跡地と思われる向きもあるかもしれないが、実際には邸宅というよりは、もうここは立派な城郭である。朝倉景健が本陣とした理由も現地を歩いてみてよくわかった。

街のそここに石の小さな地蔵がたくさん祀られていて、それらがみな黄色や赤のかわいらしい前掛けのような布で巻かれている。なんとも雰囲気のある、すてきな街だった。

姉川の合戦再見実行委員会では、「歩く会」も定期的に開催されているそうなので、地元の物知りの案内で合戦の現場を訪れてみるのも楽しそうだ。自分の目と耳と足とで合戦が行われた現場を歩き、合戦を体感することができる。私ももっと姉川の合戦のことを勉強して、歴史の舞台を隅々まで歩いてみたいと思っている。

それにしても、今の姉川は平和で美しい流れの川である。